第二章 弱虫
1
jol
golf
aom
jef
glf さっkかー
gfl さっかー
色々な語句を入れては検索をかけてみるものの、一向に必要な情報を得ることが出来ない。
居間の隅に小さめのパソコンデスクがあり、そこには首振りディスプレイ型の
数年前に父親が仕事用に購入したパソコンだ。
会社で利用している電子メールを自宅でも取り寄せたいがどうせならば休暇を使って創作的なことでもしよう、そう思い、MACはそういう方面に強いと知人に聞いて購入したものらしい。
しかしパソコン購入前と購入後と、父の休日の過ごし方にはなんの変化もなく、相変わらずのゴルフ三昧。
創作のその字もありはしない。
しかも、それから一年も経たないうちに、職場でのパソコン利用用途が大幅に広がり、自宅にも様々なパソコン書類を持ち込む必要性が出てきたため、父は新しくウインドウズの動くノートパソコンを購入。ますますMACは必要のないものになってしまったのである。
MACは家庭用にとそのまま居間に置いてあるものの、ほとんど誰も使っていない。風子の弟である
風子も過去に二、三回利用してみたことはあったが、いつも隣に良信がいて操作を教えてもらいながらだった。
なので、パソコンを一人きりで触ってみるのは今日が初めてだ。
この時代に珍しいほど、プライベートによるパソコン利用の皆無な家族なのである。
検索サイトで調べ物をするコツはある程度飲み込めていたつもりだったが、いざ自分一人でやってみるとなかなかスムーズにはいかない。
漠然とした単語を一つ入れてみても数万件と検索されてしまうし、確か複数の単語を入れて検索が出来るはずだ、とスペースキーを押したら単語間の空白が空くどころか先頭の単語がさらに変換されてしまうし。
パソコンは便利と聞くが、ここまで難しいものだとは。
何故、このようなことをしているのか。
理由はある。
風子は先日街で出会った青年のことが気になっていたのだ。
バッグを取り戻してくれた、長身の若者だ。
蓮見製菓の社員だといい、評価用のお菓子をくれた。そして、サッカー選手でもあると聞いた。
サッカー選手だというのならば、インターネットでなにか情報を得ることは出来ないだろうか、と考えたのだ。
アルバイト先のケーキ屋で、勤務時間前後の時間帯、駅周囲の人混みに注意しているが、まったく姿を見ることはなかった。ここから徒歩、といっていたし、なにか規則性があってあの時間に駅前にいたのならば、また見かけることがあるかも知れないと思うのだが。
といっても別に、彼に対して特別な感情はなにも抱いてはいない。
風子は家族以外の人間と話そうとすると、あがってしまい、しどろもどろになってしまう。そんな自分が、ふと気が付いてみれば彼とまともに話せていた。という、ただその一点が、彼の存在を忘れられないものとしていたのである。
恩人でもあるというのに、その恩人のことをあまりにも何も知らないので、せめて名前くらいは知りたいと思ったのだ。
インターネットで名前が分かるのなら、それでもいいし、駅前で会えたならば、名前を聞いて、もう一度お礼をいおうと思っている。
風子にとっては実に大胆極まりない発想といえたが、しかし彼女にそんな自覚はまったくなかった。
数年後、その時の自分の行動は神様のお導きだったのかな、と過去を振り返るようになるのだが。
しかしあの青年のなにがそんなに気になるのか、あらためて考えるほどに不思議ではある。
取り立てて特別な魅力や話術があるとも思えない、ごく普通の青年だというのに。
無理に決まっているけど世界一を目指す、などという独自の哲学といい、変わっているといえば変わっているが。
さっかー
サッカー
今度は正しくカタカナに出来た。
そうか、日常的なカタカナ語は漢字と同じように辞書に登録されているのか。
ゴルフとか、ストアとか、漢字ではないけど、漢字変換で出てくるものなのだ。
少しだけハイテクに詳しくなったぞ。
サッカー 日本
ひんまがった矢印が書いてある大きなキーを押すと、入力した文字の下線が消え、スペースキーで空白を空けて次の単語を打ち込めるようになった。
なるほど、日本語を複数入れる場合はこのようにしていくのか。
やり方が分かってみればどうということはなかった。
しかしこれはあくまで日本語入力方法の話であり、情報検索の要領の良し悪しとはなんの関係もない。
サッカーと日本という二つの単語だけで検索をかけたら、二千万という膨大な情報が引っ掛かってきた。
数十件分のタイトルと冒頭文章が一覧として表示されるが、どれもこれも関係ないものばかり。日本代表、日本サッカー協会、ジュビロ磐田、東京ヴェルディ、聞いたこともないようなものばかり出て来る。
Jリーグ、J1、J2、という単語が頻繁に出てくるが、確かそういうのとは違うように思う。
検索条件に、さらに「お菓子」と加えてみたが、日本代表人気にあやかったポテトチップスや、ケーキ屋のホームページがたくさんヒットしてくるだけだった。
風子は発想を変えた。
新たな単語を入力。
蓮見製菓
とのみ入れ、検索開始。
二万八千九百件の検索結果。
一件目に表示されたのが、会社の公式HPのようだ。
リンクをクリックして、そのHPを表示させる。
本来は画像が表示されるべき部分なのか、画面の上のほうに枠だけがあり、小さく赤いX印が付いている。推奨ブラウザー ウインドウズ インターネットエクスプローラー6と書いてある。パソコンに詳しくないのでよくは分からないが、このMACだとこのように正常に表示されない箇所があるということなのだろう。
会社概要を見てみると蓮見製菓はお菓子を四十年近くも作り続けているかなり古い会社だ。会社設立当初は本社も工場も埼玉県にあったのだが、今から二十五年前に工場をこのF県に移転したとのことである。
今発売中の商品一覧、過去から現在に至るまでの発売商品年表、そのどちらにもこの間貰ったお菓子はない。どうやら本当に、発売前の新商品なのかも知れない。蓮見製菓はこの近辺では有名だが、それは市内に大きな工場があるからというだけで、実際に本物のお菓子を見たことのある者は少ないのである。
過去に発売されたお菓子の一覧を見てみるが、やっぱりまったく知らない物ばかりだ。
いや……十年前に発売されたスナック菓子「焼きタコ」、これは幼い頃に見た覚えがある。確かお店のお菓子売場で見たのではなく、町内子供会でオリエンテーリングに参加した際に子供達に配られたお菓子詰め合わせの中にあったような気がする。妙に苦くて全然美味しいと思わなかった記憶が、連鎖して甦ってきた。
小さな頃に食べたお菓子をHPで見つけただけ、などと実に他愛のないことなのに何故だかちょっぴり嬉しくなる。
……寄り道をしてしまった。
別にお菓子のことを調べているのではなかった。
気を取り直し、目的の情報を探し始める。HP内の、これはと思えるような文字やボタンを手当たり次第にクリックしてみる。
「その他の活動」という文字が目に入り、進んでみたところ、「環境問題への取り組み」、「福祉活動」、「文化・スポーツ活動」、等々の項目を発見。
あるならきっとここだ。「文化・スポーツ活動」をクリック。
囲碁、将棋、カメラ、バレー、バスケットボール、テニスなど、蓮見製菓内の文化部運動部の一覧が上からずらりと表示されている。
サッカー部の文字が横棒線で消されており、その横に「JFL昇格決定!」と書かれた青い文字が点滅している。
ああ、そうだ。確か、JFLだ。
一覧の中の、そこだけリンクになっており、クリックすると別のウインドウが一枚開いてきた。
真っ白なページに青く大きな文字で「蓮見製菓サッカー部 東北社会人リーグ優勝! 全国地域リーグ決勝大会優勝! 悲願のJFL昇格達成!」と書かれている。
そのすぐ下には、通常サイズの文字で「地域リーグでほとんど負け知らず。毎節失点するものの、爆発的な攻撃サッカーで二位以下の追随を全く許さないぶっちぎりの優勝。その勢いはとどまることを知らず、全国地域リーグ決勝大会で全勝」。
さらにさらにその下には、小さな文字で「蓮見製菓サッカー部はJFL昇格に合わせて来季よりハズミSCに改称します。今後も変わらぬ熱い応援をお願いします。これからも一緒に戦っていきましょう! オフィシャルHP制作決定。 予定URL http://xxxx.hazumi-sc.jp」
そうか。ハズミSCというのは、そこまで強いチームだったのか……
予定URLとやらをクリックしてみると、すでにオフィシャルHPはしっかりと存在していた。
ただし、まだ制作途中のためか、それとも利用パソコンがMACだからなのか、ところどころ画像が抜けてしまっている。
風子はサッカーそのものはさっぱり分からないし、まったく興味もないので、寄り道はせずに「選手紹介」の文字を見つけるやすぐにクリックした。
画面が切り替わる。
上から順番に、選手全員の名前が背番号順に並んでいる。
写真がまったくないので、誰が誰だかさっぱり分からない。
とりあえず一番の選手名である「加屋櫛雄平」の文字をクリックしてみる。
するとまた画面が全部切り替わり、選手プロフィールが写真付きで出て来た。
背番号 一
氏名 加屋櫛雄平 かやのぐしゆうへい
年齢 二十八歳
ポジション GK
生年月日 一九八X年三月三日
血液型 A型
身長 一八七センチ
体重 七九キロ
出身地 茨城県
出身校 市立H橋高校
愛称 カヤ、グっさん
特徴 昨年は多少不安定だった守備陣を神懸かりセーブ連発で何度も救った。オネアスと並ぶJFL昇格の立役者。今年もチームの守護神に。
二十八歳にしては老けている、タレ目で愛嬌がある顔だ。
ブラウザーの「戻る」ボタンで先ほどまでの背番号順一覧に戻る。続いて背番号二番の選手名をクリック。
これまでそれほど多くのホームページを見たわけではないが、こういった場合には左端に別枠があって常に選手一覧が表示されているものではないだろうか。いちいち戻らねばならず、非常に見にくいホームページだ。
三番
四番……
五番……たいしたことではないが、自分と誕生日が同じだ。
六番……
七番……
……
本当にいるのだろうか、この中に……
十一番
十二番
十三番……
どくん。
風子は自分の心臓の音を聞いた。
十四番の選手の写真。
別に驚くほどのことでもなんでもないのに……
別に緊張するようなものではないのに。
背番号 十四
氏名 秋高鉄二 あきたかてつじ
年齢 二十五歳
ポジション MF
生年月日 一九八X年七月一八日
血液型 AB型
身長 一八六センチ
体重 七十一キロ
出身地 北海道
愛称 テツ
出身校 H流通経済大学
特徴 本職はボランチだが、どこでもこなせるユーティリティ性を持つ。JFLでも堅実な守備と巧みな攻め上がりに期待。得意のスルーパスでアシスト王を目指す。
間違いない、この人だ!
