第3章 アオイとミツキ

第10話 胸騒ぎ

 フリースクールの登校二日目、ミツキが学校に着くと、数人のおチビちゃん達が「ミツキお姉ちゃん、おはよう」と寄ってきた。昔から、ミツキは子どもに好かれる。子どもとふと目が合うと、ミツキは必ず微笑みかけ、子どもが寄ってくる。

以前、サンフランシスコのケーブルカーで隣の黒人の母親が抱いていた二歳くらいの女の子と目が合い笑みを交わしているうちに、アイスクリームのついた手でよそ行きの上着をベタベタにされたことがある。気づいた母親が「Sorry」を繰り返しながら、自分のハンカチで拭き取ろうとしてくれたのは、懐かしい思い出だ。


 アオイが、学習室で本を読んでいた。

「アオイさん、おはよう」

「ミツキ、おはよう。あたしのことは、『アオイ』 と呼び捨てでいいよ。あんた、子どもに好かれるね。昨日来たばかりなのに、もう、取り巻きがいるじゃないか」

「いえ、それは……」

「一〇歳以下、六〇歳以上には無敵ってやつか?」とアオイがからかう。

「あたしは、一八歳以上四五歳以下には無敵だからな。今度、見せてやるよ」 と笑ってアオイは読書に戻った。


「おや?」とミツキは思った。アオイは、おチビちゃん達のピーヒャラリが嫌いだと言っていた。本当は、スクールに着いたらすぐ備品庫の「アオイ城」にこもりたいのに、私に朝の挨拶をするために、ここで我慢していたのではないかしら? そう思うと、ますます、アオイを平手打ちしたことが、申し訳なく感じられる。

すかさず、頭の中でカスミが「はっ、相変わらず、お人よし。アオイは狂犬のような奴だって、レノックス博士が言ってたのを忘れたのか?」と突っ込んできた。「朝から、うるさい」ミツキが不機嫌に返すと、カスミは意外にあっさり引き下がった。


「田之上さん、ちょっといいかな?」

太一生が教員室から顔を出した。

「はい」とミツキが教員室に入ると、「山科さんを見なかった?」と訊かれる。

「アオイさんなら、学習室にいました」

「あれ、珍しいな。いつもは備品庫にいるから、そっちを見たら、いなかったんだ。学習室にいるなんて、ほんと、珍しいな」

太一先生が首をひねる。やはり、アオイはミツキを出迎えるために、我慢して学習室にいたのだ。

「呼んできましょうか?」

「いや、ボクが呼んでくるから、田之上さんは、その辺の適当なイスに座ってて」

太一先生が教員室を出ていった。


 すぐに太一先生とアオイが教員室に入ってきた。アオイがミツキの隣の空いた席に座る。太一先生が自分の席に腰を降ろし、話し始めた。

「山科さんに、高卒認定試験を受けるよう勧めてるよね」

「太一先生、そういうプライベートな話をミツキの前でしなくても」

アオイが不機嫌な声を出す。

「あっ、ごめん、ごめん。その件で、ボクに負い目みたいな気持ちがあるから、つい、口にしてしまった。高卒認定試験の話を持ち出しておきながら、ボクは、おチビちゃんたちの面倒見に追われて、ろくすっぽ山科さんの勉強を見ていない。それが、気になっていてね」

