第3話

 黒いバンから降りてきたのは、背広姿の痩せぎす男だった。


「……きみか。しつこいね」


 丁寧にバンのドアを閉めると、痩せぎす男はこれ見よがしな溜め息を吐き、侮蔑のこもった視線を僕に投げかけてくる。

 五メートルほどの距離を隔て、僕は枝楠と対峙している。

 いつの間にか空は藍色に染まっており、相手の表情もはっきりとは見えないものの、向こうがこちらに敵意を抱いていることは充分に感じられた。


「枝楠……さん。白峰さんをどうするつもりですか」


「どうする、だと? 答えるつもりはないが、それを知って、きみこそどうしたいんだ?」


 決して声を張り上げてはいない。けれど、枝楠の声は、僕の全身をすくませるのに充分な威圧感があった。


「彼女を守るために、僕は今、ここに立っています」


 ともすれば以前のように、相手の迫力に気圧されて及び腰になってしまいそうな自分を、僕は白峰さんを助けたい一心で奮い立たせる。


「それは結構な心構えだ。だが、白峰を守るのにきみの手を借りるつもりなど毛頭ない。吉野くん、きみは分を弁えるという言葉を知らないのか?」


 枝楠マネージャーは、あえて僕の名を強調するように言った。

 きみの素性は把握している。何かあればこちらも相応の態度をとる。

 そう脅しをかけてきているように、僕は感じた。


「……友達を心配することに、資格が必要ですか」


「ふん。友達、ね。それはきみだけが思っている関係じゃないのか? まるでストーカーのようだな」


「そっ、それはあなたの方じゃないんですか。知っているんですよ、あなたが白峰さんを追いかけて家の近くまで行っていたこと」


 僕はストーカーにストーカー呼ばわりされたことに動揺して、切り札としてとっておいた情報を、一つ開示した。

 できるなら暴力に訴えることはしたくない。心情的にも物理的にも。

 もしも拳を交えるとなった場合、僕に勝ち目は薄い。

 一対一ならまだしも、この駐車場のどこかに、少なくとも向こうの仲間が一人はいるはずだ。さきほどクロスボウで矢を飛ばしてきたあの不埒者が、今も物陰に隠れて僕の様子を伺っているに違いない。

 複数相手となると、おいそれと感情まかせに殴りかかるわけにもいかない。

 今、白峰さんを助けに行くことができるのは僕だけだ。

 その僕がここで倒されてしまったら、彼女の安全がより遠ざかってしまう。それは避けなくてはいけない。

 僕の目的は白峰さんの安全を確保することであって、痩せぎす男を倒すことじゃない。


「ストーカー? ボクが? ククク……これは面白い」


 枝楠マネージャーは、口の端を歪めてくつくつと笑い声を漏らす。


「お、面白いだって?」


 面食らった。怒るかと思っていたけど、まさか笑い出すとは。

 背筋に冷たいものが走る感覚がした。


「だってそうじゃないか。ボクは白峰のマネージャーだ。彼女の帰り道に起こり得る危険を排除すべく、見守るのも仕事の内。何の問題もない行動だろう。しかしきみのは違う。白峰を追うだけに留まらず、マネージャーの住所まで突き止めるなんて、正気の沙汰じゃない。これをストーカーと呼ばすして、何をそう呼ぶというんだ」


