第四章 浮いたり、沈んだり、沈んだり、沈んだり、沈んだり

       1

 蓮見製菓野々部工場第二グラウンド。

 非常に見晴らしがよい。野々部市が、三百六十度を小高い山々に囲まれた盆地であることがよく分かる。

 ハズミSCがまだ蓮見製菓サッカー部だった頃から、選手たちが練習用に使用しているグラウンドだ。

 眺めも空気も土の感触も良く、アマチュアチームとしては上等過ぎるほどのグラウンド。ただしそれは、晴れ続きの日限定だ。

 非常に水はけが悪く、少し雨が降ると一転して水たまりだらけの最悪なグラウンドへと変わる。関係者はなんとかしたいと思っているようなのだが、なにせ予算がない。

 梅雨も終わり、ここ最近は運良く晴れが続いて、非常に良好な状態が保たれている。

 ここは、バイパス沿いに位置する蓮見製菓の第一工場から、徒歩五分ほどの川沿いの場所にある。

 川沿いの道とグラウンドとの間に、十メートルほどの高い金網が張られ、ボールが川に飛び込まないよう対策している。

 それでも月に何個かは、練習によってボールを川に流してしまう。

 せっかくの広大な敷地を無駄に遊ばせておいても良いものか、と部外者すら思わず心配してしまうくらい朝と昼は無人だ。

 耳をすませば、悠々と流れる川のせせらぎと、敷地の向こうにある国道を通るトラックの音が聞こえてくる程度で、目に見える動きというものがまったくない。

 いつも夕方の四時くらいになると、誰かがあらわれ、一人でボールを蹴ったり、ランニングをしたり。そうこうしているうちに、さらに一人、もう一人とやって来る。

 五時前には、仕事を抜けられない社員を抜かせば全員が揃う。

 カラーコーンやビブス、ボールの準備をし、グラウンドにラインを引き直し、といった作業を楽しげに大騒ぎしながら行っていると、監督がひょっこりとあらわれて、そして本格的な練習がはじまるのである。

 今日このグラウンドに一番にやって来たのは、みねれいであった。

 だいたいいつも、夜の七時か七時半には練習が終わる。その後、それぞれにストレッチなど肉体のクールダウンを行い、最後に全員が集まって監督の「今日の一言」を聞いて、解散だ。今日も特別な日ではないし、おそらくそのくらいに練習が終わるのであろう。

 今日は、通して六人の練習見学者がいた。

 熱心なチームサポーターらしい者が三人。ハズミSCと知ってて足を止めて見ていた一般人二人、それと「なんだか分からないがサッカーをやってるぞ」と足を止めた一般人が一人。

 サポーターだけを見れば、女性が二人、男性が一人。

 女性は知り合い同士ではないようで、離れた位置で、片方は声を張り上げ、片方は黙って練習を見ている。

 男性は、五時頃にやって来てグラウンドの隅っこに腰を降ろしている。黒縁眼鏡をかけた、太った男だ。選手達がジャージに白いTシャツというラフな格好だというのに、男はただ一人ハズミSCのユニフォームを来ている。ノートパソコンを持ち込んでいて、練習風景を見てはなにやら入力している。

 時折カメラを取り出しては、撮影をしている。

 インターネットの掲示板などに、練習の様子を書き込んでいるのであろう。

 少ないとはいえこのように部外者がグラウンドに入り込んでいるわけだが、つい最近まで単なる会社のサッカー部であったこともあり、特に人の出入りに制限を設けていないのである。

 フェンスはあくまでも、ボールが川に落ちないよう対策しているだけで、グラウンドに入って見学することは禁止されていない。もちろんボール直撃の可能性があるというリスクは覚悟して貰う必要があるわけだが。

 今日は五時ちょうどから練習が始まり、きっちり三十分刻みでメニューが進んでいった。

 シュート練習、セットプレー時の攻撃と守備の練習、次節に沖縄で行われるアウエイゲームのための戦術指導時間、その戦術を体に叩き込むためスタメン候補とそれ以外に別れて十五分ハーフの紅白戦。

 紅白戦は、どちらもまったく手を抜いているようには見えない非常に攻防激しいものだった。時間が短いので体力配分を考えなくてもよかったから、という側面もあるにせよ。

 それにしても、まるでバレーボールやバスケットボールのように、互いに得点がよく決まる。

 気負わなければ得点力があるということなのか、それとも守備力がないだけなのか、それとも攻めの意識を重視した紅白戦をやっているだけなのか、見ているだけではさっぱり分からない。

 ただいえるのは、みんな非常に楽しそうだということか。

 紅白戦の結果は、4―6で非スタメン組の勝利であった。

 敗れたスタメン組は、罰ゲームとして腕立てふせ三十回をさせられていた。

 さて、練習がすべて終了して選手たちが解散すると、待ってましたとばかりに二人の女性ファンがそそくさと近寄って行く。レプリカユニフォームにサインを書いて貰ったり、選手の写真を撮ったり、握手をしたり。