思わず立ち上がった瞬間、頭上でなにか風を切る音。がん、と壁に反射したそのなにかが風子の顔面を激しく直撃し、痛みと衝撃にぐっと呻き、のけぞった。
足下には、軟式野球のボールが転がっていた。
「おーい、大丈夫? 家具壊れてない?」
窓の向こうから叫び声。弟の良信だ。
先ほどから家の前で近所の友達とキャッチボールをしていたから、おそらくどちらかの投球がすっぽ抜けてしまったのだろう。
わざと、ということは、絶対にないだろう。自分の可愛い弟だから、ということではなく、窓は大人の握り拳ほどのすき間しか空いておらず、狙って出来るような芸当ではないからだ。
「姉ちゃあん、なんにも壊れてないかあ?」
「家具は壊れてないけど……」
風子は鼻を押さえながら、窓を開けた。
良信の友達が、彼女の風貌に驚いて、ぎゃっと悲鳴をあげた。
風子の押さえた手から鼻血が漏れ、手も顔も真っ赤。ぼさぼさの爆発長髪なので、人喰い鬼にでも見えたのだろうか。
風子はもう片方の手に持ったボールを投げて、良信に返した。
良信は済まなそうな顔で、
「ごめん姉ちゃん。……でもよう、自分でぶつけておいてなんだけど、姉ちゃんの運の悪さってすげえよな。お払いに行ったほうがいいかもよ」
2
確かに……運がないのかもなあ。
風子は地面に寝転がり、ふんわり浮かぶ雲を見上げていた。
寝転がるといっても自分の意思ではない。
あまりの痛みに、倒れたまま身体を動かすことが出来ないのだ。
痛みは少し引いたが、身体の感覚がなくて動かすことが出来ないのだ。
広い広い空の下で、風子は大の字になっている。
今日は普段と比較して穏やかな風が吹いているが、上空はかなりの強風のようで、雲が次々と形を変化させながら、凄い速度で流れている。
そんな雲の、遥か遥か下、横たわる風子の全身はずきずきと痛んでおり、どの感覚がどこの痛みなのか自分でもまったく分からない。
何故このようにしているのか、理由は勿論ある。
自転車で下校途中、遥か前方から自転車で向かってくる他校制服の男子高校生集団が視界に入り、無意識に逃げようと慌ててハンドルを限界まで回転させてしまったのだ。
浮遊感、青空と地面とが反転し、地面に激しく叩き付けられ、自転車ごと転がり落ちた。五分ほど前の出来事である。
風子は制服姿の中高生を遠くに見ると、ついつい気付かれないうちに曲がって逃げようとしてしまう癖がある。それでよくアルバイトに遅刻しそうになる。
自転車に乗って農道から転落したのは、今週に入ってからもう二度目だ。
今回、不幸中の幸いだったのは、傾斜のなだらかなところに叩き付けられたために、田んぼの中に落ちずに済んだということだ。
前回は田んぼの中まで転がり落ちて、全身泥まみれになったから。
しかしその代償として、前回と比較にならないほどの激痛に全身を襲われているので、やはりどちらが幸運か不幸かは、人によって判断の分かれるところかも知れないが。
いやいや、分かれない、どちらも不幸だ。
自分の名前が良くないのではないだろうか。「ふうこ」入れ替えると「ふこう」だ。
小さな頃に、名前の由来について両親に尋ねたことがある。地球の大気をかき混ぜる風のように、人の世において優しくかき混ぜるスプーンのような子に育って欲しい、などと母親は話してくれたが、本心かどうか怪しいものだ。単に二月五日生まれだからというだけで、漢字は後から適当に当てただけではないのか。
もう農道から転落して五分以上も経っているのに、まだ視界が回っている。
痛み自体はかなり治まってきたが、全身の痺れも酷く、動かそうと念じても肉体はまったく主人のいうことを聞いてくれない。
いつまでもこんなところにいたら、アルバイトに遅刻してしまう。
気ばかり焦る。
今日は、次の日曜日を休みにしてもらうよう頼む予定でいるのだ。土壇場でのお願いなので、遅刻などしてしまったら店長に話を切り出しにくくなってしまうではないか。
と、突然、胸の上になにか重たい物が飛び乗ってきた。
服の上からでも分かる重たく柔らかい不気味な感触。
首をかろうじて少しだけ持ち上げることが出来た。
眼球を精一杯下に向け、自分の胸のほうを見る。
重たく不気味な物がなんなのか、すぐに分かった。それは黒くて大きなカエルだった。
あまりの気色悪さに一瞬気を失いかけるが、幸か不幸か持ちこたえてしまった風子には現実との戦いが待っていた。
まるで蝦蟇の油に対抗するかのごとく、風子の全身から汗がどろどろっと吹き出していた。
起き上がって逃げ出したいが、肉体が痙攣するばかりで、まったく身動きが取れない。
口を開いても、どっちがカエルだか分からないような呻き声が漏れるばかりである。もうこの数年で、女の子らしい悲鳴の上げかたなどすっかり忘れてしまっていたから。
風子が怪物の襲撃より救出されたのは、それから三分後のことであった。
相手がまともに抵抗出来ないのをいいことに、いつしかカエルは風子の顔面の上に乗っていた。そんなカエルをどけてくれたのは、滝川光男という佐久間家のすぐ近所に住んでいる老人であった。
手を引っ張られて助け起こされた風子は、どもり口調で滝川氏にお礼を述べると、まだ痛みの残る体に鞭を打ち、全力で自転車を走らせた。
アルバイトには、七分遅刻した。
3
短い編成というだけでなく、進行方向に
ボックスシートの車両は、風子が
そうこうしているうちに、穂室へ向かうであろう人々によって段々と車内が混雑してきた。
平日通勤時間帯の混雑に比べればどうということはないのだろうが、普段の生活において鉄道の利用機会が皆無の風子にとっては、耐え難いほどの人口密度であった。
まともに呼吸も出来ない。
現在でさえ狂いそうな混み具合なのに、一駅また一駅と、穂室駅に近付く度に車両内の人数が増加していく。
いざという時に逃げ場所を失わないように、ずっと座らず立っていたというのに、それでもだんだんと気持ちが追いつめられていく。
風子は、穂室駅より二駅手前の
この物語の舞台となることはないが、参考までに穂室について説明すると、まあ先ほど述べた通りF県にある小都市だ。駅の近辺はオフィスビルや若者向けのスポットがたくさんあり、規模こそ天地の開きがあるものの東京でいう渋谷原宿のような存在である。
平日は仕事で、休日は遊楽のため、賑わう場所である。
本日は日曜日であるため、そこへ向かう電車の中は私服の若者が多い。
男女ともお洒落な服に身を包んでいるというのに、風子はぶかぶかのオーバーオールのジーンズ、中には赤いTシャツという姿だ。
どんなに服装に無頓着な田舎娘でも、これよりは遥かにまともな格好をしているだろう、という自覚はある。お洒落な服を選ぶセンスなどないし、仮にあっても、やはりあえてこのような服を着ていたのではないか、と風子は思う。
左右どちらの窓からも、見えるのは田んぼと遠くの山々ばかりの殺風景。ただ、少しずつ住宅や高い建物が増えて来ている。
車内アナウンスが流れる。まもなく野又新田駅だ。
と、ここで風子にとっての緊急事態が発生した。
風子が降りようと思っていたドアの近くに、二十歳くらいの二人の男が立っているのだ。
……どうしよう。降りられない。
ボックスシートの車両は通路が狭く、そこにも何人か立っている乗客がいるため、とても向こうのドアにまで移動出来そうもない。
車両の連結部分に立っているので、身体を回して隣の車両を見てみるが、やはり同じように若者がドア付近に群がっている。
ドアに向かって歩き出せば、降りようとする意思を察してどいてくれるかも知れない。と、数歩試してみるが、二人の若者はお喋りに夢中で全く気付く様子がない。
電車が停車し、ドアが開いた。やっと若者がどいてくれた、と思ったら、どっと人の群れが乗り込んできた。
降ります! などと心の中で叫んでいても、伝わるはずもない。
ドアは閉まった。微塵も容赦なく。
乗り過ごしてしまった風子を乗せたまま、電車は走り出す。
仕方がない。次の駅で引き返そう。
しかし次の駅でも、降りることは出来なかった。最大限の勇気を振り絞って、「あのう……」と、か細いささやき声を発した瞬間に、ドアが閉まってしまったのだ。ドアが開いてから、勇気を振り絞りきるまでに、あまりにも時間がかかり過ぎたのである。
次の穂室駅でほとんどの乗客が降りたため、人混みに流されるようにして、ようやく電車から降りることが出来た。
向こうのホームに、反対方面に行くと思われる電車が停車している。風子は急いで階段を登り降りし、ホームを移動したが、電車のドアに辿り着くまさにその直前、ドアが閉じてしまった。
風子を置いて、電車は走り出す。
溜息。
本当に、自分はなにをやっても駄目だ。電車の乗り降りすら、まともに出来ないなんて。
腕時計の針を見る。
午後一時七分。
もう、開始時間を過ぎている。
せっかく、今日の仕事を休みにして貰ったというのに。
充分に余裕を持って自宅を出たはずなのに……
ホームに設置されている時刻表を見ると、次の電車が来るのは三十分後だ。
これは不運ではない、単に自分が馬鹿だったのだ。
途方に暮れながら、ベンチに座り電車を待った。
電車の到着まで時間を潰そうにも、なんにも持ってきていない。駅構内には売店もない。
ホームの上を歩いている鳩の動きや模様を観察したり、数を数えたりなどして時間を潰した。
などとやっているうちに、退屈な数十分の時も流れ、ようやく野々部方面の電車がホームに到着した。六両編成であるが、ほとんど誰も乗っていない。風子の乗り込んだ車両も、老人が一人座っているだけだった。
風子は腰を下ろす。
この時間の野々部方面、電車が混んでくることはないのだろうが、でもなんだかボックスシートは逃げ場がなくて怖いので、座ったのはドアのすぐ横にある三人掛け横並びの席だ。
ぶかぶかのオーバーオールに、何年も伸ばしっぱなしの長い髪の毛、大きなスポーツバッグ……単なる田舎娘というより、家出少女か訳ありの逃亡者に思われるかも知れない。いや、思われるであろう。だからといって、どうにも出来るものではなかったが。
