二章 七節


 まばゆい程の月明かりにアメリアは眠れずにいた。


 心がざわめく。


 大好きなおばあちゃんが亡くなった事にも酷く傷付いたし、イザベラが術を使えなくなった事にも酷く衝撃を受けた。


 エスターと最後の別れをした今日の夕方、セイリオスにポーティコまで見送られたがアメリアは帰った振りをした。彼女は右手の包帯を解くと爛れた手を空気に晒して姿を透過させ、屋敷に残った。セイリオスが玄関まで送ってくれる際に掛かった電話の内容を小耳に挟んで気になっていたからだ。


 セイリオスが受ける電話の向こうの声は嫌と言う程聞こえた。興奮しているようで電話の相手の声は大きい。話の内容からエスターの死を悼むよりも待ち望んでいた事が叶い興奮しているように受取れた。


 それが気に掛かった。あんなに優しいおばあちゃんの死を望むなんてどんな人なんだろう。自分が部外者なのは百も承知だ。干渉してはならないとも頭では理解している。だけど心には命令出来ない。あたしだって死神である前に一個の人格だもの。おばあちゃんの死を喜ぶ人間にちょっとした仕返しをしてもバチは当たらない気がした。


 アメリアはベッドルームに戻った。大好きなおばあちゃんの死顔を眺めているとセイリオスを押し退けて中年の男達が入室する。荒げた足音に驚いたアメリアは咄嗟にベッドから離れた。姿を透過していても気付かれれば大問題だ。普段の仕事よりも今回はデリケートな状況だ。絶対にバレてはいけない。


 壁に寄り掛かったアメリアはベッドを取り囲む中年の男達を眺める。どうやら親族のようだ。永遠の眠りについたエスターを一瞥するとエスターによく似た顔の男は『やっと死んだ』と、痩せぎすの中年女は『ようやく金が舞い込む』とあからさまに遺産の話や土地の話を始める。ドアの側で控えるセイリオスは項垂れつつもそれを聞いていた。


 なんて酷い親族なのだろう。今までおばあちゃんから家族の話を聞いた事は一度としてなかった。身寄りの無い女性なのだろうと想っていた。だのに……こんな冷たい親族がいただなんて……。イザベラの仕事現場に立ち会った際の初老の夫婦を想い出す程に酷かった。交友関係の範疇でそれが起きるとは想いもしなかった。テレビドラマのワンシーンに感じていた事が自分の身に降り掛かった。


 アメリアは瞼を強く瞑る。


 しかしここまで死を喜ばれるとは生前、おばあちゃんがこの人達に冷たい態度をとっていたのかもしれない。考えたくもないけど、その可能性だってある。だからこんな状況になる前にセイリオスはあたしに最後の別れをさせてくれたのかもしれない。


 唇を噛みアメリアは涙を堪えていると、痩せぎすの中年の女がセイリオスに声を掛けた。黙礼したセイリオスは懐から手紙を取り出すとそれを痩せぎす女に差し出した。


 痩せぎす女は手紙に目を通す。血走った瞳が左右に忙しなく動く。女を他の親族達が取り囲む。字面を追う度に瞳の運動は加速し、骨が浮き出た手が手紙と共に震え出す。


 女は手紙を床に投げつけ地団駄を踏む。床を滑った手紙はバラバラと雪崩れた。


 怪訝な表情を浮かべたエスター似の中年男は手紙を拾うと文章を追う。痩せぎす女同様、表情は直ぐに鬼を偲ばすものへと変化した。


「『最低限の取り分を残し、後は孤児院に寄付する』だと!? ふざけやがってあのババア!」エスター似の男は手紙をくしゃくしゃに丸めた。


「こんな仕打ち許されると想って!? 何の為にあの女の身勝手な振る舞いに耐えて来たと想ってんのよ! ようやくこれからって時に!」痩せぎす女は金切り声を上げた。


「そうだ! こんな分配は許されない!」今まで黙していた太った男が声を張り上げる。


「死んでからも忌々しい女! 父も知らない私を捨てた癖に孤児院に寄付だなんて……!」痩せぎす女はエスターを睨む。


「遺言を書き換えるべきだ!」太った男は痩せぎす女を見据えた。


「そうしたいわよ! でも本人が死んでるんじゃ話にならないでしょ。素人の私達で書き換えたら犯罪よ。片棒担ぐって馬鹿が居るとでも?」中年の女は険のある眼付きで太った男を始め遺族を見渡す。


