第三章

第1話

「……お宮さん、今日はこの辺で引き上げない? もうすぐ九時で閉店だし」


 僕はスマホで時刻を確かめてから、隣に座るお宮さんに帰り支度を促す。

 けれど彼女は、こちらに一瞥をくれることもなく、双眼鏡をのぞき込んだまま動こうとはしない。

 僕らはかれこれ十時間ほど、こうして駅前通り沿いの喫茶店で張り込みを続けている。

 駅の近くという立地もあって人通りも多く、仕事帰りと思しき人々が、足早に通り過ぎていくのが見える。

 この喫茶店から通りを挟んで向こう側にあるケーキ屋に、ターゲットが訪れるという情報を掴んだのは五日前。それから毎日、僕はお宮さんと一緒に張り込んでいた。アニキは不在。パワースポット巡りでないからだろう。

 できれば張り込みに参加したくはないけれど今日もここにいるのは、張り込み対象が訪れるというケーキ屋が白峰さんの実家だからだ。

 白峰さんの下着ドロに関する調査も、未だ進展がないままである。

 彼女の下着を盗んだ犯人は心当たりがある。あの全裸おっさんこと、アマデウスだ。

 しかし、仮にアマデウスが下着ドロだとしたら、僕の家に投石してきたあの犯人は一体何者だろう。


『安眠したければ、彼女には近付くな』


 この脅迫状の文面から、彼女とは白峰さんのことだと思われる。ほかに該当者など思い付かない。時期も白峰さんが僕の家に来た後のことだから、ほぼ間違いないだろう。

 とすると、下着云々は置いておくとしても、白峰さんを狙うストーカーは野放しになっているはずだ。これは放置できない。

 そういうわけで、お宮さんには悪いけど、僕は《幸運の男神さま》ではなく、白峰さんのお宅の周辺に、怪しげな人物がいないかを、目を凝らして観察しているのだった。

 ――それにしても。

 喫茶店のマスター(ダンディーな初老の男性)は、毎日足繁く通う僕らの顔はばっちり覚えているみたいで、「お待ちしておりました」と、苦々しく声をかけてくるようになった。

 当然である。何せ僕らは、この店でもっとも安いコーヒーのみを注文して、店の営業中、通り沿いの眺めのいい席を占領し続けているのだから。

 マスターは明らかに歓迎していない様子で僕らに鋭い視線を向け、口では来店を歓迎する文言を言うものだから、よけいに居心地が悪い。今も、マスターの充血した目がこちらに向けられており、僕は胃の辺りに痛みを感じている。


「今更だけどさ、その情報って信用していいもの?」


「モチのロンだよ。だってあのえぐっちゃんからの提供だよ? 疑う方が難しいって」


 あの、とか言われても。お宮さんは旧知の仲だからえぐっちゃんを信じる根拠はあるだろう。

 でも僕は、件のオカルト友達の本名さえ知らない。信用どころか疑い百パーセントだ。


「まあでも、あえて引っかかる部分を挙げるなら……、この情報は直接私に宛てたものじゃなくて、《ご近所オカルト》の掲示板に書いてあったってことかな。前は直に連絡を取り合ってたし、一緒に行動してたから、その辺はちょっと変だなあって」


 お宮さんは双眼鏡をのぞき込んだまま、口をへの字に曲げる。


「今は連絡を取ってないの? いつから?」


「まあ、ね。えぐっちゃんの受験の妨げになったらイヤだし、私から距離を置こうって言って、それからかな」


 お宮さん、その言い方だと誤解を招くってば。

 喉元までせり上がってきたその言葉を、僕は慌てて飲み込んだ。

 仲の良さを、他人が計ることは難しい。それに、無関係である僕が、お宮さんの友達のあり方に口出しするのも、なんだか気が引ける。


「でも、密に連絡を取っていないのに、同じものを追いかけているなんて、仲がいいんだね」


「師匠……いや、親友だから」


 それまでケーキ屋から目を放すことをしなかったお宮さんは、双眼鏡を下ろして呟いた。

 口元には笑みが浮かんでいるけど、どこか寂しそうだ。彼女なりに思うところがあるのかもしれない。

 親友。僕には胸を張ってそう呼べる友達がいるだろうか。お宮さんやアニキは仲良くしてくれている。僕としては親友と呼びたい二人だ。

 でも、二人から見た僕がどう映っているかはわからない。数多くの友人の中の一人である可能性も大いにあり得る。ましてや二人は、クラスでも人気者なのだ。彼らの他に気の置けない友人がいない僕とは根本的に違う。

