第15話 健一
「もうすぐだと思うよ」声変りが終わったばかりの野太い声で、少年は拓也に言った。
西南中学の校門の前で、拓也は少し暗くなり始めた学校の中を伺った。
土曜日の校舎には明かりは見えない。屋内体育館からは、時折歓声が聞こえる。バレ-かバスケットの試合が行われているようだ。
校庭ではサッカ-部の選手たちがゴ-ルに向かってシュ-ト練習をしていた。その周囲を短パン姿の陸上部の男女が集団で走っている。
部活動を終えた数人の学生たちが、二人の前を通り過ぎて行った。
「それで俺に声かけたんだ」拓也は少年に言った。
「うん。もう僕たちの事知ってると思ってたから」
「驚いたよ、正直。腕なんか掴まれるし、でも見えないし」
「ごめんね。お兄さんが驚いた顔したのを見て、あれっ、もしかしたらまだ知らないんじゃないかって思って、あの時はやめたの」
「よかったよ。もしあの時君が出てきたら、俺完全にパニくってたよ」
「ごめんね」
拓也は健一をまざまざと見て言った。
「でも不思議だよなぁ~。どう見ても生きている人にしか見えないもんな」
「他の人には見えないんだ。声も聞こえない」
「そうなんだ。・・・で、雅也君が来たら俺どう話せばいい?」
「ん~・・・それは任せる・・・とにかく謝って。そしてカ-ドの場所を教えてあげて」
「机の一番下の引き出しを出した下に隠してんだよね」
「そう。あっ、来たよ」
健一は校門から出てくるバットと大きなスポ-ツバッグを背負った、坊主頭で練習着を着た雅也を指差した。
拓也は雅也に近づいて声を掛けた。
「清水君?」
雅也は立ち止まって、はいと答えた。
「実はね、僕は健一君の知り合いで山口と言うもんだけど、君に言付けがあって来たんだ」
雅也は一瞬目を大きく開けた。
「お兄ちゃんから雅也君に謝って欲しいって言われてさ」
雅也の表情が曇った。
「いつ言われたんですか?」
「いつって、最近」
雅也は何も言わず目を細め、そして走り出した。
「ちょっ、ちょっと待って・・・」
雅也は遠ざかって行く。拓也は慌てて雅也の後を走り出した。
(最近って、駄目だよ。僕が死んだの三か月前だよ)
拓也の心に声が届いた。
(何だよ、それ先言ってよ)
足には自信があった拓也は必死で追いかけたが、重たそうなバッグを背負った雅也の方が素早かった。数歩毎にその差は開き、雅也が曲がった角を何秒か遅れて曲がると、もうその姿は見えなくなっていた。
(その先を右)
(分かった)
(その先を左)
(分かった)
多くの家々の窓には、既に明かりが灯っていた。息を切らせながら走る拓也の前を、街灯が点滅しながら明るく照らした。
(お兄さん。僕は家知ってるから、そんなに走らなくていいんじゃない)
拓也は走る速度を落とした。そしてゼイゼイ言いながら歩き出した。
(先言ってよ~)
住宅地の中の角にある、こじんまりした二階建ての家の前で、健一は立ち止まった。
「喧嘩したんだ、バカみたいな事で。そして僕が腹を立てて雅也の大切にしていた野球のカ-ド、超レアなやつを盗んで隠しちゃった」
「兄弟喧嘩か」
健一は明かりの灯る二階を指差し「あそこにいると思う」と言った。
拓也は二階を見上げて近づいた。そして咳払いを一つして口に両手を付けて叫んだ。
「雅也く-ん。お兄さんと会ったのは三か月前の事だよ~」
買い物袋を下げたおばさんが不審者を見る様な眼付きで拓也を睨んだ。拓也はチラリとおばさんを見たが、その時健一が拓也に知恵を与えた。
「僕と会ったのは病院。見舞いに来た時」
拓也はおばさんを気にしながら、再び大きな声で窓に向かって叫んだ。
「お兄さんに見舞いに行った時、聞いたんだ。雅也君に謝ってたよ~。ごめんって謝ってた。そしてカ-ドは健一君の机の一番下の引き出し」
「引き出しを出した下にある」
「引き出しを出した下にあるって、そう言ってたよ~」
健一は二階を見つめて小さく頷いている。拓也は「他に何かない?」と訊いた。
健一は唇を噛んで黙っている。その時二階の窓が開いた。
「あったよ~」雅也がカ-ドを握った手を振りながら言った。
拓也はほっとして健一を見た。
「ありがとう」雅也が叫んだ。
「じゃあね」と言って拓也は手を振り返した。
遠くに歩き去ったおばさんが振り返って拓也の様子を伺った。
健一は拓也に向かって「もう少し家にいていいかな」と呟いた。
「そりゃあいいさ、君の家だもの・・・でも、向こうの世界には一人で戻れるの?」
「分かんない。初めてだから・・・またお兄さん迎えに来てくれない?」
「どうかな~」拓也は少し考えて続けた。
「月曜から三日くらいあちこち回るバイトがあるけど、近くに来れたら寄ってみるよ」
「本当、ありがとう」
拓也は満面の笑顔で笑う健一を見て、嬉しくなった。
健一は拓也にお辞儀をして、家の中に透けて入った。
拓也は家に入った健一を見届け、暗くなった周囲を見渡して場所を確認しながら歩き出した。
テレビを見ながらご飯を口に入れる父親。味わっているとはとても思えない。何か動力源の材料を嫌々ため込んでいるかのようだ。左手でさんまの頭を押さえて器用に骨を取っている母親。母親は昔から魚をきれいに食べた。口を動かしながら二杯目の茶碗を母親の前に突き出す雅也。母親は茶碗を受け取り手元の炊飯器から山盛りにご飯をよそった。
健一はかつて意識した事がなかった何でもない光景を、懐かしそうに眺めていた。健一は自分が座っていた椅子に腰かけ、雅也の横顔、正面の母親の顔を見続けた。ただ、テレビの音だけが虚ろに響いている静かな食事風景に、次第に寂しさを覚え始めた。
(雅也、何か喋れ。今日学校で何があったとか、一年で一人だけレギュラ-になったとか、明日は試合だろ、ホ-ムラン打ってやるとか、カ-ドを見付けた話題でもいい、僕の話題が出来るじゃないか、むしろ暗くなるから話さないのか、じゃあ勉強の話題でもいい、彼女の話でもいい、何でもいい、何か喋れ、雅也)
父親がチャンネルを替えた。母親も雅也もテレビには興味が無さそうだ。
突然健一に声が聞こえた。
(弟の中に入りなよ)健一は周りを見渡した。家族の他には誰もいない。
(弟の体に入って)また声が聞こえた。
(入り方なんて分からない)健一は心で伝えると(そうっと近づけば体と同化出来る。やってみて、簡単に出来るから)と声は応えた。健一は座ったまま雅也の体に自分の体を近づけた。体に入り込めた。
その途端雅也は熱っぽさを感じた。今まであった食欲が急に無くなった。そしてだるさと体全体の重みを感じ、テ-ブルに伏せた。様子を察した母親が「どうしたの?」と心配して声を掛けたが、雅也の意識は次第に遠のいて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます