第8話 霊魂・田之上カスミ

 ミツキがベッドに身を投げ出すと、頭の中で「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と呼びかける声がした。二歳年下の妹、カスミだ。正確に言うと、カスミの霊魂だ。

 姉としてこんな感じ方をするのは情けないが、こういう状況でカスミが持ち出してくるのは、どうせ、私をさらに追い込むような話に違いない。

 ミツキと妹のカスミは、父がアメリカで事業を営んでいたため、アメリカで生まれ育った。ミツキが一五歳、カスミが一三歳の年に父が事業を人に譲って日本に帰ることになった。

 アメリカ生活の記念にと、アメリカ横断の自動車旅行に出たミツキ一家は、ネバダとカリフォルニアの州境で交通事故に遭った。センターランを飛び出してきたトレーラーに正面衝突されたのだ。

 両親は即死。重傷を負ったミツキとカスミがドクターヘリで運ばれた先は、国防総省秘密兵器局の医療施設だった。そこで、二人は生体兵器への改造手術を受けたが、カスミは途中で死亡した。


 ところが、ミツキが「脳破壊型生体兵器」の稼動試験を始めると、ミツキの頭の中でカスミの霊魂が話しかけてくるようになった。初めは独りだけ生き残った罪の意識で自分が狂ったのだと思った。自分の記憶の中のカスミを基にした妄想だと思った。

ミツキの心が弱っている時に限ってカスミが現れるから、なおのこと、そう思った。

 しかし、頭の中のカスミは、自分は国防総省に殺されたカスミの霊魂だとハッキリ名乗った。そして、カスミの霊魂と名乗る相手と対話を重ねるにつれて、彼女がミツキと家族の記憶を共有している上に、感情の動き、発想、話し方に、生きていた時のカスミとまったく同じだということに気づいた。

 今では、頭の中で話しかけてくるカスミが生体兵器への改造手術中に命を落とした彼女の霊魂であることを、ミツキは全く疑っていない。


「お姉ちゃん、昨日の夜、アオイに助けられたことを、なぜ、オッサンとオバハンに言わないんだ」

生前から口の悪かったカスミは、マスムラのことをオッサン、レノックス博士のことをオバハンと呼んでいる。

「私には、記憶がないから。私が覚えているのは、不良に襲われかけて、次に気づいたら交番にいたことだけ。その間の記憶は、ないの」

「アオイの奴、『記憶を消す』とかなんとか言ってた。もしかしたら、本当に、お姉ちゃんの記憶を消したのかもしれない。だけど、あたしは、ハッキリ覚えてる。アオイが不良たちを感電させて倒し、お姉ちゃんを交番に連れてった。お姉ちゃんは、アオイと仲良く歌なんか歌ってたぞ」


「だから、覚えてないんだって」

「あたしは、覚えてる。どぉして、あたしを信じないんだ! いつもみたいに、あたしをバカにしてんのか!」

「私は、カスミのことをバカにしたことなんか、ない」

「嘘つき! お姉ちゃんは、いつも、あたしを、バカにしてきた。あたしが霊魂になってお姉ちゃんに寄生する立場になってからは、ますます、そうだ!」

 カスミは、家族の中で一人だけおミソにされていると思い込み、ひがんでいるところがあった。そのひがみが、霊魂になって、ますます強くなった気がする。


 このやり取りを続けていたらカスミとの溝が深まるばかりだと気づいたミツキは、アプローチを変えることにした。

「でも、仮に、私がアオイさんに助けられたことを覚えていたとしても、博士とマスムラさんには言わないと思うよ」

「なんで?」

「だって、アオイさんが私の恩人だなんて知ったら、博士とマスムラさんは、ますます私が本当にアオイさんを殺せるかと不安になるに違いない。そうしたら、今よりも、もっとプレッシャーをかけてくる。そんなの、まっぴらだわ」


 ミツキの頭の中で、カスミが「ふーん」とうなった。これで、「覚えている・覚えていない」の不毛なやり取りから脱してくれると助かるのだけど……。

「ねぇ、お姉ちゃんは、どうなの? お姉ちゃんは、本当に、アオイを殺せる自信があるの?」

 うわっ、この子、もっと厄介な方に話を振ってきた。

「自信があってもなくても、任務だから、やるしかないじゃない」


「あたしは、お姉ちゃんには、無理だと思うよ。理由その一、お姉ちゃんは、アオイのことを『アオイさん』って呼んでる。ここで、もう、気持ちで負けてる。理由その二、お姉ちゃんは、正当防衛のためですら、力を使えなかった」

「正当防衛って、いったい、何のこと?」

「お姉ちゃんを襲ってきた不良を殺すこと」

「カスミ、あなた、正気? 婦女暴行に死刑は適用されないのよ。ゆうべみたいに犯人が未成年だったら、少年院に行って、まともになって出てきて、更生するの。そういう人が、大勢いるわ」


「時間の流れで考えると、そうかもしれない。でも、あの瞬間だけを切り取ったら、話は違う。お姉ちゃんは、婦女暴行が『魂の殺人』と呼ばれてるのを知らないの? あの時、あそこで犯されてたら、お姉ちゃんの心には、一生消えない傷が残っって、お姉ちゃんの魂が殺されていたところだわ。だから、あの瞬間だけについて言えば、お姉ちゃんがあいつらを殺しても、正当防衛だった」

「カスミ、なんて、恐ろしいことを言うの!」

「恐ろしくもなんともない。当然のことを言ってるだけ。正当防衛のためでも人を殺せなかったお姉ちゃんが、義務感で人を殺せるわけがない。それも、『さん』づけで呼んでる相手を」


 ミツキは、イライラしてきた。カスミの「正当防衛」論は許しがたいと思っているのに、どこかでそれに賛成したがっている自分がいる。自分が獣に堕ちたように感じられた。

「カスミ、あなたの考え方はわかったから、もう、そっとしておいて。私は、今日は、とても疲れたの。それは、私の中にいるあなたなら、わかるでしょう」

「そうね。確かに、お疲れよね。わかった。今日のところは、このくらいにしておく」

 ミツキの頭の中で、カスミの声が消えた。


 ミツキはため息をついてベッドを降り、テーブルの引き出しから睡眠薬を取り出した。睡眠薬を飲んでも、眠気は訪れなかった。今日アオイとの間に起こったことが、忘れたいと思えば思うほど頭に取り憑いて離れず、ミツキは悪夢にうなされるように、ベッドの上を転がりまわった。

 悶々としているうちに、ミツキの心の暗がりにポッと灯りが点った。自分がアオイに手を上げた理由がわかったのだ。

 私は、「傷モノ」という言葉が、他の誰よりも私に向けられていると感じて、思わず手を上げたのだ! 私こそ、人間として「傷モノ」なのだ。というより、私は、もう、人間ではない。兵器だ。アメリカ国防総省の手で、人間から兵器に変えられてしまった。


 アオイに謝らせたかったのは、フリースクールの仲間に対してではなく、私に対してだった。

 しかし、アオイに謝らせたからといって、私が兵器から元の人間に戻れるわけではない。それに、アオイも兵器だ。アオイが自分のことをどう思っているのかは、わからない。だけど、私に言わせれば、アオイも国防総省の手で「傷モノ」にされた人間だ。

 私が謝罪させなければいけないのは、アオイではない。国防総省だ。CIAだ。

しかし、彼らに謝罪させても、私が人間に戻れるわけではない。諦めに似た無力感がミツキの全身を浸し始め、いつの間にか、ミツキは眠りに落ちていた。

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