「テツさん、写真撮らせて貰っていいですか」


 小さなカメラを手にした三十歳くらいの女性が、汗を拭きながら歩いている秋高鉄二に声をかけた。


「いいっすよ。どの辺に立ちましょ」


 鉄二は特に営業スマイルを浮かべるでもなく、しかし邪険にすることもなく応じる。


「わしが撮ったるよ。ほれ、彼女の横に並べや」


 と、監督が駆け寄って来て、強引に女性からカメラを奪ってしまった。頭髪にはかなり白いものが混じっているが、これでも四十代前半らしい。


「……あれ、フィルム巻き巻きのツマミがないぞ、覗き窓もない。なんだこれ」


 監督は不気味なものでも見るように、手にした機械の箱をぐるぐる回して四方八方から睨みつけている。


「デジカメだよそれ。電源入れりゃ画面が映るから、ファインダーがなくてもいいんだよ」


 秋高鉄二、ボケに突っ込んでいるつもりなのか、単に説明しているだけなのか、よく分からない。

 ボケではなかったようで、監督は、なおも独り言を呟きながら難しい顔で、デジタルカメラという未知の機器をいじっている。

 普通のカメラのようになんとなく構えてみたところで、突然フラッシュが瞬いた。

 ビギナーズラックなのか、能ある鷹はなんとやらなのか、女性がチェックしたところ素晴らしい写真が撮れていた。夜のデジタルカメラ撮影は、素人には難しいというのに。


「よし、次はわしと彼女とのツーショットじゃ、ほらテツ、カメラ」

「おれが撮んのかよ」


 監督は、女性と肩を組んでブイサインをしている。

 くらなり監督は、今年からハズミSCの指揮権を任命されている。JFLを戦い抜くにあたり、外部から招いた人材だ。まだ一回も勝てていないということは置いておいて。

 佐倉監督は、ファンサービスを試合と同じくらい大切なことと捉えているらしく、いつもこのような調子である。

 根底にある思いとしては「Jリーグはそうあるべきだ」、ということらしい。

 クラブ名称こそハズミSCと変わったものの、あくまで企業名を名乗ることから社がJリーグ入りを目指していないことは明らかだが、しかしそれでは向上心を持つための材料を一つ失ってしまう。

 自分が監督である以上は、Jリーグに上がる力をつけることを目標にしたい。現在はJ2の一つ手前にいる立場であるからして、まずはJ2を目指したい。会社の方針が変わった時、すぐその年に昇格を決められるような力を蓄えておきたい。

 そして、Jリーグを目指すからには、ファンを大事にする気持ちも育てていかなければならない。Jリーグは客が存在して成り立つ、プロのスポーツなのだから。結果を出すことが一番なのだが、それだけではいけない。

 実際には、Jリーグに参入出来たとしても補強によってかなりの選手が入れ替わるだろう。現在の選手は単なる蓮見製菓のサッカー部員だし、ほとんどの選手が入れ替わってしまう可能性だってある。

 しかしそれでも、現在チームに対して行っている意識付けは、チームの持つ性格として後々に受け継がれていくはずだ。

 と、佐倉成太監督は考えている。会報や、週刊蹴球のインタビューでは、よくそのように述べている。

 先日も、公式HPの「きょうもナリタにゃん」には、次のように書いている。




 メンタル面が弱そうなチーム、ロスタイムの失点が多いチーム、雨に強いチーム弱いチーム、などあるが、個人個人の能力や性格の平均値としてなるほどそういう性質のチームとなることもあるだろう。しかし、それだけではないのだ。

 例え選手が全員入れ替わろうとも、チームに残る性格というものがあるのだ。

 チームというのはそれ自体が一体の生き物。

 選手は、その操り手でしかない。

 サポーターはチームという巨大な戦士を勝利に導くための、選手達の頑張りに声援を送ってくれるのだ。

 自分も含め、ハズミSCを離れることになろうとも過去に在籍していたことを誇りに思えるような、そんなチームにしていきたい。


     2

 683 200×年7月9日 (水) 20:19 じょにー b3yy86c


 新人も入ったことだし、今日は久々に練習見学してきたYO。

 紅白戦やってたけど、やっぱり友井芳樹はいい感じだった。来たばっかだからまだサブ組だったけど、次節スタメン起用もあるかもよ。

 与那嶺が生意気にルーレットやって、方向感覚が狂って反対方向に走っていたのには笑えた&ちょっと萎えた。

 優斗は、もう怪我大丈夫みたいだ。紅白戦スタメン組で、随分動いてた。シュート練習の時も一番枠に行ってた。

 いちよう(何故か変換できない)練習風景の写真張っておくから、見とけ。

 http://xxxx…….co.jp/joni



 684 200×年7月9日 (水) 20:35 名無しのサポーター 1ttxbp


 乙



 685 200×年7月9日 (水) 20:58 名無しのサポーター ossaeb4


 じょにい氏、乙彼山。

 友井、不安もあったけど良い補強だったんだな。腐ってもJリーガーってことか。これで守備が安定するといいな。



 686 200×年7月9日 (水) 23:02 m1x4j7a


 それよりテツをどうにかしてくれ。穴だ。



 687 200×年7月9日 (水) 23:10 uj493bv


 >>686

 アホか、テツに負担かかりすぎてる現状が問題なんだよ。



 688 200×年7月9日 (水) 23:22 m1x4j7a


 ヨントスちっとも助っ人じゃないじゃん。



 689 200×年7月9日 (水) 23:52 uj493bv


 >>688

 荒らしか、お前? なんにも分かってねえな。もともとヨントスは助っ人じゃねえよ。蓮見でアルバイトしてたサッカー初心者の外国人だよ。



 690 200×年7月9日 (水) 23:53 jhvmerv


 ヨン様は、結構よくなってきてるよ。

 もうちょっとよくなれば、プラス友井効果で、かなり守備安定するはずだよ。

 そうなれば、テツの負担も減って攻撃参加も増えてくると思う。



 691 200×年7月10日 (木) 0:34 0qxb3kb


 そうなれば、あと問題なのはヨナミネだけだな。



 692 200×年7月10日 (木) 0:50 jhvmerv


 穴ってほどじゃないけど、プレイが軽いんだよな。オナミネ、じゃなくてヨナミネ。意識の問題。焦ってすぐ不用意なファールするし。あんなオドオドした沖縄人、見たことないよ。ばあちゃんがアメリカ人だっけ? 顔は思い切り欧米面なんだから、もっとずうずうしくなりゃいいのに。



