二章 六節


 リビングのソファに主のように座したイザベラは読書をしていた。今日も休日だったので午前中は勉強して午後は読書に充てていた。昨夕、書店に寄ってレオに買わせた新作の推理小説のページを繰る。レオに淹れさせた茶を傍らに事件の始まりの目紛しさにイザベラは心奪われていた。瞼をこすりつつ状況を整理しているとレオの書斎の電話が鳴った。


 レオの声はよく通る。イザベラは本を伏せた。


 電話を取り一言二言挨拶を交わすとレオの声のトーンが変わる。先方が述べただろう場所や時間を復唱する。場所を聞きそびれたが時間は夕刻だ。


 急な仕事が入ったようだ。珍しい。本の続きを読めないのは残念だが……鮮度が良い遺体なら魂を呼ぶのは楽だろう。早急に支度をしなければ。


 イザベラは膝から本を下ろすと杖を取り立ち上がった。


 支度から三十分後、レオの車から降りたイザベラは小さな屋敷に上がった。パラディオ様式のポーティコ(ポーチ)にはギリシア・イオニア式の頭が付いた柱が並ぶ。


 まるで神殿ね。亡くなって本当に神様になった訳ね。


 小さな溜め息を吐き、柱を眺めるイザベラに品の良い老年紳士が黙礼する。身形がしっかりしている。きっと亡くなった女主人の使用人だろう。


「急なお呼びたて失礼します。私、亡き主人に仕えて居りました運転手のセイリオスと申します」紳士は口を開く。


「ご主人はどちらに?」開口一番にイザベラは問うた。


「寝室にいらっしゃいます」


「親族は?」


「既においでです」


「では案内を」


 小さく頷いたセイリオスはイザベラとレオをベッドルームへ案内した。


 ベッドルームには数人の大人が居た。銘々、椅子に座し話し、ソファの肘掛けに尻を着いては携帯電話の画面を食い入るように見詰めている。中央のベッドに横たわる故人に誰も興味を示さない。


「例の方がお着きです」


 大人達にセイリオスは頭を下げる。皆、顔を上げイザベラを一瞥すると直様銘々の行動に戻る。死者の魂を呼ぶ術者であるイザベラに興味は無い、色好い話を聞いて一刻も早く帰りたい、という雰囲気だった。


 あまり歓迎されていないようだ。イザベラはレオを見遣る。レオは肩を小さくすくめた。レオの隣に佇んでいたセイリオスは瞳を伏せていた。


 溜め息を吐きそうになったイザベラは息を噛み殺した。屋敷の使用人が主の死を一番悲しみ、親族は涙一つ零さない。死を望んでいたのだろう、笑みを噛み殺す者さえいた。故人が金持ちであればある程、権力者であればある程その傾向は強くなる。遺言書をしたためたのにわざわざ自分を呼ぶ程だ。故人が書面に記した遺産の分配方法が気に入らないのだろう。


 辟易したイザベラはベッドの側に寄せられたソファへと足早に歩み寄る。ソファはベッドに接地する程に近かった。肘掛けには中年の男が尻を落とし、携帯電話を弄っている。


 イザベラの影が携帯電話の液晶画面に落ちる。中年の男は顔を上げた。


「邪魔」イザベラは眉一つ動かさず言い放った。


 中年の男は表情を顰める。しかし頼る者はこの不躾な少女しかいない。不承不承、男はソファを譲った。


 ソファから腰を上げた男を目の端で見遣ったイザベラは靴のままソファに上がると仰向けに寝そべった。ベッドの側ではレオが遺体の片腕を取ると、イザベラへ差し伸べた。イザベラは遺体の白い手を自分の白い手に重ねる。


 死んでからあまり時間は経っていないのだろう。死後硬直はキツくない。今まで自分が呼ばれるのは早くて半日だった。半日は遣り辛い。自らが無理な姿勢を取らないと骸の手を取れない。……かと言って時間が経ち過ぎて死後硬直が解けた遺体の魂を呼ぶのも苦労する。


 死後十二時間も経てば硬直は全身に及ぶ。しかしそれは青年に限る。相手は老人だ。ゆっくりと硬直が進む。臨終からそれ程時間が経っていないし、死後硬直も緩い。今回は簡単な方だろう。有り難い話だ。


