ランゲルハンス島奇譚 外伝(2)「もう一人の天使」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

一章 一節


 これはない。幾らなんでもこれはない。


 アメリアはイポリトの尻を蹴っ飛ばした。『あにすんだよ!?』と尻を擦る筋肉質な背の向こうからフローリングに散らばった使用済みの衛生サックや丸まったティッシュが垣間見える。事後の臭いがリビングを淀ませている。


「片付けくらいちゃんとしてよ!」


「急いでたんだよ!」


「約束の時間から二時間も遅れた癖に!?」


「二時間後に想い出して慌てて出たんだよ!」


「それでも同居人が初めて家に上がるんだから気を遣いなさいよ!」


 自身の縄張りである革張りの黒いソファにライダースジャケットを放ったイポリトは面倒臭そうに衛生サックやティッシュを拾う。舌打ちするとそれをゴミ箱へ放った。


「ちょっと!」


「あんだよ。ちゃんと捨てたろ?」イポリトは肩をすくめる。


「ビニール袋に入れるなり紙に包むなりして捨てなさいよ!」


「うるせぇな。そんなに言うなら自分でやれよ」


「なんであたしが!?」


 夜の十時を回っているのにも関わらず、うら若い乙女と筋肉質な男は明け方のカラスのようにぎゃあぎゃあ口論する。幸いな事に築年数が何十年も経つアパート故に住人は殆ど居ない。真上の部屋もベランダから子供が落下して以来定住者は居ない。周りを気にせず振る舞える。


 アメリアとイポリトの口論は五月蝿かった。アメリアがポンポンと怒る度に腰まで届くポニーテールと豊かな胸が揺れる。約束をすっぽかされ二時間も待ちぼうけを喰らった挙げ句に丁重なもてなしを受けた彼女は怒り狂っていた。


 すると口吻から唾を飛ばすアメリアの背後に痩躯の男が佇む。骨格標本を偲ばせる程に痩せこけていた。アメリア同様、長い黒髪を滝のように流したその男は眉を下げ遠慮がちに『ただいま。どうしたの?』と声を掛ける。


 しかしアメリアとイポリトは気付かない。


「捨てろってよくそんな事言えるわね!? イポリトが使ったゴムでしょ!? あたしは関係ない!」


「捨てたのにぎゃあすか文句垂れるからじゃねーか」


「デリカシーない捨て方しないでって言ってんの! ってかそれ以前の問題! あんな物をフローリングに転がしておくなんて神経疑うわ!」


「うっせぇな。俺は無神経なんだよ!」


 陶器のように滑らかな肌に青筋立てたアメリアと面倒臭そうに反撃するイポリトに痩躯の男は声を掛ける。しかし今度も気付いて貰えない。


「無神経なおっさんと一緒に住まなきゃならないなんて考えられない!」


「俺だってデカパイが取り柄だけのガキなんざごめんだね」


 アメリアはイポリトを睨みつけた。イポリトは馬のように歯を向き出し小馬鹿にする。立腹したアメリアは彼の向こう脛を蹴りとばした。あまりの痛さに目を白黒させていたイポリトは我に返ると鼻に指を突っ込み、その指をアメリアの頬になすり付けた。


 リビングにアメリアの悲鳴が響き渡る。


「おっ死ね!」アメリアはイポリトにフックを掛ける。


 イポリトはそれを器用に避ける。


「死神だから死にまっせーん」


 ひょうげて小馬鹿にするイポリトにアメリアは奥歯を噛み締める。彼女は視線をそらすと不意打ちでアッパーを繰り出した。


 喧嘩慣れしたイポリトは小手先の技なぞ見切っていた。不遜な笑みを浮かべる。


 武術を習っていたアメリアは拳を繰り出してからコンマ数秒でに不発を確信した。彼女の青白く輝く不思議な瞳に映る拳がスローモーションで動く。小憎たらしい馬面男が拳から体をかわす。アメリアは想い切り歯を食いしばった。タイミングが悪かった。そして浅はかだった。


 しかし拳はヒットした。


 アメリアが繰り出したアッパーは二柱を止めに入った痩躯の男の顎にめり込んだ。表情を歪めた痩躯の男は背から床へと倒れる。彼の長い黒髪が弧を描く。アメリアは目を見張り大口を開く。イポリトは腹を抱えてゲラゲラと笑い転げる。


