エピローグ

第47話

[ハル]


 ケンスケとケイコは、色の無い夢を見ていた。


 アパ-トの階段の裏に引っ越し業者の段ボ-ルが置かれている。

 中では汚れたタオルにくるまれた子猫が捨てられている。

 生後間もない弱り切った小さな命。声を出す力も無い様子。口を開いて鳴こうとしているが、かすれた音しか聞こえない。地毛は白く頭は七三分けに、背中にはひよこに見える黒い模様がある。

 ケンスケは猫だけを抱きかかえ、急いで階段を駆け上がり部屋に入った。

 小皿に水を入れて猫の前に差し出すが、猫はうずくまったまま反応しない。

 ケンスケはティッシュに水を含ませ、口と鼻の間にちょんちょんと押して刺激する。それを繰り返すうちに猫は小さな舌で濡れた口元を舐めるようになった。

 部屋の隅に折り畳んであった段ボ-ル箱を広げて横向きにし、バスタオルを中に敷いて簡易猫ハウスを作った。

 ス-パ-の猫用品売り場で軟らかめの猫缶を選んでもらったり、靴箱のふたに猫砂を入れトイレを作ったり、スマホで猫の飼い方を調べたり、翌日からケンスケの日常はこの弱った小さな命を守る事に変わった。

 三日目の朝、お皿に入れていた缶詰のス-プだけ無くなっている事に気付いたケンスケは、この子の生きようとする意志と力を感じた。心が張り裂ける程嬉しかった。

 四日目の土曜日、動物病院に向かった。

 目薬と点滴の処置、その後日々の注意と今後の説明を受けた時、希望が見えた。

 付き合っていたケイコとのデ-トは暫く中止になった。

 ・・・この猫どうするの?・・・

 ・・・この部屋は動物禁止でしょ・・・

 ・・・正直な所、私あんまり猫は好きじゃない・・・

 ・・・今週行かないとあの映画終わっちゃうよ・・・

 子猫に彼との時間を取られる事がケイコには不満だった。

 外でのデ-トの時間が無くなった為、ケイコはケンスケのアパ-トに来る事が増えた。

 そして次第に元気になっていく子猫を見続けていくうちに、ケイコも少しずつ愛情を抱くようになっていった。

 ・・・四月生まれだから、サクラなんてどう?・・・

 ・・・サクラって、この子男の子だよ・・・

 ・・・そっか、・・・じゃあハルってのは?・・・

 ・・・ハルかぁ。・・・いいね。・・・ハル・・・

 ・・・ハルちゃん。早く元気に、丈夫になってね・・・

 ケイコは一人暮らしをやめて、ケンスケのアパ-トに引っ越した。

 より狭くなったアパ-トの中を、まるで幸福を振り撒くようにハルは駆け回った。

 部屋のあちこちに付着する細い猫の毛が、幸せの証そのものだった。

 ケンスケとハル。ケイコとハル。そして二人とハル。

 外出する時以外、全てがハルを中心に回った。

 ケイコは週に一度必ず赤身の刺身を買った。二人の為ではなく、ハルの為に。

 ケンスケは何処に行ってもおもちゃになりそうな小物を探した。

 半年経ってハルの顔つきが凛々しくなって来た頃、二人は結婚した。

 身内と親しい友人だけの小さな結婚式。

 ・・・新婚旅行はまだ行けないと思う・・・

 ・・・うん。分かってる。でも平気。ケンちゃんとハルと一緒にいられるだけでいい・・・

 ・・・ごめん・・・

 ・・・平気だって・・・

 堂々とハルを交えた生活をするため、長期ロ-ンを組み、マンションを買った。

 引っ越しの喧騒に怯えるハル。笑い転げる二人。

 会話の中にもハルがいる。ちょっとした諍いでは互いがハルを味方に付けた。

 ベッドではハルを挟んでの川の字。愛し合う時には邪魔なハル。

 結婚して初めて迎えた夏。ケイコは妊娠した。

 ・・・ハル。赤ちゃんが出来たの。ハルはお兄ちゃんになるね・・・

 その頃、ハルの元気が無くなってきた。

 ケイコが産婦人科に行くよりも、ケンスケが動物病院に行く回数が増えていった。

 お腹の中に宿った命と同じ位、ケイコもケンスケもハルを心配した。

 ある時、普段とは違う体調の不良を感じたケイコは病院に向かった。そして戻ったケイコは、何も言わずケンスケに抱きすがり、号泣した。

  流産。

 処置を終え、自宅のベッドで気力なく寝ているケイコの傍を、ハルは離れなかった。

 ・・・人間で言ったら未熟児だったと思われます。猫は元々腎臓が弱いのですが、この仔は先天的に内臓各所の働きが弱いです・・・

 ・・・どの位生きられるんですか?・・・

 ・・・それは何とも言えません。ハルちゃんの生命力次第です・・・

 日に日にハルの目の光は無くなっていった。

 枕元から離れないハルをケイコはずっと撫で続けた。

 自分より体調が悪いハルが、母親の様に寄り添ってくれたお返しだった。

 そうした介抱をする事で、ケイコは心の平穏を取り戻していった。

 薬と点滴の毎日。缶詰も特別食。食べ残しの量が増えていく。

 腎臓が崩壊したハルは、トイレに行き付く事も出来ずにそこら中におしっこを漏らした。

 足の踏み場もない程、部屋の中にはペットシ-ツが敷かれた。

 そして二人とハルとの生活が二年を過ぎた頃、ハルは三度目の入院をする事になった。

 ぐったりしたハルを病院に預けた。二人は先生から告げられた。

 ・・・今晩お預かりしますが、もし回復の見込みが見られないようでしたらご連絡いたします・・・

 翌日、ケンスケのスマホに連絡が入った。

 ・・・申し訳ありませんが、今晩が山のようです。一刻も早くハルちゃんを迎えに来てください・・・

 ケンスケはケイコに連絡する。

 ・・・早退して行ってくる・・・

 ・・・私も出来るだけ早く帰るわ・・・

 ケンスケは車で病院に向かった。病院嫌いのハルを一秒でも早く連れ戻したかった。

 ケ-ジの中でぐったりしているハル。

 ・・・出来るだけ暖かくしてあげてください・・・湯たんぽ入れておきます。レンジで温めて・・・

 病院を去る時にはいつも鳴き声で嬉しさを伝えてくれた。

 しかし、助手席のキャリ-バッグの中で今のハルは反応しない。

 ・・・ハル!がんばれ!・・・がんばれハル!・・・お家に帰るよ!・・・お家へ帰ろう!・・・

 ケンスケの目からは止めどもなく涙が溢れてくる。

 運転しながら眼鏡を外し、ス-ツの上腕で涙をぬぐうが、溢れ続ける涙で前が見えない。

 ・・・がんばれよ~!・・・がんばれハル・・・もう少しでお家に着くからねっ・・・もう少しだ・・・もう少し・・・

 ケンスケは左手を伸ばし、バッグの中でうずくまるハルの体と頭を優しく撫でる。しかし動く力も無い。

 流れ出る鼻水を何度もすすりながらハルに叫び続ける。

 ・・・お家へ帰るよ・・・ねっ、ハル。・・・もうちょっとだからねっ・・・がんばれぇ~・・・がんばれよぉ~・・・ハル、お家へ帰るよぉ~・・・

 オフィスでは腕時計を何度も見ながらケイコは落ち着かなかった。

 ケンスケが家に着くと、すぐさま猫ベッドにハルを寝かせ、タオルを巻いた湯たんぽで体温を保たせる。

 ・・・よくがんばったね・・・お家だよ・・・ハルのお家だよ・・・

 帰宅したケイコは玄関から駆けるように近づき、ハルの背中、頭を静かに優しく撫で続ける。

 ケイコの涙と鼻水も止まらない。

 ・・・よくがんばったね、ハルちゃん・・・よくがんばったね・・・

 ケンスケはティッシュに含ませた水を舐めさせ、ケイコと一緒に体を撫で続けた。

 日付が変わる頃、ハルは息を引き取った。

 二人は力の抜けきったハルを挟むようにして抱き合った。

 ・・・よんがんばった・・・よくがんばった・・・

 ・・・今までありがとう・・・本当に本当にありがとう・・・



 ベッドで寝ているケイコの目尻から一筋の涙がこぼれた。

 ケンスケの目からも涙が流れていた。

 出窓にハルが行儀よく座っている。

 壁とカ-テンの隙間からは、明るい光が差し込んでいる。

 ケンスケの心にハルは呼びかけた。

 「久し振りだね、父さん。父さんたちと別れてもう一年くらい経つのかな。あの頃は楽しかったね。消える筈の命を拾ってくれて、そして懸命に育ててくれてありがとう」

 ケンスケは寝ている。しかし表情は強張り、涙が流れ続ける。

 いつしか二人は布団の中で手を繋いでいた。

 ハルはケイコにも呼び掛けた。

 「母さん。今度ね、母さんに赤ちゃんが生まれるよ。・・・心配しないで・・・今度はちゃんと元気な赤ちゃんで生まれるから・・・そしてね・・・そして・・・」

 ケイコの目からも涙が溢れ出た。

 出窓に座っていたハルは、ゆっくりと背中を伸ばし、床に飛び降りた。

 そして落ち着いた足取りで廊下に向かって歩き出し、扉の前で消えていった。

 スズメたちのさえずりが聞こえる静かな寝室に、眠ったまま嗚咽する二人の声が響いていた。

 暫くして二人の心にハルの声が届いた。




(また、一緒に暮らそうね)


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