第32話 佳苗の思い

 三分おきに腕時計を見続けた。

 暗い会議室の前方には次年度の中期計画を、プレゼンタ-が揚々と説明をしている。

 同僚の父親が急逝した為引継ぎを任された竜次は、本来出なくてもいい筈の会議に出席していた。

 「今年度第一第二クォ-タ-に於ける目標未達の原因を調べた結果、やはり昨年度発生した例のインシデントがSNS上に誤った内容で拡散した事が、一番大きな要因だと推測されます。開発部門では昨年同時期と比較して、3.5ポイント上回った提案数と、新たに12の特許を出願しておりまして・・・」

 本社部長クラスに報告する為だけの空疎な会議の進行に、竜次は苛立っていた。また時計を見た。貴重な三分が陳腐に使われていた。

 配布された資料を見ると、まだ三分の一しか進んでいない。こんな事は報告書を各自が読み込めば済む筈だ。プロジェクタ-前に連なる部長たちはこれから恐らく実の無い総括を話すに違いない。あと何十分掛かる?誰かが急病で倒れてくれないか。この会議室にテロリストでも侵入してくれないか。そんな事を思いながら、竜次はまた時計を見た。また三分が無駄に失われていた。



 四部屋ある保育スペ-スの電気は既に消されている。

 三つのベビ-ベッドが置かれた預かり保育の部屋のソファに、沙紀は佳苗に身を任せるようにしなだれて、佳苗が読んで聞かせる絵本の物語に聞き入っていた。沙紀もかつてはこの部屋のベッドの住人だったが、そんな過去の事は既に記憶の中にはない。

 ドアに飾られたカボチャの妖怪の絵は、沙紀たち年長組の園児たちが描いた合作だ。壁際に置かれた加湿器から音もなく水蒸気がモクモクと立ち上がっている。

 アンジュ-ルというタイトルのデッサンだけの絵本に、佳苗は自分が思い付くセリフや情景を語っている。沙紀は佳苗の語る物語に真剣に聞き入っていて、時折沙紀の感情の動きが佳苗の太ももに置いた手の力加減で、佳苗には伝わった。

 主人公のアンジュ-ルが家族から捨てられる描写を話していた時、コンコンと音がして佳苗は語りを止めた。園長が顔を出した。

 「もう七時半ですよ。連絡は来たの?」

 「まだです」

 眉を顰めた園長は、沙紀には目もくれずに言った。

 「一回二回の事じゃないでしょ。うちは慈善事業じゃ」

 その時佳苗のスウェットから着信音が鳴った。ポケットからスマホをすぐ取り出して画面を見ると、[星組 沙紀ちゃんお父さん]と表示されていた。佳苗は園長の顔を一瞬伺って応答した。

 (佳苗先生?・・・済みません。会議で連絡が取れずに、本当に済みません。これからすぐ向かいます。あと、三、四十分、いやぁ、五十分くらいで必ず向かいます。申し訳ない。済みません)

 園長は冷ややかな顔で見ている。

 申し訳なさそうに園長に頭を下げながら佳苗が言った。

 「わたし、カギ閉めて後の事は、やっておきますから」

 「・・・そう、じゃお願いしていいかしら」

 「はい」

 園長は強い勢いでドアを閉めた。

 沙紀は目を大きくして嬉しそうに「パパからぁ?」と訊いた。

 「うん。もうすぐ来るって」佳苗はにこやかに答えた。

 すると沙紀は表情を曇らせ「嘘だもん」と言った。

 「そんな事ないよ。もうすぐ、もうちょっとしたら、パパ来るから、それまで先生と絵本読んでいようね」

 首を下に向け、口をつぐんだ沙紀は「嘘だもん」と小さな声で繰り返した。

 佳苗は物語の微妙な内容のところで園長が入って来た事を残念に思い、うかない顔の沙紀に元気を付けようと「そしたらさぁ、今度はパズルとかしよっかぁ」と本を閉じて言った。

 沙紀は首を横に振った。

 佳苗は沙紀に聞こえない様にため息を吐いて、落ち込んでいる沙紀の様子を伺った。沙紀は足を交互にバタバタさせて下を向いている。佳苗は少しの間様子を見てから沙紀の頭を撫でた。

 父親の帰りが遅い事を、この五歳児はいつも受け止めて来た。慣れた事とは言っても、五歳児の心の中では常に葛藤はあった筈だ。友達のユミちゃんの死も耳に入れたのかも知れない。常に明るく振舞おうと懸命に努力する小さな心も、絡み合う情緒で壊れてしまう事だって当然ある。それでも常に人を心配させないよう押さえて来た沙紀の気持ちを、佳苗は痛ましい程感じていた。

 再びドアが開いて園長が顔を覗かせた。

 「じゃぁ佐々木先生、私はこれで失礼するわね。戸締り宜しくお願いします」

 「はい。わかりました」

 「沙紀ちゃん。さよならねぇ」園長が沙紀に笑顔を向けたが、沙紀は下を向いたままだ。その様子を見た園長は、顔を強張らせてバタンと強くドアを閉めた。

 佳苗は沙紀の背中をさすりながら「もうちょっとしたら、パパが迎えに来てくれるからね。もうちょっとだからね」と優しく言った。沙紀の肩が上下に動きだし、堪えていた感情が限界を超えたかのように声を上げて泣き出した。


