三章 一節


 花に囲まれ瞼を閉じるイザベラをアメリアは見下ろす。


 悩みも心配も無く、家人の居る部屋でうたた寝しているように想えた。レオに揺り動かされて瞼をこすり文句を垂れながら今にも目覚めそうな体だ。


 しかし彼女はもう二度と目覚める事は無い。


 白い花々が敷き詰められた棺の側では養父であるレオが彼女を見詰めていた。しかし彼は踵を返すとアメリアの付き添いであるローレンスに近付く。ローレンスは軽く会釈する。しかしそれを無視したレオは擦れ違う。その刹那、軽く手が当たった。しかしレオは何も言わずに斎場の外へ出た。


 狼狽えるローレンスにダグが声を掛ける。


「気にしないで下さい。お嬢さんに別れの時間を与えたのでしょう。不器用でもあいつはそんなヤツです。余裕が無いんで許してやって下さい」


 ローレンスは申し訳無さそうに幾度も頭を下げると手が当たった、スラックスの脇ポケットを撫でた。


 斎場にはアメリアの他に付き添いのローレンス、彼女の仕事仲間だった医師のダグしかいない。儀式を行わない直葬を生前のイザベラは望んでいた。


 ──見送る時間が長いとレオに迷惑をかけるから。


 年が明けて早々、息を引き取る三日前にアメリアはイザベラと最後の言葉を交わした。携帯電話に彼女の死亡予定日が送られて来たのだ。


 会うのは墓所で吸血鬼を見張って以来だ。年末年始は華やかな雰囲気に圧されて心を病んでいた者が死を選び易い。それ故に多忙になり会えなかった。


 死亡予定日を確認したアメリアは愕然とした。エスターに続いて親しい者をもう一人亡くすのだ。運命を知っておきながらやり切れない。……しかし後悔はしたくない。アメリアはイザベラに会いに行った。


 郊外の家を訪ねるとレオが出迎えた。イザベラの容態が悪化し、レオは暫く仕事を休んでいた。看護疲れ、そして精神的疲労が出ているのかローレンスのように隈を作っていた。眉を下げたアメリアの顔を見るとレオは全てを察した。


「……もう期限なのか」


 眼の奥が熱くなる。アメリアは唇を噛み締め、こっくり頷く。


「今日……じゃないけど」


 レオは瞳を伏せると寂しそうに微笑んだ。


 アメリアはもぞもぞと膝をこすり合わせる。長い溜め息を吐いたレオは『上がってくれ。容態はあまり芳しく無いが話せる』と中へ促した。


 レオの後に従いアメリアはイザベラの部屋に通される。


 イザベラは窓の外の寒空に顔を向け、うつらうつらと微睡んでいた。


「君にお客さんだ」レオはイザベラの頭を撫でる。


 イザベラの瞼が開く。レオは彼女の額に手を当てて熱を確かめる。


「……まだ微熱のようだな。新年から体調を崩してね。散歩も出来ない状態だ。少しの間なら話せるだろう。話が済んだらリビングに来てくれ。渡したい物が有る」


 レオは席を外した。


 デスクの側にあった椅子をベッドへ運ぶとアメリアは座す。


「……久し振り。お見舞いの花、忘れちゃってごめんね」


 イザベラは力なく微笑んだ。


「……いつも不機嫌そうなイザベラが笑うなんて」アメリアは眉を下げて作り笑う。


「わた……しだって、笑う事くらい、ある。今日は、どうして?」痰が絡んでいるのかヤケにザラリとした声だった。


「イザベラの顔が見たくなったの」


「そう。私は、アメリア、と、同じ、場所に居た、かった」


 アメリアは眉を下げた。素直なイザベラに胸を締め付けられる。いつもなら意地悪を言って笑わせるのに。体が弱っているだけではない。心まで弱っているのだろう。


「メールしてくれたのに素っ気無い返事ばかりでごめんね。本当は会いに行きたかった。でも頻繁に顔を出すとレオの時間を削ると想って」


「レオが、嫌い?」


「ううん、そうじゃなくて。あたしが居たらレオがイザベラと過ごす時間が少なくなるじゃない?」


「そうでも、ない。ここの所、依頼を受けないで、看護してる。ずっと、家に居る」


「レオは優しいね」


「優しくされると、辛い」涙腺が熱くなったイザベラは長い溜め息を吐いた。


 アメリアは眉を下げた。


「私はもう、仕事できないもの。ただの重荷。レオに仕事、休ませてる」


「やめようよ、そんな風に考えるの。ずっとベッドにいるから気持ちが伏せるのも無理ないけど。レオはそんな事想ってないよ。『やっとイザベラとの時間が持てた』って想ってるかもしれないよ?」