穂室近くということで周囲の眺めは高いビルばかりになっていたが、発車して二分も経過しないうちに、風子の見慣れた田んぼだらけの風景になった。
次の駅で老人が降りたため、風子は一人きりになった。
なんだかとても不安な気持ちになった。同時に情けない気持ちになった。
普段は自分のことを人間嫌いと思っているくせに、一人でいることが不安になってしまうなんて。
十五分後、風子は再び野又新田駅に到着した。車内ガラガラなのだから当然だが、今度は誰も降車を邪魔する者はいない。
改札で駅員に切符を渡し、西口から外へ出た。
4
太陽が真上からぎらぎらと照りつけている。
風子はあらためて、自分が汗だくになっていることに気付き、バッグからハンカチを取り出して額や腕の汗を拭った。
春の終わりの五月二十五日であるが、暑さは梅雨も初夏も通り越して、真夏日であった。
小さなロータリーには、タクシーが三台待機している。
周囲に視線を向けると、個人商店、小さな不動産屋、コンビニエンスストア、くらいしか店舗がない。あとは民家がいくつかあるだけだ。
切符券売機の横に、この周辺の案内地図があることに気付く。
地図上に、これから目指すべき場所を発見し、その場所をしっかりと脳に刻み込んだ。
仕入れた情報の分だけ、嫌な記憶が流れ出ていってくれれば有り難いのに。たかだか電気信号の流れだというのに、脳味噌の仕組みとは何故にかくもままならないものか。
などと虚しいことを思いながら、風子は一人、陽炎に揺れる道を歩き出す。
少しだけ歩くと、目的地はすぐに確認出来た。
まだまだ離れてはいるが、周囲に高い建物がないため、照明装置が見えていたから。
確かインターネットのHPには、駅から徒歩十五分と書いてあった。自分は鈍足なので普通に歩いていたら二十分以上かかるかも知れない。そう思って、少し足の動きを速めた。その甲斐もあり、歩き始めて丁度十五分で、目的地に辿り着いた。
収容人数が二千人強という、小さな競技場だ。
中から、太鼓の音や、人の叫び声が聞こえてくる。
建物の入り口で、係の老人にとめられた。
バッグの中に危険な物が入っていないかをチェックしているとのこと。
風子はバッグを開けて、すかすかの中身を見せた。
続いてチケットの確認を求められた。
オーバーオールの、胸にある大きなポケットから薄っぺらい札入れを取り出し、その中に入っているチケットを見せた。一昨日、野々部駅前にあるコンビニエンスストアの発券機で購入したものだ。
老人の前に置かれている長いテーブルの上にも、チケットが山積みになっている。確か当日券は二百円高く、千円のはずだ。
「もう、後半始まっちゃってるよ」
老人は、風子に何枚かの紙を手渡した。ポケットサイズに畳まれているJFLの日程表や、スポンサー企業のチラシであった。
「……は、はい。で、電車、おお、降り損ねて……戻ってきて……」
「居眠りでもしちまったのかい。こういうド田舎は電車の本数が少ないんだから、乗り越しには気をつけないとね」
「どど、どうもすみませんです」
風子は深く頭を下げた。
つい、クマでありサクスケでありブーである、学校でのクラスのゴキブリとしての佐久間風子の口調が出てしまった。芯まで染み付きつつあるということであれば、楽といえば楽だが。
「はは。おれに謝っても仕方ない。ほら、早く行きな。本当はチケット代を半額にしてやりたいとこだけど、おれにどうこう出来るもんじゃないしね」
老人が立っているすぐ横に、白く塗られたコンクリートの階段がある。細かく直角に折れながら、垂直に伸びている。
風子はその階段を上った。
まるで潜水艦かと思うような狭い空間を上り終えて、一歩前に出ると、一瞬にして壮大な眺めに変わった。
すぐ目の前には陸上のトラック、その中にコートがあり、なにやら試合が行われている。
ぐるりと取り囲むように、遠くには山がそびえている。
強烈な日差しが芝に反射して、上からも下からも熱気が叩きつけられてくる。しかしここは、建物の地形状の問題なのか非常に風が強く、汗だくになっていた風子はむしろ涼しさを覚えた。
かき鳴らされる大きな太鼓の音。そして、人々の絶叫。
凄まじい喧騒の中で、風子は自問していた。
自分は一体、なにをしているのだろうか、と。
ここになにをしに来たのだろう、と。
なにを探しに来たのだろう。
見つかるかどうか、存在するかどうかも、分からないというのに。
5
目の前で行われているのは、JFL前期第十二節、ハズミSC対
ここへ来る前は、観客席はコートに沿うように一周しているのかと想像していたのだが、そうではなかった。陸上のトラックがあり、観客席から選手たちまで実に遠い。
観客席も、ぐるり囲んでいるのを想像していたが、ほんの一部にしか存在していない。後日、風子が理解したところでは、小さなメインスタンドがあるのみのスタジアムということであった。サッカーの試合を行うスタジアムも形状様式様々なのだ。
四人掛けの長椅子が階段状に十段ほど設置されており、風子は今、その一番上の、通路部分に立っている。
背後には長い壁で、今自分が出てきたばかりの出入り口や、トイレ、物置、機械室、放送席などがある。
収容人数の非常に少ないスタジアムと聞いていたので、どんなに混雑するかと決死の覚悟をしてきたのだが、予想に反して客はほとんどいなかった。
ぽつり、ぽつり、と人が座っている程度だ。
しかしというべきが、両脇の人工密度は凄まじく、狭い場所にそれぞれ百人くらいがひしめき合って、音頭取りの太鼓の音に合わせて声援を送っている。
すべて自由席とのことなので、どこに座ってもいいらしい。こんなに空いているのに、何故込み合っている場所に集まって座るのか、風子にはその感覚がさっぱり理解出来ない。
ふと気付いてみれば、応援している人の多くが、選手達と同じような服を着ている。
テレビで放送している野球も、たまにチームのユニフォームを着て応援している人が映るが、しかしここはその比重がやたらと高い。
サッカーの応援というのは、そういうものなのだろうか。それとも、ここに来ている人だけが特殊なのだろうか。
陸上のトラックの中に、芝の生えたエリア、サッカー用のコートがある。その中で、オレンジのユニフォームとブルーのユニフォーム数十人が入り乱れ、一つのボールを追い、戦っていた。
こことは反対側の端には席はなく、ただ金網があるのみ。その金網には、両チームの選手を応援する横断幕でびっしりだ。
駆け抜けろ青い閃光 三徳製薬
クラッシュマン 義昭
気分は日本代表
東北最強 ハズミSC
決めろ 有村
轟け! ゆうじ
ぶっちぎれ 高速ボランチ TETSU
風子は近視ではないが、選手の胸に書いてある文字は遠くてまったく読めない。でも確か、オレンジ色のユニフォームを着ているのがハズミSCのはずだ。
電車を乗り過ごすというヘマをやらかしてしまったせいで、もうすでに後半戦だ。
ハズミSCはもう何点取ったのだろう。
きょろきょろ、とスコアボードを探した。
てっきり電光掲示板に得点表示がされていると想像していたのだが、まるで草野球のように地面に台が置かれているだけだった。そこに数字板が張り付けられている。その横には、学校の校舎で使っているような大きなアナログ時計が置いてあり、試合時間を表している。
果たしてハズミSCは、0-5という大差でリードされていた。
風子は自分の目を疑った。
スコアボードの読み方が誤っているのかと思い確認をしたが、間違っていなかった。なおも凝視するが、それで結果がくつがえるわけではなかった。
何故、負けているのか。
このような得点差で。
一点も取れずに。
ハズミSCは、ほとんど無敗でJFL昇格を果たした桁外れに強いチームではなかったのか。
国旗台には、国旗、両脇にチームの旗が上がっており、風に激しくなびいている。遠く離れていても、ばたばたという音が容易に想像出来るほどだ。
風子の髪の毛は、旗のなびく方向に合わせてあっちに引っ張られ、こっちに舞い踊り、落ち着かない。
人の多いところだったらどうなっていたか。と、ほっと胸をなで下ろす。
グラウンド上のオレンジユニフォームの中に、背番号十四番を発見した。
遠目ではあるものの、あのHPに載っていた顔だ、あの駅前で出会った青年の顔だ。
随分と後ろのほうのポジションのようだ。
ボランチというのは攻撃と守備のどちらかでいうと守備の人なのか。
少しがっかりだ。
後ろじゃあ、得点する機会なんて全然なさそう。
風子はサッカーのルールをほとんどなにも知らない。相手ゴールにボールを入れれば得点。最前方にいるのがフォワード、後方で守るのがディフェンダー。ゴールキーパーは手でボールを持っても反則にならない。その程度の知識しかない。
延々と突っ立っていても仕方がないので、席に座ることにした。
チケットには全席自由と書いてあるので、どこに座ってもいいのだろう。風子はぐるりと周囲を見回し、席の空き具合を確認した。
人が密集しているのも嫌だが、一人きりでぽつんと座っていても目立ちそうで好ましくない。だから、密集している場所から少しだけ離れた、人のまばらなところに腰を下ろした。
観戦場所も決まって、ようやく落ち着いて試合を観られるようになったわけだが、0-5という得点差の理由が、ゲームを少し見ただけで素人の風子にも分かった。
相手のほうが圧倒的に、ボールのキープ時間が長い。
ぽーんと高く宙に浮いたボールも、ほとんど相手が拾ってしまう。
背の高さの問題ではなく、ボールの飛んで来る位置を予測する能力が相手のほうが高いように思える。
少し落ち着いたところで、先ほど係の人に貰った紙を見てみる。
JFLの日程表、今日の試合のメンバーと予想フォーメーションの書かれた紙。
やはり、秋高鉄二は後ろのほうのポジションであった。
風子のほうに、ビール缶を片手にした赤ら顔でほろ酔い気分の中年男がふらふらとした足取りで近寄って来て、二つ隣の席に座った。
