第3話

「ど、どうぞ。み、ミルクティーと、このパンもよかったら」


「わあっ、美味しそう! ありがとうございますっ」


 トレーに二人分の紅茶とパンを乗せて僕が居間に戻ると、テーブルで席に着く白峰さんは丸い瞳をキラキラと輝かせて言った。

 今日の白峰さんは膝下丈の白いワンピースを着ており、先日見た制服姿とはひと味違った上品な感じである。

 お構いなくと白峰さんは言ったけど、僕は何もしないでいると緊張感が増しそうだと判断して、緩衝材の代わりとして軽い食事を用意することにしたのである。


「……ご、ごめんなさい、突然押し掛けてきたのに、図々しいですよね」


 白峰さんはすぐに興奮を収め、慌てて恥ずかしそうに俯いた。

 何と可愛らしい。これがアイドルの力ってやつだろうか。

 同じことをあの全裸おっさんがしでかしたなら、僕は「帰れ」と言って、その上で塩でもまいているかもしれない。


「いえいえ! これは僕が好きでやっていることですから、どうぞお気になさらずに召し上がってください」


 僕が言うと、白峰さんは頬を真っ赤に染めて、躊躇いがちにこくりと頷いた。

 じっとりとした夏の暑さを忘れる爽快な光景に、僕は感動を禁じ得ない。

 まるで新婚夫婦の初々しい朝みたいだ。もう二時だけど。

 不埒な妄想と抱きつつ食事を終えると、僕たちの間に流れる「知らない者同士の新鮮な緊張感」を敏感に察知したのか、白峰さんは口を開いた。


「……ところで、今日はどなたもおられないんですか?」


「そうですね。両親は大概、休日はデートに出掛けてますね」


 つまり現在、我が家には僕と白峰さんの他には誰もいない。

 二階の僕の部屋にいるアマデウスには、ここで大人しくしていろと厳重に言い含めておいた。物音もしないので、今のところは約束を守ってくれているらしい。


「この間の猫ちゃんも一緒にお出かけなんですか?」


「そっ、その節は色々と申し訳ないことを……アマデウスにはよおく言い聞かせておきましたから」


 僕は誠意を尽くして頭を下げた。

 初めて白峰さんと会った日、アマデウスは彼女のスカートの中に顔を突っ込んだのだ。

 もちろん、後で猛烈に説教をしたけど、おっさんがきちんと理解しているかはわからない。


「だっ、大丈夫です! それより、やっぱりアマデウスって言う名前なんですか、あの猫ちゃん? もしかして吉野くんもオカルト好き――ひゃあっ!」


 突然、白峰さんが悲鳴を上げる。


「ど、どうしたの白峰さんっ?」


「今、テーブルの下に何かもそもそっと生温かい感触が……」


 ピンときた僕は、すぐさまテーブルの下に潜り込む。そこにいたのは――


「アマデウスっ! お前、部屋で大人しくしてろってあれほど……」


 僕は全裸おっさんの首根っこを捕まえ、テーブルの下から引きずり出そうとした。そのとき、見てはいけないものを視界に入れ、思わず言葉に詰まってしまった。

 白峰さんの白い太股と白いワンピーススカートの隙間にできた三角地帯から、白い下着が見えた。


「か、神の領域……」


 無意識に口走ったのは、そんな白さたちに囲まれたせいだろう。

 僕は今日、この日、この瞬間の映像を、一生忘れはしない。

 夢では彼女のおっぱいにむしゃぶりついたけど、比じゃないくらいに僕は今、猛烈に感動している。


「…………吉野、くん?」


「い、いえっ、な、なんでもありませ――」


 ドゴォッッ! と物凄い音を立てた原因は、僕の後頭部とテーブルが激突したからである。

 神の領域に、凡人が足を踏み入れたことの罰というなら、これくらいは安いものだ。頭の強打でこの光景を目にすることが可能なら、僕はいくらでもこの身を捧げよう。


「うう……いてて……」


 とはいえ、痛いものは痛い。意図せず、口からうめき声が漏れてしまう。


「だ、大丈夫ですか? すごい音がしましたけど……」


「これくらいなんてことはありません。僕は石頭ですからね、ハハハ」


 白峰さんがテーブルの下の様子を伺う気配がしたので、僕はアマデウスばりに素早い動きで、颯爽と席に戻り紳士ぶった笑い声を居間に響かせた。

 心配そうに白峰さんが視線をこちらに向けてくる。

 理由を説明するわけにもいかないので、ここは強引にごまかすしかない。


「ミノル、イイニホヒ。オレ、タベタイ」


 アマデウスこと全裸おっさんが、テーブルの下から僕の股ぐらを通ってにゅっと顔を出す。

 第三者からこの光景を見たなら、飼い主に甘えてくる可愛らしい白猫に映るんだろう。

 でも僕には、全裸のおっさんが自分に迫ってくるようにしか見えないので、とても気分が悪い。

 アマデウスと二人きりなら、頬に平手でも打ちたいところだけど、今は白峰さんもいることだし、それはあまり得策でないように思う。


