一章 二節
翌夕、ローレンスは疲れ果てて帰宅した。
共に外出したアメリアは『近所を散歩してから戻る』と言ったので日が沈まない内に帰宅するよう、言い聞かせた。
未だイポリトは帰宅してないらしい。幾度も閉めても開くだらしないカーテンの隙間から日射しが革張りの黒いソファに当たる。ソファに凭れるとローレンスは長い溜め息を吐く。昨晩から一年分の疲れがどっと押し寄せて来たようだった。原因は二つ。イポリトとアメリアだ。
昨日、イポリトはローレンスの教え子としてアメリアを冥府から連れて来た。本来ならローレンスが引き取らなければならなかった。しかしその日は外せない用事があり、時間の都合が付かなかった。ローレンスは彼の監視役であり無二の相棒であるイポリトに教え子アメリアの引き取りを頼んだ。魂の裁定を終えた数分の間、教え子の引き渡しを冥府の最高神たるハデスが直々に行う筈だった。イポリトが休暇を想い切り楽しみ二時間も遅れた所為で、ハデスの睡眠時間とペルセポネ妃との夫婦の時間も削られた。ハデスに仕えるケール女神のカーミラから『ハデス様の機嫌がすこぶる悪い。お蔭で仕事がやり辛い。イポリトを殴っておけ』『尻を蹴り飛ばせ』『お気に入りのエロフィギュア売り払ってやれ』とメールが十五分置きに届く。
ローレンスは深い溜め息を吐く。もう一つの原因はアメリアだ。
初日から部屋に籠って座学を教えるのも野暮なので今日はアメリアに管轄地区を案内した。昼からアメリアを連れ出したが疲れた。愛車である黒いレディに乗らなかった所為もある。華奢で体力がなくともバイカーであるローレンスにとって徒歩は慣れたツーリングよりも負担がかかる。管轄地区が首都であり観光案内のようになった所為もある。しかしそれだけの理由で疲れたのではなかった。
アメリアは物を知らなさすぎるのだ。彼女のフォローで疲れてしまった。……しかしこれはイポリトに比べれば前向きな……可愛らしい疲労なのかもしれない。
初めの内、アメリアは遠慮深げにローレンスに従って歩いていた。しかし数分経つとアメリアは突飛な行動をし始めたのだ。地下鉄の改札ではICカードを自動改札機に入れて詰まらせ駅員の顰蹙を買った。それは地方から出て来た人間でもよくある。それ以上に突飛なのは二階建てバスを見て驚いては一区間分全速で追いかけた事だ。ランドマークの一つである大観覧車を紹介すれば三十分以上も仰いだ。カフェで一息つき携帯電話の液晶を眺め予定を確認していると『それは何か?』と彼女は問うた。携帯電話に電話線がない事に小首を傾げ、更には音楽を聴けてゲームが出来る事にも驚いた際の発言には失笑した。『板チョコに蓄音機とトランプが入ってる!』と目を丸くする彼女は愛らしかった。しかしこれは未だ序の口だ。一番の傑作は桜並木を歩いていた時だ。姿が見えないと想い振り返れば、葉が生い茂った桜の木から黒い実を引き抜いたアメリアは果汁で真っ赤に染まった口にそれを放り込んでいるのだ。
変わった娘だな。長い髪を搔き上げたローレンスはふふふ、と笑んだ。疲れたけど楽しかった。まるでタイムスリップしてきた女の子に街案内をする気分だった。
……そういえばアメリアの事を全然知らない。
ハデスから受取った書類には一通り目を通した。人口が少なく文化が遅れた島で人の手で育ったと記してあった。彼女が幼年の頃、タナトス神の母は誤って爛れた右手で他者に触れた為に苦役に出た。苦役に出ている死神の子を面倒見る教育者は存在するが空きがない為、十年近くも放置されていたらしい。母を苦役に取られ『爛れた右手で人に触れるのはいけない事』と学んだアメリアは自分が異分子である事を理解していた。人間に混じり爛れた手も黒い翼も隠して生活した。しかし死神は成人に達するのが人間よりも早い。いつまでもアメリアを神とも人ともつかぬ者として放って置く訳にはいかない。十年かけて十二の苦役を果たしたローレンスに『教育者』として声が掛かったのだ。十二の苦役は本来十三の苦役であった。アメリアを育てる代わりに苦役を一つ免除されたのだ。
しかしこれは苦役には変わりない。真面目に取り組んで果たさなければならない試練だ。それに彼女自身を知らなければ教育課程の方針も打ち立てられない。
ローレンスは瞳を閉じた。
