第120話 ”またね”に見る刹那主義
途中まで同意を得られたのに、興奮してその先を話すと「うん……それはちょっと違うわ……」となることに定評があるAskewです。今日も全開で行きます。
人と別れるとき、僕はかなり意識していることがあります。それは「またね」という言葉を使うことです。「さようなら」は心を抉る言葉なのでね。使われると寝込みます。
でもね、個人的に強く思ってるのは「またね」は「また(会おう)ね」じゃないんですよ。「また(会えたら良い)ね」なんです。
それはなぜか。理由は単純で「次に会える確約がないから」です。
「また今度飲みにいきましょう」
「今度は目黒でどうでしょうか」
「今日はありがとうございました!」
「ご飯美味しかったですね」
こんなセリフはこの1ヶ月でめちゃくちゃ聞いてきました。そして、その後、連絡が取れなくなることが体感8割を超えています。東京の女性怖い。とまではいきませんが、サボテンと共に広いリビングでビールを飲みながら「まぁ、日本人だったらもうちょっと話せるだろう」と高を括っていた見通し甘々恋愛弱者は、非常に厳しい戦いを強いられています。
まずマッチングしないんだけど! マッチしてもメッセ返ってこないんだけど! 店予約したのに予定入ったらしいんだけど! ポケモンが忙しいねんて! なんやそれ!!
と、心の声だけが盛り上がっています。
マッチングアプリへの苦言はまたどこかで華厳の滝のようにつらつらと書き落としたいと思いますが、このときの「またね」の気持ちはアプリを頑張っている男性諸賢ならわかってくれるでしょう。
○閑話休題
しかし、僕は「力こそパワー」とかのたまう脳筋マッチョメンでも無理やり外せないほどひねくれた僕の性格にマッチングしている友人と「また日曜に!」と言って別れるときでさえ「また(会えたらいい)ね」と思って使っています。ここでも「次は会えるかわからない」という潜在意識が働いています。
よくよく考えてみてください。1週間後であれ、どうしてその人と会えると言えるのでしょうか。突然の異動で物理的に距離ができてしまったり、恋人や子供が出来ることによって優先順位が変わってしまったりするかもしれません。
そこにいるなら良いですが、二度と会えなくなる可能性も拭いきれません。日本では毎日4,000人弱の人が亡くなっています。多くが病気によるものですが、不慮の事故でも毎日100人ほどが亡くなっています。直下型大地震はいつ起きるかわかりません。極論を言うと、隕石が落ちて地球がヤバい、となる可能性もいつでもあります。その状態でどうして未来の約束を信頼できるのでしょうか。
つまり、僕は未来を信じていません。過去と今はあるとしても、未来があるとは言いにくい。未来を観測した人はいないのに、それでも僕も含め多くの人は未来があるという錯覚をもっている。考えれば考えるほど怖くなってきませんか。
だから僕は刹那主義をおすすめしています。刹那主義とは「…一般には、日々の享楽のみを追求する生活態度をいう(日本大百科全書)」とありますが、僕はこれは解釈違いだと思っていて、サンボマスターの言葉を借りるなら刹那主義とは「今を生きる」ことです。この瞬間を大切に、なんて青春バンドのむずむずするような歌詞でもめちゃくちゃ出てきますが、これが受け入れられて、刹那主義が受け入れられないのは矛盾してますよね。
みなさんも考えてみてください。今と未来、どっちが強く”ある”といえますか。どっちを重視しますか。
だからこそ「また(会えたらいい)ね」って言うんです。別れるときに未来を志向して「また(会おう)ね」と言うよりも、今のこの別れるまで一緒にいる瞬間を意識する。今が良ければすべてよし。僕はそんな刹那的デクノボーになりたいんです。
……またフラれるとか考えなくなるメリットもあります。男性諸賢、どうでしょうか。
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