二章 十四節


 爛れた右手で木製の重厚なドアを開けると既にハデスがカウンター席に座していた。最奥の席が好きらしい。華奢な眼鏡を掛けた彼は片肘を突いてぼう、と物思いに耽っていた。人払い……否、死神払いをしても冥府の最高神たるハデスはこぢんまりとした場所を好む。自分の地位を窮屈に感じているのだろう。


 死神タナトスの祖であり古い神である自分と同じだ、と右手の包帯を巻きつつもローレンスは微笑んだ。


「いらっしゃいませ」帳簿を眺めていたパンドラが顔を上げる。


 ローレンスがパンドラに微笑むと、我に返ったハデスが片手を挙げた。


「やあ。久し振り」ローレンスはハデスの隣に座す。


「……命日を邪魔した。今日しか時間が取れない。すまない」薄いレンズの奥の瞳をハデスは閉じる。


「いいよ。君はとても忙しい人だもの。毎日死者の裁定をしなきゃならないんだもの。時間が空くのなんてこのシーズンくらいだろう? 他神族の神事とは言え、みんなが楽しみにしている休暇だもの。ペルセポネと過ごす時間も大切だし好きな人と一緒に居られるならそれを尊重して欲しい。それに……何よりも死者が少なくなって僕も嬉しいよ」


 ウーロン茶を傾けたハデスは苦笑する。


「……何千年経っても、君は死神らしくないな」


「冥府の最高神の前でごめん。……もう仕事が嫌いな訳じゃない。でも悲しい事は少ない方がいいのは変わらない」パンドラから差し出されたミントの香りがするお絞りを広げたローレンスは手を清める。そしてマルガリータを注文した。


「スノースタイルのカクテルか」


「ユウと弟のリュウを亡くしたのは雪の日だったからね。彼女と出会った国でやっと命日を過ごせるんだ。この十年、君が辞令を出した紛争地域での従事や後進国での霊の捕縛で落ち着いて偲べなかったから。どの国も雪とは無縁の気候だった」


「……嫌味は堪えるな」シェイカーを取り出すパンドラの白い手を見詰めつつハデスは苦笑する。


「そ、そんなつもりはないよ。今年はユウの国へ帰ってこうやって偲べるんだ。感謝してるよ」


「十三の苦役、最後の試練だからな。教育を施すには落ち着いた場所がいい。……教育は順調か?」


「……多分」


「君は魂の回収も好きではないが書類仕事も好きではないようだからな。私の許に届くべき課程報告書が殆ど届いてない。イポリトの監視報告のみが頼りな実情だ」


「ごめん。手紙を書くのは好きなんだけど……感情を抜きにした報告書や契約書を作るのは苦手なんだ」


「……そろそろ教育は終了だな」ハデスはトールグラスを呷った。


「……僕の手を離れたら彼女は何処に配属されるの?」


「それは機密事項だ。……今日はこれを渡しに来た。報告書は後で渡してくれれば良い。これにサインを」ハデスは懐から書類を取り出すとローレンスに差し出した。


 折り目が深く刻まれた書類を開くとローレンスは睨むように見詰める。アメリアの教育課程の修了を了承させる書類だった。


「……どうして僕にアメリアを預けたの?」


「彼女を引き渡す前に渡した書類の通りだ。……母親の苦役もそろそろ終る。君の苦役もこれで終わりだ」


 ローレンスは瞬きすらせずに署名の欄を見詰める。


「サインするとアメリアはどうなるの? また何処かで会えるの?」


「可能性は低い。預かり子の今後は教育者が知る由もない事だ。自分の子供ではない。知らなくていい事は知るべきではない」ハデスはウーロン茶を呷った。


「……そう」


 ローレンスは暫く署名欄を睨むと書類を破った。


 マルガリータを差し出そうとしていたパンドラはグラスを引っ込める。ハデスは細切れに変わる書類を無表情で見詰める。


 カウンターにローレンスは紙吹雪を散らす。


「……アメリアは僕の娘だ」


 ハデスはローレンスの瞳の奥を見据える。


「気付いたのか?」


 ローレンスは首を横に振った。ハデスは深い溜め息を吐く。


「……やはりニュクス女神の助言か」


「うん……。母さんから事実を教えられたんだ。『アメリアは僕の娘』だって」


「それを恐れてニュクス女神の休暇滞在場所に渋っていたのだが……やはりそうか」冥府の最高神と言えども大地の女神ガイアと並び原初の女神たるニュクスには何も言えない。眉根を寄せたハデスは深いため息を吐いた。