「コノニホヒ、タブン、パン、ミルクティー。オレモ、タベタイ」


 随分と食い意地の張ったヤツだ。匂いを嗅ぎ付けて階下まで降りてくるとは。


「……お前、腹が空いているのか?」


「オレ、ミルクパンティー、タベタイ」


「その区切りだと、意味が違って聞こえるからやめろ」


 いや、むしろ僕の理解が間違っていたのだろうか。

 どこかから、大量に女性用下着を持ち帰ってきたくらいだ。さもありなん。


「あの、吉野くんて、猫ちゃんと会話ができるんですか?」


 しまった! 傍から見れば猫と話すイタい飼い主にしか映らない。

 うっかり彼女の前で、いつものようにアマデウスに言葉を投げかけてしまったことに、遅蒔きながら今気が付いた。


「いやあ、なんと言いますか、こんなことを言っているんじゃないかなあって……」


 我ながらかなり無理がある言い訳だ。しかし動揺が僕の脳稼働率を大幅に下げているため、代替案も浮かばない。


「ふふふ、良いなあ。私も猫ちゃん――アマデウスちゃんと会話してみたいです」


「……えっ?」


 しかし、その無理ある言い訳が功を奏したのか、白峰さんからは侮蔑の色が窺えない。

 それどころか、彼女は口元を綻ばせて、自然な笑顔を無防備に晒していた。

 アマデウスのおかげ、と感謝すべきか? いや、これは怪我の功名ってやつだろう。

 当の本人、未だ僕の股ぐらから移動していない全裸おっさんは「パンティーパンティーミルクミルク」と連呼している。


「ちなみに、さっきはどんなことを言っていたんですか?」


 そう尋ねてくる白峰さんの表情は、テレビや雑誌で見たような大人びたものではなく、十六歳という年齢相応の幼さを感じさせる。

 あくまで僕の冗談に乗っかる体をとっているというより、素直に信じてくれているようだ。

 夢見る少女の淡い幻想を崩してはならないと、僕は彼女の期待を裏切らないよう、「このおっさんは人間ではなく猫なのだ」と自分に言い聞かせた。……まあ、僕からしたら、全部本当のことなんだけど。


「ええと、ミルクパンティ……じゃなくて、ミルクティーとパンを寄越せって」


 全裸おっさんがあまりにしつこく「ミルクパンティー」と何度も言うものだから、つい、影響を受けてそのまま口にしてしまうところだった。実際、ほとんど言ってしまったも同然だった。

 白峰さんはワンピース越しに自分の下着を確認するように、視線をそちらに向けていた。

 ややあってから、彼女ははっとして、顔を赤くした。


「いっ、いえっ、これはそのっ……! な、なんでもないです……」


 気まずい沈黙が、居間に流れる。


「そ、それにしても、白峰さんから突然メールをいただいたので驚きましたよ。な、何かあったのかなあって色々考えちゃって」


 静寂を払拭するために、僕は今日の本題について触れた。

 白峰さんからはまだ何の理由も聞いていない。もしも特別な理由なく会いたいと思ってくれたのなら素晴らしい。

 それに、相談事があって来た場合、彼女の方からその話題を振ってくるだろう。そう思って、意図的に来訪の理由を尋ねなかったのである。


「実は……ご相談というか……お願いがありまして……」


 白峰さんは俯き、おずおずと切り出した。


「は、はい。僕でよければ」


「その、つい最近のことですが、わたしの家に泥棒が入っているみたいなんです」


 随分と物騒な話だ。一般人の家をターゲットにしていても充分に怖い話だけど、白峰さんのお宅でその痕跡が見つかったとなると、それに新たな要素も加わってくる。


「ちなみに、何を盗られたのか教えてもらえますか」


 この質問の意図するところは、つまり、犯人がアイドル白峰さんのお宅と知っての狼藉なのか否かを振り分けることである。

 後者であったら、言葉は悪いけど、さほど怖がることもない。大勢の標的のうちで、たまたま当選してしまっただけだからだ。

 しかし仮に前者の場合は、より一層の警戒が必要だろう。アイドル白峰夢之というブランドを追い求めるストーカーの仕業かもしれない。


「……たぎ、です」


「すいません、もう一度……」


 よく聞こえなかった。僕が白峰さんを目の前にしているからか、それともアマデウスの言った「ミルクパンティー」という単語の余韻を感じているせいか、下着、と聞こえたような……。たぶん、気のせいだろうけど。


「下着……です」


 今度ははっきりと聞き取ることができた。

 盗まれた物が下着……。背中に汗が一筋流れていくのを感じた。意識が自然と二階にいく。

 さっき見た押入の中身、あれってもしかして全部、アマデウスが白峰さんのお宅から盗んできたものか?

