第三章 風が吹いてきた
1
まるでポスターカラーで塗ったかのような混じり気のない青い空だったのが、急速にどんよりと曇ってきた。
強烈な初夏の日差しにじりじりと照りつけられて辛かったのが、おかげで少し楽になった。
建物の構造上、外よりも風が強く吹くため、太陽が隠れてしまうとそれまでにかいた自分の汗のせいでひんやりと涼しくなる。
どんより曇ってきたとはいっても、昼前に発表された気象庁の予報によると、降水確率十パーセント、にわか雨にでも降られない限り試合観戦に問題はないだろう。
近藤悠子は光沢のあるオレンジ色の服を着ている。胸には青く大きな字で、HAZUMIと書かれている。
ここは、
悠子は去年から、何度もここに足を運んでいる。
収容人数二千五百人。陸上競技兼用のこじんまりとしたスタジアムだ。
座席は長椅子を並べただけの簡単な作り。
陸上トラックの中に、芝の生えたサッカーやラグビー用のグラウンドがある。
そういうと選手の姿が非常に小さくて観戦しにくそうだが、実際は陸上トラックの占有幅がかなり狭く、その他余分なスペースもほとんどない競技場なので、それなりに見やすい。あくまで、他の陸上競技場と比較すれば、の話であるが。
今日は六月二十一日。これからこの場所で、JFL前期第十六節、ハズミSC対FC島根の試合が行われる。
ピッチ上では両チームの選手たちが、ウォーミングアップのメニューをこなしている。
素早く股上げをしながら、短い距離を行ったり来たり。
コーチが次々と蹴るボールを、ゴールキーパーが起きあがっては倒れるようにキャッチしている。
選手がペアになり向き合って、相方の投げたボールを頭や足で返す。相方はそれをキャッチしてはまた投げる。
ゴール前に沢山のボールを並べ、シュートを枠に蹴り込む練習。
体を一定方向に保ちながら、膝を高く上げて斜めに縦横にと動き回る。続いて、膝をあまり上げずに同じことを行う。
等々、それぞれのチームのウォーミングアップメニューが進行していく。
両チームのサポーターが太鼓の音に合わせ、選手の名を次々と叫んでいる。呼ばれた選手は手を上げて応えている。
やがてスタメン組はピッチを去って、控え室へと引き上げて行く。リザーブの選手だけが残り、ボールの奪い合いなど簡単なゲームを行っている。
華鳴市や野々部市は、周りを高い山に取り囲まれている盆地帯である。
遠くを囲む緑の山々は、とても涼しげに見える。
しかし実際はフェーン現象や、その他の地形的な理由のために、夏はかなり暑い。そして冬は、時間すらも凍りつきそうなほどに寒い。
真冬には、これらの山々はすっぽりと白いベールに覆い隠される。周囲に高い建物がないため、観客席に座っていながらも、非常に素晴らしい眺めを楽しむことができる。
景観に関しては、日本のサッカークラブのホームスタジアムとしては屈指であるとの評価を得ている。
特に評価が高いのは、雪に覆われた冬であるが、しかし四季を問わず見事な眺めであることに違いはない。
近藤悠子は、ウォーミングアップをする選手や、声援を送るサポーターの熱い表情、取り囲む風景などをカメラで撮影している。
一眼レフタイプの、大きなデジタルカメラだ。
本体は型落ち品をインターネット通販で購入したもので、安価に手に入れられたのだが、別途購入したレンズセットが実に高価であった。
画素数はそれほど多くないがCCDもレンズも大きいため、画素数だけが売りの最近のコンパクトデジタルカメラよりも圧倒的に綺麗な写真撮影が可能だ。去年、親から借金して購入したもので、現在も細々と返済中である。
将来は、自分で撮影も記事も担当する、スポーツ雑誌や新聞の記者になりたいと考えている。
視界がちょっとかすんできた。
眼鏡のフレームを指でつまんで、角度の微調整をする。
どうもまた視力が落ちたようだ。
微妙ながら眼鏡の度が合わないようで、ここ最近疲れ目が酷い。
最近のデジタルカメラには液晶ディスプレイが当然のように付いているので、撮影時に眼鏡が邪魔にならなくて便利だ。
視力は悪いが、本を読むよりは体を動かすほうが好きな性格で、得手不得手は別としてどんなスポーツをするのも好きだ。でも運動部には入っていないので、体育の授業くらいしかスポーツに接する機会がない。だからサッカーなどは、一度もやったことがない。
このスタジアムに通うようになったきっかけは、前述した通り撮影もこなす記者を目指しているということと、近場で行われているスポーツ競技がここくらいしかなかったというだけの話だ。
初めは、スポーツ競技撮影の腕を磨くことだけが目的だったのだが、スタジアムに何度も足を運び、JFL昇格へ爆進していくチームとサポーターの作る熱気に触れていくうちに、すっかり自分自身もサポーターになってしまっていた。
現在は、試合中は応援に専念したいので、練習風景くらいしか撮影しなくなった。
しかしそれでは撮影の腕を磨けないので、月に二、三回、隣の県にある大型運動場まで通って、別のスポーツを撮影している。
やがてピッチ上にはリザーブの選手もいなくなり、悠子はカメラ一式をしまった。
意識を、カメラマンからサポーターに切り替える。
ピッチから選手たちはいなくなったが、それでも両チームのサポーターは太鼓の音に合わせて大きな声援を送り続けている。
Jリーグのクラブと違ってJFLは凝った選手コールは少なく、たいていどのチームも似たような拍子で選手の名を叫んでいる。
と、そのような中で、ハズミSCの選手コールは異色中の異色である。
登録選手全員に、個別のコールがあるのだ。替え歌はなく、完全なるオリジナルだ。
まだ社会人リーグ所属であった頃、蓮見製菓社員の中に熱心な応援団員が一人おり、いつしか選手が新加入するとすぐにコールを作るようになっていった。
JFLに昇格した際に、サポート活動は一般人主導となったが、この伝統は受け継がれているのだ。
今年加入したばかりの選手、しかもまだ一試合も出場していない選手にも応援コールがあるくらいだ。
現在の応援団長の個人ホームページに行ってみると、少し淋しくて滑稽な雰囲気を感じなくもないが彼が一人で歌って吹き込んだ選手別コールの音声ファイルを聴くことが可能である。
周囲の壁やフェンスには、選手を応援する横断幕がびっしりと張られている。ピッチの周囲は陸上のトラックで、そこには地元企業の看板広告が等間隔で並んでいる。グラウンドに人がいないと、必然的にそういうところに目が行くようになる。
悠子はあらためて、観客席をざっと見回した。
収容人数二千五百人のスタジアムだが、今日は四百人といったところか。
座る席、態度、服装で分かるが、ほとんど全員がハズミSCのサポーターだ。
今日の相手サポーターは、二十人程度のようだ。
ハズミSCのサポーターは、JFL昇格してからは、いつも四百から五百人くらいと一定しており、観客席の埋まり具合は対戦相手に左右される。
少ない日には今日のようだが、多い時にはハズミSCのサポーター数を遙かに上回る人数が集まることがある。
JFLは地域密着型ばかりではないので、ホームスタジアムよりアウエイでの方がサポーターが集まるようなケースも起こり得る。遙か遠くであるはずの九州某人気チームとの対戦時など、どちらのホームゲームなのだか分からないくらいだ。
「お待たせしました、これより審判団、そして選手の入場です」
若い女性のアナウンス。スピーカーの質も悪ければ、女性の滑舌も悪く、まるで小中学校で放送委員の女子生徒が下校アナウンスをしているかのようだ。「しんぱん」が「しゅんぱん」に聞こえる。
両チームの選手たちが、隣同士並んで順々に出てきた。
観客席はメインスタンドのみであるため、選手の背中しか見えない。
選手達はピッチに入るとすぐに左右に分かれて広がっていく。選手全員がメインスタンドの方を向き、それぞれのサポーターに向けて両手を高く上げた。
サポーターの叫び声と、どんどんどんどんという太鼓の音の相乗効果でスタンドが大爆発する。
場内放送で、先ほどの女性による選手紹介が始まったが、やはりというべきか実に酷いアナウンスであった。
分からなければ事前にルビくらい振っておけばいいものを、あまりに読み間違いが多すぎるのだ。
最近、いつもこの女性だ。
悠子がここに通うようになった頃の担当は、もう辞めてしまったのだろうか。
以前の女性の喋り方は、まったく記憶に残っていないけど、ということは黒子として無難に職務をこなしていたということなのだろう。
今の担当は、声からして高校生か大学生のアルバイトであろうか。それにしても、相手チームの名前を読み間違うだけならばアウエイチームへの洗礼と捉えられなくもないが、隔週でこのスタジアムを利用しているハズミSCの選手名ばかり間違っているのはどういうわけだ。
