第43話 魔除け

 駅前ロ-タリ-の時計は六時を少し回っていた。

 バス停には電車が到着する度に人の数が増えていく。竜次は改札を出てバス停の列を横目で見ながら、駐輪場に向かった。買い物を済ましてからでも、充分間に合う時間だったが、今日は一分でも早く保育園に向かいたい。片方の肩にはショルダ-バッグ、手にはジュエリ-ショップの紙袋を持っている。

 ドアが開いてマイ自転車が出てくるとすぐ、バッグと紙袋をかごに入れて竜次は漕ぎ始めた。

 西の方にはまだ太陽がかろうじて強い光で輝いているが、影になる通りは薄暗くなっていた。ス-パ-前の赤信号が青に替わる数十秒がやけに遅い気がした。

 保育園の窓は外から見える全室に明かりが付いていた。入り口の外に自転車を停め、チャイムを押してドアを開けた。園長先生が驚いた様子で出迎えてくれた。

 「あら、今日はお早いですね」

 「こんばんは」

 「お待ちくださいね」と言って園長は奥に消えた。少しして沙紀が走って来た。

 「パパお帰り~」

 沙紀の後から佳苗先生が歩いて来た。「こんばんは。お疲れ様でした」

 竜次は佳苗に「先生、ちょっと」と言ってドアの外に出るよう促した。佳苗は少し首を傾げて沙紀の後に表に出た。

 竜次は沙紀をチャイルドシ-トに乗せて、佳苗に振り向いた。そして真剣な表情をし、かごから紙袋を掴んで差し出した。

 「何でしょうか」佳苗が尋ねると、竜次は「先生。昨日はありがとうございました。そして、これ詰まらない物ですが、色々と、諸々の、お礼です」と言って佳苗に手渡した。

 佳苗は有名なショップの紙袋と気が付いて、両手のひらを振って受け取れない仕草をした。しかし竜次は佳苗に押し付けるように紙袋を手渡し「沙紀っ、行くぞ」と言って自転車を漕ぎ始めた。佳苗は「困ります」と言いながら走って後を追ったが、竜次は立ち漕ぎでスピ-ドを上げて佳苗を振り切って行った。佳苗は仕方なく歩を緩めて立ち止まり、遠ざかる自転車が角を曲がって消えるまでその姿を見続けた。


 家に着いて先ず竜次はバッグから百貨店の包みを出して、ピンク色の数珠を沙紀の手首にはめた。

 「何これ」

 「これはね、お守りなの」

 「お守り?」

 「そう。お守り。これを付けていると、沙紀の体にバリア-が張られて、沙紀を守ってくれるの」

 「バリア-って何?」

 「う~ん、無敵の見えない壁みたいなもの」

 「ふ~ん」

 沙紀は初めて見るチェ-ンの付いたブレスレットを、手を裏返しながら見続けた。

 「なんかきれい、パパ」

 「そう。気に入った?」

 「うん。気に入った」

 「よかった」

 安心した竜次は台所に向かい、戸棚の中から塩を取って小皿に盛った。そして玄関の扉の下に置いた。


 昨晩佳苗が作り置きしてくれた数品のおかずで、二人は早めの夕食を済ました。竜次はスマホとテレビのニュ-スを交互に見ながら、時折沙紀の様子を伺った。沙紀はカ-ペットに腹ばいになってお絵かき帳にクレヨンで色塗りをしている。紙を押さえる左手首のピンクの数珠が何ともかわいらしく見えた。竜次は少し安心して、食べ終えたテ-ブルの食器をシンクに片付け始めた。

 「牛乳はまだ飲むの?」牛乳が少し残ったラビちゃんのマグカップを見て沙紀に声を掛けた。

 沙紀はそのままの体勢で「まだ飲むの~」と応えた。

 竜次はシンクに置いた食器に水だけ溜めて、換気扇を回して煙草に火を付けた。ウォ-ンと鳴り出した換気扇に向かって煙を吐き、首を伸ばしてテレビに目をやった。視界には沙紀が見えている。色付けるクレヨンを選びながら、沙紀は絵を描き続けていた。

 画面と沙紀をぼんやりと見ていた時、沙紀は体を起こしその場に座り込んだ。換気扇を消して竜次はテ-ブルに戻り、テレビを消した。

 沙紀は座りながら誰かと話している。視線は目の前の空間にあった。

 「・・・お姉ちゃんさぁ~・・・お願い聞いてくれる~・・・沙紀のさぁ~・・・ママになってくれないかなぁ~・・・」

 (あの女だ)竜次は咄嗟に絵を思い出した。そして沙紀と女とのやり取りを注意して聞きながら、何かあったらすぐ沙紀を抱いて守れるように、ゆっくりと近づいて行った。

 「沙紀のママはさぁ、遠くに行っててさぁ~・・・全然帰って来ないの・・・だからさぁ~・・・お姉ちゃんがさぁ~・・・沙紀のママになってくれたら・・・パパもきっと喜ぶと思うんだよねぇ~・・・沙紀からもパパに頼んであげるから・・・どうかなぁ~・・・」