 遺族は互いの顔を見合わせる。しかし皆直ぐに視線を逸らし、俯いた。


「いくじなし!」中年の女はエスターが眠るベッドの脚を蹴り飛ばした。今まで無表情を装っていたセイリオスが表情を顰めた。


 嫌な静寂が周囲を支配する。しかしエスター似の男が口を開いた。


「……書き換えを請け負う訳じゃないが」


 一同はエスター似の男を見遣る。男は言葉を続ける。


「魂を呼び寄せ自らの体に下ろす少女がいるらしい。数年前、取引先の社長が死んだ時、下ろした故人に遺言書を書き直させたらしい」


 一同は眼を見張る。


「う……そ。そんな事出来るの?」痩せぎすの女は問うた。


「聞いた話だから何とも。しかし前社長に気に入られていた兄が継ぐ筈だった会社を弟が継いでいる。弟が兄を退けたと専ら噂が立っている」


「……お前の取引先って確か骨董品取引だったよな?」太った男は問う。


「ああ」


「じゃあ国内最大手のあの企業……。一時期御家騒動として話題になってたわね」痩せぎすの女は唾を飲む。


「試す価値はあると想う」


 エスター似の男は懐からシガレットケースを取り出すとそれを開く。


「どうする?」


 中から名刺を取り出したエスター似の男は中指と人差し指に挟むとシャンデリアの下に翳した。


 一同は視線で会話する。皆、頷くとセイリオスを呼んだ。


 悲しい出来事を想い出し、アメリアは瞼を開く。すると瞼に押し込められていた涙が頬へと流れ落ちた。


 寝返りを打ったアメリアは溜め息を吐く。


 瞼を閉じると今日の事想い出しちゃう。別の事考えなきゃ……。


 しかし暗闇に慣れた瞳で天井を見詰めても頭に浮かぶのはエスターの死顔やセイリオスのやりきれない顔、術を使えなくなり打ちひしがれたイザベラだった。


 ……どうしよう。仕事があるのに。


 このまま寝付けなければ明日の任務に差し支える。寝不足で黒いレディに乗れば事故を起こす可能性が高くなるし、こんなに心がざわめいたまま魂に向き合うのは失礼だ。


 ブランケットを握り締めたアメリアは強く瞳を閉じる。


 しかし眠れない。


 ホットミルクでも飲もう。


 ベッドから身を起こしたアメリアは涙を拭うとキッチンへ向かった。


 冷蔵庫を開いていると、リビングで書類仕事をしていたローレンスがやって来た。


「どうしたの? お腹減って眠れない?」庫内を物色するアメリアの背にローレンスは声を掛けた。


 驚き肩を跳ね上げ、アメリアは振り返る。


「あ……。お仕事の邪魔してごめんなさい。眠れなくて……ホットミルクを」


 隈で囲われたローレンスの瞳にアメリアの顔が映る。先程まで泣いていたようで眼の周りが腫れぼったかった。


 ローレンスは微笑む。


「……こんな時はミルクよりホットワインがいいよ。シナモンスティックを添えると美味しいんだ。ソファに座ってて。用意するから」


 スパイスラックからシナモンの瓶を取り出すとローレンスはホーローの赤い小鍋をコンロに置く。それを見詰めるアメリアに気付くとローレンスは再び微笑んだ。


 心遣いにされるがまま、アメリアはソファに座した。クッションを抱きしめると時計を見遣る。既に日付を跨いでいた。ソファの主であるイポリトは帰宅してない。ここの所、遅くとも彼は日付を跨ぐまでには帰宅している。きっと女の許へ転がり込んでいるのだろう。


 所在無げに目前のコーヒーテーブルを見下ろすと、開かれたラップトップの前に書類やペンが転がっていた。書類には癖があっても優しい雰囲気の字が羅列している。……心根の優しいローレンスらしい字だった。