「……だったら、そうだったら、いい、と想う。でもそれなら、もっと側に居てくれる。レオは……側に、居てくれないもの。部屋を出る時、いつも溜め息を吐く。わた、し……このまま、じゃ死んで、も、死に、きれない。でも、こんな想いするなら、さっさと、死にたい。見送る時間、が長いと、レオに迷惑をかけ、るから」


 柔らかな枕に沈むイザベラの瞼から涙が溢れる。頬を濡らした涙は白いリネンを湿らせた。


 アメリアは唇を噛み締めた。レオは『話す』と言った。しかし今日まで状況が変わらない。それどころか悪化している。家族であるイザベラにこんなにも心細い想いをさせている。きっと話していないのだろう。溜め息を吐くのは己の不甲斐無さに嫌気が差し、また回復しないばかりか悪化するイザベラの体調を恐れての事だろう。


 話さなかったから気持ちが通じ合えなかった。


 話さなかったからイザベラがこんなにも悲しんでいる。


 いやこの際『話す』『話さない』は関係ない。話す事は切っ掛けに過ぎない。レオの気持ちの整理がつかないからこんな事になっているのだ。


 ……あたしだって父さんに言って貰いたい言葉がある。……ううん。言葉以上に上っ面の家族ごっこじゃなくて『血が繋がっていなくても本当の家族』として認めて貰いたい。


 家族の問題に他者が口を挟むのは常識から逸している。それはよく分かっている。しかし死の間際の友人がこんなにも苦しんでいるのに何も出来ずに何が友人だ。


「ちょっと待ってて!」


 勢いよく椅子から腰を上げたアメリアは足音を踏み鳴らすと階下へ向かった。


 階段を駆け下りアメリアはリビングへ向かう。


「レオ! 話があるの!」


 キッチンを抜けリビングのアーチを潜るとアメリアの青白く光る瞳にレオの背が映った。彼は両手を顔に添えている。ずれたコンタクトレンズを直しているのだろうか。


「レオ!」


 リビングにアメリアの声が響き渡る。肩を小刻みに震わせるレオは返事の代わりに『ぎぃ』と呻いた。


 足を止めたアメリアは眉を顰める。すると金属の音が響き渡った。アメリアは音の方……床に視線を下ろした。血まみれのティースプーンが転がっている。側には透明なジェル、そしてピンポン球サイズの中が黒い歪な半球が二つ転がっていた。




 全てが終わり一息吐いたアメリアが時計を見遣ると既に晩の七時を廻っていた。


 電話で呼びつけられたダグはレオを診た。処置の最中、レオは歯を食いしばっていたがダグの問いにしっかりと答えた。『取った眼球はどうするのか』『地に落ちて不浄なので角膜提供も難しい。変わった虹彩だから標本にするか?』と冗談とも冷淡とも取れるダグの問いにアメリアは寒気を覚えた。


 レオの処置を終えイザベラを診ると『明日また来ます。安静にさせて下さい』とダグは帰ってしまった。病人と怪我人の家でアメリアは独りきりになってしまった。レオは『話と礼はまた後日。帰りなさい』と促された。しかしレオも心配だし、イザベラを放って置けない。アメリアはローレンスに電話をかけると事情を説明し、明日の診察までレオとイザベラの家に泊まる旨を伝えた。


「本当にごめんなさい。何度も何度も仕事に穴を開けて」


 眉を下げたアメリアは電話の向こうのローレンスに謝る。『気にしないで。そんな大変な事が起きるなんて誰も予想出来ないから。一人じゃ無理だと想ったら僕を頼ってね』と、ローレンスはアメリアを気遣った。


