第五章

第1話

 トム・ダーティは僕の考えた空想の産物だ。

 白峰さんと気まずい雰囲気になったとき、しどろもどろになって口にしたのがこの言葉。

 場を取り繕う言い訳ですらなく、ただ「友達」と言うのを間違えただけ。

 設定だって、本当はない。白峰さんが好意的に解釈してくれたおかげで、イタコのような存在として彼女に認識されたわけだけど、本来は意味などない。

 その実体のないトム・ダーティを、どうしてえぐっちゃんが知っているのだろう。

 この恥ずかしい存在を人に話すわけもなく、知っているのはあの場にいた白峰さんと僕だけ。その後、お宮さんとアニキも《ご近所オカルト》で目にして知っただろうけど、それまでは二人だけしか知り得ないことだった。


「き、きみがトム・ダーティ……? だ、だってそれは僕が……」


「気が付かないの? 《ご近所オカルト》にも書いてあったでしょ」


「そういや、そんな名前、マッキーナから見せてもらった記事に書いてあったな」


《幸運の男神さま》に関する最新の記事。

 その本文を書いたとされるのが、トム・ダーティ(偽者)である。


「あれ、うちのハンドル」


「それだと説明になってないよ。だってそもそも名前自体を知らなくちゃ、ハンドルとして使うことだってできないでしょ。もしかして、白峰さんから話を聞いたの?」


 白峰さんがえぐっちゃんと知り合いであることは充分に考えられる。何せ、マネージャーの妹だ。

 ならばコンタクトをとる間柄であっても不思議はない。

 何かしらの事情で、白峰さんがえぐっちゃんにトム・ダーティの話をしていたなら、話の筋は通る。というかそれしか考えられない。

 しかしえぐっちゃんはぶんぶんと、大げさに首を横に振った。


「鈍いなあ……。ぜんぜん、違う。そもそもうち、白峰と知り合いでもないし」


「じゃあ、どうして?」


「アンタんとこ、猫飼ってるでしょ。白いやつ。これでも気が付かない?」


「まさか……見ていた、のか? あるいは聞いていた、とか」


「正解、盗聴よ。白峰とデートの最中に仕掛けたの。本当は盗聴がメインじゃなくて、デート中のアンタを困らせてやろうって。だからリスクもあったけど顔を晒した。てっきり気が付いているものと思っていたけど」


「んなもん、気が付くわけないだろっ!」


「普通、気が付くでしょ。アンタ、いつも脳天気に暮らしているんじゃないの? セキュリティーって言葉、知ってる?」


「僕の家に石を投げ込んだのも……」


「そ、うちだよ。くくく、ラブレターはちゃんと読んでくれた?」


 悪びれもせず、次々と己の正体を晒すえぐっちゃん。

 なぞなぞの種明かしがよほど楽しいのか、まるで善悪の区別がつかない子供のように笑っている。


「どうしてそんなことを……いったい、何のために?」


 僕にそんなことをしてどんなメリットがあるのだろう。


「アンタに、うちと同じ苦悩を味わってもらうために決まってる」


「きみと……? 言っている意味が……」


 ますますわからない。理解不能だ。

 彼女には揺るがない理由があるように見えるけど……。僕はえぐっちゃんの指摘通り、かなり勘の鈍い方なのかもしれない。気が付かぬうちに人を怒らせていた可能性も大いにある。


