第38話 文体は内容に影響を及ぼす (ですます調の場合)
前回から引き続いて、文体が及ぼす影響を探るため調子を変えて文章を書いてみた企画です。今回は「ですます調」の場合を見ていきましょう。語っている内容そのものは同じです。良ければ前回と見比べてみて下さい。
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「薬も過ぎれば毒となる」ということわざがあります。度を超すとかえって害になるということですね。「細くしすぎなや」という忠告に「分かってるってー」と手をひらひらさせながら眉毛を整えようとした直後に起こる悲劇。そのような本質を初めて体験したのは小学生の時でした。
さて、人間は誰だって良いものは多ければよいと思うのではないでしょうか。彼女に「イヤリングが欲しい」と言われればイヤリングとケーキとマンションを買いますし、上司が「喉が渇いた」と言えば水とビールをタンクローリーで手配します。欲望に関することなら言葉通りに受け取った方が無難です。決してイヤリングを勝手に薔薇にしたり、ビールを
その「多ければ良い党」の極みと言えるものが母親(時に祖父母)です。僕が一言「お肉が食べたい」と言えば苦手なピーマンの肉詰めをつくり「野菜が欲しい」と言えば山盛りの生キャベツを出し「そうめんは飽きた」と言うとこれはひやむぎだと言い張る。見事な要望への対応ですね。発想の転換さえ持ち出すところがウィットに富んでいます。時に「モテたい」と言えばカッコいいのにねぇと参考にもならない賛辞の言葉を贈り「青が好き」と言えばセロハンを持ち出して夕焼けも青空に変えてしまうという思いやりは感心するものです。ともかく母親は子供にとって「良いもの」を最大限に与えようとします。
ある時、母親が反応したのが「ナタデココ美味しい」でした。小学生の間で取り合いになるデザート「フルーツカクテル」に入っていたのを思い出して、買ってとねだりました。息子からの可愛いおねだりには応えざるを得ない力があるのでしょう。母はすぐさまナタデココを見つけて食卓に並べます。
「これこれ! うん、美味しい!」と満面の笑みを見せたのが嬉しかったのだと思います。母は定期的にナタデココを買ってくるようになりました。そう、ナタデココだけを……。
朝、おやつ、夜に出てくるナタデココ。半透明で艶やか、もきゅもきゅとした食感がくせになり、それはもう食べに食べました。まもなくナタデココがゲシュタルト崩壊したのは言うまでもありません。
またも出たなナタデココ。そこにもここにもナタデココ。謎の物体ナタデココ。あなたもわたしもナタデココ。……そもそもナタデココとは何なのだ。響き的にどこかのお姫さま感も否めない。ちょこんと食卓に座るナタ・D・ココ。お前はDの意志を継ぐものなのか。多分、位の高いお嬢様なのだろう。ごめんな。それでも僕はお前を食べてしまうのだ。
そんな勝手な憐憫はつゆ知らず、ナタデココはお腹の中に吸い込まれていきます。
いくら好きだと言っても飽きてしまうのが人の性。いつしか完全に僕はナタデココに嫌気がさしていました。とは言え、大量に残った冷蔵庫の在庫を前に言い出しっぺがもういらないとは言えません。あるのかないのか良く分からない機会を伺いながら、僕は黙ってナタデココを食べ続けました。
そして、遂に臨界を迎えます。ナタデココを一口食べた時、突如として吐き気がこみ上げてきました。甘ったるい汁と共に鼻に抜ける酸味。食道を駆け上る強烈な不快感。それらを必死に押しとどめ、空気と共に嚥下しました。何が起こったのか理解は出来ませんが、異常であることは分かります。ようやく覚悟がついた僕は恐る恐る母に告げます。
「ごめん、もう飽きた。食べられない」
それ以来しばらくナタデココは食べられなくなりました。あんなに好きだった食べ物が食べられなくなる。これは衝撃でした。この現象が味覚嫌悪学習だと知るのはもっと後のこと。
いくら好きでも食べ過ぎは良くない。「薬も過ぎれば毒となる」をこの身に浸み込ませた経験です。あどけない小学生が一つ賢くなった瞬間でした。
そして
「意外とイケる」
そう言って、残ったナタデココをぱくぱく食べる母の背中は忘れられません。
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如何だったでしょうか。文体が内容そのものに影響を与えるというのを感じて頂けましたでしょうか。
結果的に「ですます調」の方が文字数が多くなってしまいましたね。これは漢字の密度の度合いが変わるからではないかと考えています。
漢字はその文字だけで様々な意味を表すことができます。そのため必要な文字数も必然的に減る。対してひらがなが多くなる「ですます調」では、文字を多く尽くさざるを得ない。少なくとも語尾と言い回しの分だけ文字数は増えます。更に特徴的なのはポイポイと様々な要素を投げ込みやすくなること。意識的に書いてみましたが「ですます調」の中に「だである調」が人物の思考として紛れ込んでも違和感はあんまりないんですよ。
しかし「だである調」の場合、誰かに向けた発言でない限りは「ですます調」を紛れ込ませるのが難しいんです。そうするとそれぞれで要素の幅が出ますよね。その結果は見ての通りです。
結論として「だである調」では神の存在に疑問を抱きがちになりますし「ですます調」では余計な情報が付け加わる。
上記したものはあくまで僕の場合ですが、傾向が分かって面白かったです。皆さんも同じ物事について文体を変えて書いてみる機会を作ってみてはいかがでしょうか。意外な一面を知ることができるかもしれませんよ。
最後に。
これをしたからと言って文章が上手くなるというものではございません。何をどのように書いても阿呆は阿呆だという事実を再確認する羽目になるだけです。ご留意を。
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