第4話

「わあ……やっぱりかわいいなあ……」


 ふわふわもこもこの子猫を見て、相好を崩す白峰さん。

 僕は子猫ではなく、無邪気に笑う白峰さんに、思わず見とれてしまう。


「隣のスコティッシュもかわいいし、アメショーもいいなあ。ふふふっ、なんだか目移りしてしまいますね」


 白峰さんは胸の前で両手を握り、興奮気味に周囲に目をやっていた。

 ここは繁華街にあるペットショップ。

 さほど広くもない店内には、至るところにケージがあり、その中には小さな猫たちが思い思いの行動をとっている。

 猫たちに負けじと、店内はデートの最中と思しきカップルで賑わっており、ひどく居心地が悪い。平日の昼間だというのに、なんだこの有様は。……って別にいいんだけど。

 僕はちらりと横目で、制服姿の白峰さんを見て、一人頷いていた。


「うん、飼うならこういうかわいらしい猫がいいよね」


 アメリカンショートヘアもスコティッシュフォールドもたしかにかわいい。

 僕は取り立てて猫が好き、というわけじゃないけど、こうして目の前にしてみると、なるほど、魅力的な生き物だということはわかる。

 眠たそうにうっつらうっつらと舟を漕いでいる姿や、俊敏な動きで何かを追いかける動作、ケージに近付く人に向ける純真無垢なつぶらな瞳。

 そのどれもが抱きしめたくなるような魅力、いや魔力といって差し支えないほど、人を惹く力があるのは間違いない。

 ……うちにいる、アレとは違って。

 本当は、「白峰さんの方が――」と伝えたいけど、それを言う度胸も勇気も持ち合わせてはいない。ただしイケメンに限る、であり、僕のような一般人が口にして様になる台詞でないことは重々承知だ。


「……? 吉野くんちのアマデウスちゃんも、同じくらいかわいいじゃないですか。そんなこと言ったら、アマデウスちゃん、怒っちゃいますよ?」


「そ、そうだね、うん」


 心を読んだかのような白峰さんの指摘に、僕は慌てて頷く。

 といっても本心で同意はしていない。白峰さんには申し訳ないけど、アマデウスが猫でなく人間のおっさんに見える僕にとって、錯乱している精神状態でもなければ、あの全裸メタボに「かわいい」なんて形容詞を使うことは断じてできない。


「よろしいです」


 白峰さんは腰に手をあててえっへんと胸を張り、それからぷっと吹き出して白い歯をのぞかせる。


「あっ、向こうのケージの前、空きましたよ!」


 言うなり、白峰さんはててて、と、ここと反対側にあるケージに駆け寄っていった。

 彼女の背中を追って、僕もそちらに移動する。

 ふわりと揺れる白峰さんの柔らかな髪からこぼれる、ほのかに甘い匂いが鼻をくすぐる。

 ――正直、ドキドキしていた。

 今日、僕は白峰さんに誘われてここにいる。

 昨夜、あの枝楠マネージャーから「近付くな」と忠告を受けた後、白峰さんから連絡があった。明日(つまり今日)、一緒に猫ちゃん見に行きませんか、と。

 どうして僕をこの店に誘ってくれたのか、その理由はわからない。

 しかし理由はどうあれ、彼女のお誘いとあらば、僕に断る選択などあるはずもない。二つ返事でOKした。


「ほらっ、吉野くん! この子、吉野くんのことをずっと見てますよ!」


 白峰さんと肩がくっつき、鼓動が一層高まる。

 きらきらと輝く大きな瞳が、薄桃色のぷにぷにした唇が、僕の目の前わずか数十センチの距離にある。

 白峰さんは興奮して気が付いていないのかもしれないけど、これはかなり……なんというか、男性が目覚めるというか。

 昨日の今日で忠告を忘れたわけじゃないけど、こうして隣に白峰さんがいると、やはり僕も男なんだなと改めて自覚する。こんなかわいい女の子とつき合えたら、なんて。

 そんな不遜なうぬぼれを胸に抱きつつ、しかしその一方ではそれを留めるようなもう一人の冷静な自分もいる。

 こうして文字通り肩を並べているけれど、僕と白峰さんは住む世界が違う。

 僕はどこにでもいる一般市民。白峰さんは、まだ業界内で駆け出しとはいえ、歴としたアイドルである。

 だから、一ファンにすぎない僕が男女交際を望むなんて、分を弁えないことだという自覚も、たしかにある。妄想に留めておけばまだしも、それを実行に移すとしたら、あの投石犯と大差ないのかもしれない、と。

