一章 三節


 一月経って生活が落ち着いた。


 物を覚えるのは生来得意な性質なので座学の大部分をアメリアは修めた。神話や歴史、神族思想も少し復習えば八割がた正答した。ヒュプノス神の教育者たるティコに師事したイポリトには及ばないが優秀な娘だ、とローレンスは舌を巻いた。しかし要領がいい、頭の使い方を心得ている風ではない。物覚えが良い、と評するのが適当だろう。


 黒い翼の使い方について教えようとしたが激しく首を横に振ったアメリアに断られた。どうやら田舎の島に住んでいた際、人目につかない所で飛ぶ練習をしていたらしい。同様に爛れた右手も母の死神から厳しく言われていたようで入浴以外で包帯を解いた事はないと言っていた。


 親の死神不在で間違いや問題を起こさずによくやって来られたものだ。ローレンスは驚いた。空気に触れれば姿が透過する死神の力を持つ爛れた右手も今までよく隠し通して来たし、他者に触れて死を与えずに済んだものだ。奇跡に近いかもしれない。要を抑えて臨機応変に行動するイポリトのようなタイプの賢さではない。彼女は予め優先順位を付けて行動する。流れを始めから決めている。従って予想外の事が起きると全てが狂う。しかし運の良さが欠点を補っている。……強運だけでは仕事にならないのがネックだが。


 座学を修め実地の研修を始めたばかりのある日、アメリアは一柱でローレンスの任をこなす事になった。一通り座学を学び、実地の仕事を見学した見習いは親や教育者の任をそのまま任せられる。


『翼で飛ぶよりも地下鉄で移動したい』とアメリアはICカードを携えて任に赴いた。カードを改札機の投入口で詰まらせず、巨大な地下空間に目を輝かせず当然のように乗車した。もの覚えのいい彼女は路線図を頭に叩き込んでいたので、対象の魂が存在する地区までスマートに辿り着けた。


 初日、二日目と帰宅は遅くなったが何とかこなした。夜の街は治安が宜しくないので任を終えた地でローレンスが迎えに来た。


 地下鉄での移動はスムーズにこなせたが予想外の事態の対処に彼女は手間取った。自宅から離れた場所……職場や恋人の家で対象が息絶えていたり、包帯を解いて姿を風景に透過して建造物に入らなければならないのに周りは人目が多い場所だったり……と、手間取った。その度彼女は考え込む。しかし仕事は山積している。考えても埒が明かない時は携帯電話で連絡を取り、ローレンスの指示を仰いだ。


 事件は四日目に起きた。


 ローレンスやイポリトの助言を参考に、漸く自分のペースを掴んだアメリアはその日も地下鉄のサークル線を利用した。地元の人間やスーツケースを携えた観光客がちらほらと乗っていた。しかし所々シートは空いている。アメリアは車両の脇の目立たないシートに座していた。


 様々な皮膚の色の観光客達は様々な言語で喋る。地元の人間は携帯電話を眺めたりガムを噛んだり移動の時間を潰していた。


 一方アメリアは他の乗客とは違った。


 アメリアは右手の包帯を外し、死神の証である爛れた皮膚を空気に晒していた。つまり体を風景に透過していた。この車両で今日は務めを果たさなければならない。


 五日前から入念に調べた対象者だった。今日はその命が尽きる日だ。几帳面な性格の対象者は毎週の通院にこの時間、この電車、この車両に乗り込む。次の駅で対象者は乗車する。


 アメリアは腕時計を見遣る。時刻も死亡対象者リストに記載された時間だ。間違いない。乗車中に亡くなる筈だ。息を引き取り、体から魂が浮かび上がったらその長い尾を爛れた右手で切り離せば良い。病院に搬送されるまでにやればいい。それだけの事だ。幾度かこなした任務だ。


 アメリアは唾を飲み込む。毎度の事だが緊張する。気持ちを落ち着けなければ……別の事を考えよう。


 今回の任務は良かった。いつも電車移動だもの。本当は翼を広げて空を移動したいけど、ミスターに見つかると厄介なんだよな。あたしの翼は死神の黒い翼じゃなくて、ドラゴンの翼だから見つかると疑念を抱かれる。ハデス様から『正体を暴露しないように。ローレンスの十三の試練にならない』って厳命されてる。だのに……ヒントを与えずに気付いて貰わなきゃならないって……そんなの無理だよ。一年以内に気付いて貰わなきゃあたしは消えちゃうって……。


