第5話
「いいか、絶対に余計なことをするなよ」
僕は股をおっぴろげて座る全裸おっさんに向かって注意を促す。
イヤでも局部が目に入る最悪の光景だけど、今はメタボ腹に構っている暇はない。
何せこれから、あの新人アイドルの白峰さんが我が家にやってくるのだ。
全裸おっさんが散らかした部屋を片付け、壁や天井に貼ったポスター類は押入の中に仕舞った。一応、掃除機もかけた。変な毛でも落ちていないかもう少し念入りに確認したいところだったけど、もうすぐ白峰さんの到着時刻だからと割り切ることにする。
現在、午後七時。十五分くらいで到着と言っていたから、もう着く頃だろう。
父さんと母さんは仲睦まじくデートで外出中。帰宅は十一時頃の予定と聞いた。
つまり夜まで、この家には僕しかいないということである。……メタボおっさんを除外すれば、だけど。
別に、だからといってどうということはないけれども、思春期真っ盛りの男子一人(と中年のおっさん猫一匹)だけがいるこの家に、アイドルを招いても問題ないのだろうか。
もしも……万が一、夢で見たような雰囲気になってしまったらどうしよう。
僕も一応は男だし、あんなに可愛い女の子が迫ってきたら断れる自信はない。
「ミノル、ルスバン」
僕の不埒な考えにブレーキをかける、おっさんの片言。
「……わかってるよ。現実にはあり得ないからこそ、妄想で自分を癒しているんだから」
寂しい本音を口にしたとき、インターホンが鳴った。
猛ダッシュで玄関に向かい、扉を開けると、そこには紛れもない本物の白峰夢乃さんが立っていた。
「こんばんは。ええと……改めまして、白峰夢乃です」
白峰さんは高校の帰りなのか、制服姿だった。
ありふれたブレザータイプの制服も、白峰さんが着ているとなんだか別物のように見える。
艶やかな黒髪ロングのストレート。整った目鼻立ち。
細身の体に豊かな胸の膨らみ。プリーツスカートからすらりと伸びた足。
そのすべてがまるで神さまが意図的に作ったように完璧で、夢を見ているのではないかと思ってしまうほどだ。
「ど、どうも……吉野です……」
ライブ会場に訪れるか、メディアを通してしか見られなかったあのつぶらな瞳が今、僕のことを捕らえていると思うと、言葉には代え難い感動が押し寄せてくる。
僕がスマホを差し出すと、白峰さんはぱあっと顔を綻ばせた。
「本当にありがとうございますっ! ……あの、これよかったら食べてください」
白峰さんはそう言って紙袋を差し出してきた。
「ぼ、僕に、ですか?」
「はい。スマホを拾っていただいたお礼です。わたしの一押しを持参しました。……お口に合えばいいんですが……」
紙袋には近所で評判のケーキ屋のロゴが入っていた。
「これって、すぐそこのケーキ店ですよね」
おそらくは我が家へと向かう途中、手ぶらで来るのは失礼だと、立ち寄った先が偶然そのケーキ屋だったのだろう。
そんな現実的な想像をしつつも、一方では疑問もあった。
わたしの一押し。白峰さんはこのケーキ屋に訪れたことが、今日の他にもあったような口振りである。もしかすると――
「ひょっとして、白峰さんてこの辺に住んでるんですか?」
「そのケーキ店、わたしの家なんです」
「……えっ?」
耳を疑った。今、何か驚きの言葉が聞こえた気がするけど……。
「……す、すみません、自分の家で作っているケーキをお礼として持参するなんて……非常識ですよね」
「い、いや、そういうことではなく……あのケーキ屋さんが、白峰さんのご自宅?」
「はい……そうですけど……」
僕の質問の意図を掴めていないのか、白峰さんは小首を傾げている。可愛いなあ。
やっぱこういう動作は可愛い女の子でなくっちゃね。間違っても全裸のおっさんがすべきではない。異論は受け付けない。
それにしても驚きだ。あのケーキ屋――SHIRAMINEという店名――が白峰さんの家だったなんて。
同じ地域にアイドルが住んでいるなんて考えもしなかった。
昨年末に、うちからほど近い距離にある駅向こうの神社でライブをしていたのは、そういうことだったのかもしれない。なるほど。
学区が違うから同じ学校に通うことはなかったけど、近所だから擦れ違っていることもあったかもしれない。そう思うと、なんだか無性に嬉しい。
「あの……?」
気が付くと、白峰さんの視線が僕を通り越して、後方に注がれている。
これはもしかして、家に上げてくれという合図なのでは……?
ごくり、と唾を飲み込む。俄に緊張も高まる。
「たっ、立ち話もなんですし、よよよかったら家に……」
情けないことに声は震え、膝がカクカクと笑っている。
これが今、僕に出せる限界の勇気を持って吐き出した台詞である。
「……白峰、さん?」
精一杯の勇気を振り絞って言った言葉も、しかし白峰さんの耳には届いていないらしく、彼女の視線は相変わらず僕の後ろへと向けられたままだ。
後ろには我が家の入り口扉があるだけで、そこまで興味を惹くものなんてなかったように思うけど……。
白峰さんの注意を引く何かを確かめるため、僕は後ろを振り返る。
と、そこに全裸のおっさんが突っ立っていた。
「お、お前っ、いつのまに……!」
目が合うと、おっさんはしゅたた、と素早い動きで僕の元へ駆け寄ってきた。
「わあっ、可愛いっ! この猫ちゃん、随分吉野さんになついているんですね」
白峰さんは品よくスカートを手で押さえながらしゃがみ、僕の足下にいるメタボ腹の顎をうりうりと撫で始めた。おっさんも気持ち良さそうに目を細めている。どうやら彼女にも、この全裸おっさんが猫に見えているようだ。
幾分、ほっとしたのと同時に、僕自身が本格的にヤバいのかもしれないという不安も大きくなってくる。今のところ、こいつが人間に見えているのは僕だけなのだ。
「いつから飼っているんですか?」
「飼っているというか、勝手に住み着かれているというか……ともかく、家の飼い猫じゃないんです」
僕は正直に言った。迷惑だというニュアンスをたっぷりと込めて。
瞬間、何も知らない白峰さんにこんなことを言うと感じ悪いかなと思ったけど、言葉にしてしまったものは取り消せないからどうしようもない。
まあ、白峰さんは笑顔のままだし、平気だろう。気にしないことにした。
「そういえばこの子、どこかで見たような……あっ!」
突然大きな声を上げ、白峰さんは立ち上がった。
何か閃いた様子だ。白峰さんは何やらスマホを操作し始めた。
「ど、どうしました?」
「これで見たんです! このサイトに掲載されていた《幸運の招き猫》のアマデウスちゃんにそっくり!」
白峰さんは興奮した様子で、該当ページを表示させたスマホの画面を僕に向ける。
そこには、真っ白な毛色の可愛らしい猫の姿があった。
申し訳ないけど、僕は口の端を歪めて曖昧に笑うことしかできない。
スマホに写っている白猫が、僕の足下に顔を擦り付ける全裸おっさんだって?
どう見ても同一人物――いやこの場合は同一猫か――とは思えない。片方は可愛らしい見た目だけど、もう片方については言わずもがなだ。
「ほら、この瞳とか同じじゃないですか!」
見ると、画面の中の白猫は、左右の瞳の色が異なっている。所謂、オッドアイというやつだ。猫には詳しくないけど、こういう種類の猫もいるってテレビで見たような気もする。
おっさんに視線を向ける。なるほど、たしかにおっさんの瞳の色だけは、白猫と同じくオッドアイみたいだ。今までよく見てなかったから気が付かなかったけど。
「……アマデウス、ね」
僕は、かの有名な音楽家モーツァルトの名前を思い浮かべる。
ヨハン・アマデウス・モーツァルトというのが彼の名前で、アマデウスは『神に愛されし者』という意味だったはずだ。
あの天才音楽家ならその名を冠しても頷けるけど、このおっさんの名前だと思うと、なんともいえない気持ちになる。
何気なく白猫の名前を口にすると、足下にいるおっさんが興奮した様子で、タシタシと僕の足を叩いてきた。結構痛い。
「お前、アマデウスっていうのか?」
訊くと、コクコクと何度も頷く全裸おっさん。
「賢いですね、この子。自分の名前を呼ばれたこと、ちゃんとわかっているみたいですよ。本当に神様の……ひゃあっ!」
白峰さんの悲鳴に、何事かと思って足下を見る。
全裸おっさんが彼女のスカートの中に顔ごと突っ込んでいた。
白峰さんは顔を真っ赤にして、スカートを押さえる。
「……好い加減にしろよ、アマデウス」
僕はおっさんの首根っこを掴んで、白峰さんのスカートから引っ張り出した。
本音を言えば蹴り飛ばしたいところだったけど、彼女の前でそれは心証もよろしくない。
それにもしおっさんが本当に猫だったらと考えると、暴力行為に訴えるのも躊躇してしまう。僕だけがおかしい可能性だって、未だ捨てきれないのだ。
怒り半分、羨ましさ半分の複雑な気分で全裸おっさん――アマデウスを睨みつける。
「イイニホヒ、トテモステキ」
フガフガと鼻を慣らすアマデウスを見て、今度こそ手が出そうになった。
それを察知したのか、アマデウスはささっと僕の手から離れた。
家に逃げ込みたいのか、玄関扉付近でウロウロしている。
「吉野さん、あの……」
「本当にすみません。天下のアイドル白峰さんにとんでもないことを……」
僕は白峰さんに向けて謝罪の言葉を口にしつつ、あの全裸おっさんをどう処罰してやろうかと思案していた。
「いえ、猫ちゃんのすることですから平気です。それより、もしご迷惑でなければ、お邪魔してもいいですか?」
「待っていてください。あいつを懲らしめてきますから……って、今、何と?」
「もし、ご迷惑でなければお邪魔させてください、と……。なんだか猫ちゃんが招いてくれている気がして……って失礼すぎますよね」
白峰さんの言葉に玄関方向に目を向けると、アマデウスが手を招いていた。
彼女には招き猫に見えているかもしれないけど、僕にはおっさんが「かかってこい」と喧嘩を売っているように見える。
しかし、だ。おっさんの胸中なぞどうでもいい。
肝心なのは、白峰さんが我が家に上がってくれる気分になっているということ。
「失礼だなんて! ど、どうぞどうぞ、汚いところですけど、お上がりください!」
僕はここをチャンスと、白峰さんを玄関へと促した。
ひょっとして、全裸のおっさんはこれを狙っていたのだろうか。
僕一人ではこの状況を導くのはかなり難しかった。それを察したアマデウスが、気を利かせてやってくれたのかもしれない。
白峰さんをエスコートして扉を開ける寸前、僕は感謝を伝えるべく神に愛されし者に目を向ける。この意志疎通が常時可能なら、僕らは案外仲良くやっていけそうだ。
「アオ、シマパン、キホンソウビ」
より一層、興奮した様子で、アマデウスはしれっと言う。
前言撤回。白峰さんが帰った後、やはりこの全裸おっさんにはお灸をすえる必要がありそうだ。
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