「ありがとう御座います。でも大丈夫。……じゃあお休みなさい」


 通話を切ると小さな溜め息を吐く。すると視界の端に男が佇んでいるのが見えた。驚いたアメリア瞬時にその方向を見遣る。……レオだった。


 片眼に包帯を巻いたレオは片腕をテーブルに突き、気怠そうにこちらを眺めていた。


 アメリアは胸を撫で下ろす。


「……安静にしてなきゃ」


 レオはアメリアの言葉を遮る。


「馬鹿な事をしたと想っているだろう」


「……はい」


「俺なりにけじめを付けたかった」


 レオは寂しそうに微笑む。すると筋に圧されて血が滲んだ包帯が微かに動き、表情を歪めた。


 アメリアは眉を下げる。


「死期の近いイザベラは能力を失った。俺もこの眼を嵌めている必要はもうない」


「こんな事イザベラは望まない」アメリアは唇を震わせた。


「彼女が望もうと望まなくともやらなければならない事だった。ただ……君が来たらやろうと想っていた」


「あたしの所為みたいじゃない。酷い」


「ああ。君達死神の所為だ。そして俺に流れる血の半分の所為だ」


 痛みを堪えて微笑んだレオは胸ポケットから円筒ピルケースを差し出す。


「君に返そう」


 オレンジ色のピルケースを受取ったアメリアはプラスティックの中を見詰める。そこには二つに千切れた眼球が入っていた。卵の殻のような眼球は薄墨を偲ばせる体液に浸かっている。殻の底には神経の束がヒヤシンスの根のように広がっている。


 数は少ないが凄惨な死の現場に居合わせたアメリアでさえ、この手の物は眉を顰めた。


「……どうして」


「イザベラに話すのに両眼だったら信じて貰えないだろう? それにもう……俺はあの仕事から手を引く。ピルケースの中身は埋めるなり君達を纏める者に渡すなりしてくれ。死神を知る俺の存在をバラしても構わない。それで殺されようとも構わない。俺はイザベラと共に在った」


「そう」アメリアはピルケースを握り締めた。


「……話して来るよ」アメリアと擦れ違ったレオは体をふらつかせつつリビングを後にした。




「これで最期です。お別れをなさって下さい」


 斎場スタッフの声にアメリアは我に返る。隣を見遣ると眉を下げたローレンスが心配そうにこちらを見詰めていた。アメリアは大丈夫、とこっくり頷いた。


「想い残り無いようにね。僕は外で待ってる」ローレンスはそう囁くと踵を返しその場を後にした。


 イザベラが安らかに眠る棺に近付くといつの間にか戻ったレオと花の位置を直していたダグがその場を譲る。するとスタッフの胸ポケットから振動音が聞こえた。他のスタッフに呼ばれたらしい。電話を受けたスタッフは『少し席を外します』と小走りで去った。


 スタッフの背を見送ったアメリアは棺に近付くとポケットからオレンジ色のピルケースを取り出す。そして頭の側の花に埋めてやった。


「これはイザベラが持っていて。あたし達死神や冥府の神が持っていて良いものじゃない。いつかレオがそっちに逝った時に返して上げて」


 その言葉にレオとダグは互いを見合わせた。


「イザベラが言った通り、お別れって辛いね。今回はおばあちゃんを見送った時以上に辛い。でもイザベラと友達になれてよかった。イザベラはあたしを友達として認めなかったから辛いのはあたしだけで済んだ。……イザベラは父さんのレオや仕事仲間のダグと別れるだけでも悲しくて苦しくていっぱいいっぱいでしょ? だからそれでよかったの。片想いでよかった。……あたしこんなにも胸が苦しいから」


 唇を引き結んだアメリアは涙を堪える。


「最期に……会えてよかった」


 アメリアはイザベラの前髪を一撫ですると『さようなら』と囁き、斎場を後にした。


 駐車場に向かうと黒いレディに腰掛けたローレンスが携帯電話をいじっていた。


「あれ……? もう、いいの」アメリアに気付いたローレンスは液晶画面から顔を上げる。


 アメリアはこっくり頷く。


「レオの大事な時間を削って貰ってるから……。それよりもスタッフの気を逸らしてくれてありがとう。居たらあんな事出来なかった」


 返事の代わりにローレンスは微笑むとアメリアにヘルメットを差し出す。


「どうする? 何処か寄って行く?」


 ヘルメットをアメリアは見下ろす。シルバーカラーの艶やかな塗装に自らの顔が映る。イザベラのプラチナブロンドを想い出させる色だ。アメリアの表情はくしゃっと崩れた。


 眉を下げ眉間に皺を作り、口を歪めてアメリアは嗚咽を堪える。


 肩を揺らし両手で顔を覆うアメリアをいじらしく想ったローレンスはヘルメットを引っ込めると彼女を引き寄せた。


 鎖骨や肋が浮き出た儚い体が当たりアメリアは驚き、少しだけ両肩を上げる。しかし革や排気ガスが混じった父の匂いを嗅ぐと父のライダースジャケットのラペルを握り締め、嗚咽を堪えた。