「う、そ、それは……」


 枝楠マネージャーを追いかけたのは事実だ。だからそれを指摘されてしまっては、言葉に詰まってしまう。正論過ぎてぐうの音も出ない。


「で、でも、あくまで僕は友人として、白峰さんに近付く怪しい人の素性を調べようと」


「それこそストーカーの常套句じゃないか? きみはもっと自分の立場を理解すべきだ。仮にきみが本当に白峰の友人だったとしても、そこまでするのは異常だと思うが」


「ぐっ……」


「通報しないだけ、ボクの優しさに気が付いてほしいものだよ、まったく」


 枝楠にはマネージャーとして、白峰さんの行動を把握するに足る理由がある。

 けれど僕はただの友人。白峰さんから下着ドロについて相談されたことはあっても、だからといって僕自身のとった行動を正当化することはできない。

 こんなとき、嘘が顔に出ない特技でもあれば、と思う。

 僕はどうやら思っていることが顔に表れる性質らしい。アマデウスからも指摘を受けたけど、自分でも薄々感じていることではあった。

 嘘吐きになんかなりたくはないけど、今だけはそう願う。


「この際はっきり伝えた方がいいようだ。……いや、以前にも『近付くな』と言ったから、きみは単純に物わかりが悪いのかな」


 正義は我にあり、と言わんばかりに自信満々な枝楠。

 彼は背広の胸ポケットに手を入れて、何か黒光りする物体を取り出した。


「け、拳銃……っ?」


 本物であるのかどうか、詳しくはわからない。しかし、枝楠に攻撃の意志があるのははっきりとわかった。

 先ほど、彼の仲間(と思しき人物)がクロスボウで矢を打ってきたことから、枝楠が構えている銃にも、人を大怪我させるだけの威力があるのは容易に想像できた。

 銃口をゆっくりとこちらに向け、真顔に戻った枝楠は、


「吉野実、今からきみを排除する」


 と、温度を感じさせない冷たい声を駐車場に響かせる。

 引き金にかかった人差し指。

 打たせまいと相手に飛びかかるには、離れて過ぎている。

 逃げようにも、身を隠すための塀や木までは遠い。周囲に止まっている車もない。

 その場に屈んだところで、銃の餌食になるのは目に見えていた。

 ――どうする?

 こうして銃を構えているということは、こちらの説得に応じる気がないのだろう。

 話し合いで解決できないのなら、腕力で立ち向かうしかない。しかし……肝心要のその腕力には自信がない。せっかくアニキに鍛えてもらったのに、それを発揮する勇気が出ない。くそっ、これじゃこの前とまったく同じじゃないかっ!


「えっ、枝楠っ! ぼっ、僕は、そんなものを向けられたからって、決して屈するわけにはいかないっ!」


 僕は弱気を振り払うように、大きな声を出した。同じ失敗は二度としない。するものか。


「だ、だって、僕はっ、友達を助けるために、ここに来たんだっ!」


 どもりながらも、僕は勇気を振り絞ってなおも叫ぶ。


「ほう……。きみは完全にイカレてるな。勝手に白峰の友人だと思い込むなんて」


 眉間に皺を寄せ、銃口をこちらに向けたまま枝楠が言葉を継ごうとした、そのとき。


「よく言った、実」


 背後から、足音とともに、威勢のいい低音ボイスが聞こえてくる。

 銃を向けられている状況にも関わらず、僕は無防備に振り返った。

 そこにいたのは、益荒男と呼ぶに相応しい人物だ。

 そそり立つポンパドールと、サイドに撫でつけたリーゼント。

 雄々しく、気高く、その男はこちらに悠然と近付いてくる。


「遅れてすまん! だがおかげで実の漢っぷりを見ることができたぜ!」


「あっ、アニキッ! …………って、えっ? そ、その格好……」


 僕が驚いたのは、アニキがその肉体の九割以上を晒していたからだ。

 ビキニパンツ以外、アニキの体を覆うものは何も存在していない。

 いくら夏だからといっても、これはやりすぎではないだろうか……。ここまであの格好で歩いてきたのかな。


「ん、ああ、これか。こんな礼儀知らずな格好ですまん」


 アッ――!という間に……じゃなく、あっという間に僕の隣に来たアニキは、頭を下げてポンパドールを揺らした。


「い、いや、アニキがいいならそれでいいんだけど……」


「本当はこのビキニを脱いで、きちんとした正装をするつもりだったんだが……」


 ん、ビキニを脱いで……? てことは、アニキの言う正装ってまさか……?

 アニキの歯切れ悪い物言いは、服を着てこなかったことに対してじゃなくて、全裸じゃないことだからなの?


「は、裸って、正装、なんだね……」


「ああ。万国共通のドレスコードだろう。そんな世界の常識ってやつを守れなかったオレを許してくれ。どうやら日本は、裸で外を闊歩してはならない国らしいぜ」


 どこの世界の常識かは知らないし、正直知りたくもないっていうか……。


「……も、もしかしてアニキが遅くなった理由って……」


「さっき警察に止められてな」


 お宮さんにも同じことを思ったけど、案外、自分が思っている常識というのは、世間のものと一致しないのかもしれない。

 少なくとも僕にはクロスボウが誰でも持っているとは思えないし、裸がドレスコードなんて初めて聞いた。

 それはともかく、アニキが真剣なのは、表情やその筋肉のキレからも窺える。


「……なあ、枝楠。全裸は正装、そうだよな」


 アニキは何を思ったのか、あろうことかその確認を敵である枝楠にまでしていた。


「ちょ、アニキ……?」


 そういえば、アニキが到着してから、枝楠に動きはない。

 僕が単に、そちらに注意を向けていなかっただけということもあるけど、どこかおかしな感じである。銃を打てる隙があったはずなのに。


「お……お……おひ……ひい……」


 全身を震わせながら、奇妙な言葉を発する枝楠。

 てっきり、冷たくあしらうだろうと思っていたから、この反応は予想外だ。


「久しぶりだな、枝楠。一ヶ月ぶりくらいか?」


 驚いてアニキを見る。久しぶり? 今、久しぶりって言った?


