第44話 光紀

 沙紀と一緒の湯舟の中で、竜次は沙紀が見てきた光紀の事を何度も聞いていた。沙紀は楽しそうに竜次の質問に答えた。

 保育園ではよくお姉ちゃんが遊んでくれた。絵本を読んでくれたり、ブロック遊びをしたり、絵も一緒に描いた。保育園だけでなく、家の中でも何度か話をしていた。名前は一言も告げず、沙紀もお姉ちゃんの詳しい事は聞かなかったようだ。

 竜次は沙紀が話す一つ一つのエピソードに、光紀の姿を浮かべながら懐かしくも寂しい心境で頷いた。

 ただ、分からない事があった。沙紀の話の中で登場するおじいさん、絵の老人。沙紀の話では、おじいさんは保育園でよく遊んでくれていたらしい。何か引っかかる不安を沙紀は取り除いてくれるかも知れないと竜次は質問した。

 「そのおじいちゃんって人はどんな人なの?」

 「どんなって、普通のおじいちゃん」

 「前に沙紀がテレビで見たおじいちゃん?」

 「テレビ?」

 「ほらっ、前にテレビの番組でおじいちゃんがいるって言ったじゃない」

 沙紀は小さな腕を胸の前に組んで考え込んだ。

 「う~ん、分からない」

 「そっか・・・そのおじいちゃんは着物とか来てる?」

 「着物?・・・着てないよ。普通の服だよ」

 「着物じゃないんだ。そうなんだ」

 わだかまりを残しながら、竜次は諦めた。

 風呂から上がって沙紀は歯を磨いた。竜次はその間に洗濯機を回し、シンクの洗い物を済ませて、テーブルに付いた。テレビを付けた。夜のニュ-スが始まっていた。好きな番組がない事を知っている沙紀は、描きかけの絵本を書き始めた。腕時計を確認した竜次は沙紀を無理やり寝室に連れて行き、掛け布団を掛けて絵本を取り出した。

 沙紀が手首の数珠を回している事に気付いた。しまったと思った。もしかしたら、この数珠のせいで光紀が消えてしまったんじゃないかと思った。

 「沙紀ちゃん。それね、寝る時は外そうね」

 「いや」

 「寝る時は外さないとダメなの」

 「いや」沙紀は右手で数珠を押さえて布団の中に潜らせた。

 仕方ない。数珠は沙紀が寝てから外そうと諦め、絵本を広げて優しい声で物語を読み始めた。いつもなら数ペ-ジ読み進むうちに沙紀は眠りにつくのだが、今日の沙紀はくりくりした目を大きく開いて、眠りに落ちる気配がない。それどころか布団の中では数珠を触って遊んでいる様子も伺えた。洗濯機のブザーが鳴った音に気付てはいたが、沙紀の寝落ちに集中した。

 二冊目の絵本を読み終える頃、ようやく沙紀の瞼が重たくなってきた。そして目を閉じて小さな寝息が聞こえるようになった。その表情はまるで天使のようだと竜次は思った。

 静かに布団の中に手を入れ、そうっと沙紀の手首から数珠を外した。それから出来るだけ音を出さないように立ち上がって、寝室の明かりを消し部屋から出て行った。

 洗濯物を片付ける前にトイレで用を足した。リビングから微かにテレビの音が聞こえていた。水を流すとその轟音でテレビの音はかき消されたが、人の声はまだ聞こえていた。アナウンサ-の声のようだった。ドアを開けて出ようとしたその時、その声が耳ではなく心の中に響いている事に気付いた。

 (竜ちゃん、私、また来れた)光紀の声だ。

 「何処?・・・何処にいる?」竜次は声を上げた。

 (リビング)

 「うそっ」竜次は慌てて廊下を走り、明かりが漏れるリビングに向かった。

 クレヨンと開きっ放しのお絵かき帳の横に、黒い短めのワンピ-スを着た光紀が立っていた。

 「光紀!」

 竜次は光紀に早足で近付こうとすると、光紀は「竜ちゃん」と叫びながら飛び掛かって来た。そして竜次の首を抱き、跳ね上げた両足を竜次の腰の後ろに絡ませた。その反動で竜次は後ろに倒れ込みそうになりながら、足を踏ん張って堪えた。そして光紀のお尻を抱えて不安定な体勢でゆっくりと床に腰を下ろした。

 光紀は竜次の首元に顔をうずめ、抱える両腕に力を込めた。

 光紀の両腕の感触と息遣いが竜次にはっきりと伝わっていた。

 暫くの間二人はそのまま動かなかった。竜次は動けなかった。

 密着している光紀の実感が、亡くなった存在などとは考えられなかった。

 やがて光紀は抱きついた両腕の力を緩めて、竜次の顔を見つめた。

 「見える?私の事」

 竜次は顔を少しだけ離して光紀の顔を見て言った。

 「見えるよ。しっかり見える。体も感じてる」

 「良かった」

 光紀は再び竜次の耳元に顔を寄せて小さく言った。

 「会いたかった。竜ちゃん」

 「俺もだよ。光紀」

 「会いたかった。ホントにホントに会いたかった」

 「光紀」

 「ずっとこうしていたい」

 「俺もずっと・・・」

 竜次は首元の光紀の存在をしっかりと感じていた。光紀はか細い声で言った。

 「・・・竜ちゃん・・・」

 そして再び竜次に顔を向け、はにかむような笑顔を見せて言った。

 「竜ちゃん。ごめんね」

 「んっ?」

 「ごめんね、竜ちゃん・・・あたし死んじゃって・・・」

 「光紀・・・」

 「ごめん。ごめんなさい・・・でもね・・・あたし、あの時、死ぬなんて思わなかった・・・沙紀を産んで・・・なんか体中が痛くなって、苦しくなって、気が遠くなって・・・でも・・・死んじゃうなんて思わなかった・・・」

 「俺もだよ」

 「・・・なんかね・・・気が付いたら死んでたの・・・自分の体を上から見たの・・・でも・・・死んでるなんて思わなかったし・・・また、少ししたら、体に戻るんだろうなぁって、そう思ってた・・・」

 「光紀・・・」

 竜次は光紀の体を力一杯抱きしめた。

 光紀も竜次の首筋に再び頭を埋め、全身に力を込めた。

 「ありがとう」

 「光紀」

 「竜ちゃん。ありがとう」

 「何だよ」

 「沙紀をあんなに立派に育ててくれて・・・ありがとう・・・」

 竜次は頬を緩めた。

 「絶対、他の人には出来なかったと思う・・・絶対に・・・本当によくやったよね、竜ちゃん・・・」

 「俺一人じゃないよ」

 「ううん・・・竜ちゃんだから出来たんだと思う・・・竜ちゃん、凄いと思うわ・・・本当にありがとう・・・」

 「みんなが支えてくれた。沙紀だって頑張ったよ」

 「ホントね。でも沙紀は竜ちゃんがいたから頑張れたのよ・・・本当にこんないい子に育ててくれて・・・守ってくれて、ありがとう」

 竜次はずり下がる光紀の体を持ち上げた。はだけた裾から光紀の太ももが露わになった。竜次は何げなくその太ももに手を当てた。

 光紀は体勢を整え、上体を起こして竜次と向き合った。

 「エッチ」

 「えっ!」

 「スケベ」

 「何言ってんだよ」

 「今、変な事考えたでしょ」

 「馬鹿な事言うなよ。気になっただけだよ」

 光紀は笑って竜次に抱き付き、竜次の口に唇を付けた。そして「いいの。変な事考えていいの・・・今は変な事いっぱい考えて・・・竜ちゃん・・・私も変な事したいの・・・でもさ・・・あたし・・・竜ちゃんに言いたい事・・・言っておなかきゃならない事があって、この世界に連れて来てもらったの」と懇願するような表情で言った。

 「・・・なに・・・」

 「竜ちゃん。聞いて欲しい」

 「うん」

 「何日かずっと沙紀と一緒にいたわ」

 「そうだってね。俺知らなかったから・・・」

 「いいの。分かってる・・・私には竜ちゃんの前に姿を現せるような力が無かったから・・・」

 「でも、今は・・・」

 「うん。助けて貰ってる・・・すごく力がある方に・・・」

 「でも、あと少しで、また私は竜ちゃんには見えなくなると思う」

 「何で?」

 「そんな事より、竜ちゃん。聞いて・・・時間がない・・・沙紀にはお母さんが必要なの。この先もっと沙紀にとって大事な時がやってくるわ・・・だから、竜ちゃん・・・私の事は忘れて、沙紀のお母さんになってくれるような、いい人見付けて欲しいの」

 「何言ってんだよ。沙紀の母親は光紀、君一人だよ」

 「ありがとう・・・でも、沙紀には本当にこれから母親が必要になってくるわ・・・生きている母親が」

 「・・・・・・」

 「沙紀と色んな話をして分かったわ、あの子は凄くあなたに気を使っている。竜ちゃんに迷惑掛けないようにして気を張っている。まだ五歳なのに・・・感情が張り裂ける様な時も沢山ある筈なのに、ずっと竜ちゃんに迷惑が掛からない様、気を張って、気を使っているの」

 竜次は一瞬視線を落とした。

 「・・・そうだよな・・・そうなんだよな・・・」

 「だから竜ちゃん。沙紀の事をもっと・・・いえ、竜ちゃんは沙紀の事を一番に考えているのは知っている。だけど、竜ちゃん・・・沙紀に何が必要なのかを考えてあげて欲しいの」

 「・・・何?・・・何が必要?・・・何がもっと必要?・・・」

 「兄妹とか、母親とか・・・」

 竜次は上目遣いに光紀の目を見た。

 光紀は真剣な眼差しで竜次の両目を交互に見つめている。

 「そうなの・・・そうなの・・・だから、竜ちゃん。私の事なんて早く忘れて」

 「忘れる訳ないだろ」

 「いいの、忘れて欲しいの。忘れなきゃダメなの」

 「馬鹿な事言うな」

 「ダメ。忘れて・・・お願い・・・約束して・・・」

 「出来ない」

 光紀は涙を浮かべて竜次に懇願した。

 竜次は首を振りながら絞り出すように言った。

 「・・・出来ないよ・・・」

 「・・・ダメ・・・お願い・・・沙紀の為・・・そして・・・」

 光紀は竜次に首筋にすがりついた。

 「お願いだから・・・竜ちゃん・・・私の最後のお願い・・・」

 「・・・光紀・・・」竜次は両手で光紀の背中を抱き、力を込めた。

 光紀は咽ぶ様な小さな声で語った。

 「・・・私はいいの・・・もう、この世界の人間じゃない・・・そして、もう、この世界には戻れない・・・」

 「何で・・・どうして・・・」

 「多分、無理なの」

 「でも、いるじゃない。今はいるじゃない」

 「特別な事・・・私には分からないけど・・・もう、こんな事はないと思う」

 「何とかならないの?」

 「・・・ならないと思う・・・」

 「何で・・・」

 「・・・竜ちゃん・・・」

 光紀は再び竜次の口に唇を当てた。そして顔をくしゃくしゃにしながら全身に力を込めて竜次を抱いた。

 竜次も両腕で精いっぱいの力を込めて光紀を抱きしめた。

 光紀はキスをしながら、そして抱かれながら、竜次に伝わる事のない様に心で呟いた。

 (竜ちゃん。愛してる。本当に愛してる)


 カ-ペットの上に両手で膝を抱えて竜次は力なく座っていた。脳裏には涙を流した光紀の美しい顔と、光紀の声が巡っていた。そして抱きしめた感触を思い出し、触った太ももを思い出し、キスをした柔らかい唇を思い出した。どれもが五年前に亡くなる前のそのままの光紀だった。気が付くと泣いていた。目尻から温かい液体が頬を伝って落ちるのが分かった。鼻を啜り手の甲で涙を拭いた。

 大きくため息を吐くと体の力がさらに抜けていく感じを覚えた。やがて高まっていた鼓動が次第に落ち着き始めた時、強いお酒が飲みたくなった。ふうっと、もう一度息を吐いて、竜次は立ち上がった。キッチンに入って先ほど洗ったグラスを取り出し、棚のウィスキ-をグラス半分程注ぎ入れた。そして立ったまま三分の一の量を一気に口に入れ、ゴクリと飲んだ。焼けるように熱い感覚が、喉から食道に流れ込むのが分かった。グラスをカウンタ-に置いた時、手で目を擦りながら近付いて来た沙紀に気が付いた。

 「どうしたの?」

 「猫ちゃんは?」

 「猫ちゃん?・・・夢でも見たの?」

 「猫ちゃんは何処?」

 「夢見たんだぁ、そっかぁ。猫ちゃんの夢見てたの」

 「夢じゃないもん」

 竜次は沙紀の肩に手を添えて「また見られるよ、猫ちゃん」と言いながら寝室に沙紀を連れて行った。

 消し忘れたテレビからは、元中学校校長の強盗殺害事件で、当時校長と同じ中学で二年生の担任をしていた芦野基久を強盗殺人の容疑で逮捕した、とキャスタ-が繰り返して伝えていた。



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