一度ピッチ上に散らばった選手達が再び集まり、それぞれ円陣を組んで声をかけあった。そしてまたそれぞれのポジションに付く。
センターサークルの真ん中に、オレンジのユニフォームが二人。ハズミSCのツートップ、
どんよりと曇った空の下、選手、そしてサポーターが試合開始の笛を待つ。
そして今、主審の笛が鳴った。
2
ハズミSCボールによるキックオフだ。
有村耕平が、後ろにボールを戻す。パスを受けたMF
予想外であったか田中は少し慌ててしまい、適当にボールを蹴ることしか出来なかった。ボールは迫り来る九番の胸に当たり、大きくコースが変わり、タッチを割った。
運が良かった。ハズミSCのスローインだ。
田中英二が再びボールを持った。彼は今年から加入した、元Jリーガーだ。
さっそく二人に詰められるが、田中は軽やかなボール捌きでフェイントをかけ、相手の股下を抜くボールを出した。
自身も相手を避けてボールに向かおうとしたところ、対応できなかったFC島根の十四番に足を引っかけられ、転ばされた。
主審が笛を吹かずにプレー継続させたことに、ハズミSCサポーターから激しいブーイングが起きた。
「うちの十番になにすんだよ!」
悠子も、親指を下に立てた手を前に突き出し叫んだ。
今日の観客のほとんどを占めるハズミSCのサポーター、彼等は自分たちの応援でチームに初得点を、初勝利を呼び込んでやろうと必死で声を張り上げ続けている。
メインスタンドの、ピッチに向かって右寄りがホーム側の応援席である。コールリーダーや太鼓持ちなどのいる応援団を中心として、サポーターが密集している。
悠子はそんな中の、最前列に座っている。自然と声の大きくなるのも道理である。
さてピッチ上では、ピンチを迎えたFC島根が慌ててボールを外に出した。ボールは高く上がって、スタンドに飛び込んだ。右端の、周囲にほとんど誰もいない席でゆったり観戦をしていた青年が、ボールをピッチに投げ返した。
ちょうどその青年と自分との中間に、どことなく風変わりな少女の姿があることに、悠子は気付いた。
なんだか、えらくダサイ服装だなあ。
悠子がそう思ったのも、無理はない。
長めのデニムスカートに、緑のTシャツ。それぞれ単体だけで見ればその子に似合わなくもないのだが、上下があまりにもかみ合わなさすぎる。それに今頃、デニムのロングスカートもない。
ちょっと、酷い。
なにより凄いと思わせるのは、腰まで伸びた髪の毛だ。とても髪型と呼べるようなものではなく、切らずにいたところなんらかの形状を取りましたという感じ。
なんだか強風に髪の毛がばたばた激しくなびいていて、吹き飛ばされそうで、見ていてはらはらする。
後髪を縛って纏めているのは本人にとっては風対策のつもりなのかも知れないが、悲しいことになんの対策にもなっていない。
あっちへこっちへ、これは何の武器だという具合に暴れている。
前髪も、やはり風に煽られて弄ばれている。
自分自身の髪の毛にいじめられているようで、実に痛々しくも思えるが、でもそれは、そのような髪型を選んだ彼女の自業自得というものだ。
しかし目立つな、あれ。
って、え、あれっ? ……なんだかあの顔、見た覚えがあるぞ。
と、悠子は眼鏡のフレームをつまんで微妙に動かしてみるものの、ピントがうまく合わない。
ああ、イライラする。また目が悪くなったかな。今度、眼鏡を買い換えよう。
反対側サポーターの、どっという声に、悠子は注意をピッチへと戻した。
ちょうどFC島根の選手が放ったロングシュートが、ハズミSCゴールに突き刺さるところだった。
悠子はがっくりと首をうなだれ、長い溜め息をついた。
その後、ハズミSCはさらに追加点を許し、0-2で負けた。
今節も、初勝利どころか初得点もかなわなかった。
3
偶然にも同じ車両に乗り合わせたのだ。
まあ三十分に一本で、なおかつ六両しかないのだから、特に奇跡というわけではないのだろうが。
何故スタジアムで思い出せなかったのかというと、悠子の記憶にある髪型とまったく異なっていたからだ。
でも顔はよおく覚えている。
絶対に本人だ。
自分、近眼だけど、でもこの距離だ、見間違えようがない。
そういえば、中二の途中から髪を伸ばしてたっけ。
ああ、そうだ、卒業式の時には、もうあんなだった。それを忘れるなんて。たかが数ヶ月前のことなのに。
ほとんど乗客がいない車両の中。悠子とその少女は、車両の端と端である。
少女は、ドアにもたれるようにして立っている。車内はガラガラだというのに。
悠子は、座席に腰を降ろしていたが、少女の正体について確信を持つと、立ち上がった。
スポーツバッグを手に取ると、揺れる電車の中、吊革に掴まりながら、ゆっくりと少女へと近寄っていく。
五、六メートルほどの距離にまで近付いたところで、声をかけた。
「佐久間さん?」
その声に、少女はびくりと反応した。
誰かが近づいてくることに気付いてはいたものの、急に声をかけられてびっくりしたという様子だ。
ゆっくりと、少女は、悠子のほうを向いた。
「近藤……さん?」
ぼさぼさ髪でほとんど隠れたような顔の中から、少女は、小さく口を動かした。
「ああ、やっぱり! 佐久間さんだったか」
悠子の楽しげな声に対してか、同窓生と出会ったことに対してなのか、少女、佐久間風子は反射的に逃げだそうと、素早くきびすを返していた。
走り出そうとする寸前、電車がカーブにさしかかって大きく揺れた。佐久間風子は、咄嗟に手すりにしがみつき、倒れそうになる身体をなんとか支えた。
「大丈夫? 揺れるからね、この電車。……久しぶりだね。佐久間さんとは、ほとんど話したことなかったけどさ、中一、中二っていつも敦子と一緒にいたから、よく覚えているよ」
悠子と
中学での、敦子の仲良しグループの中に、佐久間風子がいたことを知っている。
だから、ほとんど話したこともないのに風子の顔を覚えていたのだ。
「敦子ね、あたし
と、その瞬間、悠子は驚きに肩をびくりと震わせた。
風子に、両肩を掴まれていたのである。
触れるその手がかすかに震えていることに、悠子は気が付いた。
ごくり、と唾を飲み込んだ。
「敦子から……なにを聞いたの? ……どこまで……知っているの?」
風子は弱々しく体を震わせながらも、恐ろしい形相で悠子の顔を睨み付けていた。
いや、それは悠子を通り越して遙か遠く、遙か過去を見ているような、そんな視線にも思えた。
「だから詳しいことは全然知らないってば。……それより、痛いよ」
「あ、あ、ごごっ、ごめんなさい!」
小さく万歳するように、風子は慌てて肩から手を離した。
我に返った風子は、もうすっかりおどおどとしたいつもの状態に戻っていた。
電車が駅に停車して何人かが降り、車両には近藤悠子と佐久間風子の二人きりになった。
悠子はあらためて腰を降ろした。
「佐久間さんも座ったら」
風子は無言で頷くと、促されるまま悠子の隣に座った。
「あのさ、佐久間さん、さっきサッカーの試合観てたでしょ」
風子は黙っていたが、やがて小さく頷いた。
ぼさぼさ髪の間から見える風子の目に、疑問符が浮かんでいることに気付いた悠子は、バッグからハズミSCのレプリカユニフォームを取り出してみせた。
「東北社会人リーグの頃からのハズミサポ。といっても、一年くらい前からの新参者だけどね。……試合場でさ、なんかあの子、見たことあるような気がするなあ、って思ってたら、やっぱりだったんで、ほんとびっくりしちゃったよ。なに? 佐久間さんもサポなの?」
「サポって?」
風子は尋ねた。
「サポーター。応援する人だよ」
「どう……なんだろう」
風子は自問していた。
いつまでも考えているものだから、悠子は違う話題を振った。サッカー絡みではあるが。
「試合観戦は、初めて?」
「三回目」
「サポだねえ、それはもう立派な。たとえ最初は他の目的で来てようと、何度も観に行っているうちにサポになっちゃうもんだよ。あたしがそのいい例だよ。あれじゃない、応援歌ももう頭に入ってんじゃないのぉ。これ分かる? 決めろ~♪ オ~レ~♪」
「
風子はうつむいたまま表情一つ変えずに、ぼそぼそと呟いた。
「素晴らしい、正解っ。でも、こう返さなきゃ。決めろ~♪ オ~レ~♪ っていわれたらね、とどろ~きゆ~う~じ~♪ どどどん ゆ・う・じっ!」
思わず絶叫してしまい、ついあたりをきょろきょろ見回す悠子。自分ら二人以外に誰もいないことにほっとし、一人でけらけらと笑っている。
「あの……そのユニフォームって、ど、どこで……売っているの?」
「ハズミの公式HP見たことある?」
風子は頷いた。
「そこの一番下から、グッズ販売のページに行けるよ。今年のホーム開幕戦の時にはスタジアムでも販売していてね、あたしはその時に今年のユニとタオルマフラーを買ったんだ。あの日は無料チケット配って、二千人くらい集まったなあ。ボロ負けしたけど。宣伝効果もむなしく客足は遠のくばかりだけどね、こう弱くちゃ」
