じょいふる

かつたけい

第一章 本物のほうが空を飛べるだけマシかもね

 それを見た瞬間、体が勝手に反応していた。

 ふうは立ち上がり、両腕を高々とあげて叫んでいた。

 いったい自分はなにをいっているんだ。興奮のあまり、まるで言葉になっていない。

 ゆうが興奮したように、ぎゅうっと抱きついてきた。

 後ろの席にいたなおが突然、熊のようなぶっとい手を伸ばして風子と悠子の体を抱きかかえた。そして、二人の頭ををくしゃくしゃにかき回した。

 風子は笑っていた。

 嬉しそうに。楽しそうに。

 天使も嫉妬しそうな、とろけるようなその笑顔を、スタジアムの熱気が風となってさらっていった。






   第一章 本物のほうが空を飛べるだけマシかもね


     1

 F県市の航空写真を数十年前と現在の物を二枚並べて見比べてみても、大きな変化を発見することは困難であろう。

 現在の写真をよく見ると、近代化の波に押されて駅周辺にはビルが増えていることは分かる。が、よく見てその程度の発見しか出来ず、どちらの航空写真を見せられたところで抱く感想としてはさほど変わらなかっただろう。


 田んぼばっかりだね。


 確かに、駅を中心とした建物の密集している地帯は若干の賑わいを感じさせてくれるものの、そこからほんの少しでも離れると、もう周囲一面田園風景だ。

 そんな風景の中に小さな住宅地が点在しているのが、野々部市なのである。

 そんな広大な田園地帯の中に、L字型の建物がある。大きな建物なのだろうが、周辺の土地があまりに広いため、上空からだと大きいのか小さいのか規模がよく分からない。

 F県立野々部商業高等学校。

 今年創立六十周年を迎えた、歴史のある学校である。

 近くを田んぼに、遠くを山々に囲まれた、実にのどかな環境の中で、生徒らは勉学や運動に励んでいる。


 【教育理念】

  一 自立、自由の意味を学び、尊ぶ

  二 自ら思考し、行動出来る


 【校訓】

  「責任」 自己の行いが周囲に与える重さを自覚する

  「誠実」 他人を尊重し、丁寧に接する

  「友愛」 他者の喜びを自分の喜びとし、他者の痛みを自分の痛みとする


 商業高校だけあって、以前は校訓の二番目が「誠実」ではなく「商才」だったのだが、時代の流れというものか、そのような主張はいかがなものかと保護者からの苦情があり変更をした経緯がある。

 このような教育理念を掲げてはいるものの、パンフレットや学校紹介のホームページに書く文句に利用する程度であり、教師だって誰もそらで覚えていやしない。

 ましてや生徒が覚え、率先して実行していくはずもない。


「おい、クマ!」


 一年B組の教室、後ろのドアが勢いよく開くが早いか、女子生徒のガラの悪い叫び声。

 とおがねが立っていた。

 不良上級生とも繋がりがあるために、男子も恐れる存在だ。

 長い黒髪。肌も黒っぽいが、化粧なのか地肌なのかがよく分からない。

 彼女のすぐ後ろには、いわゆる取り巻きであるざわたつまいの姿。

 教卓のそばで、おおはしみちにジュース缶を手渡していた一人の女子生徒が、その声にびくりと肩をふるわせた。振り返り、出入り口に立つ三人組の姿を確認すると、まるで小間使いのように腰を屈めて小走りで、彼女らのほうへと駆け寄っていった。

 三人の前に立つと、


「……なにか」


 クマと呼ばれた女子生徒は、うつむいたまま上目遣いでぼそぼそっと呟く。といっても、ぼさっとした髪の毛で、どんな目なのかはっきりとは見えなかったが。


「なにかじゃねえよ。なんだよてめえクマ、この靴は!」


 つき出された靴を、女子生徒は両手を伸ばし受け取った。遠金恵理香の通学靴だ。

 磨いたばかりといった光沢を放っているが、うっすらと土が付いたままの箇所があった。とはいっても、ほんの一、二ミリ程度の、点のようなものであるが。


「すみません!」


 女子生徒は突然土下座をすると、頭を深く下げた。


「す、すぐ、磨き直しますんで」


 さらに頭を下げる。もう床と額がくっつきそうだ。


「謝ったり、やり直したりするくらいなら、最初から手を抜くんじゃねえよ、馬鹿。心にもねえ謝罪しやがって」

「ほんとう、すみませんです。気を付けるんで、どうか許してください」


 とうとう床と額がくっついてしまった。


「おい、サクスケ、ちょっとこっち来いや!」


 男子生徒の怒鳴り声に、さきほどクマと呼ばれていた女子生徒は土下座解除し立ち上がる。


「み、磨いて後で下駄箱に入れておきますから」


 と、遠金に軽くお辞儀をすると、たかはしもりのところへとそそくさと駆け寄った。


「サクスケ、てめえ、窓ガラスろくに拭けてねえじゃねえかよ。おれが掃除当番の時だけ手抜きするって、どういうことだよ」

「ああ、あの……すみません、ジュースを買ってきてから、つつつ続きをやろうと……」

「生意気に言い訳してんじゃねえ。つかジュースなんて飲んでんじゃねえよ!」

「いい以後以後っ、ちゅ、注意します」


 クマでありサクスケである女子生徒は、頭を下げた。

 ジュースを自分で飲んだわけではないのだが、弁解しようものなら鉄拳を浴びるだけだから。


「ブー、お前、なんだよこれ!」


 大橋道矢が声を荒らげて不満気だ。


「なんだよ、このオレンジジュース。つぶつぶが入ってないじゃねえか。おれがオレンジといや、つぶつぶだろうがよ!」


 真実、初耳だ。


「すみませんでした! ここ、今後このようなことがないよう、気をつけますんで……」


 クマでありサクスケでありブーである女子生徒は、そういうとまた土下座をし、深く頭を下げた。

 彼女にはふうという可愛らしくて立派な名前があるのだが、本名で呼ぶ者はこのクラスにはいない。

 風子は身長一五四、五センチ。すらり、というほど痩せてもいないが別に太ってもいない。それがどうにも見る者に重苦しい印象を与えるのは、おそらくはその髪型のせいであろうか。

 歌舞伎の主役みたい。

 そう表現するのが一番分かりやすいであろう。

 腰まで伸びている長い黒髪が、さながら超新星のごとく大爆発しているのだ。顔の大半がその中に埋もれてしまっており、しかも始終うつむいているものだから、目はほとんど隠れてしまっている。

 髪型というよりは、なにもせずに放置しておいたらこうなりましたという感じだ。

 実は、風子は意図的にこのようにしている。

 彼女はもともと、とりたてて明るいとはいえないまでも充分に「普通」というカテゴリーに属する平凡な女の子だった。

 中学二年の二学期に、突然いじめの標的になった。いじめは度を越した酷いもので、風子は何度も自殺を考えたくらいだ。

 いつしか風子は、誰に対しても卑屈な態度で接するようになっていた。髪を伸ばして放置し、おしゃれに気を遣わないどころか、わざと醜い身なりをするようになった。

 高校では、入学当時からいじめられた。クラスは違うが中学の時の同級生が何人かいたことが原因だろう。

 諦めている。

 このような狭い世界で生活する以上は、どうしようもない。すべてを投げ捨てて東京にでも行かない限り。

 とはいえ、仮に遠くへ行ったところでいじめられないといった自信は風子には毛頭なかったが。


     2

 遠金恵理香の靴を磨き直した風子は、昇降口の下駄箱に行くため廊下を歩いている。

 たくさんの生徒たちが、お喋りしながら行き交っている。

 風子の嫌いな、ごちゃごちゃとした人の波。

 なんでもないのに、みんなどうしてそんなに楽しそうにしているのだろう。

 なにがおかしくて笑っているのだろう。

 そもそもなんだって生きているんだ。どうせそのうちに死んでしまうというのに。

 すべてがなんの意味もないこと、と虚しくならないのだろうか。

 靴を両手に抱え、うつむいたまま、風子は縫うように進んでいく。

 一人の男子生徒と肩がぶつかった。


「すす、すいません! ごめんなさい!」


 風子はくるり振り返りながら、深く頭を下げて謝った。悪いのは友達とふざけながら歩いていた男子生徒なのだが。

 靴を遠金の下駄箱に戻し終えた風子は、教室に戻った。

 クラスのみんなの表情は普段通りだ。友達とお喋りをしていたり、本を読んでいたり。昨日となんら変わらない。さきほど自分が教室を出た時と、なんら変わらない。

 しかし、風子の直感は微妙な空気の変化を感じ取っていた。

 理由はすぐに分かった。

 自分の机の表面が、ニスでも塗ったかのような光沢を帯びているのだ。

 風子はその光沢に、まるで気が付いていないふりをしながら、自分の席に着き、椅子に座った。

 ぼさぼさの前髪で目が完全に隠れているというのに、風子にはみんなの視線が、そして興味の対象がなんであるのか、よく分かっていた。

 心の中で深い溜め息をつくと、ゆっくりと両腕を机の上に置いた。

 みんな、笑いをこらえるのに必死だ。

 しばらくして、風子は腕を動かそうとした。しかし動かせない。制服の袖が、机に張り付いてしまっていたのだ。腕を動かそうとすると、机が引っ張られてガタガタと動く。

 机の表面に塗られていたのは、強力な接着剤だったのだ。

 風子は慌てたそぶりで、引き剥がそうとしきりに腕を動かした。


「ガタガタうるせえぞ、クマ!」


 怒声が飛ぶ。


「ご、ごめんなさい。でも、でも、袖が……」


 上着を脱ごうにも、腕が両方とも机から離れない状況のため、それも出来ない。

 風子が机と奮戦しているうちに、予鈴が鳴った。と同時に、教室の前のドアから担任のじき先生が入って来た。

 しんと静まり返る教室に、風子の立てるガタガタという音だけが響いている。

 風子は力一杯に服と机とを引き剥がそうとしたところ、びいいっと音がして袖が破れてしまった。

 あまりに力を込め過ぎたせいでバランスを崩し、風子は後ろに倒れ、引っ張るように机も倒してしまった。耳をかき鳴らす不協和音とともに、机の中身がすべて床に散らばった。

 机の表面には、制服の袖が張り付いている。風子の制服の袖は、肘から先が引き裂かれ、裏地だけになってしまっていた。


「おいブー、いい加減にしろよさっきから、授業の邪魔だろが!」

「人の迷惑考えてよね」

「常識ねえのか、この馬鹿。いつもいつも」

「ど、ど、どうもすいませんです!」


 風子は慌てて自身と机と椅子を起こし、散らばったものをそそくさと片づけはじめる。

 心の中で、深く長い溜め息をついた。

 ……これでいいのだ。


     3

 ひぉおと吹き付ける神の息吹に、髪の毛がばさばさと音を立て、激しくなびいている。

 顔を上げれば風に髪をさらわれて額まで丸見えになりそうなものだが、下を向いているためにかえって額や顔に髪の毛がべったりと張り付いてしまっている。まるでエイリアンや巨大蜘蛛が頭に取り付いているかのようだ。

 佐久間風子は自転車通学をしている。俗にママチャリと呼ばれる型の、青い色の自転車を利用している。

 今風子が自転車を走らせている農道は、たまにトラクターや軽トラックが通るくらいの、ほとんど貸し切りのような道路である。

 道路は少し盛り上がったところに作られており、小さな土手の下には周囲どこまでもどこまでも田んぼが広がっている。

 運の悪いことに、たいていの場合において登校時と下校時とで風向きが逆に変化しており、彼女は常に向かい風と戦わなければならない。

 この風さえなければ、見晴らしの良い気持ちのいい通学路だというのに。

 おかげで体力がつくかも知れないが、微塵も嬉しくない。

 なにも風を遮るもののない田んぼの、ど真ん中をつっきっていく風は、とにかく激しく辛いのだ。この一帯が山に八方を囲まれた狭い盆地であることも、この異常な強風が吹く原因の一つであろう。

 ハンドルを握っている風子の腕をよく見ると、制服の袖が破れてなくなって、裏地だけになってしまっているのが分かるだろう。

 先ほど学校の教室で破ってしまったものであるが、当然ながら冬制服の替えなど持っているはずもなく、そのままの姿で残りの授業を受け、そして現在こうして下校しているというわけだ。

 狭い道と交わって十字路となっているところにさしかかった。そこを左に折れるとすぐに小さな住宅地、その中に風子の家がある。

 もうこの位置からでも、自宅が見えている。瓦葺きの、近代的なごくごく普通の一軒家だ。

 しかし彼女は道を曲がらずに、そのまま農道を真っ直ぐ自転車を走らせた。

 風の神に逆らい続け、もう七分程もペダルを漕ぐと、景色が一転する。駅周辺の広い住宅地だ。

 さらに進んでいくと次第に交通量が、そしてビルディングの数、人間の数が増えてくる。鉄道の踏切を横断せずに直前を右折、線路沿いを少し進むと駅が見えてきた。自動車と通行人が多いので、自転車を降り、押して歩く。

 駅前大通りに平行している、様々な商店が並ぶ小道へと入る。

 さらに少し進むと、ノワゼットという名の小さなケーキ屋が見えてきた。

 風子はこの店で、アルバイト店員として働いている。火水木曜が午後五時から八時半まで、土日が朝から晩までのフル勤務。時給は七二〇円。

 自転車を店の裏側にある狭いスペースにとめ、ロックをかける。


「お、おはよございます!」


 裏口から店内に入ると、風子はひっくり返ったような大声を出し、先輩たちに深く頭を下げた。

 別に店の決まり事というわけではないが、みんなどの時間も「おはよう」を使っている。風子も、もう慣れた。


「おはよう、サクちゃん」


 白衣を着た大男、しもたいらこうへい、ここのアルバイト店員では一番の古株だ。もう七年以上にもなるらしい。

 届いたばかりの大きな砂糖袋が、台車の上に積まれている。下平はそれを棚にしまっているところのようだ。


「それ、やります」


 風子は砂糖袋に手をかける。今日は五時半頃に届くと聞いていたので、ならば自分の仕事だろうと思っていたから。まだ四時半過ぎであり、風子の勤務は五時からなのだが。


「いいよ、おれがやるよ。サクちゃん今日は五時からだろ。それよりタイムカード押して、着替えてきなよ」

「はい」


 風子は頭を下げた。

 頭を下げるたびに髪の毛が大移動して、それ自体独立した生き物であるかのようにばさりばさりと動く風子であるが、それを見ていた下平が、ふと、


「肩、こらないのかな」


 小さな声で呟いた。

 こりますよ。風子は心の中で返答しながら、部屋の隅にあるタイムカードを押し、タイムレコーダーの横にあるロッカーを開き、白衣に袖を通し、帽子を被った。

 せかせか小走りにやってきたきたしげ店長が、棚に積まれている昨日の伝票を、なにやら呟きながらぺらぺらめくり始める。

 ふと、風子が出勤していることに気づいたようで、


「おう、サクちゃんおはよう」


 声をかけた。


「おはよ……ございます」


 風子は帽子の中に、爆発した髪の毛をぎゅうぎゅうとしまいこんだ。それによって髪型がつぶれて、余計に風子の顔を隠してしまう。

 お店で働く以上、あまりよい格好とはいえない。しかし彼女は接客業務ではないし、ケーキの製造補助という仕事の腕前はしっかりしているから、今では店長は特になにもいわない。

 注意したのは初日だけだ。こういう仕事なのだから髪を切るか、せめて帽子で押さえ付けるように髪をかき分けて顔を出せ、と。

 後者を選んだ風子であるが、やってみたところなんとも恥ずかしくて、ひどく動揺してあたふたあたふたと腰を抜かしたようになってしてしまい、それ以上強制されることはなくなった。

 後になって風子が聞いた話では、なんだか変わり者っぽいから、こういう職場の雰囲気には耐えられずに自分から辞めるだろうと思っていた、とのことだ。いざ働かせてみると、とても物覚えが良くて手先も器用なので、裏方仕事ならば接客は関係ないし、店長からお願いしてそのまま続けてもらうこととなったのである。

 このアルバイトは風子が中学を卒業してすぐに始めたもので、かれこれもう二ヶ月ほどになる。


「しかし、せっかく可愛い顔をしているのに、もったいないよなあ。きちんとした身なりで笑顔で接客してくれたら、お客さんがどっと増えそうな気がするけどなあ」


 店長が腕組みしながら、風子のことをあらためてまじまじと見て、残念そうな表情を浮かべている。


「ぼくもそう思ってんですけどねえ。ね、サクちゃん」


 隣の下平も続く。


「か、か、可愛くなんて……ない……です」


 風子はうつむき加減の顔を、ますますうつむかせた。

 興味本位でとんでもないことを口にしないで欲しい。自分なんかが接客などをした日には、間違いなく客は減る。人間にはそれぞれの領分というものがあるのだ。「お前なんかに会計をされたから、ケーキがまずくなった」などといいがかりをつけられて謝罪させられたり、怒って二度とお客さんがこなくなるかも知れない。


「でもね、本当ならレジが忙しくてお客さんが並んじゃっている時なんかは、手伝ってもらったりもするんだからね。みんなそうしているんだから。下平君だって、こんな野太い声や指だけどレジ打ったり電話取ったりもしてるんだから」

「あ……はい……あの、そその分かっては、いるんですけど……こ、この仕事、好きだから続けたいし……そしたら、色々しなきゃってことも……分かっているんです……すみませんです。……もももうしわけなくて……ほんとうにすみませんです」


 風子は深く頭を下げた。

 帽子からはみ出てて垂れている髪の毛が、ぶわんぶわんと揺れた。

 当たり前ではあるが、風子は好きで学校でいじめを受けているわけではない。いじめの標的となってしまうかどうかは、運の左右する部分も大きいのであろうが、災難の降りかかる前兆を察してうまく立ち回ることが出来れば回避も可能なのではないか。仕事をすること、大人と接することで、自分と他人との距離の取り方、要領よく立ち回っていく技術等を身につけること。それが、そうした不幸回避能力に直結とはいわないまでも、役に立つのではないか。

 高校入学早々にアルバイトを始めたのには、そうした理由があった。

 結局、そうした対人スキルを身につける前に、早速高校でもいじめられっ子になってしまったわけだが、だからといってこの仕事を辞めるつもりはなかった。

 無趣味で家にいても特にやることのない風子は、仕事に没頭するようになり、浮世の苦痛を忘れられることに気が付いたためだ。

 もしかしたらケーキ作りそのものも好きなのかも知れないが、自分のことながら、よく分からない。少なくとも嫌いではない。

 とにかくそのような理由から、五月からは土日をフル勤務にしてもらうよう頼んだくらいである。

 接客のまったく出来ないこと、フル勤務にしたところでいささかの進歩もなかったが。


「ま、本業のケーキ作りのアシスタントをよくやってくれているから、いいんだよ。無茶しなくてもね」


 店長の言葉に、風子はまた頭を下げた。

 ぼわぼわ、っと、帽子の隙間から垂れている髪の毛が生き物のように動いた。


「おはようございまーす」


 裏口から、二人の女性が入って来た。あきはやしひじりだ。

 明津恵美は、通う学校は違うが風子と同じ高校生。学年は一つ上で、二年生だ。

 林聖は二十四歳、まだ子供のいない専業主婦で、暇があるため家計の支えにとここで働いている。

 二人は店長と風子の間を通っていく。

 どっ。という衝撃とともに、風子は脇腹に激しい痛みを感じた。店長らに見えないように、林聖に肘打ちを食らわされたのだ。

 面と向かっていわれたことは一度もないが、風子は林聖に相当嫌われているようで、このようなことをされるのは日常茶飯事だ。

 彼女一人が態度に出してくるというだけで、おそらく誰もが自分のことを嫌いなのだろう。風子はそう思っている。こんな外見だし、愛嬌もまったくないし……

 今お店に入ってきた二人と入れ替わりに、たかゆうたきがわよしの二人が退勤。白衣に着替え終えた明津恵美と林聖の二人は、カウンターについた。

 時計の針が五時を示した。

 風子は奥の部屋で、仕事を開始した。


「いらっしゃいませ~」


 林聖の愛想たっぷりの声が、奥の部屋にまで響いてきた。

 しかし、それをかき消すような、お客さんと思われる若い女性二人の笑い声。


「ほんとクマのやつ、馬鹿だよね~」

「どばどば、って机の中身全部出しちゃってさ~、おろおろ慌ててんの。ほんと馬鹿。頭が鈍いんだよあいつ」


 風子は身を低くし、大きな柱の陰からそ~っと店内を覗いて見る。

 聞き覚えの声であったからだ。

 声の主は、やはりというべきかクラスメイトのざわたつまいだった。


「どどどども、すすすすみませんっ!」

「似てね~!」


 谷澤達子が風子の仕草や言葉遣いを大袈裟に真似しており、矢野舞子が両手を打ちながらげらげら笑っている。

 ……裏方仕事でよかった。

 風子は体の向きを変えて、柱に背中を預けた。

 胸に左手を当てる。

 心臓がどきどきしている。

 呼吸が苦しくなってきた。

 やっぱり自分に接客なんて無理だ。

 でも、

 だからこそ、乗り切ることで自分が成長できるのではないのか。

 いや……そもそも、何故そんな努力をしなければならないのか。何故成長しようと頑張らなければならないのか。なんの悩みもなく、ただ遊んでいるだけの人もいるというのに。

 風子は葛藤する。

 こんなことで真剣に悩んでいる自分が、とても惨めで辛かった。


「はい、チョコモンブランが二つと、ブルーベリーのタルトが一つ、イチゴのタルトが一つですね」


 林聖のキンキンとした声が響く。

 今ならもれなく脇腹に肘鉄一発おまけについてきまあす。


     4

「お疲れ様でした!」

「サクちゃん、そんな気合い入れて叫ばなくても……」


 別に気合いを入れて叫んでいるわけではない。ぼそぼそ声にならないよう喋ろうとして、自分の声をコントロール出来なかっただけだ。

 まともに喋ろうとして声が裏返ってしまったり、最近どんどん喋ることが下手になってきている。

 ノワゼットの勤務時間は八時半まで。みな、白衣を脱いで、タイムカードを押し、外へと出る。

 田舎とはいえ、それなりの近代化を遂げた代償としてそれなりに空気は汚れてきており、初夏の夜空は昔ほど奇麗ではない。それでも、さそり座がすぐにみつけられるところなど、都会と比べれば遥かに綺麗な星空であるが。


「お疲れ様」


 はやしひじりは笑顔でみんなに挨拶し、スクーターに乗って去っていく。唯一、風子のほうにだけは、顔を向けもしなかった。


「お疲れ様です」


 明津恵美の、抜けるような明るい声。


「風子ちゃん、また明日ね~」


 と、手を振っている。

 彼女は駅を渡ってすぐのところに自宅があるため、当然ながらここから徒歩だ。


「は、はい、お、お、お疲れ様でした!」


 風子はぼさぼさの前髪のすき間から、去っていく明津恵美の背中を見つめている。

 明津恵美は非常に屈託がなく、風子に対してもなんのわけへだてもなく接してくる。お喋り好きで、勤務中もお互いのちょっとした暇が合う度に、いろいろと話しかけてくる。彼女も、たまに土曜出勤をすることがあるのだが、今度その日が来たら一緒にお昼を食べようなどと誘われている。

 人間の本心を信じることの出来ない風子は、そのような彼女の態度にかえって不安を覚えてしまう。林聖に肘鉄を打たれているほうが、ずっと納得できる。そもそも、そのようにならないために始めたアルバイトだというのに。

 一体自分は、他人にとってどのような存在なのだろう。

 他人にとってどのような存在にまで、自分を成長させることが出来るのだろう。嫌われない技術を身につけることが出来るのだろう。

 時折、虚しくもそんな自問をしてしまうことがある。

 自問など、するまでもないことだというのに。自分がどんなに頑張って成長しようとも、自分を良いと思ってくれる人など老若男女問わず現れるはずがないのだ。永遠に。

 こっちだって、他人の心になんか踏み込みたくもない。踏み込まないどころか、近寄りたくすらない。

 だから、せいぜい頑張っても「大嫌い。いじめてやりたくて仕方がない」から、「どうでもいい」になる程度が自分の限界ではあろうが、そこまで高められれば上等だし、それ以上になる必要などまったくない。

 風子は自転車のカゴに通学用のバッグを入れた。教科書など主要なものは全て教室のロッカーに置きっぱなしにしているので、バッグは自転車のカゴに入るような小柄なもので済むのだ。

 タイヤのロックを外し、ハンドルを握り、押しながら商店街の通りへと出た。


     5

 人ごみというほどではないが、帰宅途中であろう背広姿の中年や、若いOL、中学生高校生などが行きかっている中、のろのろと自転車を押して風子は歩く。

 白衣は脱いでおり、学校の制服姿。髪の毛は相変わらずの大爆発。ただ、ずっと帽子を被っていた湿気によって、ほんのわずか爆発が小さくなっているだろうか。

 いつもと同じように真っすぐ自宅に帰るつもりだったが、ふと気付くと大通りにある書店の前で足を止めていた。

 最近開店したばかりの大型書店だ。深夜一時まで営業している。

 近くに深夜営業のコンビニエンスストアもなく、今まではほとんどの店が夜の八時でシャッターを下ろしてしまっていた。しかし、この書店が出来たことにより、駅周辺の夜の雰囲気がだいぶ変化してきた。その集客力にあやかろうと、夜遅くまで営業時間を拡大した喫茶店なども出てきた。

 そのため、若干ながらガラの悪い者も増えてきているようであるが。

 この書店は雑誌書籍だけではなく、CDやDVDのレンタル、テレビゲームの新品中古販売なども行っている、本店が九州に存在する全国規模の大型チェーン店だ。

 まったくの余談ではあるが、風子が初めて店舗の自動ドアというものを経験した店だ。それほどの田舎であり、それほど風子はどこかへ出掛けることが少ないのである。

 店の前の小さな駐輪場に自転車を停め、ロックをかけ、前カゴからバッグを取り出すと店内へと入った。

 入るとすぐに立ち止まり、店の中全体を素早くかつ注意深く見回した。

 誰も知っている人間はいなさそうだ。

 一安心すると、再び歩き出す。

 風子が向かったのは、趣味についての書籍を扱うコーナーだ。

 棚におさめられている本の背表紙を見て、目についた本を手に取ってみる。

 初歩からはじめる囲碁。

 ぱらぱらとページをめくり、本を閉じる。もとの位置に戻す。

 やるほど楽しくなる将棋

 楽しむための麻雀

 必勝競馬

 等々……

 一歩、大股で真横へ移動すると、がらりとジャンルが変わる。

 JーPOPの本、洋楽の本、クラシック、発生練習、カラオケ。といった音楽関係だ。それぞれ、手に取って軽くページをめくってはもとの位置へと戻していく。

 さらに一歩、ぐっと真横へ大股移動。

 野球、バレー、サッカー、剣道、柔道、などのスポーツ関連の指導書、選手の自叙伝等だ。

 まさか自分で野球などをするわけにもいかないし、せいぜい観戦といったところか。でもこんな田舎では、球場に足を運ぶにしても果たして何時間、そして幾らかかることか。

 テレビ観戦という手段もあるが、それが趣味といえるものかどうか。

 まあ、どこかの球団を熱烈に愛することが出来れば趣味といえるのかも知れないが。……ならば、自分には無理な話か。いずれであろうとも。

 サッカーにしても、まったくの同様だ。

 それに、風子はサッカーという球技に、あまり良い印象を持っていない。同時に二十人以上もの人間がうじゃうじゃと動き回っているのが、人間嫌いの風子にはどうにも生理的に嫌なのだ。

 野球ならばグラウンドに立っている選手数は十人ちょっとだし、基本的に一対一の勝負であり、ごちゃごちゃからみあうこともないし、まだ我慢が出来る。

 と、風子は何故ここでこのようなことをしているのか。

 勿論理由はある。

 風子は最近、自分の趣味に出来そうなものを見つけたいと考えている。全くの無趣味であることも、自分がいじめられる原因の一つかも知れないと思うからである。

 いじめっ子が無趣味な者を嫌うだろうということではなく、趣味を持っていれば、おのずから内面も変わってくるのではないかと考えるから。

 威厳というほどのものではないが、いじめられにくい雰囲気というようなものが出来てくるのではないか。

 いや、そんな高尚ぶった理由でなくとも、単純に誰かと趣味が合えば、その者からはあまり嫌われずに済むかも知れない。心証、人情的に。

 それはさておき、集団競技はやっぱり駄目だ。やるのも観るのも自分向きでない。集団も個人も関係なく、そもそもスポーツ自体にまるで興味はない。汗くさいことや、勝負ごと、痛そうなのは嫌いだ。

 風子は次の本を取ろうと手を伸ばすが、タッチの差で、はたきのふさふさに本が被い隠されてしまった。いつまでも立ち読みを続けている風子に、店長がまるで昭和時代のような嫌がらせに出てきたのである。

 このチェーン店そのものは特に立ち読みを禁止しているわけではないが、買収される遥か以前からこの場所にて本を売り続けてきた白髪頭の老店長には、どうにも我慢出来ないのであろう。

 趣味コーナーに並ぶ本の背表紙を、鼻息ふんふん鳴らしながら片っ端から激しくはたき続ける店長の執念に、気弱な風子がたまろうはずもなく、あっさり退散し、店の外へと出た。

 結局、なにも自分のやりたいことを見つけられなかった。ただなにもなく時が流れただけだ。帰宅しても寝るだけだし、とりたてて無駄なことをしたとも思わないが。

 通学用バッグを自転車の前カゴに入れ、カゴの上カバーを閉めてファスナーを閉める。

 前輪にかけたロックを外そうと制服のポケットに手を入れた。と同時に、風子の肩にドンとなにか激しくぶつかった。

 風子はとと、とよろけた。

 軽く硬い物が、大量に道路に転がり散らばる音。

 浅黒い肌の若い男がおり、その足下に紙の手提げ袋が落ちている。そこから、大量の万年筆だかボールペンだかが飛び出してしまったようだ。


「ご、ごめんなさい! だだだいじょうぶですか」


 むしろ風子はぶつかられた側なのだが、とにかく彼女はそう謝ると、道路に散らばってしまった物を拾い始めた。しゃがむと、とんでもなく量の多い髪の毛が八方に広がって地面に垂れて、まるで巨大なゴキブリか、巨大な黒クラゲである。


「だいじょうぶです」


 肌の色といい片言の喋り方といい、東南アジア系の外国人であろうか。


「どうもすみませんね。うかりして、ぶっつかちゃいましたよ」


 と、男もしゃがんで、自分の転がしてしまった物を拾い集めはじめる。

 風子はペンを手に取っては、紙袋へと入れていく。金属で出来ている割に、やたらと軽いペンなのがなんとなく気になった。

 人込みの喧噪が少し小さくなったその瞬間、風子は背後にゆっくりとファスナーを開いていく音を聞いた。

 振り返るとまた別の外国人の男が、風子の自転車のカゴに手をかけていた。

 しゃがんでペンを拾っていた男は、立ち上がると同時に外国語でなにやら叫ぶ。風子の自転車カゴに手をかけていた男は、バッグを素早く取り出すと、走りはじめた。もう一人の男も後に続いて走り出す。

 泥棒だ!

 風子は立ち上がり、口を開いた。

 しかしその開いた口からは、なんの言葉も出てこなかった。

 ただ動揺し、立ちすくんでいるだけだった。

 給料が出たばかりで、まだ全額がバッグに入っていたのに……


「きみ、もしかしたら、あのバッグ、盗まれた? ねえ」


 通りがかりの、長身の若い男が近づいてきて、覗き込むように風子に声をかけた。

 うつむいている風子であったが、数瞬の後、大きく頷いた。

 若者は走り出した。

 速い。

 その背中は、すぐに人込みの中に消えた。

 叫び声が聞こえてきた。


「その二人、泥棒です!」


 と。

 外国人二人が、なにやら激しく喚く声。距離があるし外国語なので、風子にはなにをいっているのかさっぱり分からない。

 口の閉じ方を忘れて間抜けな表情になってしまっていたが、ようやく呪縛から解けたかのように、風子は身震いすると自身も声の聞こえる方へと制服のスカートをなびかせ走り出していた。

 五十メートルほども進んだところで、ようやく彼らの姿を発見した。

 二人の外国人窃盗犯は、先ほどの若者と、他の市民の協力により捕らえられていた。

 ちょうど、騒ぎを聞いて近くの交番から駆け付けた、二人のお巡りさんに引き渡すところだった。


「きみのバッグ、無事だったよ」


 長身の若者は、汗だくの顔に笑みを浮かべ、お巡りさんが手にしている風子のバッグを指差した。

 若者と風子は、お巡りさんに簡単な調書を取られ、解放された。

 風子は、自分自身もかなり怪しい風体であるという自覚があったので、いろいろ疑われて自由になるまで時間がかかるのではと不安に考えていただけに、拍子抜けだった。

 なんでも窃盗犯は、近くの工場で働いている不法入国労働者とのことであった。わざと地面にばらまいて風子に拾わせていたのは、検査で不良があり廃棄する予定だったペンケースであった。


「のんびりした田舎だからって、油断してちゃ駄目だぞ。自分のことは自分で守らなきゃ」


 不意に間近でそう話しかけられて、風子はびくりと肩を震わせると、おずおずと若者の顔を見上げた。風子が小さいわけではないが、若者の背が高く、身長差は三十センチくらいあるだろうか。


「あ、あの……」


 風子は口を開いた。


「……ああ、あの、ど、どうも……あり、ありが……あり……」


 どうもありがとうございました! ただそれだけのことなのに、分かっていても声がスムーズに出てこない。

 なおもありあり発し続ける奇妙な風体の少女に、若者はおかしみを覚えたような表情になっていた。

 見知らぬ人間にお礼をいうことに対して、泣き出してしまいそうなほどに緊張し畏縮してしまっている少女の様子が微笑ましいとでも思ったか、ついに声を立てて笑い出してしまった。

 風子はいきなり笑われたことによって、もどかしさと恥ずかしさとに、すっかり気が動転して頭が真っ白になってしまった。

 戻ってきたばかりのバッグに手を入れ、財布を取り出すと男に差し出した。


「お、お礼」


 なんてことをしてしまっているんだ。と、冷静な風子ならば判断出来たであろうが、なにぶん頭が完全に真っ白になっており、自分では如何ともしようがなかった。


「馬鹿、それじゃ取り戻した意味がないだろ。いいんだよ、そんなことは」

「でも……」

「それじゃ、そこでコーヒーでもおごってよ。一番安いのでいいから」


 男はすぐそこの、雑居ビル二階にある喫茶店を親指で指し示した。


     6

 狭いフロアだが、客が他に二組くらいしかいないためか特に窮屈感はない。

 オレンジの淡い光が店内を照らしている。

 小さな音量で、ジャズが流れている。

 喫茶室マキアート。駅近くの四階建て雑居ビルの二階にある、ごくごく一般的な喫茶店だ。

 以前は九時閉店だったが、近くにオープンした大型書店の影響により最近は夜の十一時まで営業している。

 よくも悪くもない、どこにでもある喫茶店の風景なのだが、こういった店に生まれて初めて足を踏み入れた風子には、なんだかとても高級で、なおかつ少し穢れた大人の世界のように思えしまう。真実は知らないがそう思ってしまうのだから仕方がない。

 一杯のコーヒーで、何千円も何万円もするのではないかなどと不安だったので、メニューに書かれていた価格を見てほっと安心した。

 窓際の、小さな木のテーブルを挟んで、若者と風子は向かい合って座っている。

 もっと窓際から離れた席にしておけばよかった、と風子は後悔していた。

 外を歩く人々が丸見えなので、反対に誰か知った人間に見られてしまうのではないかと不安でしかたないのだ。店員の案内に従った結果であるが、いずれにしても風子に座席の主張などできるはずもなく、結局はままならないことではあったのだが。

 風子は身を小さく縮めたまま、うつむいている。一体、どんな態度をとっていればいいのか。どんな表情をしていればいいのか。なにを話せばいいのか。まったく分からないのだ。

 仮にも相手は恩人だ、黙っていても失礼ではないか。と困っていたら、彼のほうから話しかけてくれた。


「きみ、この近くの高校なの? この辺でよく見る制服だよね」

「の、のの、のっ野々部……商業、です」


 のが一体いくつ付くんだ。とでも思ったか、彼は口元を歪めた。

 風子はそれが恥ずかしく、肩を縮めた。なくなってしまいそうなほどに縮めようとも、長い髪の毛が大爆発して隠しているため、あまり目立たないのであるが。


「ああ、なんか聞いたことある校名だな。おれはね、この近くのお菓子工場で働いているんだけど」

「……は、はず、、蓮見、製菓……ですか?」


 風子は自分自身の発した言葉にびっくりして、いい終えると同時に思わず立ち上がっていた。


「どうかした?」

「なんでも……」


 また腰を降ろす。

 中二の時にいじめられるようになってからというもの、すっかり人間嫌いになり、他人と接することがどうにも不器用になってしまった。家族以外の人間に、自分からなにか口を開くことなどほぼ皆無である。

 それが今、見ず知らずの人間に対して「蓮見製菓ですか?」と質問をしたのだ。生きるにおいて必須でない、いわゆる雑談というものをしたのだ。

 実に些細なことではあるが、風子には驚きに値することだった。

 でもそんなことで驚くなんてあまりに馬鹿馬鹿しくて、恥ずかしくて、とても人には話せない。だから驚きを自分の胸にだけおさめ、腰を下ろしたのである。


「ちょっと間があいちゃったけど、さっきの正解。蓮見製菓の社員。……なんだけど、自分の中では、本職はサッカー選手…………の、つもり」


 風子は、うつむいた顔を少しだけ上げた。

 サッカー。

 あの、二十人以上もの大勢が芝の上でひしめきあうサッカー。

 ゴールを決めると、みんなでごちゃごちゃと抱きつきあったり、服を脱いでパフォーマンスをしたりする、あのサッカー。

 長髪と禿頭と金髪と腕に入れ墨の人ばっかりの、あのサッカー……


「今年っからね、JFLチームの選手をやっているんだよ」

「じょいふる?」


 なにかイベントを楽しむための団体?


「違うよ、ジェー・エフ・エル。……でも、まあ毎日がジョイフルにゃ違いないけどね」


 そういうと、ふふと笑った。


「お待たせしました」


 ウエイトレスが、コーヒーとオレンジジュースを運んできた。

 どんな態度でいればいいのか皆目分からず、風子はウェイトレスに深く深く頭を下げた。ウェイトレスの女性は、なんだか怪訝そうな顔と笑顔とをごっちゃごっちゃにしながら「ごゆっくりどうぞ」といい残し、店の奥に消えていった。


「JFLっつーのはね、日本アマチュアサッカー界の、トップリーグだよ」


 後から知ったことであるが、蓮見製菓サッカー部は、昨年の東北社会人リーグを他の追随を許さないぶっちぎりの首位で優勝し、今年からJFLというサッカーリーグに加盟する資格を得た。昇格にともなって、チーム名もハズミSCと改めた。

 まだ余談の領分ではあるが、筆のついでにここでもう少しだけ触れておく。

 地域リーグで圧倒的な強さを誇っていたといっても、戦い方は完全な外国人頼みであった。社会人リーグに外国人は少ないので、いるだけで充分に強力な武器になるのだ。

 しかし本年度、その選手はもういない。自分の能力が金になることに気づいて、他のJFLクラブに自らを売り込んで、プロ契約として雇われたのだ。

 ほとんどメンバーが変わらず、点取り外国人が抜け、戦いの舞台はワンランク上昇、当然今年のハズミSCには去年のような強さはない。

 当然ながら、まだ風子の知らないことであったが。


「去年のようには、っつうか……なんていうのか、まあ、いろいろね、頑張っているわけですよ……」


 などと、若者はきまり悪そうにお茶を濁した。

 謙遜しているのか自惚れているのか、そもそも昇格がどうとかいわれても、風子には話のなにもかもが難しくて、さっぱり分からなかったが。


「……凄いですね、Jリーグの選手だなんて」


 だからとりあえず、分からないなりに褒めてみた。


「Jリーグじゃないよ。単純にいうと、その下の下」

「あの……どうして……サッカー選手なんかをやっているんですか」


 もしかしたら失礼な質問だっただろうか。と思ったが、若者は別に気にしたふうもなく答えた。


「生き甲斐だから」


 さらり即答である。


「生き甲斐……ですか?」

「そう。なんで生き甲斐に思うようになったかなんて、理屈じゃないしおれにもよく分からないけど。……そもそも、どうして自分は生きているのかって考えたことある?」


 ある。そんなことは、しょっちゅうだ。

 単に心臓が動いて、脳に血が流れているから、生きているのだ。

 別にこのまま意識が遠のいていって、永遠に戻らなくても構わない。

 だが痛い思いをしたり、死ぬ苦しみを耐える勇気がない。だから生きている。

 実に単純明快だ。

 情けないことではあるけれど。

 死ぬまでのほんの少しの我慢だというのに、その後は永遠に楽になるというのに、自分にはたかがその程度の我慢も出来ないのだ。

 しかたなく、いつか天命を終えるまでの苦しみを少しでも減らそうと、紛らわそうと、生き方をいろいろと模索しているのである。そうしてケーキ屋でアルバイトを始めたし、先ほどだって趣味を探すため本屋に寄ったのである。


「おれは、なにかで世界一になれたらいいなって思ってる。でも、地球には何十億と人間がいるだろ。世界で一番なんてまず無理。それでもおれは世界で一番を目指したい。大学までずっとサッカーやっていたから、おれが世界一を目指すなら、これしかないって思って……でも結局プロ試験に落ちて挫折したけどね」


 風子が脳内で死を饒舌に語っている間に、若者は生を語り出していた。


「とりあえずは職につかなきゃって思っていたら、大学の先輩から、働きながらサッカーしないか、って声をかけられてね、生まれた時から大学卒業するまでずっと住んでいた札幌を出て、ここに来て蓮見に入ったんだよ」


 なんと返してよいか分からず、風子は黙っていた。話の前半を、あまり聞いていなかったせいもあるが。

 若者は続ける。


「……プロ試験に落ちてこんなとこでサッカーやってるってこと自体が、もう世界一がどうとか生意気なこといっているレベルじゃないってことなんだけど、でもやるからには、無茶でもいいから目標高く持っていたほうが面白いし……たぶん無意識では無理とも思っているから、夢叶わなくてもショックでもないし。仕事の半分はサッカーなんだから、今も充分楽しいし、ほんとジョイフルですよジョイフル。……じゃ、コーヒー御馳走になります!」


 若者は大袈裟な仕草で両手を合わせると、続いてコーヒーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜた。


「なんだか、矛盾しているような、していないような……」


 風子は呟くと、グラスにストローを差し、オレンジジュースを少し飲んだ。


「確かに、矛盾したこといってるよなあ。でももっと変なのがいるぞ、ディフェンダーの選手でおかざきけんって奴なんだけどね。そいつは、J2からオファーが来るくらいの逸材のくせに、いつも断っちゃうんだ。サッカーだけやっていられるわけだし、より色々なチャンスに恵まれる舞台に立てるわけだから、こんな良い話はないのにね。本人にとっては、J2どころかJFLでやっていく自信もないんだ。好きで会社員をやっているんだよ。プロのくせに、という周囲からのプレッシャーに耐えられないからなんだ」

「サッカーのことは全然分からないけど、そういう気持ちって誰にもあると思います。……自分も、プレッシャーやコンプレックスだらけですから。なにをするのにも緊張して心臓がどきどきしちゃって」

「じゃあ、今度またあいつに誘いが来て断りやがったら、尻を引っぱたいてやるかな。先にそういう場所に行かれちゃってもなんか悔しいものはあるけど、認められる奴ってのは、認められることをやっているわけだからな。……変わり者といや、わたなべてるひこって奴はさ、いっつも精神統一の際に決まった俳句を唱えるんだよ。誰のだったかな、目には青葉、山……なんだったかな」

山郭公やまほととぎす初松魚はつがつおですか。やまぐちどうの俳句」

「そうそう、それそれ、きみ頭いいね。セットプレーの時も、人の密集する中でそんな言葉を呟いているから、みんな怪訝そうな顔で見ているよ。変わった奴がいるぞって一部で有名になっているみたいで、この前の試合の時なんか、テルのマークについている奴が目には青葉の精神集中を乱そうとしてしきりにテルの耳元で呟いてんだよ、山は富士、海は瀬戸内、湯は別府。もうおれおかしくて、試合どこじゃなかったよ」


 手を叩いて爆笑している若者に、風子は真顔で、


「なんか変わった人ばかりですね。ところでセットプレーってなんですか?」

「な、なんか笑いのツボが違うのかな。……まあいいや、ええとセットプレーってのはね……」


 そこ一緒になって笑うとこなのに、というような表情を浮かべる若者であったが、テンション急落、セットプレーについて説明した。

 風子としては、ただ黙っているのもなんなので、よく分からない用語への質問を投げてみたのであるが、説明されてもやっぱりよく分からなかった。


     7

 夜の十時も近くなり、二人は店の外へと出た。


「ごめんね、遅くまで突き合わせちゃって。送って行ってあげたいけど、おれ歩きだから」

「自転車ならそれほど時間はかからないところだから、一人で大丈夫ですよ」

「コーヒー、ごちそうさまでした。楽しかったよ」

「こちらこそ、いろいろためになるお話を聞かせて頂いて」

「好き勝手ぺらぺら喋っただけ。……あ、そうだそうだ」


 若者は鞄から、小さなお菓子の幾つか詰まったOPP袋を取り出した。


「これ、我が社の新商品。よかったら食べてみて。……て、なんか営業マンみたいなことしているな、おれ。蓮見製菓をよろしくっス」

「……いいんですか。じゃ、遠慮なく頂戴します。どうもありがとうございます。あ、そ、それと、バッグ取り戻してくれて、本当に有り難うございました」


 風子は頭を下げながら、お菓子の包みを受け取った。


「もう取られるなよ。じゃあ夜道、気をつけてな」


 若者は走り出した。くるり振り返り、手を振っている。

 風子も無意識につられて、右手を小さく上げていた。

 若者の姿は、すぐに通行人の中へと消えていった。

 風子はバッグと先ほどのお菓子の包みを、自転車のカゴの中に入れた。

 自転車を走らせる。

 そこそこの賑わいを見せているのは駅周辺だけで、すぐに静まり返った住宅街になる。その住宅街もすぐに終わり、広大な田園地帯へと入る。

 道路に街灯はあるものの間隔がかなり離れており、道標程度にしかならず、足下を照らす役割は全く果たしていない。だから風子は街灯がなくとも地面を照らせるように、自転車に乾電池式のかなり強力なライトを付けている。