 沙紀ちゃんは生後八か月で保育園にやって来た。目鼻立ちが綺麗な赤ちゃんだった。

 生後八か月で保育園に預ける家庭はそれ程多くない。園長先輩の保育士と一緒に面談に参加させて貰った時に、佳苗は加藤と名乗る男性と初めて出会った。沙紀ちゃんが誕生して間もなく、母親が亡くなったと言った。園児の受け入れは終わって大分経っていたが、180日取った育児休業が終わりに近づく為、何としてでも受け入れて欲しいと懇願した。人道的な見地で園は沙紀の受け入れを認めた。

 四年制大学で十分に理論を学び、数か月のインタ-ンでの経験を積んで、ある程度新生児の扱い方は知っていたつもりだったが、実際の赤ちゃんの育児は、頭に入れた知識や僅かな経験など木っ端微塵に吹き飛ばされた。自分の物事の捉え方が如何に甘かったかを教えてくれた存在。それが沙紀ちゃんだった。

 先輩二人と共にそれは戦いの毎日だった。

 (何故この子は泣いているの?)

 (お腹がすいているの?)

 (おむつが気持ち悪いの?)

 (眠りたいの?)

 (おっぱいが欲しいの?)

 (何かの刺激が欲しいの?)

 (抱っこしてほしいの?)

 (遊んで欲しいの?)

 (何かを訴えているの?)

 (私が何か悪い事した?)

 (私のどこがいけないの?)

 (それとも・・・それとも・・・それとも・・・)

 まるで異星人と対話しているような日々の中で、佳苗はあまりにも未熟な自分に自信を失いかけた。ナイフを手にして過去の自分を突き刺したいと思う事もしばしばあった。

 しかし毎日赤ちゃんを抱っこして来るパパ。毎日迎えに来るパパ。家に帰ってからの大変さも、仕事で遅くなった時の言い訳も一切しないパパ。自分なんかよりもずっと大変な時間を沙紀ちゃんと過ごしている筈のパパ。どんなにあやしても泣き止まない沙紀ちゃんが、パパの顔を見るだけで笑顔になる、そんな信頼しきった存在。

 佳苗は自分が保育士として十分な仕事が出来ていない事を、その男性に申し訳ないと思い続けた。

 少なくとも知識はこの人よりもある筈なのに、この人は嬰児からこの子を育てて来た。私が体験して来た以上の挫折と戦いを、この人は生活の中で続けて来ただろう。佳苗が加藤竜次と言う男性を意識し始めたのは、既にその頃からだった。


 付き合っていた大学の先輩から別れの告白を聞いた時、自分でも不思議なくらい冷静に受け止めた。キャンパスで過ごした二年間。図書館や喫茶店、彼や自分の部屋で共にレポ-トを書いた日々。歴史や比較文化論では彼から学ぶ事が山ほどあり、嫌がるのを無理して遅くまで彼の自由を奪った。児童心理学や初等教育論では考え方の違いで議論を繰り返した。何度も喧嘩して、何度も愛し合った。彼との将来を考え眠れぬ夜を過ごしたことも数え切れなかった。一年先に卒業した彼は、自分の夢とは異なる仕事に就いた。すれ違いはそこから始まった。彼の家で彼なら絶対手にしそうも無い作家の本を見付けた時、終わりの予感を感じた。彼が興味を示さなかった音楽。避けていた映画のジャンル。無関心だった服装。要求された事のなかったセックスの体位。彼の変化に寄りそう女性の影を感じ、いつか自分から別れを告げようと思った。しかし切り出したのは彼だった。

 太陽の日差しが斜めから差し込むケヤキ並木を、乾いたハイヒ-ルの靴音を聞きながら、地下鉄の入り口まで歩いた。ホ-ムでは降りる駅の階段に近い車両を確認して列に並んだ。

 電車が来る間スマホで何件ものメッセ-ジを確認し、ニュ-スのヘッドラインを確認し、明日の天気予報を確認した。その他に何か確認する事を探したが、何も思い付かなかった。

 電車に乗り込んで反対側のドアにもたれ掛った。何も浮かべたくない頭の中で、今日の出来事だけは振り返らずにいようと意識した。心はさっぱりしていると無理やり思い込んで、地下の暗闇が続く窓の外に目を向けた。

 何駅か過ぎた頃、車内に沙紀の父親がいる事に気が付いた。何故か見られる事が怖くて顔を反らした。次の駅で車内の人々が入れ替わると、沙紀の父親は人混みに揉まれながら周囲を気遣って奥の方に移動した。その姿を見た時、一気に悲しさが膨らんだ。冷静を装って気丈にしていた心が壊れていくのを感じた。頬を一筋の涙が伝わった。拳を握って堪えても、涙は意思に反して流れ続けた。沙紀の父親には見られたくないと思った。咄嗟に両手で顔を覆い、体を窓に向けて、人に気付かれないよう涙を拭った。

 到着駅では誰よりも遅く車両から出た。階段を降りる沙紀の父親を確認して、ゆっくりと進んだ。悲しさに交じり、悔しさが心を満たし始めた。改札を出てからも崩れ落ちそうになる気持ちをぐっと堪えて、一歩ずつ歩き始めた。再び涙が溢れて来た。泣くもんか、泣いちゃダメッ、と自分に言い聞かせたが、涙は止めどもなく溢れ出て来た。


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