「そうなんだ」
風子はそういったきり、うつむいて黙っている。話を振るだけ振って、全然興味ないのかしら、と悠子は不思議がる。
悠子は別にお喋りではない。人並みだ。中学時代の同窓生と出会って黙っているのもためらわれたし、風子がほとんど口を開かないものだから、間をもたせるためには自分が喋るしかないのだ。
とはいうものの、会って話は尽きぬという間柄でもないし、いつしか悠子も話題がなくなってきた。
でも、風子との間の取り方が分かって来たので、悠子は無理に喋るのをやめた。
ごとん ごとん がたん と、電車の走る音だけが聞こえてくる。
ごとん ごとん。
揺られているうちに、悠子にちょっとした疑問がわき、また口を開いた。
「ねえ、佐久間さんて、確か
問いに、風子は頷いた。
「公立とか商業高校っていうと地味なイメージあるけどさあ、あそこの女子の制服って深緑のブレザーに赤いチェックのスカートで可愛いんだよね。あたしは
私立華鳴北第二高等学校。
阿尾敦子と同じ高校である。
それがきっかけであったのだろうと、後に悠子は気付くのだが、風子はまた掴みかからんばかりの勢いで悠子へと迫った。
「あ、あの……こ、ここ、こん、近藤……さん、は……ほ、ほほ、本当にっ……あ、あつ、あつ、敦子、から……なな、な、なにも、き、きき、聞いて……」
いきなり風子のどもりが酷くなった。聞き取るだけで一苦労だ。
「なんかそんないわれかたされると、なにがあったのか興味持っちゃうなあ。……って、ごめん、これ冗談。安心して。なにも聞いてないよ」
風子はなんともいえない表情で、悠子をみつめ、息を荒らげている。
ほっとするべきなのか否か、自分がここでどう思えば良いのか、そういう気持ちのコントロールがまったく出来ていないように、悠子には思えた。
「敦子とは、中学の時はほとんど話さなかった。あの子は佐久間さんたちと、あたしはまた別の友達と一緒にいるようになったから。でもあたし、敦子と高校が同じだったんで、また一緒に通学したりするようになったんだよ。……中学の時の話になると、佐久間さんに悪いことしたって話ばっかりで。本当に辛そうな顔してた。さっきもいったけど、詳しいことはなにも聞いてないから。……もう、聞きたくても二度と聞くことは出来ないし」
「それ、どういう……」
風子のぼさぼさ髪の奥に輝く眼光が全身に突き刺さり、悠子は耐えられず、ゆっくり大きく呼吸をした。
「……ここで佐久間さんに会った時から、いうべきかどうか、ずっと迷っていたんだけど、やっぱりいわない訳にはいかないか。……彼女ね、先月に亡くなったよ。交通事故」
そういうと、悠子は座ったまま身体と首を曲げて、窓の向こうに視線を向けた。風子の反応を確かめるのが、悪いような気がして。
果てなく広がる田園風景が、ゆっくりと横へ流れていく。
少しの間をおいて、悠子は続ける。
「見ず知らずの幼稚園の子を突き飛ばして助けて、自分は暴走トラックに跳ねられて……ほとんど即死だったって」
ばん。と、隣でなにかを殴る音。
ばん。
ばん。
と、その音が二度、三度と続き、悠子は思わず身体の向きを直して風子のことを見た。
なんの音なのかは、すぐに分かった。
風子が、膝の上に置いてあるバッグを叩いていたのである。
右手を高く振り上げては振り下ろし、左手を高く上げては振り下ろし。
なにかから逃れようとしているかのように、一心不乱に、風子は自分のバッグを殴り続けていた。
悠子は、それをただ黙って見ていることしか出来なかった。
4
「佐久間、お前どこの部活にも入っとらんよな」
教師の言葉に、風子は黙って頷いた。
ここは放課後の職員室だ。
部活動の件で、担任教師に呼び付けられたのだ。
「お前の口は飾りもんか。口が付いとんなら、きちんと返事をせんか。もっさりした髪をしおって。ええとだな、知っとるだろうが決まりではみんな部活に入ることになっておる。もう七月だぞ。分かるか? 部活選びの猶予期間はとっくに過ぎとるんだ。早くどこか決めろ、なんでもいい。どこでもいいから、どっか入れ。決まりを守らん奴がおると、迷惑だ」
風子は黙って下を向いているが、心の中では激しく拒絶をしていた。
意地で毎日学校に通ってはいるものの、こんな学校に一秒だっていたくはないのだ。
なのになんだって、部活動になど参加しなければならないのか。
授業が終わったらさっさと下校して、ケーキ屋でアルバイトをしていたほうがよほど社会のため自分の将来のためだ。
ケーキ屋の仕事のように、ただ黙々と手を動かしているだけでいい部活でもあればまだしもだが、風子はなるべく他人とのコミニュケーションが発生するような場にはいたくない。
真剣に部活を探すふりだけして、なるべく引き延ばそう。
最悪入るとしても、幽霊部員でいても文句の出ないような、雰囲気の緩そうなところにでもしよう。
自分のクラスには、遠金恵理香など部活に所属はしているものの参加せず帰ってしまう者などたくさんいるのだし、どうにでもなるだろう。
とりあえず、善処しますと職員室を逃れたはよいが、いずれにしても面倒事が増えたのには違いない。
いつも以上に憂鬱な気分で学校を後にすることになった。
そういう気の持ちようが、余計に不幸を呼び込んでしまうのだろうか。……自転車でアルバイト先のケーキ屋に向かう途中、繁華街を徐行していると、真横から容赦なく蹴り付けられ、一瞬の空中遊泳をしたかと思うと地面に叩き付けられていた。
「おい」
激痛と、ぐるぐる回る視界の中、遠金恵理香の声が聞こえた。
5
佐久間
歩きながら、買ったばかりのボールを一つ、上に高く放り投げてはキャッチを繰り返している。
良信は野球部員だ。
まだ中一で、入ったばかりなので、球拾いと筋肉トレーニングだけで、キャッチボールすらやらせて貰えない。
部活時間終了後に一年生の仲間と勝手にキャッチボールをしていたところ、先輩に熱心さを褒められたので、翌日も同じようにしていたら、別の先輩にこっぴどく怒られ、空気椅子三十分の体罰を与えられたことがある。
そのように、先輩達の気分や価値観の違いにより酷い目に遭うので、一年生はみな少しでも先輩に怒られる可能性のあることは決してしないように気をつけている。
良信も、いついかなる曜日時間であろうと、校庭ではキャッチボールをしないよう注意するようになった。だから最近良信は、自宅前で友人とキャッチボールをすることが多い。
今日もこれから、買ったばかりの軟球でキャッチボールをする予定だ。
別に野球ボールを買ったからといって野球が上手になるわけではないが、新しい道具を持つのは嬉しいものである。なんだか上達した気分になってくる。本屋で勉強の参考書を選んでいると賢くなった気がするようなものだ。
上手にキャッチボールする姿から、行く末はプロ野球選手といった未来まで想像して、ちょっと上機嫌になる良信。
ささやかな幸せとは思うが、ささやかな幸せを見る権利くらい誰にでもあるだろう。
しかし、その幸せ気分を、急転直下で地面に墜落させられることになろうとは……
「おい、クマ、黙ってんじゃねえぞ!」
怒声。
人混みの向こうで、姉の風子が不良っぽい女子高生三人に取り囲まれているのを目撃したのである。
三人とも、姉と同じ制服を着ている。
またいじめられてるよ……
気持ちがげんなりしてくる。
いじめられていること、姉には、絶対にお父さんお母さんにはいわないでって口止めされている。しかし姉は、いじめに立ち向かわずに黙っているだけなのだ。
自分で解決する気がさらさらないのなら、せめて他人に頼れよ、他人を利用しろよ、といいたい。中一ごときにこんなふうに思われて、恥ずかしくないのかよ、と思う。
姉は、倒れた自転車の横に自分も転がっており、上半身だけを起こして、三人組からの罵倒を受けている。
どうせ、自転車に乗っているところを横から蹴倒されたのだろう。
怒ることも、逃げることも出来ずに、時が過ぎるのを待っているのだろう。
「てめえ、あの時のこと、誰にも喋っちゃいねえだろうな」
良信は想像する。先日、ボロ雑巾のように服が破れ、痣だらけになって帰ってきた時のことだろうか。
それとも、妙にタバコのにおいをプンフンさせて帰ってきた時のことだろうか。
それとも、髪の毛が変な形に結ばれて帰ってきた時のことだろうか。
それとも、自転車のタイヤをパンクさせて帰ってきた時のことだろうか。
いっぱいありすぎて、なにがなんだか。
「……だ、誰にも……いってない」
「いってないですだろ、何様のつもりだよお前。クラスのゴキブリのくせしやがって。気色悪い顔しやがってボケ。誰に断って生きてんだあ?」
「すす、すいません。い、いって……ないです」
この、最低のバカ姉貴! ゴキブリ以下だ!