「白峰のこと、好きなんでしょ。だったら、あの画像を見て、なんとも思わないの?」


 黒いバンに白峰さんが連れ込まれている、あの画像。

 あの、と表現するあたり、彼女はそれで僕にもわかると思っているようだ。


「『ああ、憧れのアイドルはやっぱりマネージャーと交際していたのか』とか、がっかりして落ち込まないの?」


「…………え?」


「だ・か・らっ! アンタは意中の人が他の誰かと仲良くしているのを見せつけられて、悔しくないのかって聞いてんのっ!」


「……ええと、それはつまり……きみがあの写真を撮った、と?」


「そこから説明必要? ったく……疲れるわ……」


 これ見よがしな溜め息を盛大に吐いて、えぐっちゃんは片手でこめかみをもむ。


「ってことは……きみが白峰さんを誘拐した犯人なのか?」


「はあっ? 誘拐なんかできるわけないでしょっ! いくら女の子だからって人間一人をさらうのがどんなに難しいのか、アンタのその役立たずな脳で考えなさいっ!」


「じゃあ、あの画像はどういう……」


「そんなもん、白峰とうちのお兄ちゃんが恋人らしく見えるように撮ったに決まってんでしょうがっ!」


 未だ混乱したまま、僕は頭を整理する。

 えぐっちゃんは誘拐などしていないという。

 つまりあの画像、僕は『アイドル白峰夢乃さんが黒い車で誘拐されている』と思っていたけど、えぐっちゃんとしては『アイドル白峰に恋人発覚のスキャンダル』という意味で、《ご近所オカルト》に掲載したということか?


「ということは、白峰さんは無事……?」


「無事も何も、最初から白峰にはなんもしちゃいない。うちはただ、アンタに自覚してもらおうと思っただけ。大切な人を奪われる苦悩を体験してもらおうとした。それだけ。どこをどう見たら、あの画像が誘拐に見えるっての」


 相変わらずによくわからない部分もあるけど、今はどうでもいい。

 今、もっとも大切なのは、白峰さんの安否である。


「じゃあ、白峰さんはどこにいるんだ? 家にも帰ってないみたいだし、連絡もつかない。誘拐されたんじゃないかって疑うのは当然だろ?」


「お兄ちゃんの車ん中。……なんか急に泊まりの仕事入ったみたいで、慌てて出かけていった。あの画像はそのときのもの」


 僕は聞くや否や、急いで黒いバンに近寄って――。

 ちょっと待てよ。この車に乗っていたなら、白峰さんはさっきの会話をずっと聞いていた?

 僕、何を言っていたんだっけ。何かとんでもないことを口にしていたような……。

 いや、今はそれを気にしている場合じゃない。

 僕はおそるおそる窓ガラス越しに車内を凝視する。


「し、白峰さん……!」


 よかった。無事だ。ガラス越しで見にくいけど、それでも白峰さんの姿をはっきりととらえることができた。

 バンの後部座席に横たわり、胸を規則正しく上下させている様子が伺える。


「寝ている、のかな」


「さあ? 連日の泊まり仕事のはずだから、きっと疲れているんじゃないの」


「……でも、仕事ならどうして連絡がとれなかったんだろう……」


 僕と話したくなかったのかな……。


「おおっ! ここで通じた? やっと通じたのっ? そうでしょそうでしょ、やっぱり連絡つかないと不安になる? うちの気持ち、ようやくわかった?」


 なぜだかとても嬉しそうに、えぐっちゃんは声を上げた。


「ま、まあ……わかった、ような……」


 正直わかってはいなかった。でも、話の腰を折ると、またややこしくなりそうなので、僕は適当に頷いておくことにした。


「それに免じて教えてあげる。今日、その泊まり仕事明けらしくてさ。白峰が置き忘れたスマホ、お兄ちゃんが預かっていたままでだったから、それを取りにうちの家を経由したってわけ」


「それで連絡がつかなかったのか……」


 よかった……僕と話したくないわけじゃなかったのか。

 白峰さんの無事が確認できってほっとしつつ、その一方で新たな疑問が浮上する。

 えぐっちゃんの今の言動から推測すると、どうやら「白峰さん誘拐事件」は僕の勘違いによるものであるらしい。

 えぐっちゃんの言ったことを信じるなら、僕の家に脅迫文を送りつけたのも、白峰さんが誘拐されたみたいに見えた画像をアップしたのも、ある目的があってやったことになる。


「……きみの大切な人って、いったい誰なの?」


 彼女の目的。それは僕に「大切な人を奪われた気持ち」を味わってもらうため。

 ということは、えぐっちゃんにとっての大切な人を、僕は奪ってしまった……?