 床に尻を着いた痩躯の男は長くとも華奢な指で顎に触れようとするがあまりの痛みで表情を歪めた。


「いつの間に戻ってたのかよ。真っ最中に割り込むなっていつも言ってんだろうが。阿呆だな」溜め息を吐いたイポリトは痩躯の男に手を差し出した。


 痩躯の男はその手を掴むとイポリトに引っ張り上げられた。


「喧嘩は」痩躯の男は喋ろうとするが痛みに眉を下げる。


 イポリトは痩躯の男の頬を大きな両手で包み込むとよく観察した。そして『噛んでみろ』『口開けねぇか?』『物が二重に見えねぇか?』『手足は痺れねぇか?』と問診する。痩躯の男は素直に従い、全ての問いに『大丈夫』と答えた。


「ゴロ巻きじゃねぇよ。戯れてたんだよ。その証拠に武術嗜んでた新入りは手加減したようだからな」痩躯の男から手を離したイポリトはアメリアを見遣ると肩をすくめて笑った。


「そっか。安心した」痩躯の男は小さな溜め息を吐いた。


 狼狽えつつも様子を窺うアメリアに痩躯の男は微笑む。柔らかい表情を作っても尚、骸を偲ばす顔は特徴的だ。


「初めましてだね」


 男の顔を眼の当たりにしたアメリアは瞳を見開くが直様頭を下げる。


「ごめんなさい!」


「気にしないで。イポリトの言う通り割り込んだ僕が馬鹿だったんだから」


「でも……」


 痩躯の男は左手を差し出す。


「話が通ってると想うけど自己紹介させて。外せない仕事があったからイポリトに迎えを頼んだんだ。僕はローレンス。今日から僕が君の教育係だ。よろしくね」


 アメリアは華奢な白い手を握る。ひんやりと冷たかった。しかし嬉しかった。


「は、初めまして。ア……アメリアです。宜しくお願いします」


 初めて触れる手にアメリアは心を奪われる。長い握手に戸惑ったローレンスは動揺してイポリトに視線を遣り、助けを求める。イポリトはアメリアの肩を突つくと『離してやれ』と囁いた。


「ご……ごめんなさい!」我に返ったアメリアは再び頭を下げる。


「無理もないよ。こんな顔だから驚くよね」ローレンスは苦笑を浮かべる。青白く光る瞳の下に出来た濃い隈が薄い頬の筋に圧されて湾曲した。


「ちっ違います! でも殴ってごめんなさい!」アメリアは更に頭を下げる。


 ローレンスは眉を下げる。


「そんなに謝らないで。僕が萎縮しちゃう。ハデスの命とは言え初めて教え子を受け持つんだもの。僕も緊張してるんだ」


「辞令が出た一月前からウンコスポットを厳選する犬みてぇにそわそわしてたもんな。見てるこっちが疲れるぜ」イポリトはゲラゲラと笑う。


 品のない揶揄にローレンスは眉を下げた。


「そんなに緊張するんですか?」アメリアは問うた。


 ローレンスは頬を上気させると頷く。


「うん。まさか育て屋でもないのに見習いタナトスの教育をするとは考えてもみなかったよ。僕には子供が居ないからね。新鮮だな」


 涙腺と鼻先が熱くなったアメリアは咄嗟に俯いた。


 そんな彼女を気にもとめずイポリトはローレンスに話題を振る。


「じいさん、飯喰って来たか?」


「え……あ、うん」ローレンスは青白く光る不思議な瞳をぐるりと動かした。


「何喰ったんだよ?」


「え……あ、その」


 ローレンスは言葉に詰まる。瞳をぐるぐると動かしているとコーヒーテーブルに置かれた演劇の専門書の側にメモ帳が見えた。ニンニクと唐辛子とパスタのイラストがプリントされている。