良信は、思わず手にしていたボールを投げていた。
姉の胸ぐらを掴んで引っ張り起こそうとしていた、いじめっ子リーダー格の女子生徒の左頬に直撃。
軟球だから破壊力はないけれど、ビシリと重く鋭い音と同時に、少女は身を仰け反らせた。
お見事。と良信は心のなかで自分を褒めたが、実は単なる偶然だ。良信はあまり投球コントロールのよいほうではない。
ついカッときてしまい、姉や通行人に当たっても構わない気持ちで、いや、とにかくなにも考えず、思い切り投げたら運良く命中しただけだ。
「このクソガキ、なにしやがんだ!」
少女が左頬をおさえ、怒鳴った。
「うるせー、ババア。バーカ。アホ。一家全員大デベソ」
良信はきびすを返し、自分の尻を叩くと、走って逃げ出した。
台詞といい仕草といい、まるで大昔の漫画のようであるが効果は覿面だったようで、
「テッペン来た!」
少女も、これまた古い台詞を叫んで、少年を追って走り出した。
連れの二人が慌てて後を追う。
一人残された良信の姉は、道に転がり落ちているボールを拾うと、ぎゅっと両手で握りしめるのだった。
6
午後九時半。
アルバイトを終えて帰宅した佐久間風子は、二階にある弟の部屋に行き、野球ボールを返した。
「姉ちゃんさあ、高校に行ってもまだいじめられてたのかよ。まったくだらしねえよな。しっかりしてくれよ。学校だけならまだしも、街中でまでいじめられてて、みっともねえったらないよ」
ボールを渡すなり、弟にきつい一発を浴びせられた。
「そんなこといわれても……。お姉ちゃん、これでも頑張ってるんだから」
「どこが。さっきの駅前でのことしか見てないけど、全然頑張ってねえよ。ゴキブリとかいわれてたけど、ゴキブリのほうがずっとマシだよ。……そりゃ、必死に苦痛を耐えているってことでは、頑張ってんのかも知れない、辛いかも知れない、けどそれだけで、全然解決しようって気がないじゃん」
中一のくせに……
そういう立場になったことがないから、理屈だけで好き勝手なことがいえるんだよ!
風子はそう思ったが、思いを口に出すことは出来なかった。
唯一普通に接せられる存在を、つまらない喧嘩で失ってしまうのが怖かったから。
「ごめんなさい。……もっと頑張ってみるから」
だから、見捨てないで下さい……
風子は謝ると、素早く良信の部屋を出て行った。
弟の言葉は、もやもやするからいわずにいられなかったのが半分だろうが、残る半分は本心から自分のためを思ってのものだろう。伊達に十数年も屋根をともにしていない。
しかし、もやもやしているというのなら、風子も同じだ。
理解してもらえない心のもやもや。それをどうしても取り払うことが出来なかった。
嫌われたくないから本当の思いも話せないなんて、既に弟とも本当の信頼関係なんてものはないのかも知れない。この数年で、全部自分が壊してしまったのかも知れない。
人間嫌いのくせに、世界で一人きりの孤独感、未来へのどうしようもない絶望感を胸に抱いて風子は自室に戻る。
自室に入り、電気をつける。
机の上に置いてある写真立ては、相変わらず後ろを向いたままだ。
その写真の中には、楽しげに笑っている風子と阿尾敦子とがいるはずだ。
しかしもう二人とも、この世にはいない。
敦子は交通事故で亡くなった。
そして……笑顔の自分も、もうこの世のどこにもいない。
7
前節で、JFLは前期日程を全て終えた。
なんとハズミSCは、「一勝どころか一得点も出来ず」というJFL史上かつてない最低最悪の結果を残し、リーグ戦を折り返すこととなった。
今日は七月六日、JFL後期第一節。
ハズミSCは、ここ華鳴市立烏ノ山陸上競技場で熱海エスターテを迎える。
熱海エスターテは去年からJFLに参入したチームで、守備をかなぐり捨てて殴り合いをしかけてくるような攻撃型性格のチームだ。
前期では三勝しかしていないが、無得点だったことは一試合もない。
しかし無失点で終えたことも、ほとんどない。
前期の対戦では、0-5でハズミSCは敗れているものの、一番得点のチャンスがあるカードには違いない。勝ち負けは、ともかくとして。
いまだ無得点のハズミSCに、「ゴール」という実績と今後に繋がる自信を与えるために、関係者の期待が大きくかかる一戦である。
佐久間風子は、スタジアムを吹き抜ける風を全身に浴びていた。
座席の一番後ろに通路があり、その手すりにもたれかかっている。
全て自由席とはいえ、風子の座る席のあたりはいつもガラガラだから、別に試合開始直前までこうしていても席の確保には困らないのだ。
ピッチ上でウオーミングアップをする選手たちを見ている。
今日も暑い日だけど、そよそよと当たる風が肌に心地よい。
「ねえ、佐久間さんじゃない?」
声の方を向くと、近藤悠子が近寄って来るところだった。
今日はコンタクトをつけているのか、眼鏡はかけていない。
「ああ、やっぱり佐久間さんだったか。この前とは、またまた変わっちゃってんだもん、全然気が付かなかったよ」
顔をくしゃっとさせ、無邪気に笑う悠子。
彼女のいう通り、確かにこれまでの風子とはまったく雰囲気が違っていた。
まずは服装。光沢のあるオレンジ色の服に、ジーンズという姿。胸には青く大きく、HAZUMIの文字。そう、風子はハズミSCのレプリカユニフォームを着ていたのである。
しかし悠子のいう大きな変化とは、その点ではないだろう。
風子の、腰まであった髪の毛が、すっかり短くなっていたのである。
後ろ髪は肩よりも短く、首の地肌が完全に露出している。前髪は軽く横に流して、おでこを見せている。
「うひゃあ、よく見るともの凄いイメージチェンジだ。すっごいショート。これまた一体どんな心境の変化?」
「かか、風で……じゃ、邪魔、だった……から」
喋り方や伏せ目がちなところなど、おどおどした態度は相変わらずだ。それでもこの髪型の変化は、だいぶ垢抜けた感じを悠子に与えたことであろう。
「そういや中学の頃、伸ばし始める前はずっとそんな髪型だったよね。戻したんだ」
「もも、戻したというか……」
口を閉ざし、数秒間の沈黙。そして、風子は頷いた。
望んで元に戻したわけではない。二年ぶりだというのに、美容院の女性店員に顔を覚えられていており、「久しぶり、いつものでいいの?」と唐突にいわれて、どう返事をしていいものか分からずに、つい頷いてしまったというだけだ。
本当は、ほんの少しだけ短くするつもりだったのに。
「ここさあ、いっつも風強いもんねえ。この前の風子ちゃん、飛ばされる髪の毛に引っ張られて自分自身が飛んで行きそうに見えたよ」
いつの間にか呼び方が風子ちゃんになっている。この前は、佐久間さんだったのに。
「あれ、ユニフォームも買ったんだね。似合っているよ。可愛いよ」
「か、可愛くなんか……ない」
風子が顔を赤らめていると、横から、
「いやあ、そんなこたあないよお」
男の太い声が、二人の鼓膜を震わせた。