 切なくなり密やかに溜め息を吐いた彼女は反対側のシートの窓を睨む。動揺を落ち着かせようとした。しかし車窓には自分の顔すら映らない。


 透過してるものね。アメリアは密やかに溜め息を吐く。すると反対側のドアに男が居るのに気付いた。乗車時からずっと乗っている。しかし彼は座ろうともしない。


 彼を見詰めていると、車体が減速する。もう直ぐ駅に着く。対象が乗車する。


 電車は駅に停まった。ドアが開くと上品な老婦人が席を立ち、杖を突きドアへ向かう。目許が涼やかなご婦人だった。杖が地を突く度に高価そうなハンドバッグが大きく揺れる。長年使用しているものの手入れが行き届いて美しい、と評するのが適当なバッグだった。背筋はシャンとしているが足の自由が制限された彼女の動きはぎこちない。


 アメリアは横目で老婦人を見守っていた。するとプラットフォームから対象……禿頭の老人が乗車する。アメリアは腰を上げた。


 禿頭の老人とすれ違い、覚束ない足取りで老婦人は電車を降りる。ドア横で佇んでいた男も降りようとする。するとプラットフォームの大きな隙間に足を捕われ老婦人はバランスを崩す。一部始終を見守っていたアメリアは目を見張った。しかし男は咄嗟に手を出して老婦人を支える。アメリアは任務を忘れて小さな溜め息を吐いた。


 お礼を述べる老婦人に男は『どうも』と呟く。乗客の誰もが老婦人と男の表情を見詰めていた。しかしアメリアだけは老婦人の姿勢と杖を立て直す彼の動きが一瞬、不自然である事を見抜いた。開いたハンドバッグの間口に手を差し入れるのが見えた。スリだ。ジャケットの胸ポケットに星柄の財布を差し入れたのが見えた。


 男はプラットフォームを足早に去る。


 追いかけなければ。アメリアは電車を飛び降りようとした。しかしシートに座した禿頭の老人が胸を抑え苦しみ始める。いよいよ最期の時が来たのだ。


 アメリアは眉を顰め唇の端から泡を噴く禿頭の老人を見詰める。すると観光客の一人であろう大きなデイパックを背負った若者が老人に『大丈夫か?』と近寄る。それを弾みに若者の仲間が近寄って来た。


 アメリアは若者を避ける。若者の仲間に老人は囲まれる。


 どうしよう。これじゃ魂を切り離せない。


 車内の人だかりを見て、遠ざかる男の背を見てアメリアは狼狽する。目前の悪に目を瞑り、任を果たすべきか。それとも自分の義に従い、悪を誅すべきか。退っ引きならない状況に立たされた。


 どうする? ミスターなら。


 どうする? イポリトなら。


 どうする? あたしなら。


 アメリアは唇を噛み締めると覚悟を決めた。


「待ちなさい!」


 アメリアは電車を飛び降り、泥棒を追いかけた。車体が揺れる。


 突如上がった乙女の声に乗客の誰もが顔を上げた。しかし声の主と思しき乙女は何処にも居ない。乗客達は周囲を見渡す。


 犯行に気付かれたと悟った男は振り返りもせずプラットフォームを駆け抜ける。


「返せ! 泥棒! おばあちゃんの財布を返せ!」


 乙女の怒声が白いタイル張りの広い空間に響き渡る。乗客は車窓から声の方……突っ走る男以外誰もいないプラットフォームを見詰める。


 乗降客の少ない駅には人が居らず、泥棒を捕える者はいない。アメリアは全速力で駆けつつもジャケットのポケットからハンカチを取り出し、包帯の代わりに爛れた右手に巻き付けた。


