第2話

 重い瞼をこじ開けると、僕のぼやけた視界を塞ぐように、目の前に大きな物体があった。

 起きあがろうとして身体を動かそうとした直後、頬に激痛が走る。


「ううっ……いててて……」


 先ほど(といっても夢でだけど)自分でぶん殴った頬が熱を持っている。口の中も切ってしまったようで、苦い鉄の味もした。

 ということは、白峰さんとの甘い情事は夢ではなかったのだろうか。

 当然だけど、記憶が途切れてから後のことはさっぱり覚えていない。

 だから僕は白峰さんがこの部屋に来た証拠――たとえば匂いとか下着とか――を探すべく、頬の痛みを堪えて、再度起きあがろうとした。

 そのとき、僕は身体を動かせないことに気が付く。


「ん? あれ……う、動けない……?」


 金縛りにでもあったかのように、上半身がびくともしない。

 身体が動かせないというのは、思いの外恐怖だ。視界も何かで塞がれているから、尚更だ。

 僕は俄に沸き起こる焦燥感にあらがい、僕は手足をばたつかせた。

 上半身は相変わらず動かせなかったが、しかしなぜか下半身は自由に動かすことができた。

 釈然としないまま、僕は動かせる足に渾身の力を込め、再びばたつかせる。

 ごちん、と音がした。固い物体とぶつかったみたいで、膝小僧に痛みを感じる。

 それとほぼ同時に「ぐほおっ」と、中年のおっさんみたいな呻き声がした。

 するとそれまで微動だにできなかった上半身から重りが離れたみたいに、身体全体が軽くなるのがわかった。

 すぐに起き上がり、僕は自分の身体を拘束していた犯人から身を守るため、咄嗟に手近な枕を目の前にかざし、防御体勢を整える。


「だ、誰だっ! そこにいるのはっ」


 僕は威嚇するために叫んだ。

 寝起きで武器もなく、犯人と交戦する手段も他に思い付かない。

 何の目的があってこの部屋に侵入したのかは判然としないけど、そうそう簡単にやられてたまるか。

 しかし、僕が叫んでも、犯人からは何の応答もない。

 枕を盾代わりにしているので、相手の姿は見えないが、確かに気配は感じる。

 ――もしかして、恫喝が意外と効果的だったのか?

 おそるおそる枕から顔を出して、その向こう側にいるだろう犯人の様子を伺う。


「……なっ、んなっ、えっ……?」


 犯人を見た僕は、脳内が混乱して、意味ある言葉を紡ぐことさえできなかった。

 そこにいたのは、全裸のおっさんだった。

 肌は驚くほど白く、その膨張色はでっぷりと肥えた身体をことさら強調していた。

 呼気も荒く、その鼻からは血が一筋流れ出ている。僕の膝がクリーンヒットしたみたいだ。

 僕はこのメタボ体型のおっさんとは、顔見知りでも何でもない。

 たとえ以前にどこかで知り合っていたとしても、これを期に縁を切らせてもらうけど。


「お、お前っ、一体誰なんだ!」


 僕は身に危険を感じつつ、牽制の意味を込め、メタボおっさんに対して改めて素性を問いただす言葉を放った。

 メタボおっさんは小首を傾げ、一言も発さずに棒立ちしてこちらを見ている。

 何も言わないことが、却って怖い。笑いも怒りも、その表情からは窺い知れない。

 僕がそうして得体の知れないメタボおっさんの観察をしていると、一階からこちらに向かって上がってくる足音が聞こえてきた。

 ちらりと壁掛け時計を見る。午前七時。

 おそらく母さんだろう。いつも起こしてもらっている時間だから、間違いない。

 僕は心の中に安堵が広がるのを感じた。もうすぐここに味方がくる。

 高校生にもなって情けないと自覚があるけど、僕は腕力のなさには自信がある。

 今日ばかりは大手を振ってSOS発信ができる。何せ、部屋の中に見知らぬおっさんが侵入しているのだ。これを事件と言わずして何と言うのだろう。

 僕は息を吸い込んで、助けを呼ぶべく口を開く。


「母さ……」


 途中まで言い掛けて、僕は慌てて口を噤んだ。

 冷静に考えてみると、この状況を母さんに見られるのってヤバくないか?

 母さんがこの全裸のおっさんを見て「この変質者!」となってくれれば問題ない。

 でも……万が一、妙な誤解をされたらどうしよう。

 息子が部屋で、全裸の中年メタボと二人きり。しかもおっさんは鼻から血を垂れ流していて、呼吸も荒い。

 まさかとそんな誤解をするわけない……とは言い切れなかった。

 母さんは元々良家のお嬢様で、息子の僕が言うのもなんだけど、世間常識とかけ離れている部分も多々ある。その母さんがもしも、僕が男(しかもメタボのおっさん)を部屋に連れ込んでいるなどと思ってしまう可能性も否定できない。そうなれば卒倒ものだ。僕が。

 助けてと叫ぶことも考えたけど、それも却下だ。

 傷物と見られてしまうおそれもあるし、何より母さんに心配はかけたくない。

 僕は悩んだ末、メタボおっさんを押入に閉じ込めてやり過ごすことにした。

 幸い、おっさんは僕に攻撃してくることもなく、ただじっと部屋の隅で立ち尽くしているだけだから、強盗でも物盗りの類でもないはずだ。……確証はないけど、今はそれを考証している暇もない。

 僕は素早く押入を開け、おっさんに向かってここに入るよう、小声で指示を出した。

 するとおっさんは一つ頷き、僕の言うとおりに押入に収まって――くれなかった。

 いや、そうしようとはしてくれたみたいだけど、下半身が押入の外に出たまま、つまり尻をこちらに向けている状態で動きを止めてしまっていた。入りきらなかったようだ。

 本当は直接触るのもイヤだったけど、僕はおっさんを押入にねじ込むべく、尻に手をあてて力を込めた。


「実くん、朝ですよ~」


 そのとき、ガチャリと戸が開き、母さんが部屋に入ってきた。

 オワタ。僕は今、社会的に抹殺されようとしている。

 これなら先ほどの状態でいる方がまだマシだったかもしれない。

 押入から飛び出た尻を押す僕。この光景を見て、母さんはどう思うのだろう。

 今は母さんに背を向けた格好だけど、とてもじゃないが振り向く勇気はない。


「ちょっと実くん、何をしているの? 説明しなさい」


「い、いやあ、その……頭隠して尻隠さず……みたいな?」


 僕は混乱したままありのままを述べた。そのつもりではあったけど……人間、緊急事態に自分で何を言い出すのかわからない。仮に、僕に社会的な明日があるのならば、後学のためにはなったと思う。何事も準備が大切なのだ、と。

 唯一の救いは、背中越しに聞く母さんの声が、案外普通だということくらいか。

 少々怒りを滲ませているように感じるけど、それも日常の範囲内でよく耳にするものだ。


「そんなことをされたら実くんもイヤでしょう? その猫ちゃんだって同じなのよ?」


 母さんはお説教モードに入ったらしい。自分がされてイヤなことは、他人にもしてはいけない。これは耳にタコができるほど聞かされている母さんの口癖で――

 いやいや、待て待て。そういうことよりも、もっとおかしなことを口走っていなかったか?


「母さん……今、なんて?」


「いつも言っているでしょう。自分がされたらイヤなことは――」


「ああ、そっちじゃなくって、その後」


「その後? ……猫ちゃんも同じなのよって……実くん?」


 猫? 猫、だって?

 聞き間違いかと思ったけど、どうやらそうではないようだ。母さんははっきりと、猫、と口にしていた。


「こ、この部屋のどこに猫がいるって?」


「んもう、からかっているの? 実くんが今触っているでしょう。早く押し入れから出してあげなさい」


 僕はわけもわからず、ただ言われたとおりに猫……じゃない、メタボおっさんを押入から引っ張り出した。

 母さんはおもむろにおっさんの頭を撫で、口元に微笑を浮かべている。

 おっさんもまんざらではない様子で、されるがままになっていた。

 実にシュールな光景だ。状況から察するに、母さんの目にはおっさんが本当に猫に映っているみたいだけど……僕の方がおかしいのか?

 白峰さんとの情事の方がよほど現実的だと思うくらい、僕がここが夢なのではないかと疑いの気持ちで二人を眺めていたとき、あることに気が付いた。


「……あれっ、尻が濡れてる……?」


 汗にしてはやけに粘着質な液体が、おっさんの尻にべっとりと付着している。


「きっと実くんがちゅっと口を付けたんじゃないかしら。ほら、猫ちゃんて愛情表現にお尻の匂いを嗅がせるっていうから、実くんがそれに応えて――」


「じょっ、冗談じゃない! 僕はこんなおっさんなんかの尻にキスなんかしないっ!」


 想像するだけで吐き気がしてきた。

 中年メタボのおっさんにキス? それも小汚い尻にだって? 

 絶対にあり得ない。そんなことを能動的にするくらいなら、高所から飛び降りることも辞さない。


「おっさん? ……たしかにこの子、そこまで若いわけではなさそうだけど……」


「母さん、よく見て! こいつ、どこからどう見てもおっさんでしょ! それも猫じゃなくて人間の!」


 僕は心の底から叫んだ。

 目の前にいるのがおっさんか猫か、そんなことは一目瞭然だ。どうして母さんにはそれがわからないのだろう。


「……実くん、今日はお休みしなさい。学校には私から連絡します」


 母さんは急に、優しげに労るような笑みを浮かべ、僕に言った。


「えっ? ど、どうして突然……」


「朝ご飯食べたら一緒に病院に行きましょう。実くん、最近ちょっと疲れているみたいだから……」


「いっ、いや、僕は元気だって! 至って正常だよ!」


「うそおっしゃい。この猫ちゃんが人間に見えるって、実くん言ったじゃない」


「や、やだなあ、そんなの冗談に決まっているじゃない。あはっ、あはははは……」


 渇いた笑い声を自室に空しく響かせ、僕はひきつりながらも無理矢理笑顔を作った。

 母さんはそんな僕を見て、未だ懐疑的な表情を崩さない。

 ここは嘘を吐いてでも、精神科に連行されるのだけは避けねばなるまい。

 目の前の全裸男は猫だと自分に言い聞かせ、そして意を決して抱きついた。


「な、なんて可愛いんだ、このおっさ……じゃなくて猫ちゃんは~」


 尻の方から抱きついたせいで、ぬちゃ、と不快な粘着質の液体が顔に付着する。

 我慢だ、我慢。今は堪えねばならない。

 母さんが僕を正常だと判断するまでは、たとえ泥水であっても精製水だと思い込んで飲み込む所存である。

 ああ、こんなことが現実で待っているなら、夢の中でもっと白峰さんと戯れておきたかった。

 せめてもう少し実感が残るような夢であれば、僕はそれを本物として――


「ん? んん? ……あれ、この感覚、どこかで……」


 僕は絶賛演技中のその最中、少しも触りたくないおっさんの尻をむんずと掴みながら、記憶の中にこれと似た感触を検索する。

 極々最近、同じような柔らかさ(硬さというべきか)をどこかで味わっていたような。

 筋肉質で適度な弾力があり、触れたものを優しく跳ね返すこの尻。

 局所にかいた汗にしては、随分と粘着質な液体。

 この液体がもしも汗なら、それこそおっさんが猫ではないという確たる証拠ではある。

 となると、この液体は僕から発生した何かなのか? 涙とか、唾とか――

 そこまで考えたとき、僕の中に閃きが走った。


「うあああああああああああああああああああああああああああああああっ!」


 僕はことの真相を理解し、絶叫した。

 おっさんの尻の感触が、夢の中で白峰さんのおっぱいと重なる。

 おっぱいにむしゃぶりついていたと思っていたけど、実際にはおっさんの尻を舐め回していたのだった。

 尻に付着していた粘着質の液体は、僕の口から出た唾液だった。

 目覚めの瞬間に、僕の視界を覆っていたのも、おっさんの尻だろう。

 おそらく、おっさんは僕に尻を向けるため、ベッドに上がった。

 その際、四肢の置き場が、丁度僕の上半身を固定するようになっていたことで、僕は動くことができなかったと推測される。


「みっ、実くん、口から泡吹いて……っ! やっぱり病院に連れて行きます!」


 救急車を呼んでくると言い残し、母さんは慌てて僕の部屋を後にした。

 意識が途切れる寸前、僕が最後に見たのは、傍らで心配そうな視線を寄越すメタボおっさんの姿だった。

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