アメリアが帰ったら色々聴こうかな。アメリアが物を知らないように僕もアメリアを全く知らないもの。ただ聴くだけだと尋問のようだから美味しいお菓子と紅茶でも用意しよう。そうだ。博物館の側に新しい店が出来たんだ。焼き菓子でも買って来よう。
腰を上げたローレンスは家の鍵を取ると部屋を後にした。
帰宅早々ローレンスに菓子を馳走になり、そろそろハデス宛の報告書を作成しようと想ったアメリアはリビングから自室へ戻ろうとした。しかし仕事から帰宅したイポリトに取っ捕まった。
「話がある。俺の部屋に来い」
狭い廊下に低い声が響く。行く手を遮る逞しい男の馬面に嵌まる瞳は笑っていない。
アメリアはイポリトを疎ましく想っていた。しかし昨日のおちゃらけた雰囲気とは違う……有無を言わせぬ瞳に圧され素直に従った。
部屋に入ったアメリアは愕然とした。棚と言う棚には物が突っ込まれ、専門書やフィギュア、ダンベル、ナイフ、工具が床に乱雑に積まれていた。デスクにはDVDや書籍が山積し、壁には映画のポスターや半裸の女のグラビアが貼られていた。床は獣道すらない。育ての親の一人である大男の家よりも酷い有様だ。物が殆どない元ローレンスの部屋である自室と比べると天と地程の差があった。
「汚い。ってか臭い!」ベッドに堆積していた服を片寄せするイポリトをアメリアは睨む。
「しょーがねーだろ。野郎の部屋なんだからよ」
「汗臭い! 生臭い!」
「野郎は汗とイカで出来てんだよ」
「ミスターは違う!」
「じじいも一緒だよ」
「違う!」
床に堆積していた私物をアメリアは蹴散らしながら進む。その様は南極の分厚い氷を砕いて進む砕氷船だった。
窓を開けた彼女に、床に座したイポリトはベッドを勧める。
アメリアは渋ったが大人しく座ってやった。
「で、何? 話って?」
唇を尖らせたアメリアをイポリトは見据えた。
アメリアは息を飲んだ。イポリトは全てを見透かすような視線で自分を見詰めていた。青白く光る、死神特有の瞳は自分の瞳の奥を見据える。彼の視線は脳を透かし思考を暴くどころか骨を砕き内臓を晒し、血の一滴まで支配するようだった。
「……お前、何者だ?」
アメリアは息を飲んだ。
「一月前にハデスから『育て屋が不在の為、ローレンスに見習いの面倒を見て欲しい』と辞令が下った。今までンな事一度もなかった。あいつは訳あって本来の名前を隠さなければならないし、俺の監視から一生逃れられない身分だ。だのにハデスはお前のようなイレギュラーを押し付ける訳がない。……何か相当な理由がある若しくはじいさんを消そうとしているか、どっちかだ。じいさんの相棒として俺はお前を知らなければならない。もしお前が危害を加えるのであれば、俺はお前を放って置かない。小娘だろうとも始末せにゃならん」
淡々と告げるが物騒な話だ。しかしそこまでローレンスを大切に想ってくれるのは嬉しかった。アメリアは観念した。ハデスに厳命されてるものの『ローレンスに話せば命はない。それが死神の掟だ』としか言われてない。イポリトに話しても大丈夫だろう。
長い溜め息を吐くとアメリアは話を紡いだ。
数分後、イポリトの瞳からは険しさが消え去っていた。
「なるほどな。悪かったな、疑って。お前も苦労してんだな、小娘には荷が重い」
「苦労とは想ってない。寧ろ苦労はこれからだと想ってるから」話している内に切なくなったアメリアは膝を抱いた。
「あの鈍ちんじじいを気付かせるのは相当な労力を要するからな」
アメリアは視線を落とす。……ハデス様は一年以内って期限を設けた。それまでに何とか気付いて貰わなければあたしはこの世から消える。そう約束させられた。島にも帰れない。退路を断つ事で許されたチャンスだから……。恐い。
唇を引き結んだアメリアにイポリトは気付く。
「それなりの覚悟は決めたとは想うが生まれて十年も経ってねぇんだ。不安になるのは当然だと想うぜ?」
「……そうだけど」
「運命って奴は自分で切り開くモンだ。だから辛気臭ぇツラ下げてっと、どうこう出来るモンも出来なくなっちまう。マイナスは取り敢えず忘れろ。肩の力を抜いて進め」
「……そんなに気楽に出来ないよ」俯いたアメリアは唇を尖らせた。
肩をすくめたイポリトは頬を人差し指で掻く。
「それにしてもよく決意したな」
