第44話 腐っタネ


 さくらんぼが安かった。無垢な乙女の血液を小さな水風船にしっぽりと溜めたようなそれではない。嫉妬や性欲や歓喜を煮詰めて焦がしたようなどす黒いアメリカンチェリーである。


 夕食後、両てのひら一杯のさくらんぼをお皿に盛った。そして、パソコンの画面に向かいながら一粒一粒口へと運ぶ。左横の床には、水気が抜けたかっぱのようなビニール袋がへたりこんでいた。


 へたをつまんで力を入れると、心地よい手ごたえと共に口に含んださくらんぼの実からへたが外れる。そのへたをかっぱの口元へ持って行くと、待っていたかのようにへたにかぶりついていく。彼も小腹がすいていたようだ。


 ピンと張った皮を割いてさくらんぼの果肉を割ると、グロテスクな色からは想像できないような微かな甘酸っぱさが口の中に広がった。ほどなくして中から果肉をまとったタネが出てくる。口の中で器用にコロコロと種と果肉を分けて、果肉を歯ですりつぶす。酸味と甘みがさらに増して果汁がほんのすこし口内を湿らせる。


 みずみずしい食感をごくりと飲み込むと、口の中に硬いタネが残る。タネについた果肉をこそげ落とそうと無心するも成果は得られなかった。味が全く感じられなくなったところでかっぱに向かってタネをぷっと吐き出した。タネは放物線を描いて開いた口に吸い込まれていく。代わりに僕の口の中が物寂しくなったので軽いビールを流し込んで苦みで覆った。


 吐き出す度にタネから芽が出る。伸びてゆく茎は指向性をもたない。あらゆる方向に枝葉を伸ばしていった。甘酸っぱいサボテンとの偏愛もの、クマとカワセミの初恋、カリブー夫婦のビターなコメディー、宇宙人と火星人の少年、お姉さんとゴルフクラブ、チェリーと鮮血、ネジと砂漠。


 あるタネは壁を伝って天井に向かって蔓を伸ばしたかと思うと自然発火してちりと消えた。あるタネは床を突き破って階下へと地下茎を伸ばしたところ、ウサギに食われて息絶えた。あるタネは硬い殻の中から新しいタネを生み出して小さくなっていった。最終的に赤い液体を流して果てた。

 

 その変化が楽しくて何度も何度もタネを吐き出していると、ふと左手が空を切った。さくらんぼがきれいさっぱり無くなっている。足元に残ったのは無造作に置かれたビニール袋とへたとタネ。


 ビニール袋を持ち上げると妄想が混じった生臭い液体が流れ落ちた。急いでビニール袋の口をへびを結ぶようにぎゅっとしばった。薄い膜の中に枯れ果てたタネがたくさんあるのが見えた。


 こうして今日もせっかく成長しかけたタネを無駄にする。水がなければすぐに枯れるのだ。ぐずぐずとしたタネと一向に動かない十本の指だけが取り残されて、変化していく世のなかに後れを取る。こうしている間にも横の部屋では天井に生えた立派なスイカを収穫する。下のアパートでは庭にったゾウの背中に乗ってイタチを踏みつぶす。向かいのベランダでは背中に生えたアレキサンドライトを削って作品を創り上げているというのに。


 焦燥の海を漂ってふらふらとキッチンへ向かった。いつか――薄い袋も、胃も、皮膚も、この部屋も、地面も、空も、なにもかもを突き破って花を咲かせてくれないだろうか。


 僕はそんな妄想に縋りながら、黒ずむタネをゴミ箱へ投げ入れた。

 

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