第2話

「……それはきっと、マネージャーの枝楠さんだと思います」


 白峰さんは俯いて、おずおずと言った。


「ほ、本当ですか?」


「はい……おそらく。吉野くんから伺った、その方の背格好から考えると、間違いないかと……」


「そうでしたか……」


 気まずい沈黙が、僕と白峰さんの間に横たわる。

 ここは僕の部屋だ。せっかくアイドル白峰さんと二人っきりなのは嬉しいけど、話題が話題だけに、両手放しで喜ぶのは自重すべきだろう。

 昨夜、痩せぎす男を尾行したことで得た成果(男の名)を白峰さんに報告したところ「明日、遊びに行ってもいいですか?」と返信があり、現在に至る。

 枝楠えぐすというのは、僕が昨日、お宮さんと一緒に尾行した痩せぎす男の名前。

 住処であろうマンションまでたどり着くと、お宮さんから「あれ、もしかしてえぐっちゃんのお兄ちゃんかも」と妙な繋がりを知った。よもや未だ見ぬ噂の後輩がこんなところで話題に登場するなどとは夢にも思わなかった。世の中、狭いものである。


「あの、枝楠さんが……その、下着と関係があるんでしょうか……?」


 白峰さんが静寂を破り、浮かない表情で口を開いた。


「いえ、下着と関係があるかはわかりませんけど、彼――枝楠さんは、昨日、ケーキ屋さんの前で、ずっと白峰さんを見つめていたんです」


「枝楠さんが……わたしを?」


 眉根を寄せ、何か考え込む白峰さん。

 この反応からすると、どうやら彼女はマネージャーが尾行していることに気が付いてはいなかったようだ。ますます怪しい。


「はい。僕がこの目ではっきりと見ました」


 本来、《幸運の男髪さま》を捜す目的で張り込みをしていたわけだけど、思わぬところで白峰さんから受けた下着ドロ(便宜上の呼称)に関する依頼に進展をもたらした。

 下着を盗んできた当人は言わずもがな、あのアマデウスに相違ない。

 しかし、未だ投石犯については何ら手がかりもなかったため、ストーカー(と僕は思っている)を捕まえるにしても、どうすればいいのか途方に暮れていた。

 そこに現れた容疑者候補が、件の痩せぎす背広男こと、枝楠だった。

 ここ五日間、ずっと白峰さんのケーキ屋さんの前にある喫茶店で張り込みを続け、怪しい人物が周辺にいないかと、目を皿にして観察をしていた。その中で、もっとも怪しい人物を挙げるなら、枝楠の他にはいないと僕は思っていた。


「わたし、枝楠さんがそんなことをするとは、どうしても思えません。彼はあまり口数が多い方ではありませんし、鋭い眼差しが人を遠ざけてしまうかもしれませんけど、真面目で……優しい方です」


 まっすぐな視線で僕を射抜く白峰さん。

 チクリ、とかすかに胸が痛む。

 彼。親しげにそう呼んだ白峰さんとマネージャーとの間に、仕事の枠を越えた関係があるのではと、僕は想像してしまった。


「……近しい人物がいちばん怪しいって、ミステリーでは定番ですけどね」


 だからつい、言葉にも尖ったものが出てしまう。なんだ、ミステリーでは定番ですって。僕はアホか。

 せっかく白峰さんと同じ空間で過ごすことができているというのに、僕の心の中はどす黒い何かで充たされようとしている。


「僕が信用できないなら、仕方がない。そのマネージャーさんに、下着ドロの調査依頼をした方が賢明かもしれません」


「わ、わたし、そういうつもりじゃ……」


 白峰さんは今にも泣き出しそうな顔をこちらに向ける。

 違う。違うんだ、白峰さん。僕が言いたいことはそういうことじゃなくて。

 けれど思いとは裏腹に、言葉は鋭さを増していく。


「じゃあ一体、どういうつもりなんですか。僕の報告は信用せず、その……マネージャーの人柄は信頼して……ぐっ」


「吉野、くん……? どうしたんですか……?」


 僕は意識して、自らの唇を強く噛みしめる。それ以上口を開けば、いずれは大声で白峰さんを罵倒してしまう。

 彼女は何も悪くないのに。ただ、枝楠というマネージャーに関して、人柄を述べただけなのに。

 ――これは嫉妬だった。

 分を弁えず、地団駄を踏む小さな子供みたいに、僕は思い通りにならないことへの苛立ちを、白峰さんにぶつけているだけだ。

 頭ではわかっている。理解しているはずなのに、気持ちが抑えられない。こんな些細なことで、自分の気持ちがここまで波風立たせられているなんて。


「ごめんなさい、吉野くん……。その、わたしが無神経に……せっかく吉野くんが調べてくれたのに、それを否定するようなことを……」


 白峰さんは、僕に向かって深く頭を下げた。

 彼女が謝るなんて、その必要なんてどこにもないんだ。むしろ謝罪しなくてはならないのは、僕の方。だけど、言葉が素直に出てこない。最低だ、僕は。ファン失格、いや、人間としていかがなものか。これで白峰さんには完全に嫌われたことだろう。