条件反射的に立ち上がり逃げ出したくなったが、それも失礼なことなので、ぐっと堪えて体をベンチに押さえつけた。
中年男の足下には、元々バッグと紙袋が置いてあったようなので、おそらくはトイレから戻ってきたのだろう。
自分よりも先にいたのであれば、自分が席を立つことも問題ないようにも思えたが、やはり躊躇われた。「おれが来たら逃げやがって」と、相手が気分を害してしまうことが心配で。
風向きは一定でなく、絶えず変化している。
酒臭くなったり臭さが少し遠のいたり、風子の近辺ではピッチ上の攻防よりも目まぐるしく変化している。
いつまでも酒臭さを気にしていても仕方がない。ピッチ上での勝負に視線を戻した。
と、その瞬間、両応援席から絶叫にも似た大きな声があがった。
ハズミSCのDF同士の横パスを、三徳製薬のFWにカットされてしまったのだ。
迷いのないドリブルに、ハズミDFが慌てて追うも間に合わず、相手FWはハズミSCのGKと完全に一対一になった。
三徳製薬のFWは、迷わず左足を振りぬいた。
GKは至近距離からのシュートを、右足を横に伸ばし防いだ。
あんなに近くから見切って反応なんか出来ないだろうし、反射神経というよりは、ほとんど経験から来る勘による動きだろか。風子はサッカーを知らないなりに、そんなことを考えた。
弾かれたボールは、鈍い音とともに真上高くに上がった。
落下地点目差してFWが素早く詰め寄るが、GKは軽く飛び上がり両手でボールをキャッチ。しっかりとグローブの中に収めた。
GKのファインプレーに、風子はほっと胸をなで下ろす。
いつの間にか、両手を握り締めていた。
手がじっとり汗ばんでいる。
「いでででっ!」
横から酔っぱらい中年男の悲鳴。
風子の長髪が強風にあおられ、鎌首をもたげ獲物をしとめる蛇のごとく男を目がけ、グサリグサリと突き刺さったのだ。
「ど、どうも……」
風子は髪の毛を押さえつけ、深く頭を下げた。
スタジアムの外にも風は吹いていたが、そよそよという程度で、扇風機の弱風程度もなかった。ところがこのスタジアム内では、どのような地形効果が働いているのか分からないがもの凄い風で、汗が吹き飛ぶどころか肌寒いくらい。風子の髪の毛がメデューサのように生命を持ってしまうのも、仕方のないことなのだ。
などとやっている間にも試合は進んでいたが、三徳製薬のラフプレーに審判の笛が鳴って、一時中断した。
その間に、風子はあらためて、それぞれの応援団を観察していた。
どちらにも、選手と同じユニフォームを着ている者が多い。一体どこでそんなもの売っているのだろう。そこら辺のお店でユニフォームが売られているほど、JFLというのは有名なチームばかりなのだろうか。
サッカーの試合なんて男性客しかいないと思っていたが、意外に女性客も多い。
密集しているところはもう誰が誰だか分からない混沌状態だが、少し離れたところに目をやれば中年夫婦や若いカップル、はたまた女性同士もいる。
一番前の座席に女の子が四人、全員背番号六のユニフォームを着ている。
そういえば、ハズミSCの六番がボールを持つたびに、なんとも言葉にならない黄色い歓声を上げていたような気がする。みんな、そのファンなのか。
インターネットのHPで写真を見たことはあるはずだが、どんな顔の選手であったかよく覚えていない。
いずれにしてもこの観客席からでは選手までの距離が離れ過ぎていて、はっきりとは見えないが、きっと女の子に受けるハンサムな顔立ちなのだろう。
なるほど人によってはそういう楽しみかたもあるのか、と風子は感心した。自分にとっては、どうでもいい方向性のことであるが。
また六番ユニフォームの女子たちが、歓喜の声を上げた。しかしそれもつかの間、ピッチ上で本物の六番がキープしようとしていたボールは、あっさりと相手選手に奪われてしまった。
しかも、彼女らの落胆の溜息が終わるか終わらぬかのうちに、そのままドリブルで持ち込まれゴールを決められてしまった。
こうして点差が六点に広がった。
三徳製薬側の応援席から雄叫びと太鼓の音が響き、巨大な旗が上下に大きく振られる。
「ただいまの得点は……後半十五分 三徳製薬 七番
若い女性の、たどたどしいアナウンスが流れる。
ハズミSC側の応援団は気を落とすことなく、熱い声援を送り続ける。
もう試合も終盤で、こんなに差をつけられていて、勝負は決まっているというのに、なんでみんなこんなに一生懸命に応援が出来るのだろう。風子には理解出来なかった。
ハズミSCはなんとか一点を取ろうと、危険を犯して前方に多く選手を集めているようだ。そんな中、ハズミ十番が味方からのパスを受け損ない、相手に取られてしまった。
ほとんど人のいないハズミSCの陣地を、三徳製薬の九番がボールを少し長めに蹴りながら、猛烈な勢いで走って行く。
また失点か。風子は諦めた。
その時、後ろから追い上げてきたハズミSCの六番が、先ほど軽いプレーでピンチを招いたことの汚名返上とばかりにスライディングタックル、ボールを奪い返した。相手の九番は、大袈裟すぎるほどに大きく宙を舞い、地に転がった。
また、両チームの応援席から爆音のような叫び声が上がる。ハズミSCの側からは歓声、三徳製薬の側からは怒声、罵声等だ。
「ぎゃっ!」
風子のすぐそばで、歓声でも怒声でも罵声でもない叫び声が上がった。つい頭髪を強風から守ることを忘れ、また二つ隣にいる酔っぱらい中年男に髪の毛が刺さってしまったのだ。
「ご、ごめんなさい」
酔っ払い中年男は、頭をぐりんぐりんと回しながらうつろな視線で片手を上げた。気にするな、ということらしい。
風子は立ち上がると、自分の爆裂頭髪の射程距離に誰も入らないよう、周囲に人のいない席へと移動した。背後に、酔っぱらい男の大きなげっぷが聞こえてきた。
などとやっている間にピッチでは、審判の吹く長い笛の音が響いていた。
試合が中断した。
審判は黄色いカードを高々と上げた。ハズミの六番に向かって。
今のプレーが危険だと判断されたのだろう。
審判は、その手を下げたかと思うと今度は赤いカードを出した。
三徳製薬の応援席からは盛大な拍手が、そしてハズミ側応援席からは壮絶なブーイングが起こった。
外国人選手と思われる肌の浅黒いハズミの十九番が、審判に向かってなにやらゼスチャーをしたところ、その選手にも黄色いカードが掲げられた。怒る十九番を、必死に十四番つまり秋高鉄二がなだめている。
赤いカードを出されたハズミの六番は、肩を縮めてピッチを出て行った。
風子には何がなんなのかよく分からなかったが、とにかくこうしてハズミSCは六点差で負けているのみならず、残り時間を一人少ない人数で戦うこととなったのである。
応援団や、六番ユニフォームの女の子たちから、審判への罵詈雑言が飛ぶ。
「へぼ審判」
「
「ボールに行ってたろうが!」
「倒れりゃなんでも笛かよ!」
なんだろう、ボールに行っていたって。ボールに向かうのがサッカーだろう。風子には、どういう意味なのかさっぱりだ。
確かあの黄色い切符みたいなのは、イエローカードといって、危険な行為に対する注意で、レッドカードというのはもっと乱暴なプレーをした時に出るものではないのか。
レッドカードの時には、退場になるはず。
イエローだけが出る、レッドだけが出る、というのなら分かるが、イエローが出て続いてレッド、これはどういうことだろう。レッドよりさらに悪質なので、イエロー分を追加、ということだろうか。
風子はサッカーのルールなど知らないに等しいので、いろいろと考えてしまう。
ハズミSCは選手の交代をした。どうやらFWの選手を下げて、DFの選手を入れたようだ。
せめてこの点差を守りきるつもりだったのかも知れないが、しかし実力や人数差の問題は如何ともしがたいということか、さらに二点を失った。
大差のついた中、両チームへの熱い応援は続く。
先ほど審判への抗議かなにかでイエローカードを向けられていたハズミSC十九番の外国人選手、彼がボールを持ちドリブルしようとしたところを、今度は青いユニフォームである三徳製薬の選手がスライディングで転ばせてしまった。
審判が笛を吹いて、ゲームを止める。
みんなぞろぞろと、三徳製薬のゴール前に向かって行く。DFの選手も、長身の二人が小走りに向かう。
十九番の選手は、自分が転ばされた地点にボールを置いた。審判がピッピッと笛を吹き、ボールを置く位置を微妙に修正させる。
置かれたボールのそばには、もう一人、選手がいる。どちらかが蹴るのだろう。
ゴール前にたくさんの選手達がごちゃごちゃと動いている。そこに向かってボールを蹴るようだ。
でもなんで、ボールの近くに二人もいるのだろう。点を取りたいのなら、一人でも多くゴール前に置けばいいのに。
ドン ドン ドドドドンドン(太鼓の音)!
ゴール ハズミ ゴールゴール!
ゴール ハズミ ゴールゴール!
ハズミSCの応援席から、三徳製薬ゴール前に密集しているハズミSCの選手に向けて声援が送られている。
審判の笛が鳴った。
オレンジ色のユニフォーム、十九番の外国人選手がボールに駆け寄り、右足で蹴った。
ボールは綺麗な弧を描き、三徳製薬ゴールへと向かう。
三徳製薬のGKはキャッチしようと身構えたが、強風のため落下地点の予測を誤ったようであった。慌ててボールを追うが、先に落下地点に入り込んだのはハズミの選手。ぽーんと頭でボールを跳ね上げた。
相手マークを外してするりと飛び出したハズミの十四番、秋高鉄二が大きくジャンプ、頭を捻って額をボールに打ち付けた。
ボールは急角度で地面にワンバウンドし、ゴールネットを揺らした。
選手も応援席も、オレンジ色のユニフォームを着ている人間はみな叫び、喜びをどっと爆発させた。
ハズミSCの選手達が秋高鉄二に駆け寄って行く。
秋高鉄二は両腕を高く上げた。
激しい太鼓の音がかき鳴らされる。
ひょっとして、ゴール……決めたの?
得点した、ということ?