 深夜のリビングに秒針の音と、鍋が温まる音が響き渡る。


 アメリアは瞳を閉じた。


 暫く瞳を閉じていると足音とワインのふくよかな香りが近付く。


 アメリアは瞼を上げる。二脚のマグを持ったローレンスが隣に座すのが見えた。


「起こしちゃったかな?」ローレンスは眉を下げて微笑んだ。


「いえ。瞼を閉じてただけです。……ありがとう」


「家族だから当然だよ」ローレンスは湯気が立ち昇るマグをアメリアに差し出すと、自らもマグに唇を付けた。


 シナモンスティックでワインを掻き混ぜるローレンスをアメリアは見遣る。ローレンスは物鬱げにマグを見下ろしている。青白く光る不思議な瞳の奥には優しさが宿っていた。慈愛を込めて自分を見詰めるエスターを想い出し、アメリアの瞳の奥が熱くなる。


 瞳を潤ませマグに唇を付けるアメリアにローレンスは『シナモンスティックを入れるとまた美味しいよ』と微笑んだ。


 アメリアはこっくりと頷くとシナモンスティックをマグに差し入れ、掻き混ぜた。


 静謐なリビングにラップトップのモーター音だけが響く。


「……何も聞かないんですね」静寂を破ったのはアメリアだった。


 ローレンスはアメリアを見遣ると直ぐに視線をマグに落とす。


「話したくなったら話せばいいよ。話したくなかったらこのままでもいい」


 マグを両手で握り締めたアメリアは俯いた。辛い時や悲しい時、話を聞く訳でもなくただ一緒に居てくれる……。いつだったか父さんが恋しくなって泣いた時、ハンスおじさんが慰めてくれたっけ。……父さんとハンスおじさんって似てる。一緒に居ると心地がいい……。


 ホットワインを一口飲むとアメリアはエスターの死や彼女を取り巻く親族、そしてイザベラの話を紡いだ。


 話を一通り聞いたローレンスは眉を下げる。


「……そっか。それで眠れなかったのか。助けて仲良くなったお婆さんが亡くなったなんて……」


 アメリアは頷く。話す内にまた胸が張り裂けそうになった。涙が頬を伝うのを感じる。


「あたし……納得出来なくて。死神なのに亡くなったおばあちゃんの魂を体から切り離す事も出来なくて。……どうしてあたしの携帯電話におばあちゃんの死亡予定通知が来なかったのって。……悲しいけどちゃんと任を務められたのに。親しいからこそおばあちゃんの死に関わりたかったのに……」


 洟を啜ったアメリアは話の続きを紡ぐ。


「それに……あんなに優しいおばあちゃんが冷たい親族に囲まれているのもショックだった。どんな人間関係だったのかは知らない。部外者だって事、死神だって事は分かってる。でも透過を解いて声を張り上げて抗議したい程辛かった……」


 鼻声で話すアメリアをローレンスは見詰める。頷くでもなく否定するでもなく、ただ話を聞いてやった。


「あとイザベラが……」


 アメリアは話を紡ごうとするが悲しみに唇が震える。歯を食いしばり嗚咽を堪える。瞼をぎゅっと閉じ、マグを握り締める。


 張り裂けそうになった胸を抱いて堪えるアメリアにローレンスは手を伸ばした。


 話を紡ぐ事を忘れ、悲しみを堪えるアメリアは髪を滑る感触に気付く。徐に瞼を開くと父が頭を撫でているのが見えた。


 男特有の骨が浮き出た白い手が髪を撫でる。優しい手が滑る度にアメリアの気持ちが軽くなった。


 ローレンスは言葉を掛ける訳でもなくただ撫でてやった。


 気持ちが落ち着いたアメリアは口を開く。


「それで……イザベラが……あの、亡くなった人の魂を呼べるイザベラが呼べなくなっちゃったの。……今まで力を使えたのに急に使えなくなったからとても傷付いてると想う。だのに遺族に強く当たられて。ショック受けてると想うの。あたしもそんなイザベラを見てとても傷付いた」


 ローレンスは眉を提げる。


「……え、と。イザベラとはいつ何処で知り合ったの? 魂を呼べる事をアメリアが知っているってイザベラも知っているのかい?」


 ローレンスを見上げたアメリアは暫く彼を見詰めた。しかし瞳を伏せると答える。


「初めて会ったのは墓地で。二回目に会ったのは病院で。……病院の離れの死体安置所でイザベラの仕事現場を隠れて見たの。死後数日も経ってとっくに魂の尾が切れた遺体にイザベラが触れてると遺体の魂がイザベラに乗り移った」


