第12話 暗 転

 イズミから英語テストの結果を見せられたアオイが帰宅すると、幸田がダイニングキッチンのテーブルで本を読んでいた。今は、仕事からは解放されているらしい。

 いつもは幸田を避けて自分の部屋に直行するアオイだが、ダイニングに入って、 幸田の斜め前のイスに腰を下ろした。

「あのさ、ちょっといい?」

「なんだ?」幸田が読みかけの本を閉じて、アオイを見る。

「あたし、二日前に、有名私大の英語の入試問題を解いたんだ」

「フリースクールにも高校生が通っているから、『赤本』があるんだな」

「えっ、『赤本』って、なに?」

「各大学の過去の入試問題を集めた本だ。表紙が赤いから、通称『赤本』。過去の問題だから『過去問』と呼ぶこともある。それを解いたんだろう?」

「あぁ、それとは違う。新しく来たイズミって先生が、過去に出題された問題に自分で手を入れて作ったって」

「そうか『過去問』をそのまま渡さず、ひと手間かけたわけだ」


「それで、あたしの出来が、すっごく良かったんだって。今の学力でも、十分合格できるって言うんだ」

「それは、すごい。誰かさんに感謝しないといかんな」

「あぁ、『あいつ』か……あたしを兵器に改造した、とんでもない奴だけど、 勉強はよく教えてくれた。『あいつ』に教わると、不思議と勉強が苦でなかった。『あいつ』は、生体兵器の開発者なんかじゃなくて、学校の先生になればよかったんだ」 


 アオイが遠くを見るような目になる。幸田には、「あいつ」――レノックス慧子――が、アオイにとっては、憎しみの対象であり同時に、愛情の対象でもあるように見えた。慧子は、アオイを生体兵器に改造したマッド・サイエンティストだが、両親を失ったアオイの面倒をみた人間でもある。最も親身になってみてくれたのは、慧子だった。

 アオイは、国防総省の連中が自分を兵器としてしか見ずに、いつも21085と製造番号で呼ぶ中で、慧子だけが自分を人間扱いして、必ず名前で呼んでくれたことを思い出す。

 あたしだけじゃない。慧子は、自分が改造した生体兵器を数える時は、必ず「……人」 と言った。慧子が他の国防総省の連中みたいに生体兵器を「……機」と数えるのを聞いたことがない。


「そうか、大学を狙えるのか……」

幸田がつぶやくように言い、アオイは意識を現在に戻す。幸田はじっと天井を見つめている。そんな幸田からアオイは目をそらし、笑いながら言ってみせる。

「やっぱ、ダメだよな。大学に行くってのは、表の世間を大手を振って歩くことだ。そうすると、CIAに見つけられる危険が大きくなる。今、フリースクールに通ってるのは、学力の問題もあるけど、フリースクールの方が、人の目につきにくいという理由もあるわけだから……」


 幸田がアオイに顔を向けなおした。

「そうじゃない。君が大学に行きたいなら、行かせてあげたいと、前から考えていた。『M』とも相談していた。だが、そうはいかない状況になってしまった。すぐに、別の隠れ家に移らなければならない」

「えっ、なんでそんなことになるんだ!」

「『M』にミツキの話をした。『M』から、直ちにここを引き払えと命じられた」


「M」は、アオイに新しい顔と戸籍を与え、幸田という保護者をつけ隠れ家をあてがい、幸田が内職で稼ぐ食費以外の生活費をまかなってくれている正体不明の人物だ。もちろん、アオイは一度もあったことがない。幸田は、「私は君の『保護者』で、『M』は私たち二人の「世話役」だ」と教えてくれたことがある。

「はぁ! なんで、『M』に話すんだ! あんたは、『せっかく馴染んだ学校を今すぐ変わるほどの危険はない』と言ったじゃないか。それで済みになった話を報告するなんて! 上にヘコヘコしやがって、情けない男だ」 