 いや嫌われただけで済むならまだいい。

「友達がいないんです」と寂しげな笑顔で言った白峰さんの、心の傷をえぐってしまったかもしれない。

 僕がやってしまったことは、取り返しのつかない卑劣な行為だった。

 今の言葉を取り消せないのなら、せめて白峰さんに謝罪の一言だけでも述べるべきだ。

 僕はそれまで強く噛んでいた唇を開き、そして――


「ごめん、夢乃。俺が悪かった」


 と、どこからか僕の声がした。

 無論、僕ではない。白峰さんのことを下の名前で呼ぶなんて恐れ多い。しかしたしかに、僕の声でその言葉は述べられている。


「きみが枝楠マネージャーを親しげに呼ぶものだから、つい、嫉妬してしまった。本当に申し訳ない」


 あれほど言えなかった台詞が、なぜか今はすらすらと出てくる。


「よ、吉野くん……」


「許してくれなんて虫のいいことは言わない。だがこれだけは信用してほしい。きみを傷つけるつもりなんて、砂一粒ほどもないことを」


「ど、どうしたんです、突然?」


「それに夢乃、きみは友達がいないと言ったが、そんなことはない。僕がいるじゃないか。……もっとも、僕にはその資格がないかもしれない。しかしそれでも、きみと仲良くなりたい人はきっとどこかにいる。気が付いていないだけで、今もそう思う誰かが、きっといるだろう」


「は、はい……」


 まるで思ったことがそのまま言葉になっているかのようだった。

 胸のつかえがとれていくように、僕の心は次第に軽くなっていく。


「とはいえ、僕のしたことは最低だ。僕は地球でもっとも劣った存在に成り下がった。こんな僕にはクソ虫よろしく、肥溜めにいるのがお似合いだろう。殴るなり蹴るなり、煮るなり焼くなり、夢乃の好きにすればいい」


「あの……吉野くん、お気をたしかに……」


「心配無用。僕は至って正常だ。自分がいかに最低最悪、陰険で粘着質な人間かを、客観的に理解している。便器にべっとりと付着した排泄物、それが僕だ。クソ虫吉野、と呼んでくれてかまわない。ああ、できればそこに侮蔑の色を滲ませて言ってもらえると、なおよしだ」


 前言撤回。

 たしかに自分のしでかした愚かな行為を反省してはいる。

 でも、僕はここまで自分を卑下してはいない。特に後半のくだりはなんだ。まるで変態じゃないか。こんなことをする犯人は、この家でたった一人しかいない。

 僕は背後から聞こえるその声の主に罵倒を食らわせるため、勢いよく振り返ると、そこには中年メタボのおっさんの姿があった。


「……アマデウス、やっぱりおまえの仕業か」


 白峰さんに聞かれないように、小声で呟く。

 薄々気が付いてはいたけど、全裸おっさんが僕の声を真似していたようだ。


「ミノルノマネ。アソベ、オレ、ヒマ」


 僕が気を遣って声を潜めているというのに、おっさんは全く配慮せずに、いつものでかい声で言った。


「……もしかして、そこにアマデウスちゃんがいるんですか?」


 ほうら、案の定白峰さんに気が付かれたじゃないか。

 さっきの僕の言葉(アマデウスによるもの)だけでも常軌を逸しているのに、この上、こんな状況で猫と会話しているとなったら、本物のやばい奴だ。


「あ、そ、そうですそうです。こいつ、いつの間にここに来たんだか、あははは……」


「オレ、サッキカラ、ココニイル」


 僕を見つめ、不思議そうにしている全裸のおっさん。


「黙ってろ。……おまえが話しても彼女には伝わらないだろうが」


 やりたくはないけど、僕はアマデウスの耳元に近寄って注意をした。

 すでに白峰さんには、僕とおっさんが会話している様を見せてしまっているのであまり意味はないかもしれないけど、一応念のために内容は伏せたい。

 おっさんはゆっくりと頷き、ゴホンゴホンと大げさに咳払いをする。……本当に猫なのか、疑わしくなる動作である。


「僕、先ほどからここにおります」


 アマデウスは僕の声音を使い、さっきとは打って変わって丁寧に言った。これではよけいに問題がある。


「アホ、それじゃ僕が、頭のおかしい奴みたいじゃないか」


 この構図、おそらく白峰さんには、僕が一人で会話しているように映っていることだろう。

 最低を通り越して、変人、いやある意味では神さまと呼ばれても不思議はない領域に踏み込んでしまった感がある。


「いや、違うんですよ。これはですね、ええと……腹話術というか、その、声をあてているような、謂わば声優とでも呼びましょうか……」


 しどろもどろになって現状の説明を試みるも、上手い言い訳が浮かんでこない。


「もしかして……」


 ふいに、白峰さんが薄桃色の口を開く。


「もしかして、これがあの、とむだあてぃさんですか?」


「…………はっ?」


 何だって? とむだ……? 脂汗まみれで混乱していたおかげでよく聞き取れなかった。


「ほら、前に吉野くんが言っていた……」


「……あ、ああ! はいはい、言って……ましたよね、うん、たしかに言いました。トム・ダーティ、ですよね」


「やっぱり! ひょっとして……と思ってはいたんですけど。アマデウスちゃんが、吉野君の身体を使って呼び寄せるなんて」


「そ、そうなんですよ。謂わばイタコですね。憑依するための媒体者として、僕は秘密裏に活動しているってわけでして」


 トム・ダーティ。すっかり忘れていたけど、以前に僕が焦って、苦し紛れに口にした名称である。

 当然、意味などない。もちろん、そのような活動などした覚えもなければ、これから始めるつもりもなかった。

 とはいえ白峰さんは一人合点がいっているようなので、それを頭から否定するのもどうなんだろう。


「さっきの吉野くん、ちょっと怖かったというか、いつもと違うなあって思っていたので……理由がわかってほっとしました」


 そう言って、白峰さんは口元を綻ばせた。

 今日、初めて見る白峰さんの笑顔。

 僕は改めて反省する。そもそも僕は彼女を喜ばせたくて、ストーカーの情報を手に入れるために動いていたのだ。嫉妬するなど、いや、よしんばその気持ちがあったとしても、白峰さんにぶつけて発散していいはずがない。


「もう、そうならそうと最初から説明してくれたらいいのに」


「で、ですよね。サプライズのつもりだったんですけど、ちょっとばかりやりすぎちゃいましたよね、すみません」


「あの、今更ですけど……そんな畏まらなくてもいいですよ? わたしたち、同い年なんですから。それに、もっと仲良くなりたいですし」


 白峰さんは肩をすくめて、いたずらっぽく笑った。


「で、で、でも、僕、どうやって話せばいいか……わからないっていうか、なんというか……」


 僕は中途半端に砕けた言葉で、白峰さんの様子を伺う。せっかく彼女から仲良くなろうと提案してもらったのに。……自分が情けない。


「さっきみたいに自然な感じに話してください」


「さっき……?」


 意図がわからず聞き返すと、白峰さんはゴホン、と咳払いをする。


「……『俺は至って正常だ』。みたいな感じでお願いします」


「それってもしかして……、僕の真似?」


「……はい。似てませんでしたか?」


 白峰さんは恥ずかしそうに、慌てた様子で口元を両手で覆った。

 やばい。その動作があまりに可愛すぎて、鼻血で部屋を模様替えしてしまいそうだ。

 あのアイドルの白峰さんが、僕の真似をしてくれるなんて!

 ……夢じゃなかろうか。デジャブというか、あるイヤな記憶が蘇る。

 僕は念のために自分の頬を思い切りはたいた。


「うぐっ……いててて……夢じゃない……」


「よ、吉野くん?」


「いえいえ、心配なさらず! これは癖ですから! つまりその……『僕は至って正常だ』ってやつですよ」


 前にも同じことをした記憶があるけど、今は横にアマデウスもいることだし、現実に間違いないだろう。

 僕は興奮を抑えるために、何か違う話題を探そうとしてあることに気が付いた。

 白峰さんが「さっきみたいに自然な感じで」と言ったのは、アマデウスによる僕の声真似を指している?


「……白峰さん、つかぬことを伺いますけど――」


「ダメですよ、とむだあてぃさん。今は吉野くんとお話しているんですから」


 ……どうやら僕の想像は当たっているらしい。

 白峰さんは完全に誤解している。

 彼女は、僕が嫉妬にまみれてわめき散らしたのをトム・ダーティ、アマデウスが妙な特殊能力を発揮して僕の声真似したのを本当の吉野実だと思っているようだ。

 無防備な笑顔。黒目がちな瞳で見つめてくる白峰さんを前にして、僕は訂正を入れることもできず、ただ頷くことしかできない。

 どうしよう。訂正を入れて誤解を解くのは簡単だけど、その場合、嫉妬まみれでいたのは正真正銘、僕の意志で行った事実であると断言しているに等しい。

 かといって、アマデウスによる僕の声真似を、再度僕がおっさんのコピーをし直すというのも難しい。

 僕が一言も発せずにまごついていると、またしても背後から僕の声がした。


「了解した。夢乃の言うとおり、今後はもっと仲良くなれるよう、心を解放する」


 アマデウスが僕の声を使ってそう言うと、白峰さんは無邪気な笑みを顔中に浮かべた。

 振り返っておっさんを見ると、何か一仕事やり終えたビジネスマンのように、真剣な面もちで頷いていた。

 普段は勝手極まりない行動を取る全裸のメタボだけど、今日はコイツのおかげで助かった。

 後でお礼を……いや、言葉よりも豪華な飯がいいかな。

 自分もわかるくらいに頬がゆるむのを感じつつ、僕はアマデウスに対して、感謝の念を込めた視線を投げ――ようとした。

 しかしいつの間にか、アマデウスの姿が見えない……と思ったら。


「ひゃうっ! ちょ、ちょっと、アマデウスちゃんっ」


 白峰さんが色っぽい声を上げた原因は、全裸おっさんが彼女の胸に飛び込んだからである。


「そっ、そこはっ……んんっ!」


「はあはあはあ」


 アマデウスはあろうことか、白峰さんのおっぱいを鷲掴みにして、思うがまま揉みしだいていた。服越しとはいえ、うらやまし……いや、許されざる行為だ。

 しかもなぜか僕の声真似で荒い呼吸をしている。これじゃまるで、僕がヘンタイみたいだろうが。

 僕は全裸おっさんの襟足をぐいと掴み、飼い主の体をとって注意した。

 するとおっさんはピタリと動きを止め「ミノル、キモチイイ」と真顔で感想を述べる。


「……おまえ、いい加減にしろよ」


 先ほど助けてもらた恩も忘れ、僕は全裸のおっさんに怒りを込めた視線を送る。


「いくら猫でも、やって良いことと悪いことが――」


 ――ガシャンッ!

 僕がアマデウスに向けて説教すべく口を開いたそのとき、いつぞやの夜に聞いたのと同じ、ガラスが割れる音がした。

 それから間髪を入れず、ゴスン、という鈍い音が、部屋の中に響く。

 チラリと音のする方に目をやると、やはりというべきか、予想通りに拳大くらいの石が、床に転がっていた。


「ひゃあっ!」


「だっ、大丈夫? け、ケガはない?」


「……は、はい……たぶん……どこも痛くないですから」


 白峰さんにケガがないと知った僕は、すぐさま割れた窓の傍に寄り、外にいる犯人の姿を探した。しかし、通りにはすでに誰もいない。


「あの、吉野くん、これ……」


 白峰さんは怯えた表情で、小さく折り畳まれた紙を僕に差し出してきた。


『忠告したはずだ、彼女には近付くな』


 おどろおどろしく赤いインクで書かれたその脅迫状は、以前にも増して、僕への恨みの度合いが強まっているように感じられる。


「くそっ! ……またアイツか」


「アイツ……? お知り合いなんですか?」


 怖がらせまいと黙っていたけど、一緒に危ない目に合ったこの状況では言い訳もできない。

 僕は白峰さんに、以前にもこういうことがあったと手短に話して聞かせた。


「――というわけで、今はもう少しここにいた方がいいと思う。僕はちょっと外を見てくるから待ってて。アマデウス、白峰さんのことを頼む」


 ウンウンと頻りに頷くアマデウス。

 僕は未だ恐怖におののいている白峰さんの細い肩に手を乗せ、「大丈夫」と一声かけてから、犯人を追うべく部屋を後にした。

 ストーカーめ。必ずとっ捕まえて、白峰さんへの謝罪と、二回分の修理費用を請求してやる。

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