「術中起こった事は術者の私の責任ではなくご親族の責任となりますのでご了承下さい。尚、助手は私の付き人が務めます。術が解けますので遺体に触れないで下さい」


 先程とは違う眼付きで自分を見詰める親族に注意事項を言い放ったイザベラはレオを見上げる。レオは瞼を閉じて頷いた。それを合図にイザベラも瞼を閉じた。


 イザベラは意識を集中させいつものイメージを湧かせる。指先や爪先に風船を括り付け、体を浮かび上がらせる。指先や爪先を地面へと沈める睡眠のイメージとは反対の方法だ。


 すると体からイザベラが浮き上がる。……いやイザベラの体から彼女の魂が浮かび上がったのだ。魂は光の筋を探す。対象者の魂が残した筋だ。なめら筋のように魂は自らの痕跡を残す。時に天井に時に地に魂は光の筋を残す。死後の逝き先だ。多くの魂は地に痕跡を残す。


 地を見遣った。しかし俯瞰して見えるのはベッドに横たわる遺体やイザベラの体を訝しげに見詰める親族、瞼を閉じ項垂れているセイリオスだけだ。光の筋は見えない。似たような筋を見つけるがそれは自らの体に繋がる魂の尾だった。


 天へ昇ったのかもしれない。イザベラは天井を見遣った。しかし小さなシャンデリアが吊るされた天井には光の筋は無い。


 おかしい。光の筋がないなんて。


 天井近くに浮かんでいるイザベラは海に潜る要領で床へと潜った。部屋のフローリングを覆わんばかりの巨大な絨毯やベッドの太い脚、猫脚の椅子、誰かが落としただろう金のボタンが転がっているばかりだ。


 まさか……生きてる?


 生者の魂は呼べない。体内に魂が宿っていればイザベラは介入出来ないからだ。


 生きているならそれはそれで良い事だけど……財産目当ての親族は喜ばないでしょうね。でも私には魂の有無を調べる義務がある。


 イザベラは意識を下降させると、自らの体に戻った。


 突如瞼を見開いたイザベラにレオは問う。


「どうした?」


 眉根を寄せて顔を寄せるレオにイザベラは囁く。


「生体反応あるか見て」


「生きていると?」レオは小声で問うた。


「それを知りたいの。筋が全く見えない」


「……分かった」


 静かに頷いたレオは遺体の口許に手を翳し、遺体の手首に指を当てて瞼を閉じて脈を測る。


 ベッドルームに流れる不穏な空気に親族達は互いの顔を見合わせる。『不手際か? 大丈夫だろうな?』『だから胡散臭いヤツに頼むなと言っただろう』と口々に文句を放つ。


 無視するに限る。さえずりだと想えばいい。イザベラは瞼を閉じる。何も出来ないヤツの戯言なんて気にする価値は無い。今の自分にとって重要なのはこの老人の魂がここに在るか無いかだ。


 唇を噛み締め瞼を開いたイザベラは脈を測るレオを横目に眺める。するとレオは人差し指と中指を遺体の腕から離した。


「どう?」イザベラは問う。


 レオは先程よりもきつく眉を顰める。


「……ダグを呼ぼう」


 小太りでだんご鼻の医者ダグは直様駆けつけた。正規の医師の仕事が非番だったらしい。白衣を纏わずに毛玉が浮いたニットを着て診療カバンを提げていた。白衣を着ても医師には見えない程の風采上がらぬ男だ。しかし問題が起きた今、イザベラにはいつもよりも頼もしく見えた。


「おい。部外者が入って来たぞ!」


 セイリオスの案内で入室したダグを見た中年男はレオに突っかかった。


 レオは中年の男を一瞥する。


「医師を呼びました。ご安心下さい。彼は私達の仲間です」


「さっきから何を隠してるのよ?」親族の一人である中年の女は遺体を睨む。


「ちょっとした疑問が。それを明らかにする為に医師を呼びました」


 レオはダグを一瞥する。ダグは親族に目礼すると革の診療カバンの口を開け手指を消毒する。そして遺体の呼吸の有無を確認した後、手首に指を添えて脈を測る。


 そんな彼をレオとイザベラ、そして親族一同は固唾を飲んで見守った。


 脈を診たダグは一度だけ瞳を閉じると診療カバンの口金を開き、ペンライトを取り出す。そして遺体の瞼を親指と人差し指で静かに開け、片眼ずつペンライトの光を当てた。


 小さな溜息を漏らしたダグは瞼から指を外す。


「三徴候……呼吸停止、心拍停止、瞳孔散大及び対光反射の消失を認めます。既にお亡くなりです」


 ダグが言葉を終えるや否や、親族は次々と口を開く。


「疾うに知ってるわよ!」


「だから俺達がここに来たんだろ!」


「死んでなきゃ、金の為じゃなきゃこんな所来るものか! 早く魂を呼び戻して遺言書を書き直させろ!」


 ぎゃあぎゃあと親族は喚き立てる。


 セイリオスとレオが彼らを宥める中、イザベラは遺体の手に触れ再び瞳を閉じる。しかし体から魂を浮遊させ、光の筋を探しても見つからない。瞼を上げたイザベラは眉根を寄せた。