「……ペペロンチーノ?」


 イポリトは顔を顰める。


「嘘こけ。さっき問診した時ニンニク臭くなかったじゃねぇか」


 ローレンスは気まずそうに微笑んだ。


「適当に作ってやるから喰え」小さな溜め息を吐いたイポリトはキッチンへ向かうと冷蔵庫を開けた。


「でもお腹空いてないんだ」ローレンスは眉を下げる。


「喰わにゃ痩せこける一方だろうが。じいさんの監視役である俺の身にもなれ。またぶっ倒れたらハデスにドヤされるのは俺だろうが」


「うん。分かったよ」こっくりと頷いたローレンスは自分を見詰めるアメリアの視線に気付くと微笑んだ。


「じいさん、そこら辺のティッシュと本片付けろよ。じゃじゃ馬娘は窓開けて換気しとけ」


 キッチンカウンター越しからイポリトの声が聴こえた。苦手な彼のペースに乗せられたが窮地を救われたのでアメリアは窓を開けた。


 春の終わりとは言え、まだ夜は冷える。冷たい風が彼女の頬を撫でた。





『初日だし疲れもあるだろうから先にお風呂入るといいよ』とローレンスに勧められアメリアはシャワーを浴びようとした。しかし脱衣した所にイポリトにかち合い、裸体を見られた。気に喰わない男に無礼を働かれ彼女は怒り狂った。


 体にタオルを巻いたアメリアはローレンスに宥められ、風呂を貰うとイポリトに顔を合わせず早々に休んだ。


 与えられた自室で嫌な事を想い出したアメリアは長い溜め息を吐くと寝返りを打つ。黒いしなやかな髪が枕に擦れてしゃり、と音を立てる。


 彼女はローレンスのベッドで休んでいた。否、もう彼のベッドではない。二間しかないアパートの一室で三柱の死神が居を共にする。食事中、それを不憫に想ったローレンスがアメリアの為に部屋とベッドを譲ると申し出たのだ。無論彼女は断った。しかし『年頃の女の子にリビングで寝かせる訳にはいかないよ。荷物も片付けてから使って欲しいな』とローレンスは部屋を勧めた。


 聞いた通りだ。本当に心根が優しい。口に運ぼうとしていたスプーンを下ろしたアメリアは微笑んだ。しかし『申し訳ないのでソファで寝る』と首を横に振った。それが師と弟子の正しい距離なのだ。それに師と弟子である前に、ローレンスは死神タナトスの始祖である。太古からハデスに仕え人間を導く彼を差し置き、生まれてから数年しか経てない自分が良い想いをするのはおかしい。


 彼女の頑な姿勢に眉を下げたローレンスはイポリトを見遣る。ヴルストを数種炊き込んだパエリアを咀嚼していたイポリトは飲み込む。


「ソファは俺の縄張りだからな。じゃじゃ馬は寝そべるんじゃねーぞ。あそこはリラックスする場所じゃねぇ。発奮する場所だ」


 眉間に皺を寄せたアメリアはイポリトを睨んだ。するとローレンスは苦笑する。


「教え子に……ましてや女性に初っ端から凄まじい物見せてごめんなさい。フローリングに散らばっているゴミから察しは付いたと想うけどあのソファはその……あの……つまり……」


 頬を染めて口をもぞもぞ動かすローレンスにイポリトは鼻を鳴らす。


「俺が商売のおねーちゃんとファックする場所」


 呆れたアメリアは長い溜め息を吐く。


「イポリトが娼婦さんと遊ぼうが何しようが文句ないわよ。でもね! 今日みたいな事は金輪際やめてよね!」


「覚えてたらな」イポリトはパエリアを頬張った。悪怯れぬ彼をアメリアは睨みつけた。


「遊んでる時はドアに例のキーホルダー掛けるのも覚えておいてよ。何度も言ってるけどそれが女性を連れ込んでる時の目印になってるんだから。先週も掛けてくれなかったよね? 僕、イポリトの尻を見る羽目になったんだから」ローレンスは小さな溜め息を吐いた。


「覚えてたらな」


「と、とにかくソファはかなりフランクな場所だからアメリアの部屋はあった方がいいんだ」ローレンスは苦笑した。


 アメリアの長い溜め息が今は自室となったローレンスの部屋に漂った。また嫌な事を想い出してしまった。体の納まりが悪くなり寝返りを打つと枕許に置いてある双子のドラゴンのぬいぐるみが倒れ、頭に当たる。ローレンスの宝物だ。上体を起こしたアメリアはぬいぐるみを起こしてやる。


「……いつか気付いて貰えるよう努力するから。待ってて。……あんな事言われちゃったけど」


 ──僕には子供が居ないからね。


 ちりりと痛む胸を抑えるとアメリアは唇を噛み締めた。しかしまだ初日だ。落ち込んでいられない。水色のドラゴンのぬいぐるみに微笑むと瞳を閉じた。

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