第2話 姫さまを紹介
『松林館』はその名の通り、松の木々が周囲にある穴守の街の中でも自然豊かな場所にある学園付属の男子寮だった。男子寮にもいくつかあるけれど、ここは孤児院と同じ団体が経営していて……まあ、はっきり言ってしまえば一番貧乏な学生が住んでいる粗末な寮で、それでも僕にとっては愛すべき我が家だった。
その松林館のボスが、美鈴さんだった。まだ三十代ではないと本人は主張している女性で寮生にとっての若きおっかさん。
ただの寮母さんであるはずなのだけれど、僕ら寮生にとっては何よりも怖い存在で、すらりと細身の体なのに只者ではない威圧感を放っていた。
その威圧感は姫さまも感じていたらしい。普段どのような危機であってもうろたえることは滅多になかった姫さまが緊張の面持ちで正座していた。
「まさか、蓮君が彼女を紹介してくれる日が来るなんてねぇ」
美鈴さんの元々細く鋭い目が、にっこりと微笑んで更に細くなった。それはそれで何となく怖さを感じる。
美鈴さんが住んでいる一階の管理人室。その中に僕と姫さまは正座して座っていた。今日の姫さまは髪を後ろでしばり、眼鏡をしていた。相手に本当の姿を認識させない力があるらしい不思議な力を持った眼鏡だ。
「いや、彼女というか……」
僕のぼそりとした説明を聞かずに、美鈴さんは姫さまの方をくるりと向いてゆっくりと正座をした。
「ああ、覚えているよ。前に蓮君の部屋に夜這いに来ていた三人娘の一人だね」
美鈴さんの先制攻撃に、姫さまは何もないような表情で応じながらも冷や汗を流していた。いや、何を戦っているのか僕にはさっぱりと分からなかったけれど。
「あ、あれは夜這いなどではなく、蓮君の中に住みついてしまった魔女を追い出さなければいけなかったのです」
真面目に解説してしまった姫さまに対して美鈴さんは、意味がわからないという感じで表情を強張らせた。
そして、僕の方をちらりと見て『この娘、大丈夫なの』と視線を送ってきたので、『大丈夫です』という思いを込めて小さくながらも力強く頷いた。
「なるほど、あやかし方面の関係者か。まあ、あまりうちの子を巻き込まないでやって欲しいものだが……」
すいません。巻き込まれるどころか、もうどっぷり中央にいましたとは言い難かった。姫さまもその点に関しては申し訳なさそうに頭を下げるだけだった。
「まあ、でも、三人とも隙を見計らって、蓮君にちゅーしようとしていたのは見てたけれどね」
「そ、それも違います。口づけではなく中身を入れかえるために……って、え? さ、三人とも?」
神妙な空気になりかけたのを嫌がってか美鈴さんは茶化したような話題に切り替えたのだなという気がした。でも、思いの外姫さまは顔を真っ赤にして大慌てで混乱していた。それと同時に今この場にいない二人の仲間に対してわずかに怒っているようだった。
「今日日、女の子もそれ位積極的じゃなくちゃね。好きな男には体当たりあるのみよ」
美鈴さんの言葉に姫さまはまっすぐな眼差しを向けたまま頷いていた。
「でもね。あんたたちには、感謝しているよ」
顔を姫さまに近づける美鈴さん。
「この子ときたら、ずっと暗くてさー」
美鈴さんは不意に手を伸ばして僕の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「心の底から笑うことはなかったんだよね。聞き分けはいい子だったけれど、どこかで魂を置いてきたように生きている感じだった」
それまではカラカラと笑っていた美鈴さんは、少し声の調子を落とした。
「あんたたちのおかげだ。私ではこの子を心から笑顔にすることはできなかった」
美鈴さんは軽く頭を下げたあと、肩の荷が下りたようにほっとした笑顔になった。
「それで? 彼女の紹介の他に何か話があるの?」
もうくつろいで昼間から酒でも飲んでしまいそうな美鈴さんだった。僕は今日の話を切り出そうと身を乗り出したけれど、本当に『その話』でいいのか少し躊躇していると、姫さまが無言のまま僕を手で制止した。
