Hentai式日記の章
第111話 聖地巡礼の醍醐味
聖地巡礼ってご存知ですか?
「エルサレム?」って思われた方が多いと思いますが、僕の言う聖地巡礼というのはスラングで「ロケ地巡り」のことを指します。「映画・小説・マンガ・アニメや、バイク・鉄道・著名人などに縁の深い場所を聖地と称し、それらの愛好者が訪れること」(知恵蔵mini)であります。
僕は聖地巡礼が好きです。
「ばらかもん」を読んで長崎の五島列島へ先輩たちと旅行に行き、「ハチミツとクローバー」を読んで関西から北海道宗谷岬まで自転車で旅し、「水曜どうでしょう」を見てアメリカのラスベガスからサンタフェまで回りました。
将来的に京都でたぬきと飲み明かし(有頂天家族)、宇宙でデブリを拾い(プラネテス)、ダンジョンでモンスターを食い(ダンジョン飯)、人類が滅びた世界で宝石と苦悩する(宝石の国)まで予定に入れています。
創作は絶対に枯渇しません。つまり、聖地巡礼のネタには生涯事欠かないということです。
だからこそ、僕は旅行が好きであり、現実から離れてフィクションに触れる機会である聖地巡礼を大切にしているんですね。ただ、決してその経験を創作や現実に活かすことはできません。趣味ですから。趣味は合理性とかいらないですから。分かりますよね。皆さん。
「ここがあの作品の元になったところかー!」
「あのお店! ほら、あの場面に出てきたところ!」
聖地巡礼ではこのような感動に出会えます。僕はこの感動を否定しません。それも含めて聖地巡礼の楽しいところです。
ですが、僕が聖地巡礼において最も重要視し、求めていることは別にあります。
みなさんは分かるでしょうか。
それは「……フィクションとは違うんだな」という感傷です。
優れた作品ほど登場人物が生き生きと躍動し、現実の場所であればなおさら作品内にリアルを感じられます。現実世界にキャラが生きているという雰囲気が立ち上ってきます。そして、聖地巡礼で実感するのが、今ここにいる自分と作品の世界は何があっても交わらないという痛いほどの現実です。
良いですか。このフィクション、もしくは過去との断絶こそが聖地巡礼の醍醐味なのです。
ドラマであれ、小説であれ、ドキュメンタリーであれ、マンガであれ、その空間や時間をともにして聖地に存在することは物理的に不可能です。若い大泉くんが体調を崩して吐いたサンタフェに行ったって、そこに大泉くんはいません。吐瀉物もありません。ドラマや小説のロケ地に行ったって、その人物がいるわけでも、フィクション上の生活に没入出来るわけでもありません。
聖地巡礼に行ったとしても「観測者」たる自分は一向に変わらないのです。恐ろしいほどに残酷な客観性が見出されます。「自分は決して物語の登場人物ではない」という紛れもない事実が、目の前に気持ち悪いほどのリアリティを伴って立ち現れてくるのです。
フィクションは幸せな幻のようなものです。その中で主人公たちは、大切な人を救うため、強くなるために自らを傷つけてまで幸せな幻を打ち砕くシーンがあったりしますが、まさにそのような行為です。ただし、現実の場合は強くなったり、目が覚めたりしません。ただ幻想が壊れ、動けなくなるだけです。
目がくらみ、ある種の絶望が心身を襲う瞬間。自らの卑小さを、己の凡庸さを、既成的日常を噛みしめるマゾヒスティックな感情。想像するだけでなく、本物を見るからこそ感じる絶対的な断絶。
この感傷こそが聖地巡礼を僕の中で特別たらしめているのではないかと思うのです。
フィクションに浸れる人なら人一倍、その差に、超えられない壁に瞳孔が開くのではないかと思います。そこにたどり着けた感動と虚脱感。この二つの複雑な感情のうねりに身を任せる感覚。日常から離れて現実を知るというアイロニックな結実。
聖地巡礼とは、どちらかというと物理的ではなく、精神的な行為に思えてなりません。だからこそ、みなさんもぜひこの精神的営みをもっと積極的に行い、自らを痛めつける愉悦感を覚える同士になってほしいと願うばかりです。やみつきになること間違いなし。僕が保証します。
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