第103話 レバニラと童貞と私
前回、レバニラのアイデンティティについて考察した。時間が空いたので覚えていない人が大半だろうが、お暇があれば読み返してもらえると嬉しい。気付けば10月になり気温も30℃を行き来するような季節になってしまった。おかしい、時間も感覚も現実もズレている。今頃は可愛いブロンドの姉ちゃんとキャッキャッしながらマルガリータを飲んでいるはずだったのに。
さて、本題に戻るが、レバニラのアイデンティティを考えた時に浮かんできたのは自分のことである。外へ目を向けると、中にも意識が行くのは不思議なものだ。「アイデンティティを覗くとき、アイデンティティもまたこちらを覗いているのだ」と言い放った高名な童貞がいたそうだ。正鵠を得ている。まさに僕は不安定な己のアイデンティティと向き合うことになった。
皆さんはあまりご存じないかもしれないが、童貞は常に揺らぐアイデンティティに翻弄されている。
もちろん僕は童貞というアイデンティティに支えられ、若男女問わず(老は問う)この生来の特別な地位をもてはやされている。友人からも「コナン君を呼びたいくらい」と言わしめたくらい入り組んでおり、キャラ立ちは万全である。だからこそ、僕は胸を張ってチェリーだと言えるのだ。
ただ、一方で僕は別にこの地位を固守しようとしていない。むしろ、ずっと避けようとしてきた。それが結果的に上手くいかなかっただけで、たまたま納豆のように腐れた縁になっているだけだ。つまり、僕は童貞を軽んじながらも、それがアイデンティティになっているのだ。
ここに葛藤がある。「ジレンマオブチェリー」と呼ばれるものだ。それ自体が魅力なのに、それに触れてしまったら魅力が消えてしまう、という葛藤。悲運の作家から不幸要素を全部取り払った時を考えてもらえると分かりやすいかもしれない。
チェリーにとって目の前で揺らぐその炎に飛びつくのは簡単である。ただ、飛びついたが最後、屹立した依り代は眩い輝きを放って変形し、崩れ、灰になる。するともうなにも燃えないのだ。世の中の多くの人にとっては、その柱が無くなることが「大人」の証左になるのだが、一部の間では持っていることが存在の証明となる場合がある。その場合、チェリーが無くなることはアイデンティティの喪失と同じであり、精粋の混濁を意味する。
だからこそ「金銭を支払って魅力を捨てる」なんて馬鹿らしいし、「並みの燃え方ではいけない」というプレッシャーが生まれてくるのだ。その意味で新天地アメリカは僕にふさわしい場所かもしれない。(20代のとき、高校生の娘がいる50代女性アメリカ人に迫られたが、それは丁重にお断りした) 今のところ、マイアミの花火のように盛大に打ちあがる兆候はない。
かのようにチェリーは構造的にジレンマを内包するものであり、コンビニのFreeWifiくらいあてにならない。だが、その不安定な揺らぎこそが人を惹きつける光の源泉であり、逐次崩壊するミクロ的な同一性崩壊のパワーが、まさにこうした文章を紡がせ、広大な世界への好奇心を掻き立て、果ては人類並びに世界の発展へとつながっていくのだと僕は信じている。
チェリーなければ発展はなし。
それを心に留めていて欲しい。以上。
あー、彼女ほし。
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