第2話

 目が覚めると、時刻はすでに昼を少し回ったところだった。


「うぅ……いてて……」


 身体のあちこちが痛い。完全なる筋肉疲労だ。

 お宮さんに連れられてUMA探しを開始してから、一週間が過ぎた。

 僕は毎日ウン十キロとくたくたになるまで歩き、得たものといえばこの足の痛みだけだ。

 壁にかけたカレンダーが七月になり、いよいよ夏本番である。

 これからますます暑くなるというのに、お宮さんはまだこのUMA探しを続けるつもりなのだろうか。

 僕の体重はこの一週間の運動で、五キロほど減った。鏡を見れば、そこにやつれた顔の吉野実が写し出される。

 お宮さんも僕と同じ運動をしているはずだけど、彼女の外見は変わらない――どころか、ふくよかな体型が有酸素運動によってシェイプアップされていた。

 人間、好きなことをやるのが一番身体に良いっていうけど、あれは本当みたいだ。


「ようやくゆっくりできそう……でもないか」


 机の上で山を築く、教科書とノートを見て、僕は溜息を吐いた。

 今日は休日で、お宮さんからもお誘いを受けていない。その理由は、週明けから一学期の期末テストが始まるからだ。

 テストさえなければゆっくりと身体を休めたいところだけど、そうも言っていられない。僕は別段、成績の良い部類の生徒ではないので、勉強しなくては落第も視野に入ってくる。

 痛みを堪えてベッドから起き上がる。と、部屋が散らかっていることに気が付いた。


「アマデウス……あいつ、何度言っても聞かないな……」


 全裸おっさんことアマデウスがいる生活には慣れてきた。それは僕や家族だけでなく、アマデウス本人も同じらしかった。

 我が家に来た当初、緊張していたせいか、おっさんは二階にある僕の部屋から出て行こうとはしなかった。

 しかし今はすでに我が家は安全な場所だと感じているのだろう。アマデウスは自由気ままに吉野家の中をうろついている。もちろん、全裸のままでだ。

 専用トイレの設置後、何度も言い聞かせたことが功を奏したのか、さすがにウンコをあちこちにするということは少なくなったけど、高いところにある物を下に落としたり、拾ってきた物をどこかに隠す行為は相変わらずだ。

 調べてみると、これはどうも猫によく見られる行動らしいと知った。

 父さんも母さんも、アマデウスが白猫にしか見えないというので、役に立つかもしれないと、ネットで軽く調べたところ、それがわかった。


「ったく、何も、押入はあいつの居場所に提供したわけじゃないのに」


 アマデウスは押入を大層気に入っているらしく、どこからか何かを持ち帰ってきては、そこにしまい込んでいる。

 僕はあくびをしながら、部屋に散乱した物を片付けるべく腰を上げた。

 と、階下でドタドタとけたたましい物音が聞こえた。

 騒々しい足音が段々と大きくなる。どうやらアマデウスがこちらに向かって階段を駆け上がっているようだ。


「ミノル、ミノル、デルデル、モレルモレル」


 部屋に入ってくるなり、全裸のおっさんはメタボ腹を押さえながら、鼻息荒く不穏な台詞を口にする。踏んでる韻の中に、僕の名を混ぜないでほしい。

 僕は無言で部屋の隅に置いてあるトイレを指さし、おっさんから目を逸らすために背を向けた。寝起きで中年のおっさんが大便する姿なんて見たくない。……寝起きじゃなくても見たいなんて思わないけど。

 ――ブッ……ブブッ……ス――――ッ……ブリリリリッ!