 それに、僕は……彼ら二人に楽しさを提供してもらっているばかりで、何も与えられていない。友達になるのに、明確な条件も資格もないはずだけど、僕に自信がないせいか、ついそんなことを考えてしまう。と、そのとき。


「あ、白峰さんだ」


「えっ? ど、どこどこどこ」


「そんなに慌てなさんなって。ほら、あっち」


「ほ、本当だっ! 白峰さんっ!」


 お宮さんの指さす方向に、夜の駅前通りをうつむき加減で歩く白峰さんの姿があった。


「よしのん、今すぐに行ってサインもらってこなくちゃ!」


 僕は思わず、席を立って白峰さんの元へ駆け寄ろうとして……やめた。

 アイドルである白峰さんに、こんな人気のある場所で声をかけたりしたら迷惑ではないだろうか。

 ただでさえ投石犯と思われる不審者がうろついているかもしれない家の前で、そんなことをすれば白峰さんの身に及ぶ危険が増す。

 それに僕はまだ、白峰さんからの依頼を、約束を果たせていない。顔を合わせても、上手く言葉が出てこないのは容易に想像がついた。


「ほら、すぐに行かないと次はいつチャンスがくるか……ん?」


 お宮さんは眉をしかめて、窓の外に広がる風景に目をやっている。


「どうしたの、お宮さん?」


「いや、気のせいかもしれないんだけど……私、あの人見たことあるかも」


「白峰さんを? そりゃアイドルなんだし、雑誌とかテレビでも――」


「彼女じゃなくて、もっと向こうにいる背広の男性」


 そちらに目をやると、お宮さんの指摘通りに、背広姿の男の姿を見つけた。

 十数メートル離れている上、薄暗いのではっきりとはわからないけど、かなり細身で、髪は短い。年齢は、二十代から三十代というところか。まあ、何の変哲もない、普通のサラリーマンという印象だ。


「あの男性がどうかしたの?」


「……臭うね、これは。プンプン臭うよ」


 スンスン、と鼻を鳴らすお宮さん。


「そう、なのかな。取り立てて不審には見えないけど……」


 僕は自分の身体にアマデウスのウンコ臭が染み着いているのかと不安になり、彼女と一緒に鼻を鳴らす。そういう意味でないと知りつつも。ところが。


「うわっ、くっさっ! ……何、このウン……じゃなくて、卵が腐ったような匂い……うえええ……」


 あまりの臭さに、吐き気がこみ上げてくる。僕の反応を見てか、それまでカウンターの向こうで黙っていた髭のマスターが一言。


「すみませんね。今朝から腹の調子が悪くて」


 吐き気が増し、胃液が逆流する。この匂いの正体は、どうやらマスターの放屁が原因らしかった。マスターの早く帰れという合図かもしれない。


「うう……お、おならだったなんて……き、気持ち悪い……」


「そう? 温泉もおんなじような匂いしない?」


「成分的にはそうかもしれないけど……うう……」


「ものは考えようだよ、よしのん。温泉だと思えば、ほら少しは気分もよくなるでしょ?」


「う、うん……そう、かもしれないね……」


 正直、僕は温泉が好きではない。そもそも公衆浴場の衛生状態が、とても清潔だとは思えないからだ。そこで働く人には悪いけど、使用者のマナーが必ずしも良いとは限らない。

 その上、あの硫黄の匂いだ。好きな人からすれば良い香りだろうけど、ただでさえ良いイメージを持っていない僕には、アマデウスのウンコが発するのと大差ない。


「そんなことより、臭わない?」


 けれどお宮さんはけろっとした様子で、窓の外を指さす。

 今も吐き気を堪えている僕とは違って、悪臭に耐性でもあるのだろうか。

 僕はしかめっ面のまま、窓の外に目をやる。いつの間にか、白峰さんの姿は見えなくなっていた。僕がマスターの屁にやられている最中に、家に入っていったのだろう。


「……に、臭うって、それはもう、何かがこみ上げてくるほどに……」


「マスターのおならはただ臭いだけでしょ。そうじゃなくって、あの背広の痩せぎす男。なんだか変じゃない?」


「そう、かな……別に、おかしなところはないように見えるけど」


 件の細身男は、街路樹の傍に設置された椅子に腰掛け、スマホをいじっている。これのどこがおかしいのか、僕にはよくわからない。


「……よしのんはフシアナだなあ。ちゃんと見てる? 手は携帯を操作しているみたいだけど、目は明らかに画面に向いてない。ていうか、あの痩せぎす男……白峰さんのケーキ屋さんを見てるよ」


 お宮さんの指摘で、細身男の視線をたどる。と、たしかに目は手元の携帯に向いておらず、上目遣いに白峰さんのお宅に一直線。


「ね、怪しいでしょ。……例の写真、アイツの仕業なんじゃないかな」


「白峰さんが僕の家の前でっていう、あれ? 言われてみれば……。でもさ、単にあの店のケーキが食べたいってだけの人かもよ?」


 一瞬、お宮さんの言うことを信じかけた。だけど、それは五日間連続で行っている調査をしているから感じる、一種のコンコルド効果みたいなものではないだろうか。

 長蛇の列に並んだ先に待っているのは、きっと素晴らしいものに違いないというあの感覚。

 大いに確証バイアスじみた彼女の発言は、そうあってほしいと願う者ならではの発想だ。

 もしも僕が、あの背広の男性になったとして。

 恋人もいない独身男が、会社帰りに自分へのご褒美に大好きなケーキを買おうと思ったけど、小心者ゆえに一人で店内に入るのはちょっと……。

 そう考えても何ら不思議はない。ケーキ屋に男一人で入るのも躊躇があって、でも食べたくて、みたいな。……僕なら同じ行動を取る可能性はある。


「よしのんの言いたいことはなんとなくわかるよ。恋人もいない独身男が、会社帰りに自分へのご褒美に大好きなケーキを買おうと思ったけど、小心者ゆえに一人で店内に入るのはちょっと……みたいなことでしょ」


「ま、まあ、そんなところ、かな」


 大体あってるどころか、一言一句違わない。こわっ。


「それくらいはもちろん想定内。でも、私が思うに、あの痩せぎす男からは、そんな雰囲気を感じられないんだよね。獲物を物色するタカのような目、というか」


「す、すごいね、お宮さん。読心術でもやってたの?」


「顔に出てるもん、それくらいわかるよ」


 思っていることが顔に出ていたとしても、普通、そこまでは読めまい。

 これからはお宮さんの前でうかつなことを想像したりしない方がいいと、僕は密かに決心した。


「ん……なら、あの背広の男性が、今何を考えているのかも、わかったりするの?」


「私は別に超能力者じゃないし、読心術の心得もない普通の女の子だよ、よしのん」


「普通……ではないと思うけど……」


 仮にお宮さんの言うとおりだとしたら、すべての女の子に対して、僕は恐怖を覚えてしまう。まるでサトリじゃないか。

 でもまあ、強ち間違ってはいないようにも感じる。

 世のカップルや夫婦における「女の勘」ってやつは侮れない。いつだったか、父さんがそんなことを言っていた。浮気がばれるのは、男がわかりやすい生き物だからってのもあるけど、女性には特殊能力が備わっているからだ、とも。

 だから休日は、二人っきりの時間を設けて、どこかデートに出かけているのかもしれないな。僕は勝手にそう考えて、一人納得した。


「あっ、あの痩せぎす、どこか移動するみたい。行くよ、よしのん!」


「えっ? 追うの? というか、神さまはいいの?」


 僕が尋ねたときには、お宮さんはすでに身支度を済ませて腰を上げていた。


「今日は切り上げ。それよりも今はあの痩せぎすの身元を確かめないと」


 言うが早いか、お宮さんは理由も告げずに颯爽と店を出て行ってしまった。

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