第7話 僕の彼女は、いつでも彼女なのでしょうか
皆さんにはパートナーがいますか?
最近、彼女という存在に僕は疑いを持つようになりました。もしかしたら彼女は思った以上に不思議な存在なのではないか、と思います。
ちょっとあるお話を考えてみましょう。
ある土曜日の昼下がり。惰眠を貪って硬くなった身体と頭をほぐすため、少し遠出して有名なラーメン屋に向かうことにしました。空は快晴。春の陽気はまだ漂っていませんが、初めて電車に乗った時のように、どこまでも世界が続いていくような高い空の下で、僕の気持ちはしんしんと澄んでいきます。
目的の駅から少し歩くと、そこは東京とは思えない場所でした。鳥の声が聞こえてくるほどにのどかで、大都市にあるまじき静けさを落としています。時々、自転車に乗った若者や、高そうな乗用車とすれ違うばかり。歩く人はまばらです。
「こんな場所に美味しいラーメン屋があるなんて」
携帯が指し示すのは、3ブロック先の角を曲がった所。あと10分くらいかなーと距離感から到着予測を立てていると、やっと起きてきたねぼすけのお腹がとぼけた声で問いかけます。
――ごはんまだ?
自分よりも遅く起きて来て、開口一番それかよ、と半ばため息が出るような気がしますが、最後にはしょうがない奴だと受け入れてしまうのが少し悔しい。どこか憎めないのんびりさがそうさせるのでしょうか。
もうちょっとだから我慢しろ、とそっけなく返すと、今日はエッグベネディクトで良いよ、なんて抜かすので、腹が立った僕は白々しく無視をして、その空いた口に魚介スープをぶちこんでやる、と、小さくこぶしを握りました。
行き交う人も見えず、どこか浮ついた現実感のない住宅街を歩いているとなんだか楽しくなって来たので、ついに自分でもよくわからない衝動に突き動かされて、思わず走り始めてしまいました。
角を曲がればもうすぐそこ――。
余計な肉も必要な肉もついていない身体は、綿毛のように軽々しく風に乗って道を右に折れます。
瞬間、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をくすぐりました。
角を曲がって去っていく髪の長い女性。その横に連れだって歩く男性の姿。僕のまぶたはその一瞬の後ろ姿をシャッターのように焼き付けています。
風のように軽かった身体が住宅街の角を見つめて動けなくなりました。
――おい、何してんだ。
その一声で僕は意識を引き戻されます。
すぐに、くどくもなく、薄くもなく、何も入っていない繊細な胃袋を満たすにはぴったりの匂いが空気と共に身体に飛び込んできました。
――早く行くぞ。
僕は少し後ろ髪を引かれながらも、あいまいな返事をして、胃袋に続いてその店の暖簾をくぐりました。
○
目の前のどんぶりから湯気が立ち上っています。茶褐色で半透明のスープ。細めの麺の上にはチャーシューとメンマがきっちりと佇み、とろとろの黄身を見せた半熟卵がその横で存在感をアピールしています。チャーシューの上にちょこんと座った細い白ネギと、皿のふちに沿ってぴっと背すじを伸ばす大きめの海苔が全体を引き締めています。
――見た目の感想はイイから早く!
さっきから口うるさく同居人が急かすので、僕はしょうがなく出来上がった形式美を崩して、スープを口に含みます。
しっかりと味を支える醤油のベース。その上を魚介から取っただしが通り抜けて、流れゆく味は透き通り、深みを増しているようです。
口うるさかったあいつも、流れ落ちる味の奔流にその身をゆだね、微かにキラキラと黄色く光る充足感に恍惚としていました。
何も言わずに麺をすすり、半熟卵をかじって、その幸福の波にゆらゆら揺られていると、ふと、さきほどの光景がフラッシュバックしました。
そういえば……。
さっきのは彼女なんだろうか。
2年前から付き合っている笑った顔が思い浮かびます。付き合った当初から毎週末どこかへ誘って、出かけていた彼女。映画や新しいレストラン、散歩だけの日もありましたが、何よりも楽しみな時間でした。ある時、友人からの忠告を受け、彼女をあまりに振り回しているのではないか、と思い直して、半年前から月の半分は自由行動にすることを提案したのです。最初は驚いた顔の彼女でしたが、この生活ペースにも慣れてくれたようです。
その彼女が好きな香水の匂いを、角を曲がった時にふわりと感じたのです。
まさか。
僕は当然のようにすました顔で否定します。あの子に限ってそれはない。今日だって新宿で友達と映画って言ってたじゃないか。こんな場所にいるはずがない。
そう言って箸を進める僕に、虫の居所が良くなった胃袋は可能性の波を打ち付けます。
――お前はあの子がここに来ていないって証明できるのかよ。ご飯を食べて移動するだけなら可能じゃないか。嘘は吐いていないぞ。正直ものだからこそ、真実だけを口にしたんじゃない?
いやいや、それにしてもあの子が僕に隠れて誰かと会うなんて……。そんなこと、彼女の性格からしてありえないよ。
――だから、あの子がお前のいない所で何をしているか、どこにいるかなんてわかるのかよ。お前が知っているのは、お前が見ている彼女だけじゃないのか。何をもってお前は、彼女が、お前が見ていない時も「お前の考える彼女である」なんて言えるんだ?
太陽は見えていない時も、地球の反対側をまわっているじゃない。それと一緒だよ。僕はずっと彼女を見てきたんだ。経験から言って、そんなことをする子じゃない。
――よく分からないな。どうして、そこまで彼女を信じれるのか。知っている全てが真実とは限らないだろ。何でもそうだ。たった1兆7千億回、日が昇ったからって、どうして次もまた日が昇るって言えるんだ?
それは……。
――それは十分な数字なのか。たとえ、あるものごとが何回繰り返し起きても、次もまた起こる保証なんてあるか? 究極的には、何の保証もされてないさ。その意味で、今、他の誰かとデートしている彼女と、自宅で映画に行く準備をしている彼女はどちらもありえるだろ。むしろ、お前が見ていない以上、どんな可能性もあり得るんじゃない? お前は経験則からあるひとつの可能性は考えられないみたいだけど、誰も彼女のことを見ていなければ、彼女が何をしているか、どこにいるかなんて分かりようもないし、彼女というものが本当に今、存在するのかもわからないんじゃない?
それはさすがに屁理屈ってもんだよ。ある人間が誰も見ていない時にはいない、なんてことあり得るはずがないよ。
――そうかなぁ。
うん、そうだよ。彼女は僕が見ていない時も息をしているし、僕が見ていない時も彼女の性格はそのままだよ。
――その可能性はあるよな。
可能性じゃないんだよ。
僕は打ち付ける波にそう言い捨てて、ごろんと不貞腐れるように妄想の中で寝転がりました。
思考の船は波に揺られながら、舵を取ることもなく、ふらふらと潮に乗って流されていきます。満足感とカロリーをたらふくとって、静かになった同居人はこれ以上何も言いません。何故かやたらと店の中がうるさく聞こえます。
僕は透き通るスープと弾力のある麺で重くなった身体で通りに出ました。
寝ぼけたような頭で、僕はぼんやり思います。
今日はこれからどこに向かえばいいんだろう。
テーブルの上には、からっぽになったどんぶりだけが残されていました。
――――――――
彼女という存在の不確かさに思いを馳せていたら、ふと浮かんできた小話。結論、ラーメン美味しいですよね。僕は醤油とつけ麺が好きです。
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