声の発信源の方を見れば赤ちゃんを抱いた中年男性、その隣には一回り近く年下に見える女性がいる。二人ともハズミSCのレプリカユニフォームを着ている。
「なに? 彼女サポーターデビューなのか?」
男は風子を手のひらでさす。モジャモジャと生やしたあごひげの中に、顔が埋まっている。丸々と太った熊のような大男だ。
「違うよおじさん、ユニフォームデビュー」
悠子は答えた。
「二人とも、高校生かい?」
「うん」
悠子は頷く。
「家族が蓮見製菓の社員とか」
「違うよ。単なる一般サポ」
「へえ、いくら県内にJリーグのチームがないからって、変わってんなあ。こんな可愛らしい娘が二人して、日曜の真っ昼間にJFL観戦かよ。でもまあ、ありがたいことだ、どんどん来てくれよな、友達でも誘ってさ。後援会員になって前売り券買うと、もっとお得だよ。残念ながらべっぴんさん割引はないけどね」
「なんかおじさん、営業の人みたい。残念だけど健全な女子は赤貧なんだ、いくら褒めたってなんにも出ないよー」
「営業はよかったな、はは。おれも、まあ服装で分かる通り、サポっちゃサポなんだけど、蓮見製菓の社員なんだよ。ここみたいに、近場で試合のある時には、こうして嫁とガキ連れて応援に来るんだよ」
「こう見えてもねえ、この人、一昨年までは現役の選手だったんですよお」
傍らで控えめにしていた奥さんが、軽く笑みを浮かべ、口を開いた。
「へえ、凄いな。あたし去年からのサポだから分からないんだけど、どこのポジションだったの?」
悠子は興味しんしんだ。
「ボランチ」
「うっそお、そんな太ってんのに……あ、ごめんなさい」
悠子は慌てて口元を押さえた。
「あはは。こんな太ってたら、どこのポジションだってつとまりゃしない。現役引退して太ったんだよ。もともとが太りやすい体質だったから、動かなくなったら途端にこのありさまさ」
男は自分のお腹を太鼓のように叩いて見せる。それが面白かったのか、抱きかかえられていた赤ちゃんが笑い出した。
「食事は、ダイエット食しか作っていないんですけどねえ」
ため息混じりに、奥さんも彼のお腹を叩いた。
「あ、あの、ボ、ボラ……チということは……あ、あき、秋高……選手と……」
風子が激しくどもりながら、不意に会話に割って入ってきた。
「テツか? おれの晩年は、まだ若造だった奴とのダブルボランチだった。ま、あいつはおれの背中を見て成長したようなもんだ」
男が偉そうに語る。
「なに、風子ちゃん、テツのファンなの?」
悠子が楽しげに尋ねた。
「ま……前に、え、駅前で、バッグ盗まれたのを、と、取り戻してもらった……」
「へえ、あいつらしいな。直情型だから」
男が納得したように笑みを浮かべた。
「分かった、それがきっかけでハズミのサポになったんだ」
「べ、別に、サポーターじゃ……」
「どこからどう見てもサポ!」
男と悠子の二人は、まるで示し合わせたかのように口調を合わせて風子のユニフォームを指さした。
風子は軽く視線を落として、自分の着ているものを見た。
そうか、いわれてみればユニフォームまで着て観戦に来ていればサポーターと思われても仕方がないのか。
そういえば、どうしてユニフォームなんか買ったんだっけ。
わざわざ買ったくせに、そのあたりが自分でもよく分からない。
観客席には着ている人が多いので、かえって目立たなくなるだろう、とかなんとか理由付けをしていたように思う。
よしんば、それが理由だとしても、そもそもどうして毎回こんなところまで足を運んでいるのだろうという疑問にぶつかってしまう。だって、ここへ来るから、目立たないようにユニフォームでも買うか、という発想に至ったわけで。
「ま、しっかり応援してやってくれよ。あいつら単純だからさ、可愛い女の子が応援してやりゃ頑張っちゃうよ」
「いわれなくたって、ずっと応援するよ。Jに上がれるようにね。J2、J1、いつかはチャンピオンズリーグ出場だ、いや優勝だ!」
「ところが、ハズミはJリーグ入りは目指してないんだな」
「え、そうなの? でもJFLって優勝すればJ2に上がれるんじゃないの? 上を目指して、どこも戦ってるんでしょ?」
単純な、乱世の戦国ピラミッドを思い描いていたのであろう。ちょっと驚いたような、悠子の表情であった。
「いや、どのクラブも目指しているわけじゃあない。JFLには大学だっているし、Jリーグクラブの下部組織であるアマチュアチームだっているし。なんといってもJリーグに上がるためには、いろいろな条件をクリアしないといけないんだよ」
「条件?」
「きちんとしたスタジアムを持っているか、きちんとしたチーム運営が出来るか。平均動因数とか。座席を拡張すりゃいいといっても、下手すりゃ大赤字を抱える羽目になる。蓮見製菓は、ハズミを名乗ったまま当面JFLで企業宣伝していくことを選んだんだよ」
「なるほどねえ。そういや、Jリーグのチームって、ニックネームみたいなのと都市名なんかを組み合わせてチーム名にしているよね」
「そう。逆に、企業名を付けちゃ駄目なんだ。去年加入した熱海エスターテも、今年加入したFC島根も、最初からJリーグ入りを目指しているから地域の名を付けているわけさ。そして、現状のいろんな損得を考えて、蓮見製菓は今のスタンスをとっている。ま、いつかJリーグ入りを目指さないとも限らないってわけだ。といっても、このまま負け続けたら、入れ替え戦決定だけどな。もしそれにも負けでもしたら、去年までの社会人リーグに逆戻りだ」
「まずいじゃん、おじさん! 入れ替え戦は社会人リーグ相手なんだからって気を抜いてたら、絶対やられるよ! 気を抜くことはないだろうけど、とにかく入れ替え戦は、絶対に回避しないと。それには得点だよ。だいたいさあ、なんでここまで点が入らないの? 高校生がジュビロ磐田と練習試合やっても、たまには得点するよ」
「……なんでだろうなあ。ちょっとずつ形になってきてはいるんだけど、負ける度に負け犬根性もどんどん膨らんできちまっているからなあ。点があまりにも入らないことで、選手同士の雰囲気も悪くなっているし。まぐれでも一点入れば、大きく変わるかも知れないけど。……いや、まぐれでも何点かは入るだろ、普通。おれも信じられないよ。……ああ、もうじき試合始まるな。じゃあ、おれはいつもの席で観戦すっから。それじゃ、応援頑張ろうぜ」
男は階段を降りて行った。
奥さんは少女たちに会釈すると踵を返し、亭主の後を追った。
「じゃあねー、面白いおっちゃん」
悠子は手を振った。
拡声器を使って、コールリーダーが叫んでいる。
「きょ~こそゴオルを決めて勝つぜえ~!」
ドン ドン ドン
オーイ!(サポーターの叫び声)
「きょ~こそ、お得意様の名を返上するぜえ~~!」
ドン ドン ドン
オーイ!
オオオ~~~~
ドドンドドンドン!
ハズーミエスシー!
ドドンドドンドン!
ハズーミエスシー!
ドドンドドンドン!
ハズーミエスシー!
ドドンドドンドン!
ハズーミエスシー!
オーイ!