 早合点は禁物だけど、あの全裸おっさんこそが、今のところ考えられる容疑者の最有力候補だろう。というかそれ以外に犯人を見つけろって方が難しい。


「念のために聞きますけど、なくした、ではなく、盗まれたとどうしてわかったんですか?」


 本当はこの場で白峰さんに「犯人はコイツです」と言いたいけど、その場合は彼女に証拠を見せなくてはならない。つまり、僕の押入にあるブツを見せるということだ。そんなことをしたら社会的に抹殺されてしまうだけでなく、せっかく仲良くなりかけている白峰さんから、軽蔑の視線をもらうはめになる。それだけは避けなくてはならない。

 取りあえず今は容疑者アマデウスのことは伏せておこう。いたずらに白峰さんを怖がらせでもしたら、申し訳が立たない。と、僕は自分に言い訳をした。


「わたし、普段から身の回りの物をきちんと整理整頓しているんです。他の物ならどこかでなくしたということもないではないですけど、その……」


 白峰さんは顔を真っ赤にしながらも、僕の質問に対して真摯に答えてくれた。

 言葉尻を濁したのは、下着を外で脱ぎ着することはないからどこかに落とすのは考えにくい、ということだろう。もしも仕事等で着替えるにしても、その時点で気が付くはずだ。


「……それで、できれば吉野くんに調べてほしいと思いまして」


「あの、差し支えなければ教えてほしいんですけど、どうしてそれを僕なんかに? 警察とか、家族とか、友人とか、あるいは事務所とか、相談相手は他にもいるんじゃないですか?」


 僕が尋ねると、白峰さんはちょっと考えてから、おもむろに口を開いた。


「事務所には相談しましたけど、変なイメージがつくからと、警察に言うのも止められました。家族には心配かけたくないですし、それに――」


 白峰さんはそれまで俯いていた顔を上げて、まっすぐに僕を見て言った。


「……わたし、友達がいないんです」


 彼女は笑っていた。でも、少しも楽しそうじゃなかった。

 仕事用の笑顔でもなく、さきほど僕に見せた無邪気な笑顔とも違う、寂しげな笑み。

 ここで彼女に何か言わなくては、ファンの名が、いや、男が廃る。

 次第に高鳴る鼓動を感じながら、僕は意を決して口を開き――


「僕がいる。白峰さんには、僕という友達がいるじゃないか」


 とは言えなかった。

 唇が、顎が、頬が、緊張で僕の命令を受け付けない。

 アマデウスがうちにやってきた初日、母さんとのやりとりの中で、準備が必要だと学んだはずなのに。

 肝心な場面で勇気が出ないのは、僕に自信がないからだろうか。


「……あの、その、ぼ、僕でよければ……と、と、とも、とと……」


 しかしこのまま弱い自分でいるわけにはいかないと、僕はありったけの勇気を振り絞って、緊張にあらがう。

 それにしても、「友達になろう」って口にするのがこんなに難易度の高い行為だったなんて知らなかった。これじゃ異性に告白なんて先が思いやられる。


「ととっ、ともっ、だ……てぃ……」


 いかん、引きつけを起こしかけている。しかも、変な発音になってしまった。


「吉野、くん……? 大丈夫ですか……?」


「とっ、トム・ダーティですよ、ははは、知りませんか? トムは雄猫、ダーティは汚れた、つまり汚れた雄猫の如く、靴の踵をすり減らして調査を行うという意味のスラングです」


「とむ……だあてぃ……すいません、わたし、聞いたことがなくて……」


 大嘘である。何を言っているんだ、僕は。

 ただ一言「友達になろう」という単語が言えないばかりか、へんてこな言葉に変換して逃げを打ってしまう始末。

 白峰さんは小首を傾げ、僕の言葉の真意を計りかねているようだ。


「と、とにかく、僕がなんとかしてみせます。白峰さんの青い縞パンを盗んだ不届き千万な輩を見つけて、正義の鉄槌を下してやりましょう!」


「しまっ……わっ、わたし、下着の色や柄まで言いましたっけ?」


 げええ、しまった! つい、犯人しか知り得ない情報を公開してしまった。

 正確には僕は犯人でもなんでもないんだけど、今のはまずい。


「言って……ましたね、たしかに。それに、トム・ダーティなら、たとえ聞いていない情報でも、推察することくらいは朝飯前ですから」


「す、すごいんですね……その、とむだあてぃさんって」


 これももちろん、大嘘。白峰さん、あなたは正しい。間違っているのは、僕の頭です。

 僕は焦るあまり、ショベルカーで墓穴をザクザクと掘り進めている。


「まあ、白峰さんは大船に乗った気分で、調査結果を待っていてください。下着ドロなんて、このトム・ダーティにかかれば、もう捕まえたも同然です」


 一度嘘を吐くと、それをごまかすために、さらに嘘を上塗りするって本当だったんだ。


「はいっ! よろしくお願いしますっ」


 心底嬉しそうな、ともすれば泣き顔に見える笑顔で、白峰さんは言った。

 僕にはもう、引き下がる選択肢はない。

 白峰さんを見ながら、僕はアマデウスをどうとっちめたものかを思案していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る