第3話 井上毅と福沢諭吉

 ここで主人公である井上毅いのうえこわしを福沢諭吉と比較することで、どんな人物か説明したい。


 福沢諭吉。1835年生まれ。

 福沢については今さら説明しなくてもいいほど有名なので簡単に。


 大分にある中津藩出身の幕臣で、『明治六大教育家』の一人。慶応義塾の創設者にして、戦前の五大新聞の一つ『時事新報』の創刊者。 


 井上毅。1844年生まれ。

 熊本出身の法律畑官僚。


 熊本藩は52万石という大藩であり、横井小楠のような幕末を牽引する儒学者を生み出しながら、藩論が三つに割れて定まらず、上野戦争になってやっと新政府側に参戦し、その後も薩長が激しい戦闘を繰り広げ終わった後の東北を歩いただけで終わり、藩閥の中には入れなかった。


 熊本藩の下級武士であった毅は「一応、新政府側」くらいの地位で明治という時代を迎えた。


 幕末の戦いを見ていると、幕府側と新政府側で真っ二つという感じなのだが、実際にはそう明確に分かれたわけではない立場の者たちもいる。

 一応、最後には新政府側についたとか、住んでるところは幕府側だったけど九州だったから東北ほどには差別されていないとか、そういう者たちもいた。


 前述の伊東巳代治いとうみよじもこれに近い立場である。長崎は長崎奉行がいることでわかるように幕府の地だったが、戊辰戦争に負けて士分を奪われたり、北海道の厳しい地に送られた東北諸藩の人々のようなことはなかった。


 毅は大学南校(現在の東大の前身)で学んだあと、司法省に仕官し、ヨーロッパに留学して、司法制度や歴史法学を学んで帰国。


 江藤新平下野後は大久保利通に登用され、西南戦争に政府側として参加し、地元である熊本城の解放を見届けてから、東京に帰還する。


 大久保に登用されると同時に岩倉具視のブレーンとなり、伊藤博文とも縁を持つ。

 大日本帝国憲法や教育勅語などを起草し、軍人勅諭の作成に関わった官僚である。


 二人の略歴だけなぞるとこんな感じになる。

 だが、重要なのは互いの略歴ではなく、思想である。


 先に福沢の思想について述べると、福沢は漢学を強く批判していた。


 無論、福沢は漢学を知らなかったわけではない。

 幼い頃から漢学を学び、良く知った上で、腐敗した漢学を敵視したのだ。

 

 同時に福沢は儒教的な思想を問題視していた。

 その問題視した中に『政教一致』という思想も入る。


 そして『文明論之概略』『福翁百話』にあるように福沢は『脱亜主義』者である。

 

 中華思想から脱却し、儒教を廃そうとする脱亜主義は、福沢のみならず西周にしあまねら明治初期を代表する教育家も啓蒙家も持っていた思想であり、西周は日本語をローマ字表記にすべきなどの西欧化を説いていた。


 福沢はなんでも西欧化しようとしたわけでも、なんでも古いものを否定しようとしたわけではない。

 だが、福沢は自由主義と西欧化の中心的存在であった。


 井上毅の思想はどうか。

 

 毅は日本古来からの文化を大切にし、古典や儒学を重んじた人物である。

 明治の西欧化偏重の世相と急進的な自由主義に危機感を感じていた。


 毅は何も旧態依然きゅうたいいぜんとした日本に戻そうと考えているのではない。


 西洋に多くを学ぶとしても、日本古来のものはなんでも駄目で西欧は素晴らしいと急速にすべてが西欧化しすぎてしまうのを食い止めて、日本らしさを残そうとしたのである。


 福沢が極端な西欧化、自由主義ではないのと同様、毅も極端な守旧派しゅきゅうは懐古主義かいこしゅぎではなかった。


「今日ニ在テ広ク万国ノ長短ヲ鑑ミ、治具、民法、農工、百般ハ、之ヲ西洋ニ取リ、支那ノ衰風ヲリ、又論理名教ノ事ニ至テハ、断然天下ニ布キ示シ、古典古籍ヲ以テ父トシ、儒教ヲ以テ師トシ」


 これは後に毅が記した『儒教ヲ存ス』の一節である。


 広く万国の長所短所を鑑みて、工業、民法、農工、百般は西洋に学ぶ。

 人の行うべき道については古典古籍を父として、儒教を師とすべきと説いたのだ。


 毅は法律や技術は西洋から大いに学ぶべきであると思っていたが、日本人の精神の部分は古来からの精神を守るべきだと考えていた。


 わかりやすくいうと、毅は『和魂洋才』の人である。

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