「お話があります……が、まずはそのまえに人払いをしていただけませんでしょうか」
姫さまがそう言うと、美鈴さんはちょっと真剣な表情に戻った。
「へい」
とだけ言うと、すっと立ち上がり部屋の扉まで歩いていって勢い良く扉を開けた。廊下で管理人室の中の様子を盗み聞きしていた寮生たちが一部は部屋の中になだれ込み、一部は扉の形のまま固まっていた。
「なにやってんだい。あんたたち!」
美鈴さんの怒鳴り声を聞く前に数名の寮生は四つん這いのまま逃げ出していた。
そのまま美鈴さんは部屋の奥に歩いて行くと窓を勢いよく開けた。こっちの寮生たちはすでに林の中に逃げ込んでいた。
「まったく」
美鈴さんは見届けると僕らの前に座りなおした。
「まあ、悪く思わないでやっておくれ。あいつらも蓮君が彼女を連れてくるなんて意外で、興味津々だったようだ」
「はい。連君はこの寮の皆さんに愛されているんだなと安心しました。学校では友達もあまりいないようなので心配していたのですけれど……」
「……余計なことは言わなくていいから」
恥ずかしくなって、思わず僕は二人の会話に割り込んだ。
「まあ、主に私たちが連れ回していたせいですなのですけど」
「はは、そうね。ここの寮生とは仲良しだよ」
美鈴さんは笑いながらそれだけを言うと背筋を伸ばして、僕らの話を待っていた。
姫さまは無言のまま眼鏡に手をかけると外した。いつものように後ろで結んでいた髪もほどけて綺麗にたなびいた。真横でじっくりと眺める機会はあまりなかっただけに、より一層いつもより美しいと見とれていた。
軽く頭を振って、髪を落ち着かせると三つ指をついて流れるように優雅な動きで平伏したあとで顔を上げて言った。
「穴守宮家の長女、亜子と申します」
「……なんと」
この七年間の付き合いで、僕が知る限り糸目みたいな美鈴さんの目が一番開いた時だった。
「蓮君と結婚させていただきたく、ご挨拶に伺いました」
「なるほどね……」
わずかに座っている姿勢を正して、しばらく言葉を考えているようだった。
「ご存知の通りこの地方の孤児院は皆、宮家の所有物です」
美鈴さんは姫さまの正体には驚き、話す言葉は丁寧な言葉になったものの態度は全く変わらなかった。それどころかやや攻撃的な態度になっている気さえした。
「はい」
「それゆえ宮家の姫さまのお勤めは知って……」
美鈴さんは何かを言いかけて止まった。気にはなったけれどでも二人の真剣に向かい合っている空間に割り込むことはためらわれた。
「まあ、私らは宮家に好きなようにもてあそばれても捨てられても何も言えないんだけどね」
美鈴さんは、ちょっと攻撃的になろうと思ったのを途中で諦めて茶化すような態度になった。
「もてあそぶなどということはありません! 私は本当に結婚したいと思っているのです」
勢いよく姫さまは宣言した。美鈴さんは気圧されたあとで、感心したように笑顔になっていた。そんなことを言った姫さまは次の瞬間には顔を真っ赤にしていた、つられて僕まだ少し顔が熱くなっているのがわかった。
「まあぁ、本気なのは言われるまでもなくわかっているけど」
美鈴さんは、微笑ましいという目つきで僕と姫さまを繰り返し見ていた。
「美鈴さん、これは数か月限定の結婚です。細かい事情は分かっていないけれど、その後どうなろうと僕は文句はありません」
言っていいものか分からなかったけれど、この二人に隠し事をすることは僕の今を否定する気さえした。どうせ僕なんかがずっと姫さまと婚姻していられるなんて思いあがってはいなかった。
しばらくの沈黙のあとで美鈴さんは、息を吐いた。
「まあ、蓮君がそれで納得しているのなら何も言うことはないよ」
僕は何も言わずに軽くうなずくだけだった。
この時は、本当にあと数か月姫さまの傍にいられるだけで、その後はどうなっても構わない。そう思っていた。
この時は本当にそう思っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます