第4話 怒り

 思いがけない再会に、アオイの心臓がバタつき始めた。落ち着け、あたし! この子が夕べの事を覚えているかどうか、確かめるんだ。必死でミツキの顔をうかがう。

田之上ミツキには、驚いた表情は、まったくなかった。ということは、この子は、昨夜の事は完全に忘れていると思ってよさそうだ。心臓のバタバタが少し収まる。

「ミツキ君は……」 と太一先生が話し出すが、言葉が音にしか聞こえない。大事な事を聞きもらすと、後でヤバイと思い、

「太一先生、細かい話は、後で、本人から聞く」

とさえぎる。

「そうか……うん、まぁ、後で、二人で、ゆっくり話してもらおうかな。じゃ、他のみんなに挨拶だ。学習室に集まってもらっている」

アオイは太一先生とミツキについて学習室に移動し、ミツキが他の生徒達に自己紹介するのに立ち会った。目に膜がかかり、耳に栓をされたようで、ミツキがどんな挨拶をし、生徒達からどんな反応があったか、まともに意識できなかった。


 顔合わせが終わると、アオイは、太一先生に「今日は、『アオイ城』で自習してます」と告げて、職員室のとなりの備品庫に逃げ込んだ。

 アオイは、備品庫に自費で買った安楽イスとコーヒメーカーを持ち込んで、自分独りのくつろぎスペースにして、勝手に「アオイ城」 と名付けている。太一先生は、黙認してくれている。

小学生のチビどもがチョロチョロ動き回るのがうっとうしいので、登校すると、即、「アオイ城」 に逃げ込み、太一先生とボランティアの大学生から勉強を教えてもらう時以外は、立てこもって好きな本を読んでいる。


「アオイさん、アオイさん、どこですか?」 ミツキがアオイを探す声が聞こえてきた。

 下手にミツキを避けると、太一先生に怪しまれそうな気がして「職員室の隣の備品庫」と答えたものの、改めて「いったい何を怪しまれるんだ?」 と自分に尋ねると、答えがハッキリしない。いかん、あたしは、まだ動揺してる。

 職員室ではなく、廊下に面した方のドアがノックされる。

「はいんな」

「お邪魔します。あ、ここって、アオイさんの居間を兼ねているんですね。うわっ、コーヒーメーカーまである」

「コーヒーメーカーも、この安楽イスも、あたしが買ってきて、ここに置いた。ここを、あたしの城、『アオイ城』にしている」

「そんなことして、いいのですか?」

ミツキが驚く。

「一七歳は、ここでは最年長。年寄りの特権だ。ここなら、おチビちゃんたちのピーヒャラリが聞こえなくて、落ち着ける」

 アオイは安楽イスから立ち上がり、壁に立てかけてあった折りたたみイスを開いて、安楽イスの横に据えた。

「あんたも、年寄りだ。いつでも、遠慮なく、おいで」

心にもない言葉が口をついて出る。明らかに、マイペースを崩している。


 ミツキが折りたたみイスに腰を下ろして、アオイをじっと見た。

「さっき、太一先生は、あたしがこのフリースクールに入った理由を話してくださろうとしていました。私が、先生に、そうしてくださいと、お願いしたんです」

「あっ、そんな話だったの? だったら、あたし、興味ないから」

ミツキが「えっ」と眉をくもらせる。

「ここは、フツーの学校においてもらえない『傷モノ』のたまり場だ。お互い、過去は、ほじくらない方がいい」


 ミツキの色白の頬にぽっと朱がさし、茶色の大きな瞳が燃え上がった。次の瞬間、ミツキの右手が目にも止まらぬ速さで動いた。

 バチーンと大きな音がして、アオイが手にしていたコーヒーカップがひざに落ちる。

「いた~っ、あちーっ! あんた、何すんの!」

 ミツキがアオイの右頬に強烈なビンタをかましたのだ。

「アオイさん、イジメにあう子は『傷モノ』ですか! 不登校になる子は、どこか壊れてるんですか! 自閉症とかで生きにくい子も、『傷モノ』ですか! 違います、絶対に、違います!」

 一息に言い切ったミツキの胸が、激しく波打っている。

「あんた、なに、熱くなってんだよ」

「熱くなって、当然です。他人のことを『傷モノ』扱いする権利は、誰にもありません」


 ミツキの見開かれた大きな目に、涙がにじみ始めた。アオイは、人に泣かれると弱い。自分が相手をいじめているような気になるのだ。

「ごめん、あたしが悪かった。謝る」アオイは、頭を下げた。

「私じゃなくて、このスクールのみんなに謝ってください。いえ、それじゃ、足りない。日本中のフリースクールの仲間に謝ってください。いえ、いえ、それでも、まだ足りない。世界中のフリースクールの仲間に、謝ってください!」

 世界中とは、話を広げすぎだろう。国によって、フリースクールに通う事情は違うのではないか? とは思うものの、ミツキは泣いている。あたしは、泣く子に勝てない。

「世界中のフリースクールの仲間へ。あたしは、みんなにひどいことを言いました。許してもらえるとは思いませんが、心からお詫びします。ごめんなさい」

 

ミツキの胸の波が収まってきた。大きな目一杯にたまった涙は、こぼれ落ちずにとどまっている。あれが流れ出さないうちに、ここから退散だ。

「じゃ、時間も時間だから、今日は、これでサヨナラしよう」

 本当は、二時間以上早退になるが、その辺、太一先生はうるさくない。

 コーヒーメーカーの電源だけ切って備品庫を出ようとすると、後ろで、ミツキが、か細い声で、「すみません、私、言い過ぎました……」と言った。「さっきの勢いはどこへ行った?」という感じだ。

 振り向くと、ミツキは首をうなだれ、背中を丸めて立っている。うわっ、頼む。お願いだから、泣かないでくれ。

「言い過ぎてないよ。あんたは、当たり前のことを言っただけだ」


「アオイさんをたたいたりして、本当にいけなかった。痛かったですよね。ヤケド、しませんでしたか?」

「まぁ、暴力はできるだけ避けたほうがいい……って、あたしに言う資格はないんだけど。ともかく、あたしは面の皮が厚い。コーヒーをこぼすのにも慣れている。だから、大丈夫だ。ということで、今日は、サヨナラ。また、明日ね」

「そうですか。でしたら、今日は、さようなら。また、明日、お話してくれますか?」

「もち、もち、もちろんの重ね餅よ」

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