「……この間言おうと思っていたんだが、オレと枝楠は知り合いなんだ。前にした『ジムで知り合った奴からつけ回されている』って話、覚えてるか?」


「う、うん……覚えてるけど……」


「それが枝楠だ。アイツもオレも、筋トレに魅入られた、同じアナのムジナってわけさ」


 僕は改めて枝楠を見た。相変わらず小刻みに震えている。

 アニキが彼にナニを……じゃなく、何をしたのかはわからない。

 でも、よほどの恐怖があったことはたしかだろう。『気合いを挿れてヤった』みたいなことをアニキが言っていたから、そのせいかもしれない。


「今日、実をここへ呼んだのは、マッキーナが見せてくれた画像に映っていた黒いバンに見覚えがあったからなんだ。最初はどこで見たのか思い出せなかったが……トレーニング帰りにここを通りかかって、それで思い出した。ああ、この車は枝楠のじゃないかってな」


「なるほど……」


「コイツも根が真面目な男だから、まさか誘拐なんて卑劣なことをしでかすようには思えなくてな……。つい、言いそびれちまった。すまん、実……うっ!」


 なぜだか、アニキが謝りながらうめき声を上げる。

 このタイミングでのそれは、なんだかお宮さんの喜びそうな行為を想像しなくもない。


「あ、アニキ……どうしたの?」


 しかし、そのうめき声がアニキの冗談でないことは、苦悩の表情から伺えた。


「……尻を矢で刺されたようだ」


 言いながら、アニキは矢の飛んできたと思われる方向に、にらみを効かせている。

 アニキのお尻を見てみると、本当に矢が刺さっていた。


「だっ、大丈夫?」


「ああ、心配するな。これくらい、なんてことはない」


「ふう……よかった……。でも、これって誰の仕業……あっ、え、枝楠!」


 アニキに大事がないとわかってほっとした途端にそう思った僕は、枝楠を見た。が……彼の意識は遠くにあるようで、手にしていた銃も地面に落として、呆然と立ち尽くしていた。どうやら枝楠の仕業ではないようだ。とするといったい誰が?


「おい、そこに隠れているんだろ? 出てきたらどうだ」


 矢を放った犯人に対して、アニキは落ち着いた調子で言った。

 普通なら声を荒げてもおかしくないのに、なぜだろう。


「さっきここを通ったときに、クロスボウを手にしていた少女を見かけた。おそらく、その子がやったんだろう。理由はわからんが」


 僕が抱いた疑問が伝わったのか、アニキは小声で言った。


「オレは女子供に手を出す趣味はない。安心してくれ」


 今度は犯人に向けて声を張るアニキ。

 女子供に手を……って、また違う意味に聞こえるな、これは。手を上げない、が正解ではないだろうか。

 僕がアニキの台詞を添削していると、前方にある塀の向こうから、女の子の声がした。


「ふんっ! お兄ちゃんを弄んだクセにっ!」


「お、お兄ちゃん……?」


 もちろんそれはアニキのことではないはずだ。当然、僕でもない。

 ということは、この場において該当する者は……枝楠マネージャーただ一人。


「も、もしかして……えぐっちゃん……?」


 僕がそのあだ名を口にしたそのとき、塀を飛び越える人影があった。


「軽々しくその名を呼ぶんじゃないっ! 汚らわしいっ!」


 僕らの前に登場したのは、眼鏡をかけた色白の少女だった。

 陰鬱で、日に当たってないような印象の白さ。腰まで伸びた漆黒の髪。

 整ってはいるものの、一見して小学生ではないかと思うほどの幼い顔立ち。

 どこかで見たことある顔だ。しかし顔見知りではない。


「そんなもので攻撃してくるとは、よほどオレに興味があるらしいな」


「うち、用があるのはアンタみたいな筋肉バカじゃなくて、そっちのひ弱い奴の方だから」


 眼鏡少女はそう言って、鋭い視線で僕を射抜く。

 この目、つい最近見たような……。

 と、そのとき、僕の脳がようやく検索を完了させた。


「あ、きみ、あのときの……」


「ふんっ! この顔を見て、やっと気が付いた? おっそっ!」


 思い出した。お宮さんに見せてもらった写メ。

 白峰さんと二人で訪れたペットショップ。そこで無遠慮に声を掛けてきた少女が、今目の前にいる。

 僕にクロスボウと、憎しみを込めた瞳を向けて。

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