 693 200×年7月10日 (木) 1:48 0qxb3kb


 こうまで点取れないのに、DF補強だけってのも、ちょっとどうなのかなって考えちまうよな。今の状態じゃ、FWだけ補強すりゃいいってもんじゃないのは分かるけど。



 694 200×年7月10日 (木) 2:23 0qxb3kb


 誰もいないか。

 おやすみ~。

 

     3

 七月十三日、日曜日。

 ハズミSCは、沖縄のチームと対戦した。

 沖縄まで行く財力も時間も気力も度胸もなにもない風子にとって、唯一の情報源は居間のiMACだけだ。

 そのiMACにより、本日の試合結果を知った。JFLの公式サイトを見たのだ。そしてその結果は、風子を驚かせるものだった。

 スコアレスドローであった。

 ハズミSCの試合に興味を持つようになってからというもの、無失点であったことがなく、一得点もあげられずに負けてばかりだった。それが今日はどうだ。相変わらず無得点ではあるが、それを差し引いても快挙と呼ぶに充分な結果だ。

 とはいうものの、一体、どんな試合だったんだろう。

 攻めて攻めて相手を防戦一方に追い込んだのか、それとも反対に自分たちが防戦一方でなんとか守り切った試合展開だったのか。それとも全体的にだらけていて、時間だけがどんどん過ぎていったのか。

 まだ試合が終わって間もないので、JFLの公式サイトにも、ハズミSCの公式サイトにも、勝敗の結果とメンバーリストが書いてあるだけで、試合内容には一切触れていない。いくつかブックマーク登録している掲示板にも、まだ現地組からの書き込みはない。

 ハズミSCは開幕戦もスコアレスドローで引き分けているため、これで一だった勝ち点が二になった。

 最下位に変わりはない。

 しかし、一勝のみで残りは全敗という、カテゴリさえ違っていればハズミSCと仲良しになれそうなかませいてつFCに勝ち点一差に迫ったのだ。

 そのチームの挙げた唯一の勝利が、どのチームからもぎ取ったものかを考えると、どんより沈みそうにもなるというものだが。

 今日のした試合、DFのわたなべてるひこがスターティングメンバーから外され、代わりに新加入の友井が入っている。

 Jリーガーを格安で雇ったとのことだが、今日の無失点は早速彼を使った効果が出たということだろうか。

 ただ風子は、渡辺輝彦のことを比較的気に入っていたので、少し残念な気もした。

 気持ちは変化するもので、以前の、サッカー観戦初心者だった風子は、知っているというだけの理由で秋高鉄二ばかりを見ていた。

 段々と選手やサッカーのことが分かってくると、今度はFWの選手に注目するようになった。なんといってもサッカーは相手より点を多くとることで勝つ競技であり、FWはその得点を取る担当なのだから。

 しかし、いくら試合を観戦していても一向にFWが点を取らない。いや、ハズミSCはチーム自体の得点がまだなので、FWの得点率もなにもないのだが。

 ただ、他のチームを見ていても、特にFWが一番点を取るというわけでもないようで、それにより、勝利イコールFWの活躍というイメージがまず取り払われた。

 というわけで、注目の対象がFWからも逸れたわけであるが、現在の風子は、なんとなくDFというポジョションに好感を持っていた。

 攻撃面は失敗すると単に残念で悔しいだけだが、DFはピンチを切り抜ける都度の達成感がある。

 もちろん失点すればショックだが、華のない黙々とした職人然とした態度に風子は惹かれたようだ。DFは地味なものというのも偏見かも知れないが、とにかく彼女はそう思っていたのである。


     4

 四時限目も終わり、もう昼休みの時間だというのに、風子は一人黙々と体育用具の片づけをしている。

 女子の体育は、月毎に選ばれた四人が当番として用具の準備や片づけをする決まりだ。七月は風子がその一人なのだが、他の三人は授業が終わると他の生徒らと一緒に教室に帰ってしまった。風子が彼女らを注意したり苦情をいったりなど出来ないこと、分かっているのだ。

 ハードル走用のハードルを、両脇に抱えて二つずつ運んでいる。

 四時限目の途中まで太陽にかかっていた雲も、今はすっかり取り払われ、強烈な陽光が地面を焦がしている。

 白い体操シャツも、紺のハーフパンツも、すっかり汗が染み込んで重くて不快で仕方ない。

 早く片付けを済まさないと、あぶり焼きだか蒸し焼きだかになってしまいそうだ。

 と、急ぎたいのはやまやまであったが、一人だけでこんなことをしていたらさすがに肩が痛くなってきて、いったんハードルを地面に下ろした。

 そばにサッカーのゴールネットがあり、その前にサッカーボールが転がっていた。風子はちょっと興味を覚え、ボールに近寄ってみる。

 わたなべてるひこからのロングフィード、たかやまゆうが絶妙な胸トラップ、そのまま駆け上がりグラウンダーのクロスボール、そこに走り込んだとどろきゆう、躊躇うことなく右足を振り抜いた!

 風子の右足は、虚しくもボールをかすめただけだった。それどころか勢い余ってバランスを失い後ろに転げ、無様に尻餅をついた。

 選手は簡単そうにやっているのに、ただボールを蹴るだけがかくも難しいものなのか。

 年寄りのようによろけながら立ち上がり、痛めたお尻をさすっていると、突然すぐ後ろから笑い声が聞こえてきた。

 わはははは、というまるで漫画のような笑い方であった。


「だらしねえなあ。そんな蹴り方じゃあ、当たってもコロンコロン転がるだけだぞ」


 振り返ると、サッカーボールを小脇にかかえた男子生徒が、楽し気にくしゃくしゃと笑みを浮かべていた。

 知り合いではないが、風子の知っている人物だ。

 確か、二年生のすずうちたつだ。生徒会の書記かなにかの担当で、風子が入学して間もない頃に体育館で演説をしてやたらとみんなを笑わせていたので覚えている。


「ボールはね、こう蹴んの!」


 鈴内は自分のボールを小脇に抱えたまま、風子が蹴り損ねたボールへと小走りに駆け寄った。右足を後ろに振り上げ、そして振り下ろした。風子と同じことをしただけなのに、ボールはズバンと爆音のような小気味の良い音をたて、見事ゴールネットの右上隅に突き刺さった。