 アオイが失望と軽蔑の混じった表情で幸田を見た。


 アオイの言う通り、幸田も、あの時は、あれで済ませたつもりだった。

 しかし、そのあと、考え直した。幸田が属するグループは、政府、企業、反社会的集団から追われている内部告発者やジャーナリスト、弁護士などに新しい顔と戸籍を与えて保護している。その中には、CIAやFBIから追われている人間もいる。

 アオイがCIAと衝突すると、CIAが幸田たちのグループをかぎつけ、アメリカの政府機関から守っている他の保護対象者に火の粉が飛ぶ恐れがある。

 その危険性を思い出した幸田は、悩んだ挙句に「世話役」 の「M」 に状況を報告した。すると、「M」は、ミツキが国防総省の殺し屋だという最悪の場合を想定して、アオイがミツキと衝突する前に姿を消せと指示してきた。

 幸田も、今では、それが最も賢明な策だと考えている。幸田たちのグループの使命は匿うこと、命を守ることであって、闘うのを支援することではない。


「あたしは、せっかく手に入れた一七歳の女の子らしい生活を手放したくないと、あれほど言ったじゃないか。幸田も、納得してくれたんじゃないのか?」

「君に相談なしに『M』に状況報告したのは悪かった。謝る。しかし、君には話していなかったが、実は、私たちのグループは、君の他にもCIAやFBIから逃れてきた人たちを守っている。万が一にでも君と国防総省がぶつかって、そういう他の保護対象者に影響が及ぶことを、私は恐れたんだ」


 アオイが茶色の瞳でじっと幸田をみつめた。

「幸田、あたしは、悲しいよ」

「大学に行けないことか? それは、何とかする。二年くらい姿をくらましていれば、さすがに国防総省もCIAも諦めるだろう。そうすれば……」

 言いながら、幸田は空手形を切っている自分に嫌悪感を覚える。


 アオイがテーブルをどんと叩いて、幸田を驚かせた。

「あたしが怒ってるのは、そこじゃない! あたしは、でっかい権力から逃げる辛さを嫌というほど味わってきた。何より辛かったのは、あたしだけがこんな目にあってるという孤独感だ。だけど、他にも、同じ思いをしてる仲間がいるんじゃないか! そのことを、あんたは隠してた。そのことに、怒ってる」


「話すことを許されていれば、話していた!」今度は、幸田の語気の強さにアオイが驚く番だった。

「ミツキ、私のグループでは、保護している人間に、他にどんな仲間が保護されているかを知らせてはいけないのだ。今、こうして君に話しているのは、そうしないと 君が納得しないと『M』に訴えて、特別に許可をもらったからだ」

 アオイが幸田の顔をまじまじと見た。

「そうなのか……特例なのか?」

 幸田が黙ってうなずく。


 アオイは自分の胸の中をのぞいてみた。そして、本心を語った。

「CIAやFBIから逃げてる仲間がいると知ってたら、あんたがミツキを疑った 時に、あたしから、隠れ家を変えようと言ってたよ」

 アオイはそこで言葉を切り、うつむいて、自分のつま先を見た。

「いや、本当に、あたしから言い出せたか、自信はない……でも、そう言えるあたしでありたい。あたしと同じ苦しみを味わってる仲間を危険にさらしてまで自分の願いを通す人間には、なりたくない」


「アオイ……」幸田は胸に熱いものがこみあげてきて、返す言葉に詰まった。二人の間の空気が重く湿ってくる。それを振り払うように、アオイがキッパリと言った。

「事情はわかった。ここから姿をくらまそう。幸田、明日の朝、適当な理由で、あたしが休むと太一先生に伝えてくれ」

 アオイは、太一先生に、自分からウソを言う気にはなれなかった。

「あたしは疲れたから、今日は寝る。明日の朝いちばんで、荷造りを始める」


 アオイは幸田を居間に残して、自分の部屋に向かった。自室のドアをくぐりながら、アオイは、「バイバイ、ミツキ、真一君、スクールの仲間。バイバイ、あたしの大学……」と胸の中でつぶやいた。目に熱いものがあふれそうになり、着替えもせず頭からベッドに飛び込んだ。

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