第34話 刑事木下

 サ-バ-からコ-ヒ-を注ぎ自席に着いた木下は、バッグから新聞を取り出し机に広げた。

 カップのコ-ヒ-をすすりながら社会面の見出しに目を向ける。何だか焦点が合わない。カップを置いて両手の掌で目をこすり、目をしばたたかせて改めて紙面に目を落とした。しかしまだぼんやりしている。昨日からどうもだるくて熱っぽい。今度は右手で額に手をやった。やはり微熱があるようだ。ため息を一つ吐き、木下は席を立った。

 庶務の女性警官に風薬をもらい、水で流し込んだ。席に歩いて戻る時に軽いめまいも感じた。木下は新聞を広げたまま椅子の肘に上半身を傾け、片手で両目を覆って目を瞑った。同僚の篠山が隣の席に着いたのが分かった。

 「どうしたんすか?」

 木下は目を閉じたまま応えた。

 「んん、ちょっと風邪気味でな」

 「なんかインフルがもう流行っているらしいっすね」

 篠山が木下の新聞を取って、自席でペ-ジをめくる音がしたが、木下はそのまま動かずじっとしていた。そして気付かぬうちに眠りに落ちた。


 テ-ブルに頭を擦り付けるようにしている男から、踝を返し扉に向かって歩き出した。数歩歩いた時に後ろから首を羽交い絞めにされた。咄嗟に両手で抵抗する。男の肘が顎の下に入った。苦しい。痛い。締める腕に力が加わる。体を上下に動かし抵抗する。右肘を強く相手の脇腹に付き押した。男は瞬時に手を離しニ、三歩後退った。振り返ろうとすると男は、息を吹き返すように背中から覆いかぶさり、再び首を羽交い絞めにした。しかし瞬間的に男の右腕を掴み、腰を後ろに強く突き上げて、崩れた背負い投げで相手を投げた。

 目の前の光景は至極ぼんやりとしている。自分の家の中には違いないが、焦点が合わない。腰から崩れ落ちた男の動きも、何かスロ-モ-ションの映像を見ているような感じがして、さらに自分自身の動きも頭で考える素早い挙動が取れない。男が自分に向かって動き出した。素早く逃げる反応をしたいが、まったりした反応しか出来ない。男は振り上げた拳で自分の左目を殴った。痛烈な衝撃を受け、背中から倒れた。

 男はさらに飛び掛かり、倒れた自分に馬乗りになって首を絞め始めた。首に強い圧力を感じた。男はさらに首を絞める。そして何やら口を開けて怒鳴り始めた。

 (何を言っている?)首が痛い。左顔面も痛い。男の口は開いたり閉じたりとやはり何かを訴えている。

 (何だ。何を喋っている。何を怒鳴っている)必死で男の口元と男の顔を見たが、ぼんやりとして実態が分からない。瞬きを繰り返し、息をしようと藻掻いている時に、ようやく男の声が分かった。

 「・・・金は何処にある・・・」その時、男の手の力が弱まった。すぐ息をして大きく空気を吸い込んだ。途端に喉の奥から咳が出た。

 「金は何処だ・・・死にたくなかったら、金のありかを教えろ・・・」男が言った言葉がはっきりと聞こえた。(死にたくない)そして自分は何かを話した。何かの言葉を口走った。(何を言ったんだ?・・・何を喋ったんだ?・・・)自分の口から出た言葉が聞こえない。男の両手の力がまた強くなった。上半身の力を両手に押し込むように、強い力が喉に伝わって来た。そしてグキッという鈍い喉仏が折れる音と同時に、激しい痛みが首から上に伝わった。自然に口が大きく開いてきた。舌が自然と前に出て来た。死ぬ。今この瞬間に死ぬ。そう思った一瞬、目の前の男の目がはっきりと見え、視界は真っ暗になった。