 しかし、それでも。

 そんなこと気にせずに、彼女をモノにしてしまえ。

 いやいや、仮にもファンならば、あくまで白峰さんの意志を尊重して、友達でいるべきだ。

 心の中、天使と悪魔のささやきに耳を傾けていると、ぽんぽん、と肩を優しく叩かれて、僕の意識は現実に戻った。


「――吉野くん、どうしました?」


「えっ、いや、あの……ちょっと考え事、というか……ははは」


 小首を傾げ、不思議そうな顔で僕を見つめる白峰さん。

 正直に応えるわけにもいかず、かといってうまい言い訳も思い浮かばずで、僕はただ曖昧に笑うことしかできない。


「……やっぱり、迷惑でしたか?」


 僕の乾いた笑みに、白峰さんは表情を曇らせる。……しまった。

 せっかく白峰さんが誘ってくれたのに、僕は楽しげな空気も出さず、自分一人で妄想に没頭してしまっていた。


「と、とんでもない! たっ、楽しくって、興奮しすぎてちょっとばかり桃源郷に意識が飛んだだけで」


「とうげんきょう……?」


「そ、そうそう。あちらの世界というか、その、パラレルワールド的な?」


 焦りからしどろもどろになって、いらんことばかりを口にしてしまう。

 僕が言葉を重ねる度、白峰さんの表情はどんどん翳りを帯びていく。


「……すみません、わたし、軽率でしたね。本当にごめんなさいっ!」


 白峰さんが突然大きな声を出したので驚いた。

 驚いたのは僕だけでなかったようで、周囲のカップルたちの視線もこちらに集まっている。


「あの……白峰さん?」


「吉野くんは猫好きかなあって思って、それで今日、このお店を選んだんですけど……考えてみれば吉野くんには、アマデウスちゃんがいたんですよね」


「はあ、まあ……」


 白峰さんの言いたいことがいまいちよく理解できず、僕はまた曖昧な返事で相づちを打った。


「にも関わらず、ペットショップにお連れするなんて……。意中の人がいる方に他のお相手を紹介するような、いけないことだと今気が付きました……」


「いえいえ、あいつは……アマデウスはそういう存在じゃなくて、その、そもそも僕が飼おうと思っていたわけではなく、勝手に住み着いただけのおっさ……猫だから」


 危うく、おっさん、と言い掛けてしまったけど、白峰さんはそれを気にする素振りも見せない。


「それでも、大切な家族には違いない、ですよね」


「……そう、なのかな」


 正直、あいつを家族と呼ぶのは抵抗がある。

 今や、うちにあの全裸おっさんがいても、何ら違和感を覚えなくなっているけど、それでも大切な存在と胸を張って言えるかというと……どうなんだろう。


「わたし、本当になんということを……そんなことにも気が付かずに、一人ではしゃいでしまって……」


 白峰さんは僕にというよりも、自分を責めるように、小さく呟く。

 たったそれだけのことで、そこまで落ち込むこともないと思うのは、僕がアマデウスを大切に思っていないせいだろうか。あるいは元々冷徹な人間なのかもしれない。

 いや僕のことはこの際どうでもいい。心配なのは白峰さんだ。

 今日の白峰さんは、なんだかいつもと違っていて、妙に元気がいい。

 最初は、大好きな猫を見ているからだと思っていたけど、どうもそれだけではないように感じる。

 白峰さんからお誘いを受けたのは初めてのこと。考えてみれば、それだけで充分にいつもと違う。

 こうして外で会うのだってそうだ。普段、うちに来るのは、彼女が芸能人という職に就いているからである。迂闊に人の多いところへと出向けば、よからぬ考えを持った輩に遭遇する危険もあるし、ファンが彼女を発見すれば後をつけたりすることだって――。


「あのう、もしかして……《巫女》の白峰夢乃さん、ですか?」


 そのとき、背後から声がして、振り返る。声をかけてきたのは、眼鏡をかけた色白の少女だった。

 白峰さんのような美白とは違って、なんだか陰鬱な感じの、つまり日に当たってないような印象の白さ。

 それをことさら強調しているのは、腰まで伸びた漆黒の髪の毛だ。髪の毛の黒との対比で、寄り一層、肌の白さが際だっている。

 少女、と思ったのは、僕よりも頭ひとつ分も背が低いからだった。

 正確な年齢はもちろんわからない。おそらく、小学生か、中学生でも一年生くらいだろうと思われた。


「は、はい……そうです」


「やっぱりっ! 今日はプライベートなんですか?」


 色白眼鏡の少女は、病弱そうな見た目とは裏腹に、快活に言った。


「そうです、ね」


 先ほどの僕とのやりとりが尾を引いているのか、それとも目の前の少女の勢いに押されているのか、白峰さんは後ずさりしている。

 ……こいつ、いきなりなんなんだ?

 僕は目の前に立つ眼鏡っ娘に対して、心の中で毒づく。

 ファンならば、こんな目立つところで、それを周囲に知らせるような大きな声なんか出さないだろう。

 とするなら、顔だけは知っている、ただのミーハーってところか。……まったく、迷惑極まりない。声をかけるにしても、TPOを弁えろってんだ。

 僕は言葉にできない感情を視線に込めて、眼鏡少女を睨みつける――と、そこでふと、かすかに違和感を覚えた。

 この少女、初めて見るはずなのに、どこかで見たことのある顔のような……。

 しかもごく最近に見たような気がするのに、いくら脳内検索しようとも、該当する人物が出てこない。

 僕の思考は、しかし眼鏡っ娘の無礼な言葉によって中断を余儀なくされる。


「てことは、そちらのお兄さんは……ひょっとしてカレシ、とか?」


「……えっ? やっ、あのっ、こちらの方は、ですね……」


 眼鏡っ娘の無礼な質問に、俯いてもごもごと口ごもる白峰さん。

 カレシ、という単語に、周囲もざわつき始めた。このバカ野郎。……野郎じゃないけど。

 よけいな話題をぶっ込んでくるなよ、小娘が。

 ただでさえ、今日の白峰さんは様子が妙なのに、その上、公衆の面前で「カレシですか」なんて。

 もしも白峰さんが「いえ、違いますよ」と冷静に応えたらどうしてくれるんだ。僕の心に甚大な被害が出ることになってしまうじゃないか。


「失礼、僕は彼女――白峰のマネージャーです。今は仕事の合間なので……ああっ、もうこんな時間だ! さ、白峰さん、次の仕事に向かいましょう」


 百パーセント嘘だけを口にして、僕は白峰さんの手をとって出口へと向かう。


「あのっ、吉野くん?」


「ここにいると騒がれちゃうから、外に出ましょう」


 カップルたちのざわめきを背中で聞きつつ、僕らはペットショップを後にした。


   ☆ ☆ ☆


「……ふう、ここまでくれば大丈夫、かな」


 僕らは今、ペットショップから十分ほど歩き、住宅街のとある路地にいる。

 早足で移動したせいか、僕は息がすっかり上がってしまっていた。


「みたい、ですね。後ろからも誰も追ってきてません」


 白峰さんは周囲に追っ手がいないかをたしかめ、落ち着いた声で言った。

 同じ距離を同じ速度で移動したというのに、彼女の呼吸は僕ほど荒くない。さすが現役で活動しているアイドルである。

 アニキに鍛えてもらっているとはいっても、僕の体力はまだまだもやしっこのそれだ。

 まあ、筋力強化の訓練が主だからかもしれない。持久力をつける訓練も追加したほうが良さそうだ。


「あの、ところで吉野くん……その……」


 言葉尻を濁す白峰さんの視線を追っていくと、そこには二つに重なった手があった。


「わっ! ご、ごめん、気が付かなくって!」


 慌ててぱっと手を離す。ペットショップからこっち、僕はずっと白峰さんの手を握りしめて歩いていたことに、今、気が付いた。


「こっ、こちらこそ、ええと……」


 気まずい空気が、来慣れない路地に漂う。

 やってしまった。頼まれてもいないのに、僕は彼女の手を……。

 いくらミーハー少女から逃れるためとはいえ、白峰さんに接触してしまうなんて。

 今の今まで密着していたと考えると、なんだか妙な気分がわき起こって――


「あ、そういえば、ここの近くに有名な神社がありますよね」


「神社……ああ、『願いが叶う』って評判の」


 言われて周囲の風景をたしかめてみると、ここからほど近くに件の神社があったと気が付いた。

 以前に、お宮さんが何者かに襲われた、あの神社である。


「実はわたし、その神社にご縁があって、それでデビューできたんですよ」


「それはもちろん知っておりますとも。だって僕は――」


 言い掛けて、途中で思い留まった。

 ファンだから。そう口にしていいものだろうか。

 白峰さんに対して、僕が彼女と知り合う前からファンだったという事実を告げてはいない。

 何度か言おうと思ったけど、こうして直接顔を見て話ができる間柄になってからは、言いにくくなってしまった。彼女を必要以上に芸能人扱いしないことで仲良くなれている部分もあるかと思うと、よけいに口に出せなくなっていた。

 それに……別の理由もある。


「……?」


「ええと、僕はその……そう、以前にその神社でやったライブに行っていたので。ちょうどその話をMCでもしてたから」


「えっ、本当ですか?」


 よほどびっくりしたのか、白峰さんは目を丸くしている。


「でもあのイベント、ファンクラブの会員でなければチケットを買えなかったような……」


「う、うん、とっ、友達に誘われて見に行ったんだよね。チケットあるからって」


 何もかも大嘘だった。誘ってくれた友達もいなかったし、チケットを購入してもいない。

 ……唯一、事実なのは、あの日、僕はたしかに白峰さんが歌う姿をこの目で見たということだけ。

 昨年十二月に行われた、《巫女》のCDデビューイベント。

 神社で開催したのは、《巫女》というグループ名があったからだと雑誌に書いてあった。


「なるほど、そうだったんですか。そうとは知らず……せっかく来てもらっていたのに、わたし何も覚えていなくて……すみません」


「僕はライブ後の握手会は参加しなかったし、あのときはかなりお客さんもいたから仕方がないよ」

「たくさんの人に見てもらえて、嬉しかったなあ。あの日はわたしたちだけはなく、お客さんや、ボランティアで参加してくれたスタッフさんたちの力があったおかげで、成功したんだって思います」


 今ではちゃんとしたライブスタッフが会場を取り仕切っているだろうけど、当時の《巫女》はまだ今ほど有名でもなく、その都度ボランティアの手を借りてライブを行っていた。

 手作り感満載のイベントは、悪く言えば素人くさい仕上がりだったけれど、それを見ていた僕にはあの日のライブは特別なものとして、今も脳裏に焼き付いている。


「では改めて。あのときは本当にありがとうございました」


 丁寧にお辞儀をする白峰さん。


「いや、その、僕はただの……お客さんだったし。どっちかっていうと、お礼を言うのは僕の方かな、と。白峰さ……《巫女》のライブを見ていて元気が出て……、それで受験勉強を乗り切れたような気がするから」


 あのデビューライブのことは、今でもはっきり思い出せる。

 神社の境内は人で埋め尽くされ、十二月の寒さを追い払うような熱気に包まれていた。

 彼女ら《巫女》のメンバーにとっても、応援するファンにとっても、それまでの苦労が報われたような、大盛況のイベントだった。

 あの日を思い出すと、自分でも顔が綻んでいるのがわかる。

 彼女もそれを思い出しているのだろう。口元に笑みが浮かんでいる。


「……よかった」


 白峰さんは僕をまっすぐに見て、一言呟いた。

 慈愛に満ちたその眼差しに、僕はどう反応していいのかわからない。


「よかった? それはどういう……」


 だからそのまま、直球で尋ねる。


「吉野くんが本当に良い人で嬉しいです」


「? よく、わからないんだけど……」


「あっ、もちろん、とむだあてぃさんも、ですよ」


 白峰さんから暖かな笑みを向けられ、僕はひどく戸惑った。

 褒められるのは嬉しいけど、なんだかよくわからないままで、座りがよろしくない。


「せっかくなので、ちょっと神社に寄っていきませんか?」


 白峰さんのお誘いを断る選択肢など持っていない。

 もやもやとした気持ちはあるものの、僕はパブロフの犬状態で、すぐさま頷いてみせた。

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