第20話
「一つ聞くが、これまでは普通に肉を喰っていたのだな」
「どちらかと言えば好きでした」
古海君の回答に獅子角が真剣な顔つきになる。
「そうか。確かに調べる価値はある」
獅子角は予想される事例があると言い出し、古海君に食事制限を課すことになった。糖質制限ダイエットから全ての肉・魚を除いたような、見事に野菜だらけのメニュー。私はやりすぎじゃないかと言ったのだが、古海君は苦にする様子も無くそれを受け入れた。聞けば、ここ数日の食生活は似たようなものだと言う。
三日後。病院で採血をして検査。
翌日には結果が出て、私達は再び借家に集合した。
「簡単に言えばだ」
獅子角の声は抑えきれない興奮があった。
「食べたものと血中にある栄養素の内容が一致しない」
「どういう意味だ?」
もう少し詳しく説明して欲しい。
そう促した私に、獅子角は検査結果票を示した。
「ルカ君が食べたものには糖質やタンパク質がほとんど含まれていなかった」
私はメニューリストを手に取る。確かにそういった栄養素が不足するだろう。獅子角が検査結果票の項目を指さした。
「なのに血中成分にはむしろ豊富に含まれている。通常ではあり得ない数値だ」
門外漢ながら、私は一応それらしき反論を試みる。
「たった三日だ。身体に残っていた分じゃないのか」
「そういった可能性も否定はせん。しかし、ルカ君は同じような食事をその以前も続けていたと言っている。それにしては数値が高すぎる」
「つまり、どういうことだ?」
「現時点では仮説でしかないが、腸内の細菌が繊維質を分解して、糖やアミノ酸、タンパク質を生成している可能性がある。それらを摂取しているために、古海君の身体には十分な栄養が行き渡っているのかも知れん」
どこかで予想していた答えだった。私は酔った日の会話を思い出す。
「牛のように、か」
「人間の腸は牛のそれとは環境が違う。だからそのままの作用では無い。だが、江戸里の言うとおり、外形的には似たものだ」
獅子角のボルテージが上がっていく。
「これは凄いことだぞ! この細菌があれば来たるべき食糧難の世界への対応、そして環境負荷の防止を達成出来る可能性がある。奇跡の発見かも知れん!!」
そう言って獅子角は、机の上に箱形の物体を置いた。『大便検査キット』そう記されたそれは、まるで巨大な弁当箱のようなサイズだ。
「さあ、早速サンプルを回収しよう」
鎮座したそれに私までもが圧倒される。
「なんか妙にでかくないか?」
「よく見る検査キットは大腸癌向けだ。特定の兆候に絞っての検査であるため量は要らん。だが、今回は腸内細菌全般を調べねばならないのでな。サンプルは多いほど良い」
獅子角の視線が古海君に向けられた。彼女は強ばった顔で首を横に振る。
「い、嫌ですよ。そんなの」
「む? 何故だ?」
獅子角が心底不思議そうな顔をした。
「危険は無い。安全で確実な検査だ」
古海君が救いを求めるように私を見上げた。
スイッチの入った声で獅子角が語り続ける。
「これは世界を救うための行為だ。是非協力して貰いたい」
ずい。弁当箱が差し出される。その迫力に狩尾君が怯えた声をあげた。
「こわいです~」
恐怖を感じたように古海君は立ち上がり、私の腕を取った。
「先生、助けてください!」
弾みで私と獅子角も立ち上がった。
古海君が私の背中にしがみつくように隠れる。
「先生がなんとかするって言ったじゃないですか! お願いですから助けてください!」
古海君が両手で私の背を押した。期せずして、テーブルを挟んで私と獅子角が対峙する形になる。私は頭を抱えたくなった。
「あー獅子角、落ち着こう」
私は敵意を示さぬよう、両手を前に出して押しとどめるような仕草をする。
「何を言う。俺は冷静だ」
「分かった。分かっている。しかしここは二人で話をしよう」
私は背後を振り返る。
「今日は帰りなさい」
獅子角からその名に相応しい、目の前の獲物が逃げ去ったライオンのような視線が二人に向けられた。震え上がったレイヨウのように彼等は走り去る。