太一先生が、本当にすまなそうに言う。


「そこに、山科さんと同じ一七歳の田之上さんが入ってくることになって、高校生にふさわしい学習指導をどうしたらいいかと悩んでいたんだ」

「そういうことなら、お気遣いなく」

と言ってしまってから、アオイは、ミツキにすまないことをしたと気づく。

「あっ、ごめん。あたしが勝手に言っちゃいけなかった。ミツキ、ごめん」

ミツキがもじもじする。

「いいえ……私は、まだ、入ったばかりだから……きっと、アオイさんほど、勉強できないと思うし……」

 頭の中で、カスミが食ってかかる。

「ウソつき。ハイスクールでは、学年の上位5%にいたじゃない。そうやって、すぐ謙遜するのは、お姉ちゃんの悪いクセだよ。そのせいで、アメリカで散々苦労したのに」

「ここは、日本よ」

「えっ、ミツキ、今、何か言った?」

しまった、気持ちが声に出て、アオイに聞かれてしまった。

「いいえ、ちょっと独り言……」


「そうしたら、見つかったんだ」太一先生が声を弾ませる。

「フリースクールで高校レベルの英語と数学を教えたいというボランティアの大学院生が見つかった。今、応接室で待ってもらっているから、二人に紹介したい」

 アオイとミツキは、太一先生について応接室に入った。

「こちら、川野イズミさん」

太一先生が手で示した先に、スレンダーで知的な美人だが、アオイには、なんとなく抵抗感のある女性が立っていた。

「はじめまして、川野イズミです。教えるなんて、これが初めてなので、一緒に勉強させてもらう感じで、楽しくやっていけたらと思っています。よろしくお願いします」

女性がにこやかに挨拶した。


 アオイは「あぁ、どうも」と答えながら、大学院生にしては、妙に世慣れた奴だなと思った。といって、これまでに本物の大学院生に接したことなど、ないのだけど。

 ミツキは「えっ、あぁ、よろしくお願いします」と答えながら、この人が、ゆうべ博士とマスムラが言っていた監視役ではないかと疑い始める。

「川野先生は」 と太一先生が言いかけると、イズミが、「イズミで結構です」と言って、微笑む。こういう所が滑らかすぎると思うのは、あたしが社会不適合だからかなと、アオイは自分を振り返る。

「イズミ先生は、今日は、大学院の方で用事があったんだけど、山科さんと田之上さんに少しでも早く紹介したいと思って、無理を言って、来てもらった」

「明日からは、毎日、午前か午後のどちらかに、来ます。よろしく」と、イズミが頭を下げた。


 イズミが去った後、ミツキが「『アオイ城』に行きませんか」とアオイを誘ってきた。城に入り、アオイがコーヒーを淹れ始めると、ミツキが尋ねた。

「アオイさん、イズミさんのこと、どう思います?」

「『どう?』って、言われても……さっき、初めて会ったばかりで。まぁ、見た感じ、変な人じゃなさそうだった。それに、太一先生とあの人の間では、もう話がついてるわけでしょ」

「そうですね。太一先生は、もう、決めている感じでしたね」


 アオイがコーヒーメーカーからミツキに目を移すと、ミツキが折りたたみイスの上で居心地悪そうにしている。

「ミツキが嫌だったら、断っていいんだよ。あたしは、一年以上、太一先生の世話になってるから義理を感じるけど、ミツキは、昨日来たばかりじゃん」

「でも、太一先生は、私にも気を遣ってくれたわけですよねぇ」


「高校生が二人になったから、それなりの態勢にしておかなきゃと思ったんでしょ。クールに言っちぇば、スクール長として当然の配慮じゃん。ミツキが特に恩に感じる必要はない。ミツキ一人じゃ断りにくかったら、あたしも一緒に断るよ。あたしも、特に、あのイズミって人が気に入ったわけじゃないから」

「そうなんですか?」

「うん。なんか、引っかかんだよ。あたしの頭の中では、大学院生って、ちょっと頭が固そうで、世の中に慣れてないはずなのよ。でも、あの人、妙に滑らかじゃなかった? それに、毎日、半日ずつ顔を出せるって言ってたけど、大学院生って、そんなヒマなの?」


 ミツキは考える。イズミ先生が本当に「監視役」だったとして、彼女を拒んだらどうなるか? 頭の中で、カスミが話しかけてきた。

「お姉ちゃん、イズミは、きっと『監視役』だよ。だけど、お姉ちゃんは、断れないよ。そうでなくても、アオイを本当に倒せるか疑われてるのに、『監視役』を拒んだりしたら、国防総省でのお姉ちゃんの立場が悪くなる。それとも、お姉ちゃん、国防総省を敵に回すつもり? そんな無謀なこと、お姉ちゃんは、しないよね」

痛い所を突かれて、ミツキは動揺する。


 アオイは、元々イズミがそれほど気に入ったわけではない上に、ミツキが抵抗を示すので、イズミに来てもらわなくてもいいと思い始めた。

「ミツキ、イズミに勉強を教えてもらうのは、断ろう。あたしは、高卒認定試験を受けると決めたわけじゃない。今の調子でテレテレやってても、何も困らない」

「あっ、アオイさん、煮え切らなくて、ごめんなさい。私は、新しいことをする時、いつも、こうなんです。太一先生がせっかく配慮してくれたんです。イズミ先生に 教えてもらいましょう」

ミツキが急に気が変わったようなことを言うので、アオイは戸惑う。

「それで、いいの?」

「ええ」


 アオイは「ふうーん」とうなって、ミツキの顔を見た。ミツキが、アオイから目をそらす。会話が途切れる。

 先に沈黙を破ったのは、アオイだった。

「まっ、いいか。教えてもらわなきゃ、ウマが合うかどうかも、わかんない。とりあえず太一先生の顔を立てて、一緒に勉強する。うまくいかなかったら、その時、太一先生に言おう」

「ええ、そうしましょう」

ミツキが細い声で応えた。

 ミツキとイズミの関係は注意して見守った方がいいと、アオイは思った。



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