風子は急激に、手が汗ばむのを感じていた。
観客席がざわつきはじめる。
ピッチ横に立つ審判の一人が、赤い旗を真っ直ぐ前に突き出している。
それが関係あるのか分からないが、応援席から、落胆に似た声が漏れた。
両チームの選手達は自分らのポジションに戻って行く。
三徳製薬のGKが前方にボールを大きく蹴飛ばした。
いつまで待っても、スコアボードの数字はなにも変わらない。
今のは、ゴールではなかったのか……
きっとそうなのだろう。もしも得点が動いたのならば、応援席から溜息が聞こえるはずがない。
でも何故だろう。別に相手を倒したりといった反則をしたようにも見えなかった。これこれこう、といったゴールネットへの入れ方をしないと得点が認められないのだろうか。サッカーのルールは複雑だ、ちっとも分からない。まあ、野球もバスケもポートボールも、自分はなんにも知らないわけだが。
審判が片手を上げ、長く笛を吹いた。
試合終了。
8-0の大敗である。
両チームの選手たちは、挨拶を交わし合ったあと、それぞれの応援席に向かった。両チームの選手とも淡々としているように見えるが、その表情を見ると纏う空気のまったく異なることが分かる。
選手だけでなく、応援団も同様だ。
三徳製薬の選手は歓喜、拍手で迎えられている。大勝したのだから、当然であろう。
負けたハズミSCの選手たちは、済まなそうに頭を下げる。これも当然であろう。
だが、ここで風子の予期しないことが起きた。
ハズミSCの選手たちは、三徳製薬同様に激しい拍手に迎えられたのである。
「次だ、次!」
「下向いてんじゃねえ!」
「次こそゴールだぞ!」
「魂みせっぞお!」
怒鳴り声にも似た、荒っぽい励ましの声。
なんだかよく分からず不思議な気持ちではあったが、風子も周囲に合わせて選手達へと拍手を送った。
6
面白かったといえば面白かったような、虚しいといえば虚しいような、自分の気持ちのことながらなんだかよく分からない。
分かっているのは、過密日程の旅行でもしてきたかのように非常に疲れているということ。
無理もない。電車に乗ったことなど実に数年ぶりであったし、スタジアムで競技観戦など生まれて初めての経験だ。
視覚聴覚触覚を刺激する様々な見慣れぬ情報に、目も心も疲れ果ててしまった。
夕方五時過ぎに帰宅すると、着替えもせずにベッドにうつぶせになった。
これは果たして趣味になるのだろうか。
明日への活力を養うどころか、全ての精気を吸い取られたかのように気怠い。
試合を黙って観戦していただけなのに、この様だ。大きな声で応援しているファンの人たちは大変だ。きっと、もっと遠くから来ている人だっているだろうに。
風子の脳裏に、秋高鉄二のヘディングシュートがゴールネットを揺らした時の記憶が甦った。みんなが集まってゴール前でごちゃごちゃひしめきあっているところへ、離れた場所からそこを目がけてボールを蹴って、相手が弾いたか味方がシュート失敗したか何かでぽーんと小さくボールが上がって、ごちゃごちゃから一人抜け出すように高く飛んだ秋高鉄二が……
ネットを揺らした瞬間の、どっと沸いた周囲の歓声。自分も、とても手が汗ばむのを感じた。
あの時、自分はどういう気持ちを感じたのだろう。自分のことながら、よく覚えていない。忘れたというよりは、理解出来ない感覚が大量になだれ込んで、現在も理解せぬまま記憶を放っておいている、といったところだ。
ただ、悪い気分ではなかったように思う。どちらかといえば、その反対ではないだろうか。
仮に得点が認められていたとしても、0-8が1-8になるだけなのに。
素人が訳の分からぬままにただ観戦していても、このような気分になるくらいだから、好きなチーム、好きな選手がゴールを決めればさぞ嬉しいのだろう。
なるほどファンの人たちはそういう喜びを味わうために、時間と金を使い遠くから観戦に来るのか。負けたから意味がないという訳ではないのだ。
でも結局、あの時のシュートはネットに入ったにもかかわらずゴールとは認められなかった。何故だろう。別に反則をしたようにも見えなかったのに。
といってもサッカーの反則だなんて、選手を殴ったり蹴ったりしては勿論いけないのだろうな、等とその程度の認識しかないが。
その程度に認識しかなかろうとも、いや、その程度の認識しかないためか、なんだか釈然としない。
風子はベッドから起き上がり、一階へと降りた。
居間の隅にある、首振りディスプレイ型のiMACの電源を入れる。ジャーンと音が鳴り、起動画面が出てくる。
スリープにしておくと起動が早いと弟の良信にいわれたことがあるが、そんな専門用語をいわれても混乱するだけだ。
ようやく起動が終わると、WEBブラウザを立ち上げ、ハズミSCの公式ホームページへ飛ぶ。もうURLはブックマーク登録してあるので、迷うことはない。最近覚えた活用技だ。
試合速報をクリックすると、今日の試合についての情報が表示された。
結果は風子の知っている通り、0-8の大敗だ。
五月二十五日
晴れ
観客 八二三人
主審 萩原滋樹
副審一 安腹光太郎
副審二 加藤流三
第四の審判員 田之坂典弘
【データ】
FK ハズミSC 3 三徳製薬 13
CK ハズミSC 0 三徳製薬 7
シュート ハズミSC 5 三徳製薬 21
警告
ハズミSC 五分 渡辺輝彦 二十五分 秋高鉄二 四十二分 与那嶺怜二 六十六分 与那嶺怜二
三徳製薬 三十八分 都野寿 八十六分 阿部浩一
得点
ハズミSC
三徳製薬
十一分 柏倉秀樹 十七分 阿部浩一 三十五分 近藤健太 四十三分 吉次健一 四十四分 吉次健一 六十分 阿部浩一 七十七分 波田英二 八十二分 吉次健一
【総括】
序盤は若干守備的になりながらも、うまくボールを回し、優位に試合を進めることが出来た。しかしカウンターから一発を食らうと守備陣が崩壊。連係が整わないままに、全員の意識だけが前に前に向いてしまい、大量失点に繋がってしまった。
【佐倉監督のコメント】
非常に残念な試合だと思っている。相手は確かに首位争いをしているチームだが、そんな中で序盤はよくやってくれた。しかし我々はボールを回させられていただけで、一瞬のミスによりカウンター一発でズドンとやられてしまい、後はもう相手の一方的なペースだった。
残念な試合だったというのは、負けたことがではない。最初の内容のまま続けて負けたのなら、次節へと繋がる負けになったはずなのに、それが非常に悔やまれる。でも下を向いたら終わり、修正点がたくさん出たことを成長できるチャンスと思って、前を向いて練習していく。
【轟佑司選手のコメント】
サッカーは何か起こるか分からないスポーツ。最初の決定機で僕が決めていれば、もしかしたらまったく違った展開になっていたかも知れない。決定力を上げるためには練習するしかない。とにかく今日は完敗です。相手は本当に素晴らしいチームだった。JFLのレベルの高さを今日ほど実感した日はない。
【秋高鉄二選手のコメント】
一点取られてばたばたしてしまう癖をはやく直さないといけない。今の監督のもと、やることは練習でしっかり確認しあっているので、あとは強いメンタルをもって実践していくだけ。僕らの方向性は決して間違っていない。
(残念ながら最後のヘディングシュートのシーン、岡崎選手がオフサイドを取られてしまいました)
意地で一点でも返したかった。そうすれば、強豪相手に一点取ったという結果を持って、次に望むことが出来た。サポーターのみんなにはいつも申し訳ないと思うし、感謝している。次こそは必ず勝って、勝利の喜びを分かち合いたい。
【加屋櫛選手のコメント】
八点も取られて、何も言うことはありません。次頑張ります。
あのヘディングによるゴールと見えたシーンは、オフサイドとかいう反則のために得点と認められなかったということか。
それと、六番の選手がイエローカードとレッドカードを連続して貰って退場させられた件。イエローカードというのは、同じ試合で二枚受けると、レッドカード一枚と同じで、退場させられてしまうらしい。記録をみたところ、風子が現地で観戦を始めた時点で、既に一回警告を受けていたのだ。
色々な不明点が判明して、気持ちが少しすっきりした。
ただ、一番の疑問点は、「ハズミSCは本当に強いチームなのか」ということ。
監督のコメントから読み解けば今日の対戦相手が強いということは分かるが、それにしても為す術なしの0-8の大敗は酷いのではないか。
公式HPをよく見たところ、本年度の試合結果が全て記録されていた。開幕戦で0-0で引き分けたきり、あとは全敗している。
それだけではない。開幕してから十試合以上も行われているというのに、なんとただの一得点もあげていない。
類を見ない圧倒的な攻撃力で、ぶっちぎりのナンバーワンでJFL昇格を決めたのではなかったのか。
それは事実でもそんな程度では通用しないほどに、JFLのレベルが高いということなのだろうか。
風子は煙に包まれたように、すっかり混乱してしまっていた。
だがその答えはすぐに得られることになる。「ハズミSC」で検索してみたところ、ファンのための掲示板があり、見てみたのだ。
200x年7月20日 16時48分
あれ、ぜったい岡崎オフサイドじゃねえよ。テツのゴールだよ。
200x年7月20日 16時59分
切り替えよう。次、次。
……って、次はエアーズ和歌山じゃん……勝てる気しねえ。鬱だ。
200x年7月20日 17時01分
ハット♪ ハット♪ 吉次ハット♪。ま、糞チーム相手に何の自慢にもならんけどね。ほんとお前ら弱すぎ~。
200x年7月20日 17時06分
他サポは来んじゃねえ。うぜえ。いちいち書き込むなバカ。別にお前が強いわけじゃねえだろ、このオタク野郎が。
200x年7月20日 17時13分
オネアスがいればなあ。一人で点取ってくれるから、みんなで守るだけでよかったのに。
200x年7月20日 17時17分
そうだけど、オネアスに頼ってたから、日本人が成長しなかったんだぞ。たとえ降格しようと、オレは付き合うぞ、何年でも。チームが成長していくのを。
などといった書き込みを見て、ようやく風子は理解した。
ハズミSCは弱いのだ。
去年までは社会人リーグという一つレベルの低い土俵で戦っていたのだし、オネアスという選手の個人技で点を取って、残り全員で守っていただけ。超攻撃型のチームでも何でもなかったのだ。
オネアスという選手のことを検索すると、舞うような華麗なドリブルはオネアスの翼と呼ばれ、数人掛かりでないとまず止められない凄まじいものだったらしい。
社会人リーグに外国人選手はほとんどいないので、これはもう反則級の強さであったことだろう。