二人が姿を消してから、私は獅子角に語りかけた。
「やり方がまずい、完全に嫌われたぞ」
「何故だ。非侵襲性の完全に安全な検査を提案しているだけではないか」
「女の子なんだ。知っている人にそんなものを渡したくないのは当然だろう」
獅子角は暫し考え込む。
「成程。そういう考え方もあるか」
これは単に感覚の差だ。
例えば病院で、あるいは実験研究室において。獅子角の要求は完璧に正しく、その態度も全く問題無いものとして扱われるだろう。
しかしここは借家のリビングで、相手は二十歳になったかならぬかの女の子なのである。もう少し相手の心理を考えて話を切り出すべきだったのだ。
「最初から私に交渉をさせてくれていれば、もう少し違う進め方もあったのに。病院かどこかで第三者の手を介しての検査という形にすれば、説得はできたと思うぞ」
「では、今からでもそうしよう」
「どうかな。一度話がこじれてしまうと、簡単にはいかなくなる」
交渉は最初が肝心だ。
心証を悪化させてしまうと、それを取り戻すのは容易でない。
「それでは困る。あの細菌は貴重なものだ」
私はなんとかして解決策を考え出そうとする。
「おまえが作った細菌なら、彼女から無理に採取する必要は無いだろう。実験室の方から回収しても良いんじゃないのか?」
獅子角は首を横に振った。
「その点はもう調べた。実験室に残るサンプルに、そんな菌は無い」
「じゃあ、どうして」
「腸内で細菌の遺伝子交換が行われた結果だと思われる。実験期間中、ルカ君は様々な細菌と触れた。おそらくは、その相互作用だ」
遺伝子交換?
「突然変異ということか」
「そうだ。細菌は単細胞生物であるため、人間のように生殖活動で遺伝子を交換することは出来ない。だがもっと単純かつ素早い進化の手法を持っている」
そう言って獅子角は説明をしてくれた。
「同種だろうが異種だろうが関係なく、細菌は貪欲にDNAを取り込む。たまたま近くにあればなんでもだ。接触した相手、死亡した菌の死骸から流れ出るDNAの欠片。そんなものまでな」
「なんだよそれは。食事じゃあるまいし、近くにあったら手当たり次第か」
「食事。そうだな。細菌に消化能力は無いが、その頻度で言えば食事とさして変わらない気軽さだ。細菌はあちこちからそういったもの収集しては、自分の遺伝情報に付け加える能力を持っている。だから彼等の進化スピードは信じられない程に早い。例えばある細菌が抗生物質の耐性を得たら、周辺に居る他種の細菌もあっという間にその能力をコピーしてしまう。世界中で耐性菌が広まっている理由だ」
「ああ、耐性菌の話は聞いたことがあるような気がするが……それにしても凄まじいな。異常な能力だ」
「生命の源流、そして本流は単細胞生物の側だ。正確に言えば遺伝情報の変化とは本来そういった方式で行われるもので、むしろ異常なのは多細胞生物のDNA変化が余りにも遅すぎることなのだが」
その説明を聞いた私は、ある事実に気づいた。
「だとすると、細菌は次々に特殊な能力を得て、最後にはスーパー細菌のようなものに進化してしまうのか?」
獅子角が私の疑問を否定する。
「論理的にはあり得るが、実際にはまず発生せん。能力のコピーには失敗も多い。それに、新たな能力を得た細菌は遺伝子情報が多くなり、その分だけ細胞分裂に必要なエネルギー量が増える。その結果、繁殖スピードが落ちるのだ」
「それでも、新たな能力を得た方が強力なように思えるんだが」
「微生物間の勢力争いは熾烈だ。繁殖スピードの低さは致命的なハンデとなる。抗生物質への耐性能力も、実際に抗生物質の影響が無い環境下では単なる重荷にしかならん。だからその状態が長く続けば、逆に不要な遺伝子として捨てられる」
「捨てるのまで自在かよ」
「正確には遺伝子の欠落が生じた個体が繁殖上有利になるという意味だが、概ねそういう理解で正しい。人間が必要に応じて道具を手にし、不要になったらそれを捨てるようなものだ。最も単純な生命と、やたらに複雑化を極めた生命の取る戦略が同じ形式という事実も興味深いが・・・・・・ああ、すまん。脱線が過ぎるな」