男たちの絶叫とともに、紙吹雪が宙に舞う。
風子と悠子も、手にした紙くずを高く放り投げた。
さきほど応援団の者が手分けして配っていたのを、受け取ったのだ。
「今日の応援はすっごい気合いが入っているなあ。なんかさあ、今日こそ勝っちゃいそうな気がしてきたぞお。JFLでの初ゴール、この目に焼き付けるぞお」
悠子は周囲を見回す。このムードに、なんだか気持ちが弾んでいるようだ。
風子も思っている。確かに、今日は応援団の気合いが凄いな、と。
さきほどの、蓮見製菓社員を名乗る中年男がいっていたように、得点さえあげられればチーム浮上のきっかけになるかもしれない。そして、本日がもっとも得点の期待出来るカードなのだ。対戦相手の熱海エスターテは、開幕から、一試合を除いてすべて失点しているからだ。みな、それをよく分かっているのだろう。まあ、その熱海エスターテが唯一失点をしなかったカードというのが、前期でのハズミSC戦なわけであるが。
ピッチにはユニフォームを着た選手たちが揃い、円陣を組み、散らばり、そして、
主審の吹く笛が鳴った。
ハズミSCボールでキックオフだ。
FW有村耕平は自陣へボールを戻す。
ちょっと強く蹴り過ぎてしまったようで、MFの田中が受け損ねてしまう。
走り寄って来た熱海のFWは、そのまま駆け抜けてボールを追う。
田中が慌てて後を追いかける。
ハズミのDF
ハズミSC 0-1 熱海エスターテ
試合開始後、わずか十秒足らずであった。
熱海サポーターから、激しい太鼓の音が上がった。
「なにやってんのよ、もう」
悠子はぐにゃりとクラゲのように脱力して、風子の肩にもたれかかった。
「な、何点取られたって……一点……入れてくれれば……」
風子の呟き声は、サポーターの声援にかき消されてしまう。密着していなかったら悠子にもまったく聞こえなかっただろう。
熱海ゴール前での混戦、熱海のクリアボールを拾ったハズミSCのボランチ秋高鉄二は、後ろから背中を激しく押され、倒れた。
ペナルティエリアのすぐ近くという絶好の位置で、ハズミSCがFKを得た。
田中英二が、ボールをセットする。主審に位置をもう少し下げるよう指示されている。
ゴール前では両チームの選手達が密集し、審判に注意されない程度にささやかな小競り合いが行われている。
「また、なんか目を閉じて呟いてるよ。ナベテル、いつもなんていってんだろ」
悠子はオペラグラスから目を離した。
ナベテル、
「目には青葉……」
風子は呟いた。
ゴール ハズミ ゴールゴール!
ゴール ハズミ ゴールゴール!
ハズミSCサポーターの大声援。ゴールチャンスの大いにあるセットプレーの際には、だいたいの場合このコールが使われる。
悠子も合わせて、大きな声で叫んでいる。
風子は口をかすかに開き、小声で呟きながら、手拍子を送っている。
ゴール ハズミ ゴールゴール!
大声を出せない分だけ、心の中では誰よりも強くハズミSCのゴールを念じていた。
……あれ……これって、サポーターなのかなあ。
などと風子が自問していると、主審の笛が鳴った。
田中英二が熱海ゴール前にいる集団を目掛け、ボールを蹴り込んだ。
熱海の選手にヘディングで大きくクリアされ、これまた待ち構えていた熱海の選手に拾われてしまう。
熱海の素早いカウンターに、ハズミSCの選手達は慌てて後を追うが、陣形を整えることも攻撃を遅らせることも、なにも出来ないまま、熱海のたった二人の選手にどんどんどんどんボールを運ばれていく。
それから風子と悠子の口からため息が漏れるまで、十秒とかからなかった。
この試合の結果は……いうまでもないだろう。
8
教室でのクラスメイトたちの反応は、当然といえば当然だった。
はじめは、別のクラスの女子生徒が間違って入って来たのかと思ったような顔。
しかし、普通そうであれば女子生徒もすぐに気付いて恥ずかしそうに教室を出ていくだろう。
それがなんと、迷わず佐久間風子の席に着いたのだから。
彼らから発せられる、
「しかし」
「まさか」
「でも」
「やはり」
「いや、しかし」
といった、オーラ。
やがて、
「もしもーし、あなた教室間違ってませんか~。何組の生徒ですか~」
お調子者の
「い……1-B」
疑惑が確信に変わったということか、教室内が一斉にざわついた。
やはり、女子生徒は佐久間風子だったのである。
佐久間風子が、あのなんだか別の生き物が乗っかっているかのような凄まじい長髪を、ばっさりと切り落としたのである。まるで少年のように短く。
「おい、ブーコのやつ、あんな可愛い顔だったのかよ」
「やっぱり教室間違った別人じゃねえの」
「いや、確かにあんな顔だったよ。今まで部分部分しか見えなかったから、よく分からなかったけど。しかし髪切るだけで変わるもんだな」
「ほんと。すっげえブスだと思ってたら全然。反対なんだもんな」
みな思い思いを口にしている。
あまりの変化に、みんな近寄りがたそうだ。もともと風子に近付く時など、からかう時、いじめる時くらいのものであったが。
「おいブー、なんで、髪切ったんだよ」
「……サッカー見るのに……邪魔……だったから。……ほ、本当はちょっとだけ、短くするつもり……だったんだけど……」
風子には珍しく、聞かれていないことまで答えていた。相変わらず、つっかえつっかえではあったが。
「なに、お前サッカー観戦すんの? どこ? 遠いべ。だって仙台か山形だろ」
「……ハズミSC」
ぼそぼそ、と答える。
「わお、蓮見製菓サッカー部かよ。お前、どえらいオタクな趣味してんなあ」
種田は国内外問わずサッカー全般が好きで、近所のチームということでハズミSCも名は知っていた、ということであった。
今日は髪を短くしたことだし驚かれるだろうな、と覚悟はしていたが、風子のほうこそ驚かされることになった。風子の態度自体はまったくの普段通りなのだが、種田があれこれと聞いてくるので応じているうちに自然と会話が弾んでしまっていたのである。
放課後。
風子は、女子トイレの鏡に向かっている。
他には誰もいない。
特段の意味はないが、なんとはなしに「ゆ」「う」「じっ!」の手つきを練習してみた。
ハズミSCのFWである轟佑司の応援は、最後の「ゆ」「う」「じっ!」の部分で、顔の前にかざした手を、微妙な指使いで素早く動かす。近藤悠子によると、それをサポーター全員で行うのがミソなのだそうだ。
先日の試合後、得点力不足を急に憂いはじめた悠子に、その仕草のための居残り練習をさせられた。
今度までに絶対に覚えてきてね、といわれている。
風子は鏡に映った自分の姿を、じいっと見る。
今日一日のことを振り返っていた。
みんなの態度を思い出すと、くすぐったいような心地よさに全身が包まれる。
自分次第で、他人の自分への態度というものは、良くも悪くもなるのだ。
ゆっくりでいい。
変わって行こう。
どうやら自分には、JFL観戦が自分を変える役に立っているみたいだ。なら、まずは近藤さんみたいに、しっかり応援できるようになろう。
変わって行こう。
痛みを少しでも和らげるために。
少しでも、他人にとって無害な存在となれるように。
苦痛の少ない人生を送れるように。
死ぬまでは、生きていないとならないのだから。
びしり、
と、いきなり、頬をひっぱたかれるような鋭い音と痛みが、風子を襲った。
足下になにかが落ちる。
濡れ雑巾だ。それが、風子の顔面に投げ付けられたのだ。
女子トイレの出入り口に、
「お前さ、調子こいてるだろ」
遠金は、風子へと近寄った。
「……そんなこと」
「じゃ、なんだこれ。えらいオシャレじゃん」
遠金は、風子の短い髪の毛を無理やりに掴むと思い切り引っ張った。
痛みに、顔を歪める風子。
「気分いいか? 注目されて、気分いいか? でもおかげで、あたしの気分は最悪だ。どうしてくれんだよ。なあ」
風子のすぐ眼前に、遠金の顔があった。薄笑いを浮かべながらも、目を吊り上がらせて風子を睨み付けている。
「そんなこといわれても」