相手選手が数人掛かりでマークしなければならない分だけ、ハズミ側には人数的な余裕が出来る。それでも毎試合失点していたというのだから、もしも日本人だけならば……などと想像してみるまでもない。
現在も外国人選手は一人いるらしいが、蓮見製菓でアルバイトしていたことがきっかけで加入したというだけで、身体能力は高いもののサッカー経験が浅く助っ人と呼べるレベルにはほど遠いとのことだ。
つまりは、今日の八点差のボロ負けも当然の結果だったのだ。
インターネットでサッカー用語集のページを探し、気になっていた単語「イエローカード」「レッドカード」「オフサイド」「ボランチ」について調べてみた。
なるほどなあ、と思わず感心させられたのがオフサイドというルールだ。聞いたことのある言葉ではあったが、意味などは全く知らなかった。
要は、相手の最終ラインを越えたところにいる味方にパスを出してはいけない、というもの。
もしもこのルールが存在しなかったら、敵陣ゴール前に長身選手を配置して放り込めばよいだけになってしまい、どうフォーメーションを組んで効果的に敵陣を突破していくかという戦術的な面白みがまったくなくなり、ゲームが非常に大味なものになってしまうことだろう。初期においてそうであったからこそ生まれたルールかも知れない。
まだ他の用語を全然知らないせいもあるが、サッカーという競技は詰まるところオフサイドというルールがあればこそ成り立っているのではないかと思った。
7
しがないケーキ屋のアルバイト店員だが、人員の入れ替わりが激しい中で、七年以上も居続けている古株で、待遇や発言権など実質的には副店長といっても過言ではないくらいの立場である。
一人暮らしであるが、下平の実家はそれほど遠くない。
野々部駅から電車で三十分ほど。
穂室という大きな駅の一つ隣にある、
一人暮らしを始めたのは、高校二年生の夏からなので、もう十年ほど前になる。
野々部駅から徒歩十分の、木造アパートだ。
かえって高校への通学が遠くなったが、大地震がくれば真っ先に倒壊しそうな古アパートはその分家賃が破格の安さだったし、なによりも早く親元から自立をしたかったから。
中学二年の頃から不良友達と付き合うようになり、隣の中学の生徒と喧嘩ばかりしていた。
よく親は学校に呼び出されていた。
父親は、先生の前でも家庭でも、決して息子を叱ることはしなかった。呼び出されても、ただひたすら先生に謝るばかりだった。
主義でやるなら立派だが、単に息子が怖いだけだった。アルコールの力を借りてでしか、誰に文句をいうことも出来ない父だった。
母親も似たようなものだった。
か、どうか、今となっては証明しようもないが、とにかく彼はそう考えていた。
いつも両親が自分に向けてくる、怯えるような視線がたまらなく辛かった。たまらなく淋しかった。
その思いが不良行為をエスカレートさせていくことは、彼の場合、なかった。そこそこガラの悪い生徒という立ち位置のまま、ただ家から出たい思いだけが次第に大きくなっていった。
実家でこんな家族と生活をしていて、自分が駄目になっていくのが怖かった。
一人暮らしを開始した最初の頃は、頻繁に友達が遊びに来たり、彼女が泊まりにきたりと賑やかであったが、そのうちにまず友達が来なくなった。下平がろくに口もきかず、勉強机にかじりついていたからだ。
彼は、大学に進学したかったのだ。
そんな様子であっても、彼女はたまに食事を作りにきてくれたし、泊まって行くこともあった。
せっかく一緒の布団で寝ているというのに、付き合い始めた頃のように彼からセックスを求めることはほとんどなく、たいていが彼女から誘う。
しかもことを終えたあとに、愛や夢を語らう時間もなく、彼はとっとと眠ってしまう。起きている時もほとんど会話がない。手をつないで歩くこともない。やがてこの状況に彼女が耐えられなくなり、二人の関係は破局を迎えた。
とにかく進学したかったし、女について一通りのことは経験したこともあって、下平は別れたことを特に気にすることもなかった。
一人暮らしを始めてから約一年後、下平は無事に希望の大学に合格した。合格が決まるとすぐに、現在働いているケーキ屋ノワゼットでアルバイトを始めた。そうして学費を稼ぐつもりでいた。
しかし大学は遠く、スケジュール的にもアルバイトとの両立は難しかった。
また、その頃はまだ時給が非常に安くて、生活に手一杯でとても学費どころではない状況だった。
蝉の鳴く季節を迎える前には、退学届を出していた。
落ちこぼれが猛勉強してそこそこのレベルの大学に入ったというのに勿体ない、と会う人会う人にいわれた。
後から思えば、単に良い大学に入って良い企業に就職して、親を見返してやりたかっただけなのかもしれない。
あんたのところから離れたら、おれはこんなに立派になったぞ、と。そのような見栄や意地も、いつしかすっかりなくなってしまっていたのだが。
大学を続けたいだけならば、いくらでも方法はあるはずであった。親にもっと金を要求してもいいし、大学の近くなら割のいい深夜アルバイトだってある。
しかし彼は、前述したように親への反抗心が薄れてしまっており、つまりは大学に行く意義自体を見失ってしまっていたのだ。
結局そのまま、ケーキ屋でアルバイトを続けている。
その頃は店長と、社員待遇が一人、それと自分を含め五人のアルバイトがいた。ケーキを焼く技術を持っているのが店長とその社員だけだった。
下平は飾り付け、陳列、それとケーキ作りの簡単な補助をしていた。
こき使われるだけで、全然面白くなかった。社員が、嫌味ばかりいうし。
しかし、慣れてきてある程度の要領をつかめていたし、少しだけ時給もアップしたし、新しいアルバイト先を探すのも面倒だった。だから続けた。
いつしか、何年もの時が過ぎていた。
嫌な社員は、体調を壊してこの仕事から引退した。
ということが特に理由ではないと思うが、いつしかケーキを作ることが楽しくなっていた。
ふと気付いてみれば、お店は現在のメンバーになっていた。
当然といえば当然であるが、時折、将来に不安を覚えることがある。
この仕事を捨てるべきか、それとももっと技術を盗んでいつか自分の店でも持とうか、と。店長のプライドや打算、自分への信頼次第だが、暖簾分けのような形も悪くない。
将来のことを考えると、楽しくもあり、不安でもあった。
もしもお店を持てたなら、まずは店員二人くらいのささやかな規模から始めよう。仮に引き抜くなら、サクちゃんかな。
サクちゃんこと佐久間風子は、なにかと自己を卑下するようなことばかりいうが、下平は彼女のことを高く買っている。とにかく、仕事の飲み込みが早く、応用力もある。器用か不器用かの問題だけではなく、単純に楽しいと感じているからなのだろう。きっとこのような仕事に向いているのだ。
今も彼女は下平のすぐ横で、トレイにぎっちり敷き詰められたケーキにミントの葉を乗せていく作業を素早く正確にこなしている。
「いらっしゃいませ!」
レジのほうから、
続いて老婆の声。
はっきりと会話の内容は聞き取れないが、どうやらケーキを買いに来たお客さんではないようだ。
下平は作業の手を休め、ドアの隙間からそっと顔を出して様子を見る。その下から真似して、風子もひょっこり顔を出す。髪の毛が髪の毛なので、ひょっこりというより、ぼわっという感じでもあるが。
明津恵美は、老婆に道を尋ねられているようだ。
親切丁寧に教えようとしているようであるが、どうも老婆は理解出来ていないようだ。明津は、老婆の手を引いて店の外に出ると、遠くを指さしたり、身振り手振りで案内をし始めた。
別にレジが塞がっているわけでもないし、問題ない。通行人に親切にしておけば、いつかお客様になってくれるかも知れないのだし。と、下平は自分の作業に戻った。
これからケーキを焼こうとしてたところだった。
厚手の手袋をはめ、ケーキのたくさん乗った大きなトレイを両手で掴む。まだ先ほどの熱がたっぷり残っている、開いたオーブンの中へと入れる。
突然電話のベルが鳴った。
今日の出勤メンバーならば明津恵美か下平が応対をするところであるが、明津は店の外に出てしまっているためベルの音に気が付いていない。下平はすぐ手袋を取ろうとしたが、ふとその動きをとめ、風子に視線を向けた。
「……サクちゃん、電話に出て。おれ、手が塞がってるから。難しそうな内容なら、名前と番号聞いて折り返しでいいから」
風子は突然のことに驚き、びくりと肩を震わせると、電話と下平の顔に交互に目をやった。
やがて決心したように、ぎゅっと小さな拳を握り、数歩の距離にある事務机まで歩き、受話器を手に取り、耳に当てた。電話機本体の、赤く点滅しているボタンを押した。
「は、はい……」
少しの沈黙の後、
「あ、ああ、あの、はち……八時……は、はい……どうも……」
受話器を置いた。
おそらくは、閉店時間を尋ねられたのだろう。
風子はがっくりと大きく肩を落としてうなだれている。
下平は、溜息をつくでもなく、苦笑するでもなく、怒るでも、笑うでもなく、風子のことを見つめている。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「あのさ、サクちゃん、多分おれがなにかいわなくても、自分自身よく分かっているよね。自分がもどかしくて、凄く辛いんじゃないかって思う。でもあえていうよ。ここで働いているからには、これからいくらでもこういうことはあるからね。このままじゃ駄目だろ、って」
「おっしゃる通りです」
風子は、うなだれていた首を、ますます下げた。
「ちょっと練習してみようよ。まず、元気に店の名前をいうこと。ほら、いってみな」
「は……はいっ。ノワゼットです!」
声、裏返った。
「そうそう。店名の前に付け足して、お電話ありがとうございます、ノワゼットです!」
「お、おで、お電話ありがとございますノワゼットです!」
「いい感じ。うち別に電話応対のマニュアルはないから、ちょっと待たせたと思ったら、お待たせしました、とか出だしの言葉は自由に変えてもいい」
「……はい」
「あと、相手の顔が見えないんだから、しっかり相づちを打つこと。ちゃんと聞いてくれてるのかって相手が不安になるから。これはお店に限らず、電話の常識。最近は出来ない若者が多いらしいけど」
「……はい」
「ま、いわれるまでもないだろうけど。でも大切なことだから。お店なんだから、ここ。一度不快な思いをしてしまったお客様は、もう来てはくれなくなるからね。……店長がいない時にいうのもなんだけど、店長も自分もちょっと甘やかしすぎていたと思う。性格上自分には出来なくても仕方ないなんて思わないでね。こんなのは慣れなんだから。ちょっとづつ慣れていこう」
