第21話
いかに古海君を説得するか。私はその手順を考えることになった。
今起きているトラブルは、理屈ではなく気分の問題だ。だとすれば、まずはその障壁を取り除かなければならない。強引に進めるのは逆効果だ。
獅子角とこの実験が敵意ある存在では無く、ごく自然に協力する流れを作る必要がある。
そのために、まずは実験の参加継続について了承を取り付けることにした。
古海君への交渉は難航したが、獅子角が直接来ないという条件で、渋々ながらも同意を得ることができた。
数日後、体力測定との名目で駅前のスポーツジムに行くことを提案してみた。
実のところ数値の計測自体に意味は無いのだが、細菌の効果を確かめるという名目で、クリエーション的なことをやった方がいいと考えたのだ。
古海君の自己申告によれば、身体は好調のままだであるらしい。
一日チケットを購入し、三人で面白そうなものを順にテストすることにした。
先生の体力も測定しましょうと言われ、私と古海君が一緒にエアロバイクを漕いで競争することになってしまう。普段から乗っているだけあって、古海君の持久走は大したものだった。私などではとても敵わない。
「先生、運動不足じゃ無いですか?」
笑って言う彼女に降参の態度を示し、私は狩尾君と結果の計測に集中することにした。普段こんなことをしない私は、能力の平均が分からない。近くのインストラクターに平均的な記録を聞いてみた。あくまで目安という話だったが、十分上位に入る数字とのことだった。
彼女は今でも食事制限中のような食事をしている。炭水化物の摂取は、ほぼしていない。それでもこれだけの持久力を発揮できるというのは驚異的だ。
逆にこちらが心配になって途中で漕ぐのを中止して貰った。
「今日はもう十分だ。体調は大丈夫だね?」
「まだまだいけますよ」
古海君は明るい顔でそう言う。
私は本当に奇跡の細菌なのかも知れない、という感想を抱いた。
一通りの計測を終えた古海君にタオルを差し出す。
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
彼女がタオルを受け取ったとき、微かな、しかし間違えようのない違和感が私の身体に走った。心の不安を掻き立てるような、ざわつく感触。
正体の分からぬまま、私は疑念を口にする。
「古海君、そのタオル……」
汗を拭いた彼女はしげしげとそれを眺め、意味ありげな表情をつくる。
「先生、まさか私の汗を嗅ぎたいとか言い出さないですよね」
いや、違うと慌てた私を古海君が笑う。
「冗談ですよ」
私はシャワー室に向かう彼女を見送った。なんだったのだろうか、今のは。
―――――
三人で車に乗ったとき、古海君は上機嫌だった。
今回はこれで成功と思うべきだろう。
「野菜生活も、もうちょっと進めてみます。ダイエットになりそうですし」
「しかしあまりそんな食生活を続けるのも健康には良くないだろう。少しは普通の食事もした方がいい」
今のところ悪い影響は無いようだが、見落としということもあり得る。どちらにしても、あまり極端な食生活を続けるのは望ましくないと私は説いた。
「それもそうですね・・・・・・」
「せっかくだからみんなで晩ご飯たべましょう~」
狩尾君がにこやかに言う。
前回に引き続きなんとも絶妙なタイミングでの提案だった。
「どこか希望はあるかな?」
「でしたら、久しぶりにお肉料理にしましょうか」
今回の趣旨を考えれば、夕食代は必要経費ということで獅子角もて認めてくれるだろう。だとすれば多少豪華でもいいか。私はそんな算盤をはじく。
「その辺りにステーキハウスがあったな。あそこはどうだろうか」
割と本格派の、学生ではおいそれといけない値段の店だ。
「いいんですか?」
「わーい」
盛り上がる二人を連れて、私は店へと向かった。
―――――
古海君の様子がおかしくなったのは、テーブルでメニューを眺めてからだった。
なぜか注文がなかなか決まらない。
何か不安そうな表情で、ぱらぱらとページをめくり続ける。
「瑠佳ちゃん、どうかした?」
狩尾君が少し心配そうに訊ねた。普段、こんな風に悩むことは無かったように思える。
「あ、えっと。なんだか目移りしちゃって」
最終的に狩尾君と同じメニュー、一番小さなヒレステーキのセットを注文した。女子の注文としては一般的ではある。しかし私のイメージでは、もっと健康的に食べるタイプだった気がするのだが。
和やかに会話を続けていると、各自の皿が運ばれてきた。
「おいしいです~」
私と狩尾君はそれぞれの料理に舌鼓を打つ。料理の寸評などを話題に更に話を続けているうちに、狩尾君が再び心配そうな声を出した。
「瑠佳ちゃん、ぜんぜん食べてないけど大丈夫ー?」
私は古海君の前に置かれた皿を見る。付け合わせの野菜以外、ほとんど手を付けられていない。ライスも残したままだ。
「え、えっと。あの」
そう言いながら、ステーキにナイフを入れる。
小さめに切られたそれをフォークで刺した。
数秒の躊躇いの後、それを口に含む。
「うっ……」
古海君はフォークとナイフをテーブルに置き、両手で口を押さえた。
「瑠佳ちゃん?!」
彼女は立ち上がり、そのままトイレに駆け込んだ。
何があったのか。理解できないまま私達はテーブルに残される。
しばらくして、青い顔の古海君が戻ってきた。無言で見上げる狩尾君に、大丈夫だからと笑顔をむけてから席に座る。
「ごめんなさい、どうも運動しすぎたみたいで。なんだか食べられません」
勿体ないので二人で食べてください。古海君にそう言われたが、落ち着いて食事が出来る状態ではない。私達はそそくさと食べ終えて店を出た。
歩いて帰るのは危ないと思い、私はタクシーを呼んだ。狩尾君が家まで同乗することになる。
「大丈夫ですから。心配をかけてすみません」
古海君はそう言って去って行った。
私は不吉な予感に囚われた。
食事における繊維質の量を増やせば、未知の細菌にとって有利な腸内環境が構築されていくことになる。例えるならそれは、新たな移住者達に特権的な地位と快適な生活環境を提供するようなものである。そんな政策を続ければ、巨大な政治的地殻変動をもたらすに決まっている。
もしかしたら、ひどく良くないことが起きるのでは無いか。
その予感は、すぐに現実のものとなった。
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