 ゴールまでわずか数メートルの距離だし、別にネットに収まったからといって驚くほどのものではないが、その綺麗な蹴り方を眼前で見せられて、風子はつい感心してしまっていた。

 瞬間的に細かくシャッターを切って白鳥の飛び立つ一瞬を撮影する技法があるが、まるでそういったものを見るような感じで、風子の脳細胞には鈴内先輩のキックが焼き付いていた。


「その顔はあ……ヴェルディだな!」


 鈴内はガニ股で腰を深く屈める滑稽なポーズを取ると、風子の顔を両手の人差し指で差した。


「……なんです……それ」


 風子は、きょとんとした表情。

 ヴェルデー? 作曲家か、それは。


「違ったか。じゃ、近いからモンテディオ。それか……J1で一番近いから、鹿島かな、でも遠いからな……」


 ああ、なんだ、Jリーグのクラブ名か。

 風子は鈴内の問いを理解し、首を横に振った。


「うーん、まさか代表にしか興味ないってことはないよなあ。そういうやつは、自分でボール蹴ったりしないからな」


 どういう理屈だ、それは。

 そもそも、ただ転がっていたボールをなんとなく蹴ろうとしただけなのに、何故日本代表以外のどこかのクラブチームのファンでなければならないのか。

 法則性が分からない。

 なぜそのような思考に至ったのか、という法則性が。

 とはいうものの、実際にどこかのファンであることに違いはない。

 別に隠すものでもない。


「ハズミSC」


 だから、答えていた。

 隠したいのか、と思われそうなほどに、もごもごぼそぼそとした声であったが。


「え、知らねえ! 地元サッカー団? 社会人チーム? サッカースピリッツのエディットモードで作ったオリジナルチームじゃないよな」

「……JFLです」

「JFL? あーあー、なあんだ。……ハズミって、もしかしてあれか、あそこにお菓子工場あるよな、蓮見製菓、あそこのこと?」

「はい」


 風子は頷いた。


「へえ、JFLも一度くらい観てみたいと思っていたんだけど、意外に身近なとこにあるもんだな。Jリーグ昇格なんてしたら凄いよな、この県で初だもんな。おれもあとでチェックしてみよっと。で、なに、よく蓮見製菓の観戦してんの?」

「最近になってから、何回か……」

「お前、変わってんなあ。女でJFLチームのサポーターだなんて」

「……そう……なんですか?」


 風子には基準というものがまったく分からない。

 それは男性の方が比率は圧倒的に多いだろうけど、女性が応援し、観戦しているのがそんなにおかしなことなのだろうか。

 などと考えている風子の前で鈴内は、自分の小脇に抱えていたボールを軽く放り上げて、額で受けた。そのまま額から落ちないよう、バランスを取っている。


「部活、どっか入ってる?」


 ボールを額から落とさないようにしながら、尋ねた。

 風子は首を横に振った。

 顔を空へ向けてボールと格闘中の鈴内に見えるわけがないことに気付き、「いいえ」と付け足した。消え入りそうな声ではあったが。


「いまマネージャー募集してんだよね。転校して、いなくなっちゃってさ。よければ来なよ。うち、部員多くないから、練習でだったらサッカーも出来るぜ。公式戦は無理だけど」


 やっぱり鈴内先輩は、サッカー部員だったのか。


「か……考え……ときます」


 風子は別にサッカーをしたいわけではない。先ほどボールを蹴ったのだって、バスケットボールや野球ボールを投げてみたのと同じ感覚だ。


「タッちゃん! 待たせたな。ベッちゃんが、飯食うのに時間かかってさ」

「胸肉が苦手なんだよ、おれ。ももの唐揚げなら、世界一早いけど」

「唐揚げが胸かももかで食う時間が変わるわけねえだろ」


 鈴内の友達らしい男子が四人、駆け寄ってきた。


「いいよいいよ、おれも来たばっか。そんじゃ、はじめっかあ。ああ、そうだ、今日はさ、三対三が出来るじゃん。それじゃ、今日は審判係はなしにして、お前はおれたちのチームな」


 鈴内はそういうと、風子の腕をぐいと引っ張った。

 突然男子に掴まれて、風子は、びくっと肩を震わせた。

 あの……

 一体、なんのことだか……

 体育の授業と後片付けと、この日差しとで、既にへとへとなんですが……


「スタート!」


 鈴内を含む五人が、一斉に動き出す。


「彼女、パス!」


 風子の足下にボールが転がって来た。

 なんだか分からずに一瞬躊躇したが、手を上げて合図をする鈴内にボールを蹴り返した。運よく、なのか、まともに蹴ることが出来た。


「彼女、走って、そっち!」


 その声に背中を押されるように慌てて走り出す風子。

 なんとなくルールが分かった。出来るのは後ろへのパスとドリブルだけで、ボールを持った者が相手側のあるラインに踏み込んだら得点なのだ。

 しかし鈴内達也というのは、えらく強引な性格だ。

 だがそれがただ無邪気さから来ているだけということが、少し接しただけでよく分かり、なんとも憎めない。

 風子はふと気付いた。


 ここにいる人たちがみんな、自分に対して普通に接してくれている。


 ということを。

 そういえば、自分から殻にこもってなにも見ずにいたが、アルバイト先のケーキ屋だってそうじゃないか。一人意地悪をしてくるのもいるけれど、みんな普通に接してくれている。

 駅前で会ったハズミの秋高選手だって、この前スタジアムで会った元選手のおじさんだってそうだ。あと、近藤さんだも。

 クラスでは、現在の立場からの脱却は難しいかもしれない。立場関係というのは、出来上がってしまうとなかなか覆すことは出来ないし、本人の努力だけでどうしようもない部分もあるからだ。

 しかし、初めて会う人とならば、本人の心がけ次第でいくらでも良い関係を築いていくことは出来るのだ。

 まずは、ケーキ屋のみんなと馴染むことから始めてみよう。こっちから飛び込んで行って、溶け込むことから始めてみよう。

 今日もアルバイト、頑張ろう。



 予鈴が鳴った。

 風子は、体育用具を片づけている途中だったことを思い出した。

 五人の先輩たちが手伝ってくれ、五時限目にはぎりぎり間に合ったが、お昼を食べる時間どころか着替える時間すらなく、一人体育着のショートパンツ姿のままで英語の授業を受けることになったのであった。


     5

 ハズミSCは、他チームの都合による日程変更があり、七月十三日、七月十九日とアウエイでの対戦が続く。

 十三日は沖縄県で既に終えており、十九日つまり今日は栃木県での試合だ。

 今、風子はJR東北本線の電車に揺られている。

 隔週で観戦をすることに慣れてしまっていたので、ホームゲームがしばらく行われないことにある種の禁断症状に陥ってしまい、栃木県ならば近いだろう、とアウエイゲームに行って見ることにしたのだ。

 近藤悠子にも声をかけたところ、どのみち彼女も一人で行くつもりだったらしく、風子のほうから誘ってくれたことに喜んでいた。しかし、悠子の親戚に突然の不幸があり、結局風子一人で行くこととなったのである。

 最初は栃木県だから近くて楽だろうと思っていた。しかし、栃木県といっても広く、しかもローカル線からローカル線へと乗り継いで行くため、とんでもなく時間がかかるものだということを身をもって味わうこととなった。

 ここまで来た以上は、後はもう東北本線(宇都宮線)に乗って宇都宮駅に行くだけという電車移動であるが、しかしスタジアムは駅近辺にはないため、さらにバスに乗って終点までいかなければならない。

 なおかつ、さらにそこから、二十分ほども歩くという話だ。

 よほど近くに住んでいない限りは、誰でも一日がかりになるのではないか。

 普段は日曜開催が多いのだが、今節は土曜日でよかった。まあ、だからこそ訪れようという気にもなったのだが。

 車内アナウンスが流れる。

 かたんことんの音や振動、車窓からの景色の流れがゆっくりになって、ついに宇都宮駅に到着した。

 下車すると、勝手の分からない場所でのあまりの人の多さに、目眩がして倒れそうになった。

 悠子と一緒にハズミSCの密集した席に何度か座ったことがあり、その経験のおかげで目眩に負けずなんとか踏ん張ることが出来た。

 人生役に立たない経験はない。東京の人混みはこんなもんじゃないぞ、と一度も行ったことがないくせに、そう自分を励ましつつ、疲れ切ったような足取りで歩く。

 しかし、F県外にまで来てしまうとは。我ながら、随分とサッカー観戦にのめり込んでしまったものだ。

 そういえば、近隣県ながらも生まれて初めての関東地方体験かも知れない。

 おそらく違いない。F県を出たこと自体、記憶にないくらいなのだから。

 自分は仙台生まれらしいので、少なくとも宮城にはいたということなのだろうが、小学校の遠足もF県内だったし、中学校の遠足や修学旅行は仮病で行かなかったし、F県以外のことをまったく知らない。



 さて、これからバスに乗るわけだが、風子は新たな難題と向き合っていた。

 バス停留所に書かれている路面図を見ても、何系統に乗ればどう行くのか、なにがなんだかさっぱり分からないのだ。

 牧歌的な小さな駅ならば、人間への耐性が少しだけ成長した現在の風子ならば、誰かに尋ねることも出来たかも知れない。

 しかしこの駅はあまりにも大きくて、たぶん東京よりは遥かに小さいのだろうけど、それでもとんでもなく大きくて、それだけで畏縮してしまい誰に声をかけることも出来ず、どう乗り切ったものか自分で考えることも出来ずにただただ困惑してしまうばかりだった。

 どれに乗ればいいんだろう。ここに限らずどのバスもどうしてこうも行き先が分かりにくいんだろう。

 なおも困り続けていると、ふと、彼女は気付く。

 スキンヘッドの小太りの男が、黄色いユニフォームを来てバスに乗り込んでいるのを。

 あれは昨日ホームページで見た、対戦相手のユニフォームに似ている。

 他の乗客も大きなバッグを持っていたり、大旗が入っていて不思議のない形状のバッグを持っていたり。

 きっと、あのバスに違いない。

 風子は駆け寄った。

 と、突然バスのドアが閉まってしまうが、運転手が風子の姿に気づいたのか、開けてくれた。


「あ、ありがとうございます」


 風子は息を切らせながら、運転手に頭を下げた。


「このバス……清原球場に行きますよね」

「行きますよ。終点です」


 風子は胸をなで下ろした。

 思っていたよりも簡単に、質問の言葉が出た。だったら最初から、停車しているバスの運転手に尋ねておけばよかった。

 再びバスの扉が閉まる。

 低い振動と共に、バスが走り出した。


「お姉ちゃん、ここ空いてるよ」


 さきほどの、黄色ユニフォームスキンヘッド男に声をかけられた。風子をバスに導いてくれた恩人ではあるが、あまりの顔の怖さに風子の心は縮みあがってしまった。

 知らない土地で普通の容貌の人に話しかけられてもすくみ上がってしまであろうというのに、これから戦う相手のユニフォームを着ている人なのだ。しかもスキンヘッドなのだ。仮に生えていようとも、なんだか元の顔の作りも怖くて、声も低くて……

 と、結局風子は、恩人云々といった理屈や心情ではなく、単なる恐怖心から、男の隣に腰を降ろした。


「サッカーだろう。清原球場行きかを尋ねるなんて」


 かすれた、野太い声。

 とんでもない席に座ってしまったのかも知れない。

 生きて帰れるのだろうか。

 そもそも生きて辿り着けるのだろうか。死んだら今日の試合を観戦出来ない。


「はい」


 縮こまりながらも、なんとか返事をした。


「初めてかい」

「ここに来るのは、は、は、初めてです」


 言葉がつかえたのを、笑ったと勘違いされて殴られたりしないだろうか。


「いつもは?」

「ああ、あのっ、ハズ、ハズミの、ホームで」

「ハズミサポかよ!」

「うわ、ご、ご、ごめんなさい!」


 びくり肩を震わせ声を裏返らせながら、つい口を滑らせたことを後悔していた。


「おい、なに謝ってんだ。どこサポだろうと、一人でも多く来て欲しいよ。JFLは観客が少なすぎるからな」

「はあ」


 風子はハンカチを取り出し、額の冷や汗を拭いた。


「いい試合になるといいな」

「……はい」

「ハズミ、ちょっとずつ強くなってきているらしいからな。よくは知らんが」

「はい」


 それきり男は口を閉ざした。

 風子はそのまま座席で揺られ続けて、気が付くとバスは終点に到着していた。


     6

 風子はスタジアム入り口で、千円を払い当日券を買った。

 中に入ると、両チームともゴール裏に熱狂的なサポーターが密集している。近藤悠子と一緒に来ていれば、その中に加わっていたかも知れない。いや、多分そうなっていただろう。悠子はそういうところを好む性格だからだ。

 風子は、初めてハズミSCの試合を観た時のように、周囲に人の少ない席を選んだ。

 隣の席にバッグを置くと、中からハズミSCのレプリカユニフォームを取り出して着る。

 別に密集したところに行かなくたって、サポはサポだ。

 自分にいい聞かせる。

 最近風子には、ハズミSCサポーターであるという自覚が出てきていた。

 自問自答を繰り返し続けているうちに、いつしかユニフォームもタオルマフラーも購入して、ホームスタジアムへは毎回のように足を運ぶようになり、選手の応援歌も覚えて、ふとあらためて考えてみた際に、これはどう考えてもサポーターであろうという結論に達したというわけである。

 本日の観戦、当然といえば当然であるが、スタジアムのムードがいつもとまったく違う。

 ハズミSCのホームでは、多くても観客数が八百人くらいだったのに、その倍以上はいそうだ。ハズミSCサポーターは、全体の二十分の一である百人程度。圧倒的にアウエイといった雰囲気だ。

 とはいえ、ハズミSCのサポーターはホームでも四百から五百人くらいなので、かなり集まったほうではないだろうか。

 サポーターだけでなく、スタジアムそのものも、ハズミSCのホームである烏ノ山陸上競技場とは相当に雰囲気が違う。

 要するに「きちんとしたスタジアム」なのだ。

 まっさきに目に付いたのが、電光掲示板だ。烏ノ山には、そんなものはない。

 それと座席の数。メインスタンドしかない烏ノ山と違い、観客席がピッチをぐるりと一周している。席はかなり傾斜がついており、後ろのほうでも見やすそうだ。

 などなど、知らない地での風に吹かれながらきょろきょろとしているうちに、選手のウォーミングアップも紹介の読み上げや応援団のコールも終わり、そして、



 主審の笛が鳴った。

 試合開始だ。



 開始早々から、ハズミSCはどんどん攻め、相手を防戦に追い込んだ。

 DFが安定してきたということと、いい加減に得点しなければならないという苛立ちとの相乗作用だろうか。

 サッカーとは、とにかく相手より一点でも多く得点しなければ勝てないのだから、いつまでも無得点を続けてはいられない。早く勝利、せめて得点し、自信に繋げていかないと。というところであろうか。

 前がかりで攻めに攻め、ハズミSCは相手になにもさせなかった。

 ここまでとは誰も想像しなかったであろう素晴らしい内容で、まるでサンドバッグを殴るかのように、好き放題にミドルシュートを打ちまくる。

 しかしながら、相手に肝心なところでブロックされてしまい、ベストな体勢からのシュートはまったく許してもらえない。

 そうこうしているうちに、不用意なパスをカットされ、縦パス一本であっさりと相手FWにボールが渡る。そして、ハズミSC側のゴールネットが揺れた。

 運を天に任せて強引に先制点をもぎ取りに行く作戦は、前半十六分にして頓挫した。

 相手は落ち着いたボール回しを見せるようになり、ハズミSCは、勢いこそあるものの、なにもさせて貰えない状態になってしまう。

 段々と、ハズミSCの足が止まっていく。

 なんとか一点差で折り返すものの、後半三十分に、また失点。

 バランスを無視して選手個々が前へ前へ攻めようとするが、それは反対に迎えるピンチの数が増えるだけのことだった。

 それ以上の失点はなんとか抑えたものの、得点をあげることもかなわず、試合終了の笛が鳴った。

 0―2でハズミSCは負けた。

 スタジアムは無風。

 夏の暑さとサポーターの熱気とが、溶けて陽炎のようにゆらゆらと昇っている。

 湿度が高く、じっとりとしている。汗で、服が体に張り付いて気持ちが悪い。

 息苦しさから逃れるように、風子は空を見上げた。

 青い空には綿菓子みたいな雲がぽっかりと浮いて、悠々と流れている。地上とは裏腹に、とても涼しそうであった。


     7

 佐久間風子は、昨夜、初めて自分からサッカーのテレビ観戦というものを試みた。

 中東のどこだかの国で行われていた、日本代表の試合だ。

 ライブで、番組開始は二十二時二十分「このあとすぐキックオフ」とテロップが出続けているくせに、三十分待たされた挙句に出てきたのが「このあと国歌斉唱」。試合開始は二十三時だった。調べなかった自分が悪いが騙された気持ちになった。

 これまでも、たまたまテレビを付けたらサッカー中継がやっていたり、一階に降りてきたら家族の誰かが見ていたということはあった。しかし風子にとっては、単なる風景や雑音のようなもので、まったく意識したことはなかった。

 サッカーのルールや観戦の醍醐味というものが分かってきたこともあり、自ら意識してテレビ放送を観戦してみると、まあそれなりに面白かった。

 でもなんだか、しっくりとこないものを感じていた。

 0―3で日本が負けて放送が終わり、二階の自室でベッドの中でうとうとしていた時に、ふと気付いた。改めて実感した。

 やはり自分はサッカーが好きなのではなく、ハズミSCというチームが好きなだけなのだ、と。

 どのチームが強くて、こんな特徴があり、あんな選手が要注意で、といった相手情報だって、ハズミSCの対戦相手だからこそ興味があるというだけなのだ。

 つまりはファンであり、つまりはサポーターなのであろう。



 昨日は栃木県への遠征のため(といっても結果は撃退され、散々であったが)、土曜日のアルバイトを休みにしてもらったが、最近は基本的に土曜日はフル出勤して、日曜日を休むことにしている。

 以前は土日ともフル勤務だったが、JFLの試合は日曜日に多いため、シフトを変えて貰ったものだ。

 ホームゲームは隔週なので、アウェー戦の日曜日は観戦資金をためる意味においても働いておきたいところなのだが、勤務日は曜日ではっきりさせないと職場に迷惑だし、日曜日をフル勤務にしたいという者が他にいたので、風子はこのようなスケジュールで働くことになったのである。


     8

 風子の住む家のある、田んぼに囲まれた小さな住宅街を抜けて、狭い道路を少し進んだところ。地元民が「お寺の住宅街」と呼んでいる文字通りに昔からあるお寺を中心として発展していった住宅街がある。

 商店街もあり、静かながらもそれなりに活気がある。

 風子は買い物用のバッグを右肩にかけ、その、お寺の住宅街を歩いている。

 バッグには買ったばかりの肉、野菜、魚、牛乳などが入っており、結構な重さだ。

 風子は自ら、今日のお使いを買ってでたのだ。

 彼女の、家においての戦いは、まずは母に自分を認めさせること。

 買い物をするなど、なるほど取るに足らない些細なことに違いない、しかし風子には貴重な一歩の踏みだしなのだ。

 完全に失われてしまっているコミニュケーションを、まずは取り戻すということが。

 至る理由というものが、少しばかりひねくれているかも知れないが。

 母は世間体というものを、過剰なまでに気にする。

 風子はそんな母のために頑張りたいのではなく、母のその世間体第一主義を壊してやりたいだけなのだ。

 そのために、まずは母の懐に飛び込むこと。自分がもっとしっかりし、母を引っ張っていくような存在になること。それから、望むように変えていけばいい。

 そしていつかは、父のことも変えてやる。

 漠然とした思いではあるが、最近、そのように考えることが多くなっている。そのための第一歩が、この買い物だ。

 立ち止まり、重たいバッグを右肩から左肩にかけ代える。

 重心が片寄っていたため、腰が痛い。

 確か部屋の押入に大きなリュックサックがあるはずなので、それを背負って自転車で来ればよかった。

 また歩きだそうとしたとき、賑やかな子供の声にふと気付いた。

 ここは、しらゆり幼稚園の前。柵越しに園内に視線をやると、日曜日だというのにたくさんの幼児、そしてその中に混じって五、六人の青年がいる。周囲には、幼児の保護者と思われる三十前後と思われる男女。

 なにをやっているのだろう。

 あ……

 風子は心の中で、間の抜けた声をあげた。青年達の顔にどことなく見覚えがあったのだ。

 どこで彼等を見たのか、すぐに判明した。

 ハズミSCのみずきようすけと、なかえい、ピッチを走る姿を何度も目にしている。

 そういえば残る青年たちも、公式ホームページで写真を見たような気がする。

 サッカー教室だろうか。

 いや……鬼ごっこや隠れんぼ、めんこやベーゴマで遊んでいるだけだった。 

 確か水田恭助は右膝の怪我で調整中、田中英二は警告の累積で昨日は出場停止だったはずだ。


 後日、近藤悠子に聞いたところによると、「出場メンバーに選ばれた選手は、平日の仕事のみならず土曜日曜もJFLの試合という大切な仕事がある。試合に出ない選手にも、住民への奉仕という貴重かつ大変な活動をしてもらうことでチーム全員の立場を公平にしている。これは監督の考案によるもので、今年の春から毎週日曜日に実施されている。この幼稚園だけではなく、野々部市と華鳴市の何カ所かで奉仕活動が行われている。老人介護の補助や話相手、ゴミ拾い、サッカー教室、等々。従ってハズミSCの選手は全員、リーグ期間中は週休が一日しかないのである」ということであった。


 遊びといえばテレビゲームといった子供たちに、めんこやベーゴマは古いどころかむしろ新鮮なようで、楽し気にはしゃいでいる。青年たちもまた、楽しそうであった。

 風子は柵越しにそっと、その様子を眺めている。

 大人と子供が無邪気に笑いあう様は、見ていて悪くなかった。

 と同時に、どうしようもない寂しさ、不安感を覚えてもいた。

 微笑ましい気分を感じるといってもどこか他人事。

 それはそうだ。ここ数年、一度も笑ったことなどないのだから。

 笑顔。

 自分は、それを一体どこに置いてきたのだろう。


     9

「廊下走るな、馬鹿が!」


 教頭の低い声が雷のように廊下の空気を震わせた。


「すす、すみませんっ!」


 教師の怒声に振り返り謝りつつも、風子はとまらない。

 ジダンばりのルーレットを見せ、また走り出す。

 しかし、両腕に缶ジュースを四本抱えているので、うまくバランスがとれず、たどたどしく危なげな走り方だ。

 ついに、廊下に爪先をつっかけて転びそうになり、ジュース缶を全部落としてしてしまった。転がる缶を慌ててかき集めると、また走り出した。

 一学期の終業式を間近に控えた、ある日のことである。

 風子はわたわたと危なっかしく走りながら、考えている。

 なんだって、引き受けてしまったんだろうと。

 どうして、断らなかったんだろうと。

 自分に少し自信が付いてきていたというのに……自分は少しづつ成長してきていると思っていたのに……それは勝手な思い込みだったのかも知れない。

 先日、(不本意ながら)髪型を変えたことで、風子は自分でも予期しなかったような大きなイメージチェンジを遂げた。彼女は比較的整った可愛らしい顔立ちをしており、その正体が分かると、現金なもので男子からのいじめは激減した。

 しかし女子からの風当たりは余計に強くなった。

 相対的には以前と変わらないとしても、風子は男よりも女のほうが陰湿で怖い生き物だと信じて疑っていないので、追い込まれる精神的苦痛が余計に酷くなった。

 だからこそ、思う。

 なんだって、引き受けてしまったんだろうと。

 どうして、断らなかったんだろうと。

 風子は一年B組の、教室のドアの前に立った。両手がジュース缶で塞がっているので、少し下品と思いながらもわずかなすき間に右足のつま先を突っ込んでドアを開いた。

 放課後の、がらんとした教室には、四人の女子が残っていた。

 いっせいに、風子のほうを向いた。


「ほうら、間に合ったじゃん。クマちゃん、ありがとう、お疲れ~」


 はぎむらのりの笑顔が、息を切らせている風子を出迎えた。


「もう……絶対オーバーすると思ったのになあ」


 かさはらかおりは怒ったような顔で、えらく悔しがっている。

 笠原香とうめむらともは、萩村紀子と加藤るい子のそれぞれに、千円札を手渡した。

 それを見て風子はすぐに理解した。

 学校から少し離れた田んぼの中にぽつんと存在している売店がある。そこにしか売っていないジュースを、十分以内に買って来いと脅され、不本意ながらもいう通りに実行したわけだが、それはつまり、制限時間内に買って戻ってこられるかどうかという賭けの対象にされていたのだ。

 風子は表情を変えることなく、彼女らに缶ジュースを渡した。


「あの……お金は……」


 風子は上目遣いでおずおずと萩村にいった。


「え、クマちゃんのおごりでしょ。さっきおごるっていってたじゃない」いってない。「じゃあね、ありがとう。あと、笠原もね。まいど~」


 萩村紀子は手にしたお札を振り振り、加藤るい子と一緒に教室を出て行く。


「香、あたしらも帰ろう」


 梅村の言葉に、笠原香はしばし無言であったが、突然席を立つと、風子に歩み寄り胸を強く突き飛ばした。風子はよろけ、危うく机を倒してしまいそうになったが、なんとか踏ん張った。

 呆然とした顔で笠原を見つめる。


「この馬鹿。なにを頑張って走ってんのよ。あんたのおかげで千円損したじゃない。なんか恨みあんの? あたしが間に合うほうに賭けてたら、逆に手を抜いてゆっくり買って来るつもりだったんでしょう」

「え、そんな、だって、賭けてたなんて……知らなかったから」


 当然だ。知っていたら賭けにならない。脅しに従うか否かという、別の賭けならば成立していただろうが。


「あんたのおかげで損したんだから、責任とってよね」

「責任って……」

「あたしが損した分、あんたが出しなさいよ。あんたが悪いんだから当然でしょ。本当はそれに迷惑料を上乗せしてやりたいくらいなんだから」


 笠原は風子のむなぐらを掴んだ。


「そんな……無茶苦茶だよ」

「なにがよ。無茶苦茶なのはあんたのバカ面でしょ」

「……十分以内に買って来てって頼まれたから、買って来ただけなのに……」

「なにを恩着せがましいこといってんの。嫌なら断ればよかったじゃないの。引き受けたんなら、周囲に与えた損害の責任はちゃんと取りなさいよ」


 支離滅裂だ。勝手に賭けの対象にしておいて。

 本当にそんな不当な理論を正当な主張と信じて怒っているのか、それともただ風子をからかって楽しんでいるのだろうか。

 風子は、スカートのポケットから財布を取り出した。

 これでこの場を逃れられるのならば安いものだ。一瞬、そんな投げやりな気分になってしまったようで、気付くと千円札を二枚、取り出していた。

 はっと我に返り、差し出すべきか断固拒絶するべきか躊躇しているうちに、笠原にひったくられてしまった。

 笠原は、一枚を梅村に渡した。

 梅村は風子に少しだけ気の毒そうな顔を見せたが、結局それを受け取った。


「これで勘弁してあげるよ」


 微笑む笠原。

 二人は教室を出ていった。

 風子は、一人きりになった。

 しんと静まり返った教室。

 風子の呼気だけが、聞こえている。

 胸の内からの、なんともいえない不快感。

 だんだんと、心臓の鼓動が速くなり、目が回ってきていた。

 激しい後悔の念に襲われていた。

 心が、真っ暗になった。


「最低だ……」


 かすかに口を開くと、そう唇を震わせた。

 最低だ。

 心の中でも、同じことを呟いていた。

 真っ暗闇の中で。

 自分は、問題から逃げ出してしまったのだ。

 強引にひったくられてしまったからなんて、言い訳だ。

 きっと自分は、無意識のうちに、笠原香に選択権をゆだねていたのだ。

 自分は被害者で、すべてを相手のせいにするために。

 教室の前まで行くと、両手でぎゅっと握りこぶしを作った。

 振り上げ、強く、黒板を叩いた。

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