 突如現れた乙女に乗客の誰もが驚いた。


 アメリアは歯を食いしばる。禁止事項を一つ破った。だけどそんな事気にしてられない。


 泥棒とアメリアの距離は変わらない。


 ドアを閉じた電車は排気音を上げ、徐々に加速する。


 アメリアが走るのは二階建てバスを追いかけた時以来だ。建造物が林立し、道幅が広くとも多くの人々が行き交う首都ではなかなか走れない。少し走っただけなのに疲れる。ランゲルハンス島でなら毎日走ったり飛んだりしていたからなんて事なかったのに……。しかしこのままじゃ埒が明かない。男は改札も飛び越えるに決まってる。階段を駆け上がって地上に出れば地の利を得ている方が有利だ。勝負は此処でつけなければならない。


 けたたましい音を響かせ電車は線路を駆ける。


 意を決したアメリアは想い切り地を蹴ると男に向かって跳んだ。肩を狙ったつもりだった。しかしアメリアが跳び付いたのは男の腰だった。バランスを崩した男は地に倒れ込む。アメリアはすかさず上体を起こし、男の腕を取り手首を捻り上げようとするが後脚で下腹を蹴り上げられた。アメリアは痛みに表情を歪めるが、男の腰目掛け肘を打ち下ろした。


 激痛に男の背が仰け反る。


 アメリアは直様男の背に尻をどすんと落とすと、腕を捕え手首を捻る。


 プラットフォームを後にした電車が闇に消えるとアメリアはあらん限りの声で叫んだ。


 もがき逃走しようと図る男を押さえつけていると三人の駅員が駆けつけた。アメリアは事情を説明する。すると老婦人が後から杖を突いて現れた。『おばあちゃんの財布を返せ、と聴こえたのでバッグを検めたら財布がありません。気になったので降りました』と老婦人は駅員に訴えた。


「知るか」男はシラを切る。


「ジャケットの胸ポケットに星柄の財布が入ってる。それはおばあちゃんの財布です」息を弾ませたアメリアは駅員の一人に訴えた。


 駅員が男を検めるとジャケットから星柄の財布が出て来た。眉を下げた老婦人は『それは私の物です。保険証も私の名前の筈です』と答える。


 駅員は直様警察に通報した。


 警官に引き渡される男の背をアメリアは見詰めていると、老婦人に幾度となく礼を述べられた。『当然の事をしたまでです』と謙遜するが、老婦人はお礼だと言ってレースのハンカチに包んだ物を握らせようとする。なよやかなハンカチは包んだ物の形を顕著に現している。きっと紙幣だ。そんなつもりは全くないのに。気まずくなったアメリアは『先を急ぐので』と足早に立ち去った。




「だぼ!」


 イポリトの怒声がリビングに響く。彼の前に立たされていたアメリアはあまりのうるささに瞼を強く瞑った。イポリトの隣に座していたローレンスも咄嗟に耳を塞ぐ。


 眉間に皺を寄せたイポリトは丸めた新聞をテーブルに叩き付ける。


「任を放ったらかした上に人前で透過状態を解くんじゃねぇよ!」


 眉を下げたアメリアは俯く。


 イポリトは新聞を広げると一面を見せた。そこには先日の捕物帳が記されていた。彼は見出しを読む。


「『マジックか? 新種の光学迷彩服か? 突如現れた透明人間、スリを制圧! 然るご婦人を救う!』ンな事書かれたら俺達が任をこなせなくなる所か、存在がバレるじゃねぇか! だぼ!」


「……でも」アメリアは顔を上げる。


「あ?」イポリトはアメリアを睨む。無駄な肉がなく精悍で整った顔は、今は鬼神のようだった。


「でも放って置けなかったの。目の前で悪い事が起きてるのに知らんぷりなんて出来ない。弱い者が悪い者にいいように扱われるなんて許せない」アメリアは唇を尖らせた。


「それでも任を放ったらなんねーんだよ! それが死神だ! 俺達は人を導く存在だ!」イポリトはテーブルを拳で叩いた。空のマグが倒れた。


 アメリアは唇を噛み締めた。分かっているが助けたかった。悔しい。それ故に噛み締めたのも一つの理由だが先程から下腹が痛かった。振動が腹に伝わると鐘を突くように痛みが響いた。