 はっとして木下は目を開けた。息が荒い。篠山がこちらを向いた。

 「大丈夫すか?」

 木下はゆっくり篠山を見て軽く頷いた。篠山は読んでいた新聞を閉じて木下の机に戻し、立ち上がってコ-ヒ-サ-バ-の方へと向かった。

 木下の脳裏には男の鋭く睨みつける目が焼き付いていた。落ち着こうとコ-ヒ-に手を伸ばし、一口すすった。ぬるくなっていた。大きくため息を吐いて、カップを机に置き気を静めるために新聞を開いた。

 ぼうっと眺めるが活字が目に入っては来ない。目を擦って改めて記事に集中した。まだ目が霞んでいる。

 引き出しから目薬を取り出し目に注した。そしてまた一つ大きく息を吸い、首を二三度振って、新聞に目を戻した。

 社会面の見出しを読み、記事に目を向けた。その時、視界の中でいくつかの文字が順番に浮き上がっているように感じた。

 (今日はどうもおかしい。早めに切り上げて休むか)

 また文字が浮き上がる。新聞全体の活字はぼんやりとしか見えないが、浮き上がる文字ははっきりと見える。木下は意識してその文字を順番に見つめた。

 あ・・・し・・・の・・・も・・・と・・・ひ・・・さ・・・

 (あし、のも、とひ、さ?)

 木下は内ポケットから手帳を取り出し、その七文字を書き取って、何パタ-ンかの読み方を繰り返した。

 (あしのも、とひさ?)

 (あしのもと、ひさ?)

 (あじのもと!・・・ひさ?・・・違う)

 (あし、のも、とひさ?)

 (・・・あしの・・・もと・・・ひさ・・・・・・あしの、もとひ さ・・・・・・あしの、もとひさ)

 (あしの、もとひさ!)

 そして手帳から目を離し、宙に目をやって記憶を辿った。

 (どこかで聞いた名だ・・・どこだ・・・どこでだ・・・)

 今度は手帳を何枚も何枚もめくり返した。

 (どこだ・・・どこで聞いた・・・どこだ・・・どこだ・・・)

 すると、三週間程前に事情を聞いたメモ書きの中に、芦野基久という名を見付けた。

 こいつだ。芦野基久。

 メモには風間の元担任、風間はとにかくワル。奴なら事件を起こしても不思議じゃない。と書かれていた。

 メモの続きには、風間が少年院に行った翌年、転勤で玉川中学、校長とはその後会ってない。校長の事、あまり記憶にない、家など知らない、資産家と聞いた事あり。と書かれている。

 篠山がコ-ヒ-を持って戻って来た。

 「篠山っ、こいつ覚えているか?」木下は篠山に手帳を見せる。篠山は椅子に座ってコ-ヒ-をすすりながら、手帳を手に取ってメモを読んだ。そしてしばらく俯いて考え、木下と目を合わせた。

 「覚えてます。何となく」

 「何でもいい。感じた事、思い出せる事、言ってくれ」

 「ん~・・・何か淡々と話していた感じでしたよね。・・・何か・・・こう・・・まぁ、当然って言えば当然ですけど、自分とは全く関係が無いって雰囲気と言うか、素振りと言うか・・・淡々と話してた覚えがありますね・・・」

 「そうだったよな。・・・風間の過去の話とかはかなり参考になったけれども・・・でも、自分が担任だった時の生徒だろっ、もうちょっと庇うとかいい話とかを持ち出さないかな、普通・・・それに殺されたのは自分の元上司じゃないか」

 「そうすよね。・・・殆ど記憶に無い位の話してましたね・・・でも、大企業のトップと平社員ではないすからね学校なんて・・・何かしらのコミュニケ-ションなんて日常的にありそうだし・・・記憶には無いってのは、ちょっとな」

 「そうだよな。・・・なんか匂うな、この男」

 「・・・でも、何で芦野の事、今思い出したんですか?」

 「あっ、いやっ、ただ過去に聴取した人間を振り返っていただけだよ」

 「そうすか・・・でも、調べる価値ありそうですね」

 「だな」

 篠山も手帳で芦野のメモを探した。

 木下は夢の中で見た最後の眼光と、メモを通して思い出した芦野の目を記憶の中で照合した。

 「俺は防犯カメラもう一度見てくる」そう言って木下は足早に席を立った。



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