「日本語分かんねえのかてめえ! どうしてくれるって聞いてんだよ!」
風子は腕を掴まれ、振り回されて壁にぶつかった。
「ムカツクんだよ、てめえ」
苦痛に顔を歪める風子は、腕を再び引っ張られ、個室の中へと突き飛ばされた。
とと、とよろけるところを、背中を蹴飛ばされ、個室内の壁に叩き付けられ顔面を打ち付けた。
髪の毛を短く切ったといっても、女の子である。掴めるほどには、ある。その髪の毛を思い切り引っ張られ、無理やりに跪かせられた。
風子はもがいて抵抗をする。
遠金は構わず、さらに力を入れて、和式便器の中に風子の頭を突っ込んだ。
ぱちゃ、と顔をそむけようとする風子の頬が水面に触れた。さらに、ぐいと押し付けられた。
「汚えゴキブリを、消毒してやるよ。ついでにベロでトイレ掃除でもしやがれ!」
遠金は、風子の頭をがっちり押さえつけながら、肘でレバーを押した。
激しい勢いで吹き出す白い飛沫の中に、風子の頭は隠れてしまった。
ぷはと息を吸いながら、風子はなおも全力で逃げようとするが、後ろから谷澤達子と矢野舞子に押さえられて動けない。
滝のような大量の水が、風子へと降り注いでいる。
三人にも飛沫がかかるが、彼女らは気にもせず、笑いながら風子を押さえ付けている。
水の流れがおさまると、ようやく遠金は、風子の髪の毛を掴んで引っ張り上げた。
風子は、思い切り息を吸い込んだ。そして激しく咽せた。ごぶっ、と音をたてて少し飲み込んでしまった水を吐き出した。
「なんだよ、ちっとも便器綺麗になってねえじゃねえかよ、掃除も出来ねえのかよこのバカ。もう一回やっぞ。……っと、そうだ、その前に気付けにいいもんやるよ」
遠金は制服の内ポケットから、たばこを取り出し口にくわえると、ライターで火をつけた。
苦しそうな表情で大きく呼吸をしている風子の、髪の毛を掴んで持ち上げると、軽く開いた口に無理やりたばこをねじ込んだ。
風子の目が見開かれた。
遠金は、風子の頭と顎をがっちり押さえた。たばこを吐き出せないようにしているのだ。
谷澤舞子も楽しげな顔で、風子の鼻を摘んだ。口で呼吸せざるをえないように、たばこの煙を吸わざるをえないように。
「お前にゃ上等すぎるしろもんだ」
遠金は笑った。
また、風子の目が見開かれた。
顔に水を浴びせられまだ息苦しいというのに、鼻を摘まれて、くわえさせられたたばこの煙を深く肺に吸い込んでしまったのだ。
頬が爆発したように、一瞬膨らんだ。げほ、と吐き出すところ、その穴を塞がれているからだ。
煙の出口がなく、そして苦しく、また煙を吸い込んでしまう。
火事場のなんとやらであろうか。風子は激しく上半身をばたつかせ、遠金の手を振り解いた。
屈み、濡れたタイルに手をついて四つん這いになった。
涙目で、激しく咳込んでいる。
体勢を変え、上体を起こすと壁に背を預ける。濡れたタイルにスカートのまま座ってしまうが、あまりの苦しさに、そんなこと気にするどころではなかった。
やがて咳はおさまり、風子はぐったりとした様子のまま動かなくなった。
朦朧としているような表情になっている。
「たばこも吸えねえのかよ、だらしねえ奴」
遠金はそういいながら、また風子の開いた口に火のついたたばこを突っ込んだ。
「先生、こっちです! 女子トイレです!」
廊下から、女子生徒の叫び声。他のクラスの生徒が、風子へのいじめを目撃して、先生を呼びにいったのだろう。
遠金は、舌打ちした。
その叫び声に、遠のきかけていた風子の意識が戻る。
またたばこをくわえさせられていることに気付き、指で摘んで口から出した。
「入るぞ!」
中年男性の叫び声。体育担当の教師だ。
「お前ら、なにやっとんだ!」
男性教師は叫んだ。
遠金達三人が立っている。その奥、個室の中では、頭部がずぶぬれの風子が、壁にもたれかかり、タイルに腰を下ろして、うつろな目をしている。その手には、たばこが握られている。たばこの先端からは、煙が上っている。
「先生、佐久間さんがたばこをこっそり吸ってたんです。いってもやめないので、ちょっと、喧嘩になっちゃって……あたし興奮して、バケツの水をかけちゃいました」
遠金は、隅に置いてあるバケツにちらりと目をやった。そして、薄く笑みを浮かべた。
風子の意識は、完全に戻っていた。
意識が戻ると、驚いたのは手にしたたばこだ。慌てて、便器の中へと投げ捨てた。
じゅっ、と音がした。
「おい、佐久間、遠金のいったこと、本当なのか」
教師が尋ねる。
「おい!」
風子は口を開きかけるが、朦朧としていた分だけ記憶が飛んでしまっていて、脳がすっかり混乱して言葉が出てこない。
「いいたいことがあるならいえ。黙っているってことは、罪を認めるってことだぞ。どうなんだ」
無視されていると思っているのか、だんだんと教師の語気が荒くなっていく。
風子は、もうすっかり冷静になっていた。
冷静になっていくにつれ、たばこの件の言い分ではなく、この体育教師への怒りがこみ上げてきていた。
普段の行動から人間を判断する能力がないのか。
いった者勝ちなら、上手に喋れない人間は常に悪か。
「おいお前、先生に向かって、その睨むような目つきはなんだ。たばこ見つかって、反省するどころか居直る気か。この馬鹿たれが!」
9
佐久間風子には、五日間の停学処分が下された。
10
【指令塔 第21回】
蓮見製菓サッカー部は東北社会人リーグからJFLへの昇格を決め、戦いの舞台が移るとともにチーム名もハズミSCと改称した。大幅な選手入れ替えはない。田中英二は、数少ない新規加入選手の一人だ。今回の「指令塔」では、元Jリーガーである田中英二に人生をそしてJFLを語ってもらった。
―― 月並みな質問で恐縮ですが、田中選手がサッカーを始めたきっかけを教えて下さい。
田中 なんで恐縮するんですか(笑)。その人のサッカー人生の原点ですよ。よくあるパターンかも知れないけど、小さな頃は野球少年だった。でも僕の場合、ここからがちょっと違うんだね。あまり動体視力が良くなくて、飛んで来るボールが怖かった。野球ボールって小さくて硬いからね。小学校3年、4年となってくると、だんだんみんなスピードのある良いボールを投げるようになってくる。そして、ついに恐れてたこと、ここ(右目)をばちーんとやってしまった。別に脳にも視力にも、全く影響はなかったけど、とにかく野球ボールが嫌になって、それから野球には参加しなくなりました。でも体を動かすのは大好きなんですね。小学校の頃は猿と呼ばれていたくらい(笑)。ある日、校庭で同じ学年の子達がサッカーボールで遊んでて、仲間に入れて貰ったら結構面白くて。
―― で、すっかりサッカーにはまってしまったと。
田中 そう。田中英二伝説の始まりですよ。おれの生きる道はこれしかないぜ、って感じにすっかり夢中になった。現金ですよね。
―― ボール恐怖症は、サッカーでは大丈夫だったんですか?
田中 だってサッカーボールなんて、野球ボールに比べりゃ柔らかいし、野球に慣れているとスピードもそんな出ないし、って怖さは全く感じませんでしたね。ところが中三の時に、ここ(右目)をばちーんとやってしまいまして、まあ痛いの痛くないのって。サッカーボールを激しく舐めてた! すまん、サッカーボール! でも、恐怖症はもう克服してたんだろうね。痛かったけど、平気でプレー続けたよ。もう中三になってたし、それに本当に好きなことをやってるって思いもあったからだろうね。そうだそうだ、思い出した、あの時、大好きな女の子が試合を見に来てたんだ。それで頑張っちゃったのかも。でもその女の子は、別のやつ目当てで来てたんだけど。
―― 高校サッカーでは大活躍でしたね。
田中 上手く話を飛ばしましたねえ。……いや、あれはね、チームが僕を生かすサッカーをしていたってだけの話。チームが調子よかっただけです。当時はそんなこと思いもせず、すっかり天狗になっていたけど。我いるが故に富二高あり、って。
―― そして、Jリーガーになりましたね。失礼かも知れませんが、今の立場からその頃を振り返って如何ですか?