 僕の問いかけに、えぐっちゃんは腕を組んでしばし逡巡した後、おもむろに口を開いた。


「……マキナ先輩」


「マキナって…………え、まさか、お宮さん?」


 普段そう呼んでいないせいか、あるいは予想もしていなかったせいか、言葉が意味をもって僕に溶け込むまで少々時間を食った。


「そうよ。悪い? うちみたいな陰気な引きこもりが、マキナ先輩のように明るい人を好きになっちゃいけないっての?」


「い、いや、別に、そういうことでは……」


 手に持っていたクロスボウを乱暴に放り投げ、ツカツカと僕に詰め寄るえぐっちゃん。

 僕はその剣幕にたじろぎ、思わず後ずさりする。

 それにしても……えぐっちゃんて、引きこもりだったのか。道理で……肌の白さに納得がいった。妙に親近感がわくなあと感じていたのは、そういうことだったのだ。


「じゃあ何? 女の子が女の子を好きになっちゃダメって言いたいわけ? そこの筋肉バカの男同士の恋も、アンタは軽蔑して見ていたってこと?」


「そ、そういうことじゃなくて、その、恋は人それぞれだし……」


 チラリと横目でアニキの様子を見る。

 えぐっちゃんの物言いに気を悪くしていないかな、と心配になった。


「どうした、実? オレのケツなら問題ないぞ」


「い、いや、なんでもないよ」


「実の優しさ、ちゃんとオレに届いているぜ。言葉はなくとも、その視線で充分さ」


 そう言って、ウィンクするアニキ。

 尻はともかく(怪我の具合は心配だけど)、考えてみればさっき、アニキは僕との関係を「漢と漢の関係」と言っていたので、恋愛とは少し別のものなのかもしれない。いや、そうでなくては困る。主に僕が。


「……チッ、見せつけてくれちゃって。こちとら、オカルトサイトをでっち上げてまで、マキナ先輩に振り向いてもらおうと努力しているってのに……」


 爪を噛んで、ぶつぶつとえぐっちゃんは独り言のように呟く。

 別に僕は、アニキとの仲を見せつけているつもりはないんだけど……。

 ……って、ちょっと今、何かとんでもないことを言わなかったか?


「でっち上げて? もしかして、きみが《ご近所オカルト》の管理人?」


 僕が指摘すると、えぐっちゃんはしまったというような顔をした。


「……そうよ、あれは全部、うちの作り話。神さまを見たって感想も含めてね」


 俯きながら、観念したようにえぐっちゃんは白状した。


「じゃあ、最新の……《幸運の男神さま》の噂も?」


 そう尋ねると、視線を地面に落としたまま、えぐっちゃんはややためらいながらも頷いた。


「神さまなんて……現実にいるわけないじゃない」


 苦しげにそう呟くと、それきりえぐっちゃんは黙りこくってしまった。

 どうしてそんなことをしたのだろう。

 もしお宮さんと仲良くなりたければ、そのような回りくどいことなどせず、直に触れ合う方が何かと楽だし、距離も縮まりやすいはずだ。……僕みたいなコミュ力の低い人間が言うことじゃないけど。

 いやそもそも、えぐっちゃんの抱いている話は、お宮さんから聞いた話と大きく違う。

 お宮さんはえぐっちゃんのことを大切に思っている。今連絡をとっていないのは、えぐっちゃんが受験だからって理由だったはずだ。

 僕があの画像を「白峰さんが誘拐された!」と勘違いしたように、えぐっちゃんも何か、大きな誤解をしている気がする。

 えぐっちゃんには、引きこもり特有の話したがりな性分があるようなので、直接尋ねれば答えてくれるかもしれない。事実、さっきから彼女の一人暴露大会みたいなものだ。長いこと身内以外の誰かとしゃべっていないからか、話したい欲求が強いようだ。

 その思いつきを言葉にすべく、僕が口を開きかけたそのとき、背後でガサッと物音がした


「……それ本当なの、えぐっちゃん?」


 振り返る。駐車場の端にお宮さんの姿があった。

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