第37話 文体は内容に影響を及ぼす (だである調の場合)
文の印象を大きく左右するのは文体です。ここでいう文体とは、いわゆる「だである調」か「ですます調」かということです。一般的なイメージだとドライで硬いのが「だである調」だとしたら、ほよりと柔らかいのが「ですます調」ですね。同じ出来事を書くにしてもこの二つの文体の使い分けによって、意図的に印象を操作することが出来るのでとても便利です。
しかし、今回言いたいのはこの文体の使い分けは印象を左右するだけでなく、描写内容すらも左右してしまうのではないかと言うことです。これは誰にも当てはまることではないのかもしれませんが、僕の場合「だである調」ではより高慢ちきかつ衒学的になり、「ですます調」だと間抜けさが際立つようになります。では早速見ていきましょう。
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「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉がある。論語に記された孔子の言葉であり、端的にこの世の理を表している。語義は読んで字の如く「度が過ぎるのもよろしくない」ということだ。しかし、意味を知っていても理解しているわけではない。愚かな私は小学生の時に、その真理を身を以て体感することになる。
きっかけはある一言であった。
「これ好き。もっと食べたい」
夕餉を済ました後の閑暇、私の口からこぼれたこのたった十文字余りが母君の鼓膜を振動させた。ただの空気の振動はそのわずか一キログラム余りの神経細胞の中で再構築され「息子が断続的に欲するもの」へと昇華した。それから、その独特の食感を湛えた炭水化物の塊は幾度となく私の前に現れた。
朝食として、口寂しい時の御伴として、夕食後のデザートとして。それは次々に私の胃袋へ流し込まれ糖へと分解されていった。私はその異様な摂取量に疑問を覚えるどころか、むしろ際限なく食欲を満たせる快感に甘美さえ感じていた。しかし、それが間違いであったと気付くのに時間はかからなかった。
否応なしに食卓に出てくる椰子の果実から作られた発酵食品。いくら消化しても在庫は尽きず、何度咀嚼しても噛み切れない。最初は妙味を感じていたその食感も、次第にまるで家畜の内臓のようにいつ嚥下すべき機宜なのかが判然としないものになっていった。限界効用逓減の法則に従い、量を食べれば食べるほど効用は萎み、腹ばかりが膨れてゆく。自ら選択した終わりのないルーティーン。いつしか私は大きな歯車の一部になっているような感覚を覚えた。私が世界を選び取っているのではない。私は世界に動かされていただけなのだ。全てが思い通りになると思っていた。際限なく楽しめるものは至高だと考えていた。それは間違いだったのだ。自分で自由に選んだはずなのに、その選択によって行動が制限されている。自由意志とは、神とは、因果律とは。私が初めてそれらを意識したのはあの瞬間だったのかもしれない。
ぐるぐると回り続ける大きな歯車。回りたくなくとも歯がかみ合うことで生み出される力。私はその大きな力に成す術もなく身を委ねるしかなかった。その結果は語るに及ばない。軋む歯車は壊れるしかないのだ。その時、初めて私は「味覚嫌悪学習」という言葉を覚えた。思い出すのもおぞましい体験であった。あれ以来、私は腹八分目を意識している。過食は何も生まない。生むのは神への疑念くらいのものである。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
全く以て然り。そして、ここに私は私の自由意志を見るのだ。
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わ、分かりにくい……。分からせようとする意思を感じませんね。簡単に言えることをあえて外して迂遠な言い回しで表現している感じ。これね、あんまり意図してやっている訳ではないんですよね。手癖と言うかなんというか「だである調」で書くとこういう風になってしまうんです。全部が全部とは言いませんが、無駄にむつかしいことを言おうとして阿呆を晒している感じの文章になります。
じゃあ「ですます調」だとどうなるのか、というのは次に見ていきます。椰子の果実から作られた発酵食品が何を指すのか。馴染みのある方にはすぐにわかりましたよね。分からなかった人も次で判明しますので、楽しみにしていてください。
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