田中 ほほ、ほんとに失礼な! って、嘘。別に失礼じゃないですよ(笑)。あの頃はねえ、僕の光であり闇なんですよねえ。ほら、知っていると思うけどトップの試合に一試合も出して貰ってないでしょ。まだ天狗みたいな高い鼻になっているままだったから、こいつら馬鹿じゃねえの、なんでオレを使わねえんだって思っていた。でもいざサテ(サテライトリーグ)に出して貰ったら、もう全然なの。鼻が縮んだというより、根元からナタかなんかでズバッと切り落とされたような感じ。高校で実績残したやつってさ、とりあえずどっかのプロチームに雇われはするものの、活躍出来るかどうかは全く別なんだよね。たとえば、すんごい背の小さな選手がそうじゃない。高校ではさ、ちょこまかとして、意外と通用したりするんだよね。でもJリーグでは、トップに全然出して貰えないうちに戦力外になったりしている。だから逆にトップに出ているそういう選手ってのはすげえなって思いますね。生半可な努力や才能じゃないってことだもん。
―― そして、JFL選手になりました。
田中 そう。戦力外くらってね。トライアウトにも参加したけど、誰の気も引かなかったみたいね。結局古巣やら何やら色々なコネで、JFL所属のクラブを紹介してもらった。他に仕事をしながらだけど、いいか? って。いいわけねえよ。嫌だよ、働きながらなんて。才能だか努力だかが足りなくて、どこにも雇って貰えなかったのに、練習時間も減っちゃうんだもん。でも、カミさんのお腹に二人目がいたし、無職ってのもやばいし。それで、契約した。ハズミと違って市民クラブで、職場もこれまたコネで紹介して貰ったよ。働いて、夕方から練習して、帰って寝て、起きて、働いて、練習して、その繰り返し。それで日曜は試合をして。辛くても、生活かかっているからやめられないし、サッカーから離れて職を探したほうが収入や将来性考えるといいのかもって思ったけど、サッカーから離れることは自分からチャンス捨てちゃうってことだし。と、さいの河原で石を積み続けなけりゃならないような、えらいどんよりした気分になっちゃって、精神科に行こうと思ったくらいだよ。でも病院に行く暇もない。時間配分が全く分からなくて、たまの休みも何していいのか分からない。でもだんだんと、そんな生活にも慣れてきたけど。今では休みの日にはカミさんと子供と出かけたりしてる。この前、遊園地に行ってきましたよ。
―― そして今年から、ハズミSCの選手になりましたね。
田中 カミさんの実家にも近かったし、JFL昇格したばかりのチームだから、より自分をアピール出来るんじゃないか、自分が引っ張っていけるんじゃないかと思って。待遇もまあ以前より良かったし、あ、こういうのって言っちゃヤバイすかね。でもまさか、ここまで点が取れないとは思わなかった。去年までは外国人一人が点とってただけみたいだから、今、チームは生まれ変わろうとしているんだと思う。個々の選手だけをみれば、ここまで勝てないような面子じゃない。チームの戦術がね、監督の言ってることは凄い理論が分かりやすいんだけど、実践するのが難しいのかも。浸透すればずっと強くなれると思う。外からの新しい血であるオレが、そういうところに貢献出来るんなら、ほんとこのチームに来た甲斐があるってもんだよね。
―― 最後にサポーターに何か一言をお願いします。
田中 これからもハズミSCへの応援をよろしくお願いします。みんなとても頑張っていますんで、一人でも多くのサポーターに来て頂いて僕らの勝利をアシストして貰いたいです。そして勝利の喜びをともに分かち合いたいです。はやく、得点出来るよう、みんなで一生懸命練習して行きます。多分、ファーストゴールは僕が決めるでしょう。
―― 今日は有り難うございました。
田中 いえいえ、こちらこそ。どうもお疲れさまでした。オレ、なに言っちゃってるか分かんないんで、しっかり編集をお願いしますね。
(5月8日 蓮見製菓野々部工場第二グラウンドにて)
11
風子は週刊蹴球を閉じた。
蹴球はJリーグから少年サッカーまで、日本のあらゆるサッカーに焦点を当てていくマニアックな週刊誌だ。去年刊行したばかりだが、売れ行きがあまり芳しくなく、廃刊寸前と噂されている。
ここはケーキ屋ノワゼットの奥にある畳敷きの休憩室だ。
休憩時間の終了まで、あと二十分あるが、風子は立ち上がるとドアを開けた。
「て、てんちょ……なにか……しましょうか」
「いや、いいんだよ。一時間しっかり休憩して、それからしっかり働いておくれ。しかし助かったよ、平日だっていうのにフルで入ってくれて。急に病欠が出ちゃったからね」
「ねえ店長、いま例の宅配業者から……れん……ら、らくが……」
メモを片手に、下平耕平が入って来た。
風子がいることに気付いた途端、突如顔が真っ赤になり、喋り方も非常にぎこちないものになった。
「い、いち、いち……じ、じ、じかじかん……お、お、おお、おく、おくれ……お……」
まるで風子だ。
「一時間遅れるんだね。了解」
「そそ、そ、それだけ」
下平は右手右足を同時に踏み出し、去っていった。
最近、風子の顔を見るたびにこうだ。なんの冗談なのか、風子にはさっぱりわけが分からない。確か髪を切ったあたりからか、下平さんがあのようになったのは。
「ねえサクちゃん、フルで入ってくれるのは有り難いんだけど、停学くらったって本当かい」
店長の問いに、風子は少し躊躇いがちに頷いた。
「ま、サクちゃんのこと信じているけどね。おおかた友達を庇ったとか、そんなとこだろ。……なにかを抱えてて辛いなら、相談にのるよ」
店長は優しげな笑みを浮かべたが、しかし風子はなにを返すでもなく無言であった。
なにを返せば良いか分からなかったということ以上に、店長の言葉を真剣に考え込んでしまっていたのである。
去りかける店長の背中に、唐突に声を投げかけた。
「あ、あの。……てて、店長は……に、人間……好きですか?」
なにをいっているのだろう。
恥ずかしい。
バカな質問だ。
そう思ったが、しかし、何故か口をついてそんな質問が飛び出してしまったのだ。
「やぶからぼうに、しかも変な質問だなあ。……好きだよ。若い頃に私生活でも仕事でも、人に裏切られてこっぴどい目にあって、すっかり人間不信になってしまったことはあるけどね。それどころか、なんで人間なんかに生まれてきてしまったんだろうってノイローゼ気味になってしまったこともあるけどね」
「す、すみません、変なこと聞いて」
「いや。でもいまは人間でよかったって思っているし、人間を好きだよ。……わたしだけの考えかも知れないけど、人間を嫌いな人間にお店を経営する資格はないと思うんだ。大きな会社の偉い人にでもなると、人を物とみなしてデータデータでやっていかないとならないのかも知れないけどね。うちはせっかく、こんな小さな店なんだし」
風子は、若い頃の店長と同じだ。酷い目に遭ってすっかり人間嫌いになっている。人間でよかったなどと、いまだにこれっぽっちも思えやしない。
別の生き物ならば、こんなに苦しむこともなかったのに。と、いまでも思う。いまだから、というべきか。
貝とか、魚とか。いや、そもそも、この世に生まれてこなければよかったのだ。
でも、誰に頼んだわけではないが生まれてしまったからには仕方がない、少しでも苦しまずに済むようひっそりと生きていきたい。
死ぬまでは、生きるしかないのだから。
そのための技術を、ここで学んでいるんだ。
サッカーを観に行くようになったのだって、そのためだ。
人間なんか、大嫌いだ。
大嫌いだ。
などと胸の中でぶつぶつ文句というか虚しい主張をしていると、カウンターの方から老婆と思われる声が聞こえてきた。
お客さんだろうか。
「てんちょお!」
風子もその後に続いた。老婆の声に、聞き覚えがあったからだ。
カウンターの前には、着物を来た老婆が立っている。
片手に、紙袋を下げている。
老婆は店長の姿を見ると、口を開いた。
「この前、このお店の二人の娘さんに、親切に道を教えて貰ったので、お礼にと思いまして。ケーキ屋さんに甘いお菓子というのも妙かも知れないけど、でもこちらの気持ちなので、どうかみなさんで召し上がって下さいね。……あら、あなた……」
老婆は、店長の後ろに立っている風子の存在に気付いたようであった。
「あの時はどうもありがとう。……髪の毛切ったのね、とっても可愛いわ」
そういうと、にっこり笑った。
風子は、店長と一緒に店の外に出て、老婆の立ち去るのを見送った。
老婆の姿が、雑踏の中に消えた。
店長はすぐ店の中に戻ったが、風子は、なんだか茫洋とした表情で、突っ立っていた。
どれくらい、そうしていただろうか。
我に返った風子は、なんとなく青い空を見上げた。
風が吹いてきた。
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