第104話 裸の男
男は裸であった。
暗褐色の大きなテーブルの前で中腰になり、低い姿勢で疲れた体を支えている。
なぜ、男は裸なのか。服を脱いだからである。なぜ、服を脱いだのか。シャワーを浴びるためである。至極当然の理由であるが、おおよその人間はシャワー前にテーブルの前で誰に見せることもない肉体美を披露することはないだろう。どうしてこうなってしまったのか。時間は十分前に遡る。
意気揚々と
時計を外し、携帯を机に置いた時、男の目に飛び込んできたのは深い蒼色のカードであった。男はそこで、全く身に覚えのない不審な銀行取引記録があったことを思い出し、しめしめと膝を叩いた。
「なれない第二言語での電話は苦戦すること請け合いで、困惑した脳は発汗を促すに違いない。それでは、全裸になったこのベストタイミングで電話をかけ、トラブルを解決し、不安も不快な汗もさっぱり洗い流してしまえばよいではないか」と。
早速、男は画面に取引記録を表示させ、気合を込めて電話をかけた――。
十分後、男は裸のまま機械的音声反復を耳にしながら、テーブルの前で腰を低く保っていた。男は重要事項を見落としていたことを悔やんでいる。問題は言語力だけではなかったのだ。「そもそも」の可能性を想定するべきだったのである。
――頭の中で言うべきフレーズを思い描きながら、自動音声に従って数字を入力する。ここまでは順調であった。前日の夜中に同じ作業をしていたからである。その際はカード番号、暗証番号などをすべて入力し終わってからサービス時間外の通知を受けた。
「一番最初に言ってくれ」
男は無駄足を踏んだことと、非効率的な応答体系につばを吐きながら、
しかし、その手順は無駄ではなかったのだ。こうして二度目の電話となれば、穏やかなような冷たいような自動音声を何度も聞かなくても良いし、必要な情報も把握しているので手際が良い。男は昨夜した作業を繰り返した。オペレーターに繋ぐというアナウンスを聞いたときは、どこか得意げでもあった。
そこから待たされること数分。男はやっと気づいた。問題は他にあったことを。待てども待てども生きた人間の声がしない。同じ調子、同じ声色で繰り返される同じフレーズ。休日の昼間。人員が薄くなっていることは想像にできただろうに。
男は疲れていた。練習も含めて五時間近く棒を振り、歩いていたのだ。座りたいと思うのも無理はない。しかし、全裸だ。元気はないが分別は残っていた。男は自らの可愛いおしりを座面に直に密着させることを拒んだ。カーペットも同様である。しかし、座りたい。必然的に空気椅子の形になる。
もはや当初の目的と手段が噛み合っていない。大腿筋は悲鳴を上げ、かすかに残っている体力も削られていく。すっくと直立するのはどうだ。男は自問自答する。男の理性がそれを拒んだ。
「数万年、もしかすると数十万年前から人類は衣服を身に着けてきた。今更、全裸で仁王立ちなどできるものか。人類であるならば全裸の脆弱性を認識し、羞恥心に従うべきだ」
男は人一倍屁理屈が得意であった。男の言う羞恥心が何なのかは不問にする。
緊張や不安に起因する汗とは異なる汗がじんわりと額ににじむ。まだまだ外は摂氏二十九度である。夏は終わっていない。男の戦いも終わっていない。
自問自答は続く。
どうしてオペレーターは出ないのだ。
バーガー食べてるんじゃないのか。
やめてしまおうか。
いや、それでは後で嫌な汗をかくかもしれない。
今、地震が来たらどうするのだ。
忍者スタイル避難って言おう。
可愛い後輩からテレビ通話が来たらどうするのだ。
その可能性は地球がひっくり返るより少ない。
一度も使っていないのにどこで情報が漏れたのだ。
どうして被害者が悩まなければいけないのだ。
理不尽ではないか。
責任者はどこか。
そして、己はどうして全裸なのだ。
男が誇る身軽さも、実年齢よりも低い体年齢も余り役に立たず、ただ時は流れて行く。男は全裸のまま腰を沈め、その筋肉と頭脳を無駄に酷使していた。見知らぬ地で全裸になり、己の持てる全てをもって能力を空回りさせていた。その努力なのか徒労なのかよくわからない情熱は風に乗り、砂漠の地で終わりをただひたすら待っていた。立てばいいのに。
電話は繰り返す。
「そのままお待ち下さい」
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