ともあれ。私達は二人で話を本筋に引き戻す。
「細かい原因は不明だが、遺伝子の交換で新種の腸内細菌が生まれた可能性が高いわけか。繊維質を効率的にエネルギーに変えられるような」
「ああ。だが基本的な性質はそれほど珍しいものではない。言ってしまえば、単なる一種の先祖返りだ」
「さっきは奇跡の発見とか言っていたじゃないか」
「どう言ったものかな。順序立てて話そう」
長い話になりそうだ。私はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
「人類に最も近縁とされている類人猿はチンパンジーだが、彼等の食生活において肉の摂取量は極めて少ない。炭水化物も貴重だ。果物を好むが、野生種のそれには糖分が少なく繊維質の含有量が高い。時期によっては、木々の葉しか食べるものがないこともある」
程なく、気持ちの良い香りが漂ってくる。
「それでもチンパンジーは人間の数倍の力を出せるだけの筋力を有している。彼等の腸内細菌は我々よりもずっと繊維質の分解能力に富み、そこからアミノ酸やタンパク質を生成することが出来るからだ」
私はコーヒーカップをそれぞれの前に置いた。
獅子角は目線で軽く感謝を告げてから、カップを手に取る。
「現代の我々は大量の肉と炭水化物を摂取している。だが、そんな習慣はごく最近に広まったものだ。この国ですら、半世紀ほど遡れば肉は高価な貴重品だった。炭水化物を好きなだけ消費できるようになった時代も日が浅い」
私も、自分の親からそんな話を聞いたことがある。
「簡単に言えば、本来の人間の食生活はチンパンジーに近かったはずだ、ということか」
「ああ。過去の時代。そう遠くない日々の先祖達は、我々よりもずっと繊維質を分解する能力に富んでいた。そうでなければ生き延びることが出来ないのだから。その意味では、今回の事例も新たな細菌が誕生したというより、かつてはありふれていた細菌が再発見されただけ、という方が正しい理解だ」
だから珍しい能力ではないという評価になったのか。
しかし、そこで最初の疑問に戻る。
「なのになぜ、奇跡の発見になるんだ?」
「重要なのは、肉を喰う欲求が抑制されたという現象の方だ」
獅子角は断定的に言った。
「繊維質を分解して栄養素に変換する細菌自体は誰の体内にだって棲んでいる。俺やお前の体内にも、だ。それらと比較して多少エネルギー変換効率が高いとしても、人々が食生活の変化を望まないのではさしたる意味など無い」
確かにそうだ。本来、人間が生きるために食べなければならない肉の量などたかが知れている。野菜主体の食生活でも健康の維持は出来るのだ。しかしそんな生活を実際に継続することは難しい。その理由は唯一つ。
肉は、美味いのだ。
「あの細菌は繊維が旨く、肉は不味いと脳に認識させている可能性がある。得難い能力はむしろそちらの方だ」
自身の繁殖のために繊維質を必要とし、だからこそ人体側にそれを摂取するよう働きかける菌。それはこれまでに無い投票行動を取る有権者達に例えられるかも知れない。
「エコロジー政策を支持する一派のようなものか。その政策を脳という議会に陳情し、人体という社会を変化させるような」
私は話の全貌を理解した。獅子角の言う通り、貴重なサンプルだ。
獅子角は頷き、真剣な眼で私を見た。
「頼む、なんとかルカ君を説得してくれ。このまま放置するには惜しい」
まったく、と私は苦笑する。
結局のところ私はしがない大学講師。古海君は唯の大学生だ。
一方、獅子角は国内でも有数と言える資産家。金の力で強引に事を進めることだって容易だろう。
しかし、獅子角はそうしない。そういう人間なのだ。
だから私は、いつもこの厄介な友人の頼み事を断れない。
「なんとかしてみよう。しかし、多少時間を貰うぞ」
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