 そんなイザベラを横目で見遣ったレオは『術者の気が散る。魂を呼んだら声を掛けます』と、親族をベッドルームから追い出した。


 小太りのダグが体重をかけてドアを押さえ、セイリオスが鍵をかけるのを見届けたレオは項垂れるイザベラに歩み寄る。


「……呼べない?」


 残酷な事実が言葉に変わる。顔から血の気を失ったイザベラは小さく頷いた。


 喚き立てる親族の声がドアの外から微かに聴こえる。


 レオは横たわるイザベラにいつもよりも優しい声音で声を掛ける。


「まだうるさいけど、さっきよりはマシな環境だ」


「……気を遣ってくれてありがと」俯くイザベラは声を絞り出す。


「焦らなくて良い。心を落ち着けてもう一度やってごらん。君ならきっと出来る」


 優し過ぎるレオの言葉が癪に障った。顔を上げたイザベラはレオを睨む。


「……娘を諭すみたいに言わないでよ」


 レオは肩をすくめ微かに笑む。


「その意気だ」


 鼻を鳴らしたイザベラは再び瞳を閉じた。




 その晩、イザベラは寝付けなかった。


 魂を呼べなかった。


 屋敷中を……いや屋敷の外へと探しに出ても、遺体から抜けた魂が作る光の筋は何処にも見当たらなかった。


 親族からは『お前の所為で遺産の分配は滅茶苦茶だ』『借金を返すつもりだったのにどうしてくれるのよ』と罵声を浴びせられ、茶をかけられた。……いや、そんな事は大した問題じゃない。既に死んだ人間の……しかも死んだばかりの人間が残す光の筋を見つけられなかったのだ。


 生きている人間……魂を留まらせる肉体には干渉出来ない。故に医師であるダグが死を確認した。


 なぜ魂を呼べなかったのか。考えを巡らせる度に歯の根が合わなくなる。帰宅途中、車中から幾度となく考えたが行き着く答えは同じだった。残酷だ。


 今まで出来た事が急に出来なくなった。魂を呼べなくなった。


 イザベラは眼をこする。


 ……そろそろ潮時なのかもしれない。


 魂を呼ぶ行為は多大な負荷が体に掛かる。自分の魂、そして対象者の魂を一時的とは言え自らの体に留めるのだ。そんな大きな負荷を体が未熟な子供が負っているのだ。休みを挟むが負荷は掛かる。以前から弊害は起きていた。休んでも疲れが取れずに気怠いのが常だった。養子縁組する以前よりも免疫が落ち、風邪や流行病に罹り易くなった。そればかりではない。本を読み辛くなった。癖のように瞼をこする。視界が霞み、ぼやけて見え辛かった。……次に起こる弊害は何だろう、と覚悟した矢先に大きな問題が起きたのだ。


 イザベラは長い溜め息を吐く。


 ……レオに『術者』として、ビジネスパートナーとして必要とされ私は引き取られた。だけど役に立たなくなった……。


 瞼をこすったイザベラは寝返りを打つ。


 レオは弁護士だ。そこら辺の大人よりもスマートだ。養子である自分を簡単に切り離せない事なぞ彼は承知だ。家から追い出す事はないだろう。


 しかし仕事もせず『ただ居るだけ』の子供に……厄介な居候にレオは良い顔をするだろうか? 紳士故に表立って責めないだろう。それどころか屋敷で私に声を掛けたように優しく接するだろう。それが辛い。……そんな嘘の優しさに私は堪えられない。まだ罵られ平手で頬を打たれる方がマシだ。


 どうすればいい? 打ち明けるべきか。それとも姿を消すべきか……。


 こんな時、誰かに気持ちを吐露出来たら。こんな時、誰かの肩に凭れられたら……。


 窓辺から差し込む月明かりがイザベラの濡れた頬を照らした。

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