下平は、ようやくここで笑みを浮かべた。
風子は頷いた。
「はい電話のベルが鳴った。さぁ、受話器を取った!」
下平は、ぽんと手を叩いた。
「おで、おで電話のわ、ノワゼット、です。 ……い、いまのタイミングは……ズルいです……」
恥ずかしそうな恨めしそうな、そんな視線で下平を見上げる風子。
「なにやってんですかあ、二人とも」
いつの間にか店内に戻って来ていた明津恵美が、腕組みして風子たちに訝しげな視線を送っていた。
「ああ、ちょっとトーク練習。恵美ちゃん、さっきのお婆ちゃんは?」
「野々部市民ホールの場所を知りたいっていうので、教えてあげました。そのすぐ横に、お孫さん夫婦の家があるんですって」
「電話して迎えに来させりゃいいのにな。タクシーで行くとか」
「ああ、そうか、タクシー使えばっていってあげればよかったなあ。電話はかけたくないんだって。いきなり行って驚かせたいんだっていってた」
電子音。
机の上の電話機の、赤ランプが点滅し、呼び出し音が鳴った。
「はい、ありがとうございます。ケーキショップ、ノワゼットでございまあす」
流暢に電話応対をする明津恵美。
下平は、ちらりと風子を顔を見た。
少し項垂れて、少し惨めさを感じているような……
明津恵美はこの電話だけではなく、先ほどだって明るく丁寧に道案内をしていたし、お店の心象にもプラス影響があるだろう、それに比べて自分はやはり、なんの取り柄もない駄目な人間なんだ。そう思っているかのような、なんとも辛そうな表情であった。
8
アルバイトを終えた風子は、自転車に乗って帰宅中だ。
もう夜の九時、空は真っ暗だ。
住宅街を抜け、田んぼへさしかかろうとしているところで、人の姿が視界に入ってきた。
二時間くらい前に明津恵美が道案内をしていた、あの老婆であった。
まさか、こんな時間だというのにまだ市民ホールを探しているのだろうか。
でも、こっちはまるで方向が反対だ。
もうお孫さんの家にはとっくに着いていて、別件でこちらに来ているのかも知れない。
ゆっくりと、自転車を走らせる。
素知らぬ顔ですれ違った。
すこし進んだところで、自転車を止め、後ろを振り向いた。
他人のことだ……
どうでもいいじゃないか。
本当に道に迷っているのかどうかなんて、分からないのだから。
下手に声なんかかけて、自分の間違いだったら恥ずかしいだけだ。下手なことをいってしまって、相手を怒らせてしまうかも知れない。
なるべく、人にかかわりなんか持たないほうがいい。
もう、行こう……
風子はペダルを踏み込んだ。
他人のことだ……
気にする必要など、ない。
加速。
急ブレーキ。ギギイと錆びついたような音。
また後ろを振り返った。
老婆の背中が、小さくなっていく。
風子は自転車をユーターンさせ、走らせる。
あっという間に、老婆に追いつくと、自転車をとめた。
老婆と目があった。
風子は口を開く。
「あ……あの、あの、お、お、おばあ……」
開きはしたが、まともに言葉が出ない。
「あら、さっきのケーキ屋さんの……」
覚えられていた……
隙間から、ちょっと覗き見ていただけなのに。
きっと自分の髪がぼさぼさで、みっともないから目立つんだ。
それより、
「ま、ま、まだ、しみ、しみ、市民、ホール……」
「ええ。さっきの娘には丁寧によおく教えてもらったのに、年齢のせいか、なんだか勘違いして覚えてしまっていたみたいで」
まるでテレビでも見ているかのような、淀みのない標準語。東京の人なのだろうか。この辺りに住む年寄りはみな東北弁丸出しだし、若者にしても標準的なアクセントで喋っているつもりでも、実際はかなりの訛があるというのに。
どうでもいいことながら、ちょっとした劣等感を覚えつつ、風子は自転車を降りた。
「あ、あっちだから、し、市民ホール……い、い、一緒、一緒に……」
風子はあえぐように口から言葉を押し出しながら、自転車を押して歩き出した。
夜空には、夏の星座が輝いていた。
9
また、つき合っていた彼氏に振られてしまったのである。
はたから見れば男を取っ替え引っ替えのいい身分にも見えるが、彼女にはそのようなつもりはまったくない。交際を続けたいのに、いつも相手から別れを切り出されたり浮気されたりして終わっている。
これで何度目かというくらいなのに、慣れることなく、振られた直後の遠金は相当に機嫌が悪い。
畜生、やるだけやって、逃げやがってよう。だったら最初から援交で近づいといて、金だけ巻き上げときゃよかった。こっちばっかり金を使わせられてよ、あんなに貢いでやったっつーのに、あれが気にいらない、お前のこの態度が酷い、許せない、ってまるでそっちが被害者かのようなこといいやがって……逃げやがってよ。
今度会ったらキンタマを蹴り潰してやる。または、引きちぎってやる。それで達子らとキャッチボールしてやる。
……等といったような物騒な愚痴を、口を開けば友人らにぶつけている。
一昨日の夜に破局してからというもの、もうずっとこんな調子だ。
まあ、一週間もしないうちに、また新しい男を見つけて機嫌が良くなるのがいつものパターンなのであるが。
「だからさ、あんな男やめとけっていったんだよ」
「うるせえな。こっちはいつも本気なんだよ」
「そうだけど、でも恵理香ならもっと良い男が見つかるって」
「そうそう」
「あいつ、最初から遊びって思ってた感じだったよ」
「うるせえな。過去のあたしが馬鹿だったってのか。過去のあたしも今のあたしも、同じあたしだぞ」
「はいはい、ごめんごめん」
昼休み。学生食堂を出た三人は、そのような会話をしながら通路を歩いている。
「放課後さ、カラオケでもいって騒ごうよ。スッキリするよ。ぜえんぶ達子のおごりでさ」
さも名案といった矢野舞子の顔。
「ええっ、なによそれえ」
谷澤達子が素っ頓狂な声をあげる。
「……カラオケなんかよりさあ、もっとスッキリできるモノがいたよ」
ニヤリと笑う遠金恵理香。花壇沿いのベンチに腰をかけている佐久間風子の姿を発見したのである。
ちょうど弁当を食べ終えたところのようだ。
弁当箱を布で丁寧に包み終えると、なにやら両手を合わせている。
「今時ごちそうさまのお祈りって、何時代だあいつは」
遠金恵理香は、通路の手すりにもたれて様子を見ている。
花壇に座っている佐久間風子は、バッグから本を取り出すと、読み始めた。遠くてよく分からないが、お菓子の写真が表紙のようだ。
「むかつくんだよなあ。こんな人目につきにくいところでよお。ゴキブリみたいに、カサコソ逃げまわりやがってよお。本物のゴキブリなんだから仕方ないとか、いいわけになんないんだよな。ほんと、むかつくんだよなあ。……特にこっちがこういう気分の時はさあ、ブチ切れそうなくらい腹が立ってくんだよなあ」
ぼそり、ぼそり、と呟きながら、遠金恵理香は上履きのまま、校庭へと出た。
と、いきなり凄まじい大声をあげて、走り出した。
「クマ、てめえ、ブチ殺すぞ!」
そう、遠金恵理香は佐久間風子に向かって絶叫し、走り出したのである。
風子は漫画のような大きな動作でびくりと跳ね起きると、えらい剣幕で迫ってくる遠金恵理香の姿にさらにびっくりして、手早く荷物をまとめると立ち上がり、逃げ出した。
「なんか恵理香あ、無茶苦茶やってるよお」
「でも面白そう。行こっ」
残る二人も、楽しげな表情で後を追う。
結局、風子はすぐに追いつかれてしまった。手ぶらの遠金に対し、風子はバッグが揺れて思うように走れなかったからだ。
ちょうど陸上用の砂場のところで、風子は後ろから体当たりを受けて倒れた。
砂利が口の中にでも入ったか、不快に顔を歪める風子。そんなことお構いなく、遠金は彼女の身体に馬乗りになっていた。
「てめえ、なんで逃げんだよ」
嬉しそうな怒り顔を満面に浮かべている。
「だって……お、追いかけて……くるから」
「はあ? 誰が逃げていいっていったよ。六月五日、木曜日の昼休みは、遠金恵理香に追っかけられても逃げていいです、って、誰に許可もらったんだよ」
「だだ、誰って……」
「許可も得ずに勝手なことする資格なんて、おめえにゃねえんだよ。この地球上の、どこにいようともな」
「す、すみません。もう、に、逃げませんから、勘弁してください」
「許して欲しいか」
「は、はい」
風子は頷いた。
「じゃ、一ついうこと聞け」
「な……なんでしょう……」
遠金は、風子の頬を力一杯つねった。ぎりぎりと、爪を食い込ませた。
「なんでしょうじゃねえよ。聞いてから判断しようなんて、生意気なんだよ。はい分かりましただろ」
「……はい……わ……分かりました」
「本当だな。いったからには、約束を守れよな」
遠金恵理香は、風子のバッグを勝手に開けた。
ケーキ作りの本が入っていた。邪魔だから、投げ捨てた。
弁当箱が入っていた。つまらなそうだから、投げ捨てた。
もうなにも入っていない。
なんだよ。面白そうなものがあれば、それを材料にいじめてやろうと思ったのに。
例えば日記帳とか、ポエムとか。
つまんねえ奴だな。
なんにもねえじゃねえか。
「てめえ、なんかポエム作れよ」
「え、え……」
「えじゃねえよ。あたし親切だから、お題はこっちで考えてやるから。じゃあ、エロポエムな、エロポエム。ノーカット無修正ので、なんでもいいからなんか作って、叫べ」
「そそ、そんな……」
「早くしろよ!」
遠金は、風子の首を絞め、揺らした。
「でも……でも……」
「くそつまんねえ奴。馬鹿じゃねえの?」
遠金は立ち上がると、先ほど投げ捨てた風子の弁当箱の包みを拾い、解いた。
こんなもので足りるのか、と思うほど小さい弁当箱だ。
砂場にしゃがみ、砂を握ると、空箱に詰めた。
ぎっちりぎっちりと詰めると、蓋をした。
そして、わざとらしい表情で、
「あ、佐久間さんのお弁当箱だあ、どんなお弁当なんだろおお」
遠金は、蓋を開けた。
当然、ぎっちり詰まっているのは砂である。
自分でそうしたばかりなのだから。
「わあ、美味しそうなお弁当だなあ。でも、全然食べてないじゃん、こんなに残っちゃってるじゃん。もうじき昼休み終わっちゃうのに。佐久間さん、ちゃんと残さず食べなきゃ駄目なんだよお」
遠金は弁当箱を風子の顔に近付けた。
「そ、それ、す、す、砂……」
「違うよ。美味しいご飯だよ。ゴキブリには上等すぎるくらいの。……ほら、早く食えよ。残したりしたら、貧しい国の人に悪いだろ。食えってんだよ! 達子、舞子、抑えつけて!」
風子は体全体を暴れさせ抵抗した。
「生意気に嫌がってんじゃねえよ。家ではウンコ食ってるくせによ。ふりかけをかけてやりゃ、食うのかよ。かつお節とノリタマと、どっちだったら食うんだよ! ほらてめえ、早く口を開けろよ!」
楽しそうな遠金の表情。