「側で見ていたのかい?」


 アメリアは首を横に振る。


「右手の包帯を解いて姿を透過して見てた。……座学で教えて貰ったけど実在するんだと想うと驚いた」

「……アメリアはイザベラの能力をどう思う?」


「どうって……あたしの右手の『魂の尾を体から切り離す』能力と同じだなって……。そりゃ種類は違うけど」


「そうだね。人の生き死にに関わる力としては同じだけど種類が違うね。でもそれだけじゃない。君は神で、イザベラは人間だ。あまりにも違い過ぎる」


「……能力者の人間とは付き合うなって事?」アメリアは眉を下げた。


 ローレンスは首を横に振る。


「エスターの死は悲しい事だしイザベラが能力を失うのも辛い事だ。僕も胸が痛くなる。だのによく我慢出来たね。アメリアはいい死神になれるよ。……僕は彼女達に関わった君が『悲しい』って想う事に安心した。君は今まで淡々と任務をこなして来た。人の死や人の不幸を目前に心から『悲しい』って想う事が重要だったんだ。君は彼女達を通して一つ成長した。この事実を僕は彼女達に感謝している。『もう少し人に寄り添って欲しい』と言ったのはそれを狙ってたんだ。人の死や悲しみを利用するのは悪い気がするけど、いつか一人前のタナトスとして任に就く為に必要な事だったんだ。辛いだろうけどこの想いを決して忘れてはいけないよ」


 いつも頼りなげな人なのに……。髪を撫でつつ説くローレンスにアメリアは『死神タナトスの祖』である事をひしと感じた。


 眉を下げ神妙に話を聴く教え子にローレンスは話を続ける。


「……神と人とは違う。例え、人間が君と同じ『魂の尾を体から切り離す』能力を持っていたとしても神の君とは違うんだ。人間は神じゃない。能力を持つ事は代償が大きい」


「どう言う事?」


「生まれた瞬間から人間は自らの命を削っているんだ。エスターもイザベラも。だけど負荷はお年寄りのエスターよりも能力者のイザベラの方が遥かに大きい。……例えば魔術師だ。彼らは普通の人間とは違う力を使う。だけどそれは自身の命を大きく削っているんだ。だからこそ常人を越えた力を使える」


「……だからイザベラが能力を失ったのは人間として良かった、悲しむべきじゃないと言う事?」アメリアは問うた。


「イザベラの考え方次第によるけど……もし君がイザベラと長く友人でいたいなら、君にとっては決して悪い事ではないと想う」


「……あたし、友達になりたかった」


「……友達じゃないのかい?」


 アメリアはこっくりと頷く。


「友達を作らない主義だって……。子供っぽくて苛立つし、恵まれてそうでムカつくって。でも『何かが同じ』だって。……イザベラとあたしは何かが同じだって。だったら愛か憎悪のどちらかを見極めたいって」


 苦笑を浮かべたローレンスは俯くアメリアの前髪を耳に掛ける。


「典型的なガキ大将タイプだね。まるでイポリトだ。自分の正義があってそれに従ってる。それをちゃんと説明しているんだから、きっと本心ではアメリアと友達になりたい筈だよ」


「本当?」アメリアは顔を上げた。


「ああ」ローレンスは微かに笑んだ。


「……父さんがそう言うなら信じる」


「辛い時は側に居てあげた方がいい。話を聞くだけでもいいし、話せないのなら側に居てあげるだけでいい。僕はそうやって僕の友人に救われたんだ」


 きっとハンスおじさんの事だ。アメリアは微笑むと涙を拭った。


「……少しは落ち着いた?」ローレンスは問う。


「はい」


「……暫く仕事休む? アメリアはまだ見習いだから僕に任を預けて休めるよ?」


 アメリアは首を横に振る。


「ううん。これからも人間と関わって生きるからこそ仕事出ます。でも……」アメリアは瞳を伏せて口をもぞもぞと動かす。潤んだ瞳から溢れた涙が頬を伝う。


 教え子のいじらしい様を察したローレンスは微笑んだ。


「エスターのお葬式に出たいんだろう? その日は代わるよ」


 アメリアの瞳が見開いた。彼女にお礼を言わせる間もなくローレンスは話を続ける。


「有名人だからきっと身内だけでの密葬だろうね。でも遠くから祈るだけでも君の優しい『おばあちゃん』はとても喜ぶよ。是非、見送ってあげてね」


 エスターと同じく心優しい父の気遣いにアメリアの膝に温かい涙が落ちた。

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