第18話

 試験期間は瞬く間に過ぎた。

 試験の実施と採点。教授、助教の手伝いに事務局との調整。

 私は仕事に忙しく、古海君からの連絡も来ない。不安はあったが、具合が悪くなったのであれば必ず連絡が来るはずだった。その点は狩尾君にも念を押してある。

 頼りが無いのは無事の知らせ。そんな俗説を信じて自分を誤魔化す。

 正直に言えば、酔って夜に電話するなどという失態を犯した負い目で、こちらから連絡するにはどうにも気が重かったのだ。


 前期試験がほぼ終了し、大学が公式に夏休みになる直前。古海君から翌日ならば会えますという連絡が来た。さすがに食堂でするような話では無いと思い、私はゼミ室に来て欲しいと伝えた。獅子角と狩尾君も一緒に、三人で古海君を待った。


 コンコンとドアが叩かれる。

「どうぞ」

 そう言って私はドアを開けた。

 廊下には、どこか見慣れない格好をした古海君が立っていた。

 普段と服装が違う。私に言わせれば頑張りすぎにも思えるが、かなり時間を掛けたと思わしき化粧。

 服装は清楚を基調としつつ可愛らしさのアピールを狙ったような。要するにとても気合いの入った格好と言わざるを得ない。


 部屋を見た古海君が不審そうな顔をする。

「どうして獅子角さんが居るんですか? 悠里まで」

 何がどうしてになるのかと不思議に思ったが、とりあえず彼女を部屋に入れて座らせる。

「すまないが聞いておきたいんだ。あれから、体調に変化がなかったか」

 とても妙な顔をした古海君に、私は順序立てて説明をする。あの日の溶液に遺伝子操作タイプの細菌が入っていたこと。彼女が飲んだ可能性があることから、健康状況に問題が無いか確認をしたいこと。そして酔ってかけた電話についての謝罪。


 最初は黙って聞いていた古海君が、みるみる不機嫌になっていく。

「そういうお話ですか」

「ああ、確認が遅くなったのは申し訳ないが」

「わたしがどんな気持ちでいたか、分かっているんですかっ!」

 今ひとつ方向性は不明だったが、怒られること自体は当然である。私はひたすら謝り通した。私の不注意、もっと早くに連絡すべきだったこと。あれや、これや。それでも怒りの解けない古海君を前に、私は必死に謝罪し続ける。


「ところで、どーして瑠佳ちゃんがおふろのお湯を飲むようなことになったんですか~?」

 小首を傾げた狩尾君が不思議そうに言った。

 私と古海君の動きが止まる。狩尾君に細かい経緯は話していない。

 そして、詳細を語れるような内容では無い。

「ええと、湯船で転んだんだ。うん」

 私は簡潔にそう言った。

 これ以上の詮索はされたくない。

 私と古海君の視線が交わされ、一時休戦の合意が結ばれる。

「も、もーいいです。先生が私の身体を心配してくれていたことはわかりました」

 私は安堵して肝心の本題に話を戻した。 

「それで、体調は」

「見たとおりです。ぴんぴんしてます」

 確かに、顔色にも全体的な様子にも、不健康そうな要素は見られない。

「ふむ。だとしたら、早速実験を再開したいのだが」

 若干の不機嫌さが戻った古海君が口を尖らせる。

「今日は水着とか持ってきていません。明日からにしてください」

 再び古海君をなだめすかしながら、私達はスケジュールの調整をした。

 実家に帰省する予定の日にはまだ間がある。それまでに回数を増やして実験をすることになった。変なことするなら危険手当を下さいという腹立ち紛れの発言に対して獅子角は大真面目に頷き、当然配慮しようと答えた。


 東京に戻ることになった獅子角を駅まで送る。

 次に二人を送り届けