第45話 満ちる月の下で

 うさぎの影がはっきりと見える丸い大きな月が、雲の合間に輝いている。月光を浴びた雲の輪郭は、命を与えられたかのように青白く光っていた。

 街灯の無い住宅地を、拓也と作蔵そして二人の後に白い猫が歩いていた。東の端から届く光に、拓也の影だけが路面に細長く動いている。時折遠くの国道を走る車の音が聞こえるだけで、辺りは深海の様に静まり返っていた。

 拓也は輝く月を見上げ、目を細めてぽつりと言った。

 「色んな思いを抱いて、人は亡くなってくんですね」

 「そうだ。人だけでなく、皆、色んな思いをこの世に残して、亡くなっていく」作蔵が応えた。

 寂しそうに拓也は呟いた。

 「僕もいつかは死ぬんだよなぁ」

 作蔵は拓也に向かって言った。

 「・・・人を笑わせる仕事だったな・・・いい仕事だ」

 「いい仕事かなぁ」

 「んん、いい仕事だ。他人を楽しませる仕事だろ。違うか?」

 目を落として拓也は応えた。

 「・・・そうかな・・・」

 目の前に転がる小さな石ころを道路脇に蹴りながら「数え切れない程行き来してきたが・・・」と言って、作蔵は立ち止まって拓也を見た。

 拓也も作蔵を気にして立ち止まった。

 「この世に思いを残したままで旅立っていく姿を見るのは、やはり辛い時がある・・・何度も頼まれたが、わしにはどうする事も出来んかった」

 「ふ~ん」

 「この世では金で解決出来るような事もあるようだが、死者はそんなもの関係ないしな」作蔵は笑みを浮かべた。

 「偉い人に頼むとか出来ないの?」

 「偉いって何だ?」

 「・・・何か、あの世の社長さんとか、大臣とか・・・」

 作蔵は声を上げて笑った。

 「・・・大臣か・・・この世の人間どもは皆、何か権威のようなものに憧れているようだな」

 「どういう事?」

 拓也は作蔵の目を見た。影となっている作蔵の眼が一瞬青白く光ったように見えた。

 「上に憧れ・・・上から褒められたいだとか、上の者から叱られたくないだとか・・・いいか、拓也」

 「はい」

 「そんな奴らには物事の本質など判るまいよ」

 作蔵の言う言葉の意味が分からない拓也は、目を反らして息を吐いた。

 作蔵は拓也の肩を優しく叩いて、再び歩き出した。拓也も歩き始めた。猫がその後を付いて行った。

 作蔵は宙を見ながら静かに話し始めた。

 「拓也殿・・・市井の者たちから褒められる生き方をせい」

 「市井の者?」

 「取るに足らない者たちから、叱られないような生き方をせい」

 拓也は意味が分からないまま俯きながら歩いた。

 暗がりの住宅街から、カレ-の匂いが漂った。

 作蔵は匂いがする方を向いて「んん、拓也、うちも今日はカレ-にするか」と陽気に言葉を掛けた。

 神妙になりかけた雰囲気を解いてくれた作蔵の言葉に拓也は明るく応えた。

 「そうだね。カレ-もいいね」

 乾いた空気を伝って、何処か遠くの方から犬の遠吠えが聞こえた。天に向かって何かを憐れむような、長い遠吠えの後、また違った方角から呼応するように何匹かの太い鳴き声が続いて轟いた。

 その連呼によって、静寂はさらに深まった。

 作蔵は鳴き声が治まるのを待って再び拓也の肩を叩いた。拓也はこれから作蔵の発する言葉を聞きたくはなかった。いつもとは違う作蔵の様子にある予感を感じ取っていた。拓也は作蔵の口から出る言葉を遮るために頭を振り絞って言葉を見付けた。

 「おじいちゃんが生きていた頃の話が聞きたい」

 作蔵はちらりと拓也に目をやって応えた。

 「お前が感じた通りに、わしは・・・」

 作蔵は言葉を詰まらせたが、喉のわだかまりを払うように一つ咳をして続けた。

 「お前の仕事振りを見る事はあまり出来んかったが、お前は良きわしの子孫だと思ったぞ」

 (違うよ、違う。答えてよ)拓也は目を閉じた。

 「・・・人間だけじゃなく・・・色んなものを楽しませろよ・・・決して己の事だけでは、ならんよ・・・」作蔵は優しい声で言った。

 拓也はさらに話を変えようと明るく話した。

 「・・・カレ-食べるよね・・・モンブランも買おうよ・・・」

 作蔵は再び再び笑って応えた。

 「色々と馳走になったな。なかなか旨い物があった」

 「まださ、美味しい物沢山あるよ・・・牛丼とかさ・・・かつ丼とか・・・フル-ツ大福なんかもあるんだよ」

 「そうか、それはまたのお楽しみに取っとくかな」

 拓也は歩くのをやめて作蔵の動きを制するように、面と向かって話した。

 「帰らないよね・・・まださ、帰らないよね」

 作蔵は年老いた顔をさらにくしゃくしゃに皺を寄せて応えた。

 「すまんな・・・拓也。いや、山口拓也殿。わしは、そろそろお役目終了じゃ」

 「・・・なんで何百回も行き来して来てさ、どうして今が最後なの・・・そんなのないよ」

 「すまんな・・・」

 「そんなの、ないよ」

 作蔵は顔を落とした拓也の頭を撫でた。

 拓也の目から一筋の涙がこぼれた。

 作蔵は憧れる様な眼差しで月を見上げて言った。

 「わしもそろそろ無になりたい」

 「・・・」

 「・・・澄んだ水面に一滴の雫が落ちる・・・」

 拓也は涙を拭って作蔵の横顔を見た。

 「さすれば、水面に小さな波紋が出来る。その波紋は周りに伝わって大きく広がる・・・多くは途中で消えて行く運命だが、遠くの対岸にまで届くものもある」

 涙を堪えて拓也は聞き入った。

 「正しい雫は綺麗な波紋を作り、はるか彼方の未来へ続く小さな波を作る」

 「・・・よく分からないよ」

 「透き通るように純粋で、崇高な魂が降り立った。ある願いを込めてな。既に無になれる筈なのに、わざわざ遠回りをしてこの世に降りて来た。皆が喜ぶ未来を創るためにな」

 拓也は首を傾げた。

 「・・・もっと分からない・・・」

 「分からなくて当然だ。分からなくていい。ただ、人間が考えている事・・・上だとか、下だとか・・・そんな事は向こうの世界では全く通用せん・・・覚えておけ」

 拓也はさらに首を傾げた。

 「わしは向こうの世界に送る事だけを考えて来たが、その清らかな意思の元で波紋の一部になれたような気がする。それで十分だ」

 拓也は目を落としてぽつりと言った。

 「・・・僕は、色々な人の、いや霊たちのお役に立ったのかなぁ」

 「立った。立派なお役目をした」

 「・・・そうかな・・・でも、何となく・・・霊の人たちが何を求めて、どうなったのかは分からないけど・・・何か・・・嬉しかったし、楽しかった・・・初めは怖かったけどね」

 「そうか、お前のお陰で、たくさんの魂たちがこの世に残して来た思いを、それぞれに伝える事が出来た。そしてたくさんの人間たちの心も動いた。波紋となったぞ。それは確かじゃ」

 「だといいな」

 「間違いない」

 拓也はふと、ある事を思い出して作蔵に尋ねた。

 「お願いって声が聞こえたんだ。おじいちゃんが来た時、おじいちゃんが僕を霊たちの助けになれって来た時・・・お願いって・・・すごく優しくてあったかい声で・・・言われたんだ。あれって誰だったの?」

 「そうか・・・そうか・・・それでお前は・・・そうか・・・そうか・・・」

 「誰なの?・・・誰だったの?・・・」

 「・・・誰でもいい・・・気にせんでいい・・・」

 「どういう事?」

 「どういう事でもないよ・・・お前は本当にわしの誇りだ・・・頑張るんだぞ、いいな」

 拓也は三度首を傾げたが、作蔵の穏やかな笑顔を見てそれ以上の言葉を胸に収めた。

 作蔵は拓也の背中を力強く叩いて上を見上げた。すると拓也がこれまで見た事がない数の流れ星が、続け様に夜の空を横切って行った。本当の別れだと、拓也は感じた。

 暫く天を見上げていた拓也は唇を噛んで作蔵に向かって手を差し出した。

 「おじいちゃんの手を握りたい」

 作蔵は拓也を見つめて小さく皺だらけの両手を伸ばし、拓也の右手を強く握った。拓也も両手で握り返した。

 「お前はいい子だ・・いい子孫だ・・・山口拓也・・・お前は、いつかきっと正しい雫になれる・・・きっといい未来を築けるぞ」

 「おじいちゃん」

 二人は別れの時が来る事を一刻でも逃れるように固く手を握り合っていたが、作蔵が切り出した。

 「・・・さて・・・そろそろ、お前ともお別れだな」

 「もう行っちゃうの?」

 「・・・そろそろな・・・」

 作蔵はそう言うと拓也の手を放し、にっこりと笑って手を振りながら消えて行った。

 (・・・さらばだ・・・)

 「おじいちゃん・・・おじいちゃん・・・行かないで、おじいちゃん・・・ちゃんとした雫になるから・・・だから、また絶対戻って来てね・・・おじいちゃん・・・絶対また会おうね」

 拓也は作蔵が消えた空間に向かって、そして夜空に向かって叫び続けた。

 その声は乾いた秋の空気を伝って、住宅街の遠くまで響いた。

 猫が振り返って泣き叫ぶ拓也をじっと見ていた。

 光った雲が月を隠した。


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