 固唾を飲んで様子を見ていた竜次は、沙紀が話す得体の知れない何者かが答えを出す前に、その会話を遮ろうと思った。

 「沙紀っ」

 沙紀は竜次に気が付いた。

 「沙紀はさ、今、誰と話してたの?」

 沙紀はきょとんとした目で答えた。

 「お姉ちゃんだよ」

 竜次は沙紀を後ろから包むように抱いて言った。

 「そっか。お姉ちゃんか・・・でもね、沙紀、そのお姉ちゃんと話すのは・・・あんまり良くないんだよ・・・」

 沙紀は抱きかかえられる事が鬱陶しいらしく、体を強張らせて言った。

 「どうしてぇ~・・・いいお姉ちゃんだよ・・・やめて・・・離して」

 「じゃぁさ、お姉ちゃんに聞いてみてよ。お姉ちゃんは何処から来たのかって」

 沙紀は体をくねらせて竜次の両腕から離れようとしている。

 「パパの名前呼んでるよ」

 「えっ」

 「リュウちゃんって呼んでる」

 「・・・リュウちゃん・・・」

 「パパ離して」

 竜次は両手の力を少し緩めた。

 「お姉ちゃんがゴメンって言ってる・・・ごめんなさいって言ってるよ・・・パパ離して」

 「ゴメンって何をゴメンって言ってるの?」

 「・・・もうっ・・・パパ離してっ・・・」

 竜次は沙紀の体を開放したが、不安で沙紀の右手だけは離さなかった。

 「・・・ミツキって言ってるよ・・・ゴメンナサイだって」

 「ミツキ?」

 「う-ん、よく分かんない。・・・パパとぉ・・・話したいけどぉ・・・ん~・・・どうしたらいいか分かんないんだって・・・」

 「光紀いるのか?」

 「いるって。パパ見えないの?」

 「そこにいるのか?」

 「ここにいるじゃん」沙紀は自分の目の前を指差した。

 竜次は改めて沙紀を見つめて言った。

 「沙紀には見えてるの?」

 「うん」

 「どんな人なの?」

 「・・・ん~・・・どんなって綺麗な人」

 「例えばさぁ、髪型とか、目鼻立ちとか」

 「メハナダチって何?」

 「・・・ん~・・・じゃあさぁ・・・沙紀、その人に聞いてみて?・・・パパと出会ったのは何処かって」

 「・・・ドウキュウセイって言ってる。・・・あとデンシャの中だって・・・サイカイって何の事?」

 「光紀!・・・そこにいるんだ・・・本当にそこにいるんだね」

 「・・・うれしいって言ってるよ」

 「沙紀っ、お姉ちゃんさぁ、何処にいるっ、どの辺にいるかちゃんと教えて」

 沙紀は、今度は竜次の目の前に指を上げた。

 「ここ」

 竜次は沙紀の手を離して立ち上がり、両手で前を何度も搔くように動かした。

 「今のワタシにはパパと話すチカラがないんだって言ってるよ・・・でも沙紀とは話せるからうれしいって」

 「・・・そうか・・・そうか・・・パパも凄く嬉しいって言ってくれる?」

 「パパの声は聞こえてるって」

 「そうか」

 竜次は目線を少しだけ下にして、誰かを抱くような仕草をして言った。

 「光紀。僕には君が感じられないけど、君はこの腕の中に入って欲しい。・・・僕は今でも君の事を愛している。君の事がずっと好きだ。・・・僕は君を好きだ。大好きだ」

 沙紀は竜次を見上げて「お姉ちゃんもスキって言ってるよ」

 「そうか・・・そうか・・・沙紀、お姉ちゃんは今パパの腕の中にいるかい?」

 「うん。パパの前にいるよ」

 「そうか・・・そうか・・・光紀」

 竜次は両手の力加減が分からないまま、そして自分の思いの伝わりが分からないまま、抱きしめる姿勢を続けた。

 沙紀はあくびをしながら言った。

 「・・・もうね・・・話せないって言ってるよ」

 「話せない?・・・どうして?」

 「・・・ん~・・・分からない・・・今日は・・・もう・・・チカラがないって・・・あっ・・・お姉ちゃん消えちゃった」

 「消えた?・・・見えないの?・・・いなくなったの?」

 「うん」

 沙紀はまた大きなあくびをしながら、描きかけの絵を見つめた。

 竜次は急いで玄関に走り、盛り塩を片付けた。


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