なおも抵抗続ける風子であるが、しかし三人がかりに太刀打ちできるはずもなく、むりやり口をこじ開けられてしまう。
「はい、いただきまあす」
遠金は砂をすくうと、風子の口に流し込もうとした。
その時である。
視界が塞がれ、目にびちびちと何かが飛び込んだ。
激痛。
おそらく無意識なのであろうが、佐久間風子が手にした砂場の砂をつかみ、遠金の顔面めがけて投げつけていたのだ。
遠金はたまらず、ぎゃっと悲鳴をあげた。
風子の身体に馬乗りになっていた遠金は、転がり落ち、自分の顔を押さえてのたうちまわった。
「あ、ああ、あの……」
風子は立ち上がり、自分のとった行動におろおろと動揺してしまっていた。
「そいつ、おさえとけ! 砂が目に入ったぁ、痛ぇ。畜生! ぶっ殺すう!」
いわれた通り谷澤達子ら二人は、風子の制服の袖をがっちりと掴んだ。
やがて遠金は真っ赤になった目をこすりながら、ゆっくりと立ち上がった。
と、いきなり風子の腹に膝蹴りだ。
まったく攻撃を予期していなかった風子の、柔らかな腹に、遠金の膝はやすやすとめり込んだ。
風子は突然の激痛に、ぐうっと呻き、くず折れた。
「クソボケ!」
遠金は、ひざまずく風子の側頭部を蹴り飛ばした。
砂場に、ばたり倒れる風子。
遠金は砂を拾い、風子の顔面に投げつけた。
風子は、腕で顔をかばった。
そのためガラ空きになった腹部に、遠金の踵がめり込んだ。
風子はこみ上げる吐き気をこらえるような呻き声を出しながら、ごろんとうつぶせになり、立ち上がろうと四つん這いになった。
さらに遠金は、砂を投げつける。
髪の毛を引っ張って、強引に起こす。
ぶんと腕を振るい、風子の顔に平手打ちを浴びせた。
「お前が、あたしに砂なんかを投げてくるから悪いんだよ。謝んな!」
今度は反対の頬に平手を浴びせた。
「てめえ、なんだよ、その目つきは。ゴキブリのくせしやがって」
何度も、何度も、まったく容赦することなく遠金は平手を打ち続けた。
「まだその目つきやめねえのか。睨んでんじゃねえぞ、生意気なんだよ」
佐久間風子の、ぼさぼさとした髪の毛を引っ張る。
そのまま振り回すように、砂場の砂に顔を叩き付ける。
何度も、何度も、強引に引き起こしては、叩き付けた。
「謝れ、謝れよ、てめえ!」
また強引に立ち上がらせると、風子のお腹に膝をめり込ませた。
右の膝。
左の膝。
何度も。何度も。
「ボケクソが。早く謝れってんだよ、意地張ってんじゃねえぞ、ゴキブリにプライドなんかねーんだよ、バーーーカ!」
遠金の叫びと同時に、風子の身体はくにゃりと柔らかく曲がったかと思うと、横に倒れて砂場へ崩れた。
「ちょっとやり過ぎだよお、やばいよ恵理香。睨んでんじゃなくて、気を失ってんだよ」
そう、矢野舞子のいう通り、風子は砂場に顔をうずめたまま、気絶していたのである。
遠金は、ふんと鼻を鳴らすと、再び砂を拾い、のびてしまっている風子の全身に、思い切りぶちまけた。
そして、つま先でお腹を蹴飛ばした。
「みんなてめえが悪いんだ! あたしがクソ男に振られたのも、てめえのせいだ!」
遠金は風子へと、べっと唾を吐き浴びせると、荒い足取りで校舎へと歩き出す。
谷澤達子と矢野舞子の二人も、後を追う。
砂場に顔をうずめ気を失っている風子の姿だけが残ったのであった。
10
頭がすっかり混乱してしまっていて、それからのことはよく覚えていなかった。
午後の授業はちゃんと受けたのだと思う。いや、ちゃんとではなかったかも知れないが、席には着いていたと思う。
なんとなく、記憶はある。
何故、そのようになったのかも。
遠金恵理香に、殴られ蹴られたのだ。
途中で気を失ってしまったから、どこまでの、なにをされたのかまでは、よく覚えていない。
帰宅して、鏡を見てびっくりであった。
着ている制服がぼろぼろなのは学校にいる時から分かっていたが、身体や顔まで、傷だらけの実に酷い有様だったのだ。
痛みは全然ひいていない。むしろ、麻痺がおさまってきたのか痛みが増している気もする。
ひりひり、ずきずき、じんじん、痛みをあらわす形容句がすべて当てはまる。
学校で、傷や制服の状態について、誰から何をいわれることもなかったのだろうか。ぼーっとしている間に。尋ねられたとして、自分はどんな切り返しをしたのだろうか。
風子は現在、自宅の、自分の部屋にいる。
もう、すっかり日は暮れている。
電灯はついておらず、部屋は真っ暗だ。
わざわざ消したのではない。つけなかっただけだ。
誰かが階段を上ってくる音。
ドアが開いた。
そして部屋の電気がついた。
母親が、立っていた。
「やっぱり。今、アルバイト先から電話があったのよ。自転車があるから、もしかしたらと思って見に来てみたら。あんた、無断欠勤なんかしちゃ……風子、ねえ、どうしたの? その顔、どうしたの?」
母親は、風子の傷だらけの顔を見て驚きの表情を浮かべ、尋ねた。
「なんでも……ないよ」
風子は面倒くさそうに、答えた。
「なんでもないことないでしょう。制服だって、ぼろぼろじゃないの」
「だから、なんでもないって! ……店長に、電話しなきゃ」
風子はよろよろと立ち上がった。
階段を降りて居間に行くと、既に父が帰ってきていた。
「あなた、風子が……。風子、誰かにいじめられたんじゃないの?」
母親が、階段を降りながら、尋ねる。
「……なんだ、中学に続いて高校でもいじめられてんのか。悪いことしてないんなら堂々としてりゃいいのに、コソコソしてっからいじめられるんだよ。毅然と振る舞わないから、戦おうとしないから、余計にいじめられるんだよ」
父親はさして興味なさそうに、テレビのニュースを見ている。
もしかしたら、あえて突き放す素振りを見せているだけかも知れないが。
でも風子には、とてもそうは思えない。
お父さんは相変わらずなにも分かっちゃいないんだ。今のいじめはゲームなんだ。悪いことしてないんだから、とか、堂々していればいじめられないとか、いじめられているほうも悪いんだ、とかそういうものではないんだ。本当に、罪なくらいに分かっていない。
小学校の頃に、誰かを標的にして次々に上に乗っかっていく遊びだかいじめだかが、男子の間で流行った。
山が出来ているのを見ると、男子は条件反射的に、次々とその上におおいかぶさっていく。
下から死にそうな悲鳴が聞こえてきても、知ったことではない。
あとから祭りに参加する者は、積み重なっている下のほうに誰がいるのかなんて知らない。ただ楽しいだけだ。
標的とされた者がどんなに辛かろうと、泣き叫ぼうと関係ない。
要はそんなものだ。いじめる側の心理というものは。
風子は、アルバイト先に電話をかけた。
言葉がスムーズに出てこず、つっかえつっかえで謝った。
謝罪するような用件だからではなく、風子は家族以外と会話をする時は、いつもこうなのだ。
父親は、そんな風子に、冷たい視線を向けている。
不意に、母親が眉をしかめながら口を開いた。
「なんだか中二の頃からがらっと変わってしまって、嫌だわ。……家族以外とだと、あんな感じにしどろもどろになっちゃって全然ろくに話も出来ないみたいだし。アルバイト始めるっていうから、よくなると思っていたのに、ちっともだし」
「それまでさしたる苦難に会わずに、過ごしてきていたってことだ。つまり、おれたちが甘やかして育ててしまったってことだよ」
などといいながら父親は、電話を済ませ二階に上がっていく風子の背中を見ている。
風子は不意に立ち止まり、踊り場から両親を見た。
娘にすべての原因があると思っている父親。実の娘をなんだか気持ち悪いと思っている母親。
一度だって、なにが起きているのか、娘がどんななのか問いつめてきたことなんかないくせに。
心配なんかしていないくせに。
実情を知らないくせに、一般常識と根性論だけで父親ぶるな。偏見や世間体に凝り固まっているだけのくせに、心配しているふりをして母親ぶるな。
風子は再び階段を上り、自室に入った。
部屋の鍵をしめる。
心臓の音。
不安。
怒り。
動揺。
部屋の電気もつけず、荒い足取りで机に向かうと、両手で机の上の物を全部払いのける。ガチャガチャと音がして、跳ね飛ばされた物が床の上にどんどん落ちていく。
虚脱感。
電気をつけた。
自分で散らかしたばかりのものを片付け始める。
拾った。
決して、表を見ないよう注意しながら。
なにか紙が挟まっているのに気付いた。
引き抜いた。
思い出した……
それは、手紙であった。
未来の私へ
私はこれから死にます。
絶対にないと思うけど奇跡的に助かってしまって、生きたいと思ってしまって……
そんな時のために、自分に手紙を残して置きます。
どんな死に方をしようとしたのかは、
今の段階で分かるはずがないけど、
もしも死に切れなかったら、
とても痛く、辛く、惨めな気持ちになったことでしょう。
死ぬ勇気もないんだ。私は私のことを見損なうと思います。
死ねなかったのならしょうがない。生きていくしかないよね。
なら、探してみたら。
生き方。
無理ないポジション。
風子が自分に充てて書いた、手紙であった。文章がまるでまとまっていないが、淡々としているようでいて、どこか悲痛な。
この過去の手紙、過去の自分に、風子はちょっとした怒りを覚えていた。
だってそうではないか。
悲観しているようで、どこか未来を信じている。
未来の自分、つまり現在の自分に、勝手に物事を託している。
そう……
死ねなかったのだ。
いや……怖気づいて、はなから死ぬ気などなかったのだ。きっと。
中学二年生であったある日、風子は電車を乗り継ぎ、山奥に行った。切り立った崖のような地形が多くあることを知っており、そこのいずれからか、飛び降りて死ぬつもりだったのだ。
しかし選んだのは確実に死ねるような高く険しい崖ではなく、六、七メートル程度の、しかも草木がクッションになっているようなところ。
それでも大怪我は負ったが、死ぬにはほど遠く、腕と足を骨折しただけだった。
まったく身動きの取れないでいるところを、翌々日に発見され、救助された。
両親にはさんざん叱られた。
大怪我を負ったことによって、学校での暴力的ないじめは減った。しかし陰湿ないじめはなおも続いた。
風子は本当の自分を見失ったまま、どんどん自分の殻に閉じこもっていった。
どんどん性格が卑屈になっていった。
自覚している。
でも、それのどこが悪い。
誰だって、いじめられたくなんかないんだ。痛いのなんか嫌なんだ。
風子は手紙を両手に掴み、破ろうとした。しかし結局、破ることが出来ず、机の引き出し奥にしまった。
部屋の電気を消すと、勢いよくベッドに倒れ込む。
布団を頭からかぶった。
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