 頭がぼうっとしている。

 なんだか奇妙な気分だ。

 さきほどの男性の話が面白かったとか、初めての喫茶店が珍しかったとか、そういうことではない。自分自身が、なんだかいつもと違うのだ。

 なにが違うのか、自分のことながら全然分からない。

 しかし、ふと疑問に思ってから解答が出るまで、さほどの時間はかからなかった。

 今日会ったばかりの見ず知らずの男性と、いつしか自分は普通に話せていた。ということである。

 自分の性格を考えると、本来なら決して有り得ないことだからだ。

 それほど巧妙に会話を誘導された気もしないし、自分の社交性があのような短時間で変化するはずもない。

 かつて経験したことのない、なんと名付けていいのか分からない気持ちが、胸の奥から込み上げて、全身にまとわりついていた。良い感覚なのか悪い感覚なのかが自分でもまったく分からず、それがどうにも気持ち悪く、いつしかぶつりぶつりと鳥肌が立っていた。

 そんな、なんだか分からない感覚から逃れようと、つい自転車を飛ばした。

 街灯のない、真っ暗な農道を。

 ほどなくして、自転車ごと田んぼに転がり落ちた。


     8

 田んぼの中に、十軒程度の家が寄り添うような住宅地が点在している。佐久間風子の家は、そんな住宅地の一つにある。

 風子は泥まみれの格好で帰宅した。深緑のブレザーも、赤を基調としたタータンチェックのスカートも、すっかり茶色一色に染まりきっていた。

 心配する母に、道から外れて二メートル下の田んぼに自転車ごと転がり落ちたことを素直に話した。

 そして、服の袖が破れているのもそのせいにしてしまった。好きで転がり落ちたわけではないが、この点だけは救いとすべきところか。理由を追求されずに済むから。

 スカートは洗濯してまた履けるが、上着はもう捨ててしまうしかない。

 などということは後回しだ。

 風子はお風呂に入った。

 泥まみれの制服姿のままで。

 シャワーを自らにかけて泥がある程度落ちたところで、制服を脱ぎ、下着を脱いだ。

 全身に染み付いた泥のにおいを落とさなければならないわけだが、身体はまだ良いが大変なのは頭髪であった。

 もともと頭皮から生えている髪の毛の本数が他の人より多いようなのだが、それに加えて長く長く腰まで伸ばしているからだ。

 しかし、今日に限った話ではないが、洗った後は楽である。バスタオルで軽く拭いて、少しだけドライヤーをかけ、あとはブラッシングもなにもせずにただ眠りさえすれば、翌日には意図した通りの髪型になっているのだから。

 風呂から出た風子は、このような事態に備えてバスルームに用意しておいたパジャマを着ると、廊下に点々とついた泥を雑巾で拭いた。

 リビングに行くと、弟のよしのぶがいた。三つ年下の、中学一年生だ。テレビゲームで遊んでも良い時間を過ぎているのを母親に注意されて、片づけているところのようであった。


「良信、凄いよ、さっきお姉ちゃんね、サッカー選手に会っちゃったんだよ」

「へえ」

「バッグを盗まれたのを、取り戻してくれたんだ。凄い足が速かった」


 良信と話しているとほっとする。

 自分が違和感なくよどみのない会話が出来る、この世でたった一人の存在。


「そもそも盗まれるなよ。……で、なに? どこのチーム?」

「バイパスの向こう側に、蓮見製菓あるでしょ。そこのチームだって」

「なんだよ、Jリーガーじゃないじゃん。ただの会社のサッカー部じゃないの?」

「そうらしいけど、でも今年から、なんだか立場が上がったとかいってたよ」

「ふーん。ま、いいや。バッグが盗まれなくてなによりだったね」


 喫茶店で当の選手本人と会話していた時は、実は凄い人と話しているのかもという気持ちもあったのだが、弟に一蹴されるとなんだかとても他愛のないことに思えてきた。

 でも冷静に考えると、風子にとっては別にどちらでもいいのだ。Jリーグも高校サッカーも草サッカーも、違いなど分からないのだから。

 風子は階段を上がり、二階の自室に入る。

 ベッドのふかふか布団に飛び込むように倒れ、大の字にうつぶせになる。

 首を学習机のほうへと向ける。

 机の棚には、写真立てが置いてある。

 反対向きに置かれているため、裏側しか見えない。

 中学一年生の時に撮影した、友達数人と一緒に映った写真である。

 この写真の中には、笑顔の風子がいる。

 風子はこの裏返った写真を、決して見ようとはしない。自分の笑顔を自分自身の記憶から完全に消し去ってしまいたいと思っているから。

 友達は、風子がいじめられるようになってもまったく助けてくれなかった。

 ある一人を除いては、いじめに加わるようなことこそなかったものの、段々と風子と口をきかなくなっていった。

 いじめられている風子を、他の生徒たちと同じように笑って見ている子もいた。

 風子はある日、勇気を出して彼女らに質問したことがある。



「わたしも一緒にいじめられたくないし。それに、いじめられるほうも悪いんだよ。うじうじしているから、いつまでもいじめが続くんだよ」



 彼女らとは、中学を卒業してから一度も会っていない。

 棚の上の、裏を向いている写真立て。

 友達。

 笑顔。

 思い出。

 こんなもの、見たくない。

 なら捨ててしまえばいいのに……

 何故か、そうすることも出来なかった。

 しばらくして、風子はうつ伏せになったまま顔を上げた。

 床に置いた鞄の隣に、菓子が幾つか詰められた透明な袋がある。

 風子は起きあがって動くのが面倒とでもいうように、はいつくばったままの姿勢でベッドがら床に降りた。が、前のめりになりすぎてバランスを崩し、床に背中を打って一回転してしまう。

 背中をさすり鈍い痛みを押し殺しながら、お菓子の袋を手に取ってみる。

 個装されている、スティック状のスナック菓子だ。

 「こくうまバー」という商品名らしい。

 チーズ味、焼き肉味、など色々な種類が入っている。小さな包装袋だというのに「いままで無い食感!」「もうとまらない!」「この感激に耐えられるか!」「うまい! やすい!」など、小さな文字で過剰なまでにたくさんの宣伝文句が書き込まれている。

 宣伝文句の中にすっかり埋もれて、白枠内の会社所在地や商品説明の欄を見なければ商品名すらも分からなかっただろう。

 このお菓子、確か新商品だといっていたが、風子はそもそも蓮見製菓のお菓子をまったく知らないので、同社過去商品との比較は出来ない。

 蓮見製菓の本社及び工場があることは、この辺りに住む者なら誰でも知っているが、考えてみれば風子は一度もこの会社のお菓子を見たことがなかった。ちゃんとしたお菓子メーカーだったのだな、と改めて思った。

 手にしていたお好み焼き味の包みを破る。

 さきほど、自転車の前カゴに通学用のバッグとこのお菓子とを入れたまま田んぼの中にごろんがたんと転げ落ちたわけだが、奇跡的というべきかお菓子はまったくの無傷だった。

 「いままでに無い食感!」とはいうものの、充分に庶民に浸透しているありふれた食感であった。しかし商品名の示す通り味にかなりのコクがあり、最初想像していたよりもずっと美味しかった。しかし、すぐに飽きの来そうな味でもあった。