 パンドラに差し出されたマルガリータにローレンスは唇を付ける。


「……この仕事を継がせたくないから子孫は作らないように暮らしていた。……こんな死神らしい面相だから大抵の女性は僕を避けたから気が楽だった。寂しかったけどさ。……身に覚えが無いんだよ。その……子供を作るって……互いに信頼しないと出来ない事だろう? 僕にはそんな女性はユウしかいない。でも彼女をランゲルハンス島に残して来たし、現世に戻る為に彼女の気持ちには応えなかった。……アメリアはユウに似てる。眼差し、仕草、気の強い所……眺めていると懐かしくなる。彼女は死神の証である爛れた右手を持ち、僕と同じ青白く光る瞳を嵌めている。……僕とユウの娘である事は間違いないんだろう」


 ローレンスはグラスの縁を飾るソルトを人差し指でなぞった。それをハデスは横目で見遣る。


「……以前ランゲルハンスがアメリアを引き渡しに来た際に言っていた。『ある事件に依ってローレンスが意識不明に陥った際にユウが仕組んで出来た娘だ。私も彼女の腹が膨らむまでは気付かず問いただせなかった。ローレンスの知る由ではない』と」


 グラスのソルトを弄んでいたローレンスは寂しげに微笑む。


「……そっか」


「君は『死神タナトス』の仕事を子孫に継がせたく無いようだが、娘であるアメリアは違う。悪魔ランゲルハンスの庇護の許、君が助けた島民達に君の話を聞かされ育った。君を慕い、君の仕事に興味を持ち、死神として生きる道を選んだ。冥府の最高神として私は一介の死神の子孫であるアメリアの意見を尊重すべきだと考える。……ただ異例だったが故に『自ら娘だと名乗り出てはならない。ローレンスが気付かなければ存在を滅する』と制限を設けた。制限がなければ死神は自らが与り知らぬ所で子孫を増やす。愚かなるニコラスの息子チカゲのような不憫な例をこの先も作ってはならない。その為の制限だ。君が『娘』であると気付かなくとも彼女の存在を消すつもりは始めからなかった」


「……そうだったんだ」


「人一倍鈍いローレンスが自然に気付くのが十三の苦役の最後だ、とも彼女に厳命した。しかしこうなっては苦役も何もないな」


 ローレンスは眉を下げる。


「一体どうなるの?」


「どうもこうもないだろう。苦役を変えるしかない。どうせ君の事だ。気付いてもアメリアに言い出せずに居るのだろう? 君が気付いた旨をアメリアに打ち明ける事を最後の苦役としよう」


「……そんな難しい事」


「馬鹿を言うな。アメリアはそれ以上に我慢をしている。君が乗り越えなければこの世で彼女はひとりぽっちだ」


 ローレンスは瞳を伏せた。


「君達親子はよくよく私の手を焼かせてくれる」ハデスは空になったグラスを回す。積まれたアイスキューブが回転するがバランスを崩して音を立てた。


 ローレンスは洟を啜る。


「自分の子供が死神として生きるなんて……。苦しい想いをする。悲しい想いをする。やり切れなくて死にたくなる事もある。……そんな想いをアメリアもすると想うと」


 ハデスは溜め息を吐いた。


 目頭が熱くなったローレンスは両手で顔を覆う。


「……分かってるさ。彼女が『死神として生きたい』と願った以上、この想いはもう権利ではなくて僕の我が儘でしかなくなったんだ。あんな良い娘を設けて今はただ……ユウに、そしてあの懐かしい島のみんなに感謝しているよ。……でも僕には覚悟が無いんだ。『アメリアが僕の娘である』という事実は受け入れられたのに僕が本当に『アメリアの父親になっていいのか』って」


「……イポリトの報告書に依れば君は彼女を『父』と呼ばせていたと」


「それは母さんに事実を教えられるずっと前からの事だよ。……『父親を知らない』『父さんって呼びたい』ってアメリアが言ってくれたから……僕も『娘』を知らないから軽い気持ちで甘えてしまった」


 ローレンスは唇を噛む。ハデスは溜め息を吐くと闇色の瞳を潤ませ微笑んだ。


「……羨ましい悩みだな」


「……ごめん。君の気持ちも考えないで」


 立ち上がったハデスは踵を返す。


「……とにもかくにも教育課程の時間は限られている。それまでにアメリアの『父』として覚悟を決めるんだな」

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