 小刻みに震えるアメリアの背をローレンスは優しく叩く。


「……ご、めんなさ」


 アメリアは歯を食いしばろうとする。しかし背に伝わる優しいリズムにほだされ、顎に力が入らない。小さな嗚咽を漏らしつつも言葉を紡ぐ。


「ごめんなさ……い。家族の、レオの方が悲しいのに。最期まで『友達』って認められなかったあたし、なんかが、泣いて。でも……悲しくて」


「もう泣いてもいいんだよ」


「あたしなんかが……」


「アメリアはレオとイザベラを繋ぎ止めたんだろう? 大好きなイザベラを想って彼らの気持ちを互いに知らせる切っ掛けを作ったんじゃないか。本当の『家族になる』手伝いをしたんだろう? アメリアは友達としてイザベラを助けたじゃないか」


「家族の、問題なのに、あたし……でしゃばった。おばあちゃんの時、後悔、したから」


「そうだね。本当は第三者が口を挟んではいけない事だね。でもアメリアのお蔭でイザベラは心残りなく安らかに瞳を閉じる事が出来ただろう? 勇気のある誰かが背を押さなきゃこの葬儀はもっと悲しいものになっていたよ」


「そんな事……」


「謙遜しないで。アメリアはイザベラの友人としても死神としても務めを果たしたんだ。任務とは言え友人の魂を体から切り離すなんてなかなか出来ない事だよ。君は立派な死神になったんだ。……だから今……今こそ泣いていいんだ」


 アメリアは瞳を閉じる。


 レオが死神の眼球を抉り取ったあの日、イザベラは包帯越しに空洞になった眼窩に触れた。アメリアは右手の包帯を取り、姿を透過して一部始終を見守っていた。


 青い顔をしたレオが事実を紡ぐ。眉を顰めも驚きもせずイザベラはレオへ手を伸ばした。レオはその手を取ると自らの空の眼窩に触れさせた。


「……馬鹿ね」


「こうしないと信じて貰えないだろうと想ってね。俺は死神のなりそこないだし、君はザックとボリスの子供だ。情報量が多過ぎる事実をどうやって信じて貰おうと考えるとこんな手しか思いつかなかった」眼窩から離したイザベラの手をレオは握り締めた。


「口喧嘩、くらいするけど、レオを、信じなかった事は、一度もない。眼を取る必要は、なかった。馬鹿」イザベラは眉を顰めた。


「……ビジネスパートナーなんて建前だった。頑固な君を孤児院から引き取れる唯一の建前だった。君と暮らしている内に家族になりたい、と想い始めた。君は嫌がったけどね。賢い君は意地っ張りで子供のようでもあり妹のようでもあった。しかし君は俺を『養父』とも『義兄』とも認めなかった。そんな君に『家族』と想って欲しいなんて……言える訳がないだろう。だから君にはビジネスライクに接していた。体が弱り能力を失った君を慰める事すら叶わなかった」


 レオは洟を啜る。包帯から涙液と共に血が滲む。


「しかしけじめを付けたかった。君をここまで追い込んだのは俺だ。イザベラが失うなら俺も失おう。イザベラが苦しむなら俺も苦しもう。今までイザベラに無理をさせた。俺はイザベラを『家族』だと想っている。重荷になるなら君は想わなくていい。いや、想わないでくれ。俺はただ胸の内を吐露したかった。ただそれだけだ」


「馬鹿」


「ああ。大馬鹿だ。孤児院で吐露して拒絶されていれば君にこんな想いをさせなかった」


「本当に、大馬鹿」


 イザベラは気怠そうに言葉を紡ぐ。


「そんな、想いを、させていた、なんて……私って大馬鹿」


「……イザベラ?」


「養父や、義兄、なんて想ってないのは、確か。でも、レオは私の大切な、人。大切な、家族。レオが、悲しいと、私も悲しい。レオと、別れなきゃ、いけない、と想うと……私も辛い。私も……ごめんなさい」


 レオはイザベラの手を取ると強く握った。


「俺も……すまない。……漸く家族になれた」

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