 痛みを堪えるアメリアは瞼をぎゅっと閉じる。


 すると悔しさと悲しさに耐えているのだろうと慮ったローレンスが助け舟を出す。


「女の子相手だよ、イポリト。少し抑えようよ」


「あ?」イポリトはローレンスに眼を飛ばす。


 ローレンスは鋭い視線に怯みそうになったがアメリアを見詰めると言葉を紡ぐ。


「ねぇアメリア。対象の魂の尾を切れなかった時はどうするつもりだったの?」


 アメリアは口を噤む。考えてなかった。何とかリカバリー出来たが現場を放る事によって魂を切り離せない可能性があったのだ。


 事の重大さに気付き、爪先を見詰めるアメリアにローレンスは小さな溜め息を吐く。


「座学の始めに教えたけれども体から魂の尾を切り離さなかった事によって哀れな魂はこの世を彷徨う霊になってしまうんだ。君はそのリスクを冒そうとした。これは死神としてやってはならない事だ。どんな時でもこれは忘れてはならない。それと……人前で透過状態を解いた事。これは本来僕達の神族だけでは済まない問題だ。神の存在……特に死に携わる神が身近に居ると気付けば人間は驚くだろう? 死の意義を理解出来ない者は僕達に危害を加えるかもしれない。人口増加による食料事情の悪化や疫病の蔓延……死はこれらを防いでいるんだ。生者にとって死は必要な物だ。だからこそ僕達の正体を明かしてはならない」


 イポリトは長い溜め息を吐く。それを見遣ったローレンスは眉を下げてアメリアに微笑む。


「だけど君の気持ちは分かる」


「おい。ちゃんと叱れ」イポリトはローレンスを小突いた。


 眉を下げ自身の過失に戦くアメリアをローレンスは見詰める。


「一度任を放棄した事、人前で透過状態を解いた事は不味かったさ。でもアメリアは自分の正義を貫こうとした」


 イポリトは舌打ちする。


「寝返りやがったなクソじじい。霊を出す事以外に死神全体の……いやこの世に存在するあらゆる神の立場を危うくする事なんだぞ?」


「そうだね。だけど今回は『マジックか? 新種の光学迷彩服か?』って小見出しがあるじゃない。ラッキーな事にその瞬間を押さえた写真も撮られてないし。科学が進んだお蔭でそう大事にならなかったよ」


「だがな」


「ちゃんとリカバリーもしたじゃない。しかも彼女一人の力でだ。今まで予想外の事が起きたら僕の指示を仰いでいたのに……成長したよ。対象者が搬送された病院も自分で探したし、遺体安置所に入れられる前に魂の尾を切り離した。これで魂はこの世を彷徨う霊にならずに済んだもの」


 イポリトは片眉を顰めた。


「そりゃ……この件はハデスに報告しなきゃならない程、デリケートな件だよ。アメリアは決して手放しで褒められる事をした訳じゃない。運が良かっただけだって僕だってよく分かってる。でもさ……もしイポリト、君がアメリアと同じ立場だったらどうしてた? 優しくて強い君も悪事を見過ごせなかったと想う」


「……俺ならもっと巧くやる。任を放棄せずにな」イポリトは鼻を鳴らす。


「そうだね。アメリアと一緒の心意気を持ったイポリトなら、アメリアよりも年長なイポリトならスマートにこなせたと想う」


「ガキを諭すみてぇに俺を諭すな」イポリトはローレンスの頬をつねった。


 ローレンスは頬を擦りつつフフフと笑む。


「だって君は九十歳くらいだろう? 太古の昔からハデスに仕える僕よりは随分年若いもの。子供っぽい僕よりもずっと大人な所があるけど、君は僕の弟みたいなモンだし」


「万年童貞に言われたかねーわ」


 ローレンスは肩を落とした。鼻を鳴らしたイポリトは腰を上げると新聞を放る。


「タナトスの始祖様がそこまで庇うんだから説教はここまでだ。おい、じゃじゃ馬。ちゃんとハデスに報告書と反省文上げとけよ。事件が発覚して苦役対象にされる前に先手打っとけ。自首すればあいつは穏便に済ます男だ」


 アメリアはこっくりと頷いた。


「ガキ臭さにはうんざりするが……お前の気概、嫌いじゃないぜ?」イポリトはふと微笑むと家を後にした。

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