「……だって心根が優しい人だって聞いて育ったから。天使みたいな人だって。島のみんなが色んな話を聞かせてくれたの。ミスターのお蔭で多くの人が救われたし、慰められたって」
「ほーん」
「だから……一度会ってみたかった。それにそんな天使みたいな人が真摯に取り組む仕事ならあたしもやってみたいって」
「じじいがここまで辿り着くのに随分と時間を要したがな。厭わずに真摯に取り組むようになったのはここ十年だな。『こんな凄惨な仕事を子孫にやらせたくない』と伴侶も持たなかった。人類が地に満ち、ヒュプノスとタナトスの死神二柱じゃ仕事が回せなくなっちまっても頑に童貞を通した。俺の先祖である始祖のヒュプノス神は人間と混じり子孫を残し、任を継がせた。しかしそれでじじいの肩身が狭くなっちまった。仕事が回らなくなっちまって、終いにゃ秘密裏にクローン作られたからな。現在任に就いてるタナトス神達はクローンの子孫だ。『始祖のじじいがさっさとファック決めねぇから俺達の先祖が作られたんだ』って未だに恨んでる奴はいるな」
「……そんな。子孫を守ろうとしたのに」アメリアは痛む胸を押さえる。
「しかしタナトスの仕事はヒュプノスと違って悲惨な現場が多いぞ? 今は未だ当たらないかもしれんが殺人現場に自殺現場、事故現場なんてのも当然出る。田舎で人の善意に囲まれてのんびり暮らしたお前にはキツいかもな」
「……それでもあたしは前に進みたい」
イポリトはアメリアを見遣った。
「天使みたいなミスターが……みんなを守ろうとしたミスターが真摯に取り組む仕事ならあたしも真摯に取り組みたい」アメリアは顔を上げた。
瞳に力が宿ったアメリアの横顔を見てイポリトは悪戯っぽく笑む。
「あんだ。心配して損したわ」
イポリトに髪を掻き乱されたアメリアは大きな手を払う。
「やめなさいよ! 子供じゃないんだから!」
「充分ガキじゃねーかよ。改札詰まらせたりバス追いかけたり、拾い食いまでしてんじゃねーか」
「ど……どうしてそんな事知ってるのよ! ミスターとの秘密なのに!」
赤面したアメリアはベッドから飛び上がる。
「……まさかミスターが話したの!?」
「馬鹿真面目がンな事言うか。俺はコソコソ嗅ぎ回るのが得意なんだよ」
イポリトの襟首を掴んだアメリアは肉薄する。
「プライバシーの侵害!」
「素っ裸を見られてんのにプライバシーもクソもありゃしねえだろ。しっかし滾ったわ。あんなデカパイにドラゴンのタトゥー彫ったとはな。お前、結構遊んでんのな」
「タトゥーじゃない! 生まれつきの痣!」
怒り狂ったアメリアはイポリトをベッドにぶん投げた。アメリアよりも……いや平均的な男よりも逞しいイポリトは馬力に面喰らう。
イポリトに馬乗りになったアメリアは平手打ちを喰らわそうとした。
するとドアが開いた。
ドアを開けたのはローレンスだった。彼はベッドの上でイポリトに馬乗りになったアメリアを見て、呆然とした。それを見遣ったイポリトは悪戯っぽく笑む。
不遜な態度をとるイポリトの視線の先を辿ったアメリアは愕然とした。我に返ると頬を上気させ慌てる。
「ミ、ミスタ、こ、これは、その」
教え子の裏返った声に我に返ったローレンスは赤面する。そして慌てふためき弁解する。
「ご、ごめん。ノックしたけど返事がなくてさ。まさか、君達がそんな仲だとは思わなくてさ」
イポリトは喉を小さく鳴らして笑う。アメリアは激しく首を横に振り、瞳を潤ませて『違います!』と訴えた。
「うん、ごめんね。邪魔しちゃったね、ごめんね。ごめんね。で、でも、アメリア、お母さんの許へ帰る時にお腹が大きくなってるって事だけは避けてね。イ、イポリトも派手な遊びは辞めてアメリアを大切にしてね」
イポリトはゲラゲラと大声で笑う。
「カ、カフェに行ってくるね」ローレンスは急いでドアを閉めた。数秒後には玄関からドアが開閉される音が聴こえた。
数分前まで騒がしかった部屋は水を打ったように静まる。アメリアは深く項垂れた。
そんな彼女をイポリトは見上げる。
「ぶぅあーか」
ゲラゲラと笑いながらイポリトが起き上がろうとしたのでアメリアは馬面を平手打ちした。
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