 聞きたくもない排便の音が、僕の部屋に響く。間もなく、付随した臭いもこちらに漂ってきた。


「フホォ……アア……」


 全裸おっさんの口から、気持ち良さげな吐息が漏れる。

 ……耳栓を買ってくる必要があるな。いや、その前に防臭グッズかな。

 出て行けという選択肢がすでに僕の中にないことが正解なのかどうかさえ、今は判然としない状態だ。

 おおよそ十日前、この汚い尻にキスをしていたと思うと、吐き気がこみ上げる。


「僕のファーストキスはお前じゃないからな!」


 考えてみれば、僕が初めて口付けをしたのは、記憶にある限りではアレしかない。

 そんなものをファーストキスとしてカウントなんて絶対にしないけど、僕は言わずにはおれなかった。


「シリノニオイ、カグ、トモダチ」


「そりゃ猫の話であって、人間はそんなこと――って、アマデウス、それは何だ?」


 振り向くと、用を足したアマデウスの頭部に、見覚えのない布があるのに気が付いた。

 全裸おっさんの頭部にある布には、まるで猫耳が出せる仕様かのように、二つ穴が空いているようだ。

 白地に青い横縞模様で、一見すると水泳帽か何かのようだけど……。


「シラミネ、トッテキタ」


「どうしてそこで白峰さんの名前が出てくるんだよ――ってまさか、お前……」


 僕はアマデウスの頭にかぶさっている水泳帽に似た何かを強引にはぎ取った。


「こ、こ、これは、ぱ、パンツ……?」


 特殊な形状の水泳帽だと思っていたそれは、女性用下着だった。

 どうしてアマデウスがこんな代物を持っている、いや、かぶっているのだろう。

 全裸の中年が、青い縞パンを頭部に装着。ある意味では似合いすぎるくらいに違和感のない最強防具だ。

 実にうらやましい……じゃなくて、いかがわしい外見である。


「おい、アマデウス、どういうことか説明しろ」


 僕の詰問口調に身体をびくつかせた全裸おっさんは、素早い動きで押入に頭を突っ込んだ。


「逃げるな! お前、これを白峰さんの家から持ってきたのか?」


 アマデウスは押入に上半身をめり込ませたまま、何やらゴソゴソと音を立てている。

 ウンコをしたばかりの尻をこちらに向けているため、気分の悪い光景だ。

 しばらくすると、アマデウスが振り返る。その頭にはまたしても女性用下着があった。


「イロチガイ、トッテキタ。ミノル、トモダチ、アゲル」


「へえ~今度は黄色の縞パンかあ……ってお前! 僕が怒っているのは、好みの色じゃなかったからじゃない! 一体、いくつ盗んできたんだよ」


 こめかみを押さえつつ押入の中をのぞき込む。と、そこには驚きの光景が広がっていた。

 赤、青、黄、緑、紫。

 形も様々、色とりどりの女性用下着が、ご丁寧に上下揃って僕の押入にあった。

 ぱっと見だけど、おそらくは五十組くらいはあるだろう。

 アマデウスが我が家に来てから約十日だから、一日平均で五つほど、どこかから持ち帰ってきた計算だ。


「……何をしてくれてんだよ。これ、誰かに見つかったら――」


 そのとき、僕のポケットの中から、着信音が鳴った。

 メールだ。差出人は――白峰夢乃さん!

 先日、我が家にやってきた日に、これも何かの縁と連絡先を交換してあった。

 それから今日まで、僕から一度も連絡することなく、また白峰さんからも何の音沙汰もないままだった。

 アニキに付き合ってもらった訓練にしても、近所に住む白峰さんからガードを頼まれればいつでも可能だと言うための準備であり、半ば僕の妄想に近い。

 だから、こうして白峰さんから僕宛にメールが送られてくるなんて、正直、思いもしなかった。


「ほ、本当にメールしてくれるなんて……」


 感激だ。スマホを持つ手が震える。

 アドレス交換のときに『たまにメールしてもいいですか?』と白峰さんが言ってくたのは社交辞令じゃなかったんだ!


『白峰です。突然ですが、今日、吉野くんのお家に伺ってもいいですか?』


 憧れのアイドル白峰さんから送られてきたメールの文面に目を通し、僕は嬉しさに任せて小躍りしたい気分になった。


「でも……いきなりどうしたんだろう? もしかして、ストーカーの嫌がらせが激化したから、僕にガードマンを頼みたいとか……いや、それはないか」


 一瞬、自分勝手な妄想が脳内を充たしかけたけど、それは考えにくい。

 ストーカーの存在は疑いようもない。お宮さん御用達の怪しげなオカルトサイトにアップされた盗撮画像が実在していることから、それは確かだ。

 白峰さんみたいな可愛い女の子なら、そういう被害にあうこともままあるだろう。しかも彼女はアイドルとして顔を知られている芸能人だから、なおさらだ。

 とはいえ、もしも白峰さんがストーカーに気が付いていたとしても、まずは両親に相談して、その後に警察に連絡するような気がする。

 事務所にも連絡するかもしれない。その場合、世間に傷物の印象を与えかねないとして、伏せておく(要は公表しない)対処の方法を選択する可能性もある。

 ガードマンに頼むにしても、偶然に知り合ったひょろひょろで頼りない僕みたいな男ではなく、アニキのような屈強で信頼の置ける漢にお願いするのではなかろうか。


「ミノル、シンパイナイ。シマパン、イイニホヒ」


 僕が当て所もなく思考をさまよわせている横で、アマデウスは何を思っているのか、そんな破廉恥極まりないことを言い続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る