 そういえば……

 泥棒を捕まえてくれたあの男性の名前を、最後まで知らないままだった。


     9

 風子は姿見の前に立ち、身だしなみを整えている。

 よりみっともなくするために。

 制服に着替えると、気持ちがピリっと引き締まる。

 佐久間風子から、クラスのゴキブリへ変身した実感がわいてくる。

 家を出る。

 建物横に置かれている自転車のロックを外し、引き出し、またがる。

 空を飛べない巨大なゴキブリは、悲しいかな青いママチャリを飛ばして学校へと向かうのだ。

 行きも帰りも向かい風なので、登下校中の風子はいつも凄い髪型だ。

 超巨大な暗黒生物に、飲み込まれそうになっているようにも見える。

 風に十五分ほども逆らい続けていると、通う高校に到着だ。


     10

 校舎横の駐輪場に自転車をとめると、騒々しい制服の群れに流されるように校舎に入る。

 靴を上履きに履き替える。

 今日は画鋲は入っていなかった。これはささやかな幸せかも知れない。

 階段を上る。風子の教室は二階にあるのだ。

 二階の廊下に出て、教室へと歩く。

 風子の大嫌いな、人混み。

 喧噪。

 他愛のない話。

 表情。

 笑顔。

 におい。

 窓からの青空。

 普段通りの、光景。

 あと二年半も続く、日常。

 風子の教室のドアの前で、男子生徒が二人しゃがんでいる。彼女が近づいてくることに気が付くと、慌てて教室へと入っていった。

 三十センチほど開いているドアのすき間、教室と廊下との境には、皮だけのバナナが落ちている。

 今日のお題は定番のバナナでございますか。

 反射的に、乗って滑って転んでやろうと身体が動きかけたが、しかし、毎回ひっかかるのも妙な話。直前でしゃがんで、バナナの皮を拾った。今日は運良く気が付いて、罠にはひっかからなかったってことであしからず。

 風子はドアの残りを開いた。

 上から滝のような勢いで、水が落ちてきた。

 風子の全身は、一瞬にしてずぶぬれになっていた。

 黙って様子を見ていたクラス中の全員が、一斉に笑い出した。


「馬鹿だこいつ!」

「バナナに気をとられて、バケツに気がつかねえでやんの」


 風子はバナナの皮を持ったまま、ただうつむいているだけだった。

 油断、といえばそれまでだが、まさかここまでのことをされるとは思ってもみなかった。


「佐久間、なにをやっているんだ!」


 担任の教師がやってきた。

 この教師は状況判断能力がゼロなのか。それとも無能なふりをしているのか。「なにをやっている」ではなく「なにをされたのか?」ではないのか。怒声を浴びせる相手を間違っていないか。

 風子はなおもぼたりぼたり水を滴らせながら、諦めにも似た表情で先生の顔色を窺っている。濡れた髪の毛が、顔全体をべったりと被い隠している。


「先生、佐久間さんがまた大暴れしましたあ」

「自分の思い通りにいかないと分かると、おれたちにやられたことにするといって、自分からバケツの水を被りましたあ」

「こんなことばっかりされてると、勉強に身が入りません。ちゃんと注意して下さあい」


 生徒らは実に楽しそうな表情で、苦情を訴えた。


「佐久間、本当なのか?」


 そんな訳の分からない理由で頭からバケツの水を被る人間が、本当にいると思いますか?

 風子は口を硬く閉ざしたまま、喋らない。

 喋ることでなにかが微塵でも救われるのなら、喋っていたかも知れないが。


「もう、こんな馬鹿なことはするんじゃないぞ。雑巾で拭いておけ。その前にジャージにでも着替えてこい。それと、放課後までに反省文を提出すること。……それじゃ、ホームルームを始めるぞ」


 以前にも同じようなことがあったが、今回の件で風子には確信が出来た。

 やはり先生は気が付いている。見ないふりをしているのだ。

 介入するのが嫌なのだろう。

 薄々感づいているような態度でも取ろうものなら、有事の際に介入しなかった罪を問われる。まるで気付いていないのであれば、最悪でも無能呼ばわりで済む。

 どちらにしても、教育者として最低ではないか。

 もしも本当に気が付いていないのなら、そんな鈍い人間は教師に向いていない。知らぬふりをしているのならば、教師である資格がない。とっとと塾の講師にでも転職して、勉強だけ教えていればいい。

 保身の術を教えることが教育だというのならば、これほど有能な教育者はいなかったであろうが。

 みんなに仕返しされることが怖くて先生に相談することが出来なかったが、こちらから何もせずともいつか気付いて助けてくれるかも知れない。そんな微かな期待は、完全に打ち砕かれた。

 風子は、ぼたりぼたり水を滴らせながら、教室の後ろにある自分のロッカーからスポーツバッグを取り出して、廊下へと出た。

 二つ隣の教室の対面にある、女子更衣室に入る。

 バッグからジャージを取り出した。今年の一年生は青ジャージだ。

 一瞬、硬直した。

 糸でジャージの上下が縫いつけられていたのだ。

 縫い方は、斜め、縦、横、出鱈目に針を通しただけのものであるが、かなり細かな間隔で丹念に縫われており、糸は少し布を引っ張った程度では切れやしない。

 せっかくの高校一年生だというのに、こんなことに一生懸命になって喜んでいる人間がいるのである。

 自分も、せっかくの一年生なのにという自虐感や自己嫌悪を多分に持ち合わせてはいるが、この執念には負ける。

 縫い糸を切るハサミなど持っていないのと、早く教室に戻りたい焦りで、つい強引に引っ張ったところ、びいいと音をたててジャージはあっけなく破れてしまった。それほどしっかり縫い付けられていた、というだけでなく、おそらく裂けやすいように切れ込みでも入れてあったのだろう。

 その際に縫い糸もかなり切断されたようで、その後はぷつりぷつりと音を立てて簡単に縫い付けられたジャージを分割させることが出来た。

 破れてしまった箇所を調べてみると、丁度お尻のところに大穴が空いてしまっている。

 このまま履いても、下着が丸見えだ。

 仕方なく、びしょ濡れのスカートの上から、ジャージのズボンを履いた。

 ぐちょり、と嫌な感触。

 気持ちがとても惨めになってくる。

 四つん這いになると、更衣室備え置きの雑巾で、廊下に滴り落ちた水滴を拭きながら進んでいく。

 教室に戻ると、すでに担任の姿はなく、次の時間の教師が国語の授業を始めていた。

 話を聞かされているのか、風子は特になにもいわれなかった。

 後ろのドアの周囲が、水たまりのようになっている。風子は雑巾で拭いてはバケツに絞り、五分ほどかけてようやく拭き終えた。

 自分の席に着いた。

 お尻が気持ち悪い。

 数時間で乾くだろう。それまでの我慢……いや、あと二年半……たかだか二年半の我慢だ。

 風子は机の中から、現代国語の教科書とノート、カンペンを取り出した。

 途中から授業参加の風子であるが、先生の喋っている内容から現在進めているページはすぐに分かった。前回途中で終わってしまったところから、教科書のページはまったく動いていない。

 しかし、教科書を開いてみると、そのあたりの数ページが破り取られて、なくなっていた。

 風子の後頭部になにかがぶつかった。そして、濡れた髪の毛に突き刺さった。

 刺さったそれを手に取ってみると、それは紙飛行機であった。

 しかも、どうやら引き裂いた風子の教科書で折ったもののようだ。広げてみると、果たして予想通りであった。

 両面とも、太いマジックでびっしりと落書きされている。「死ね、ブス」「帰れ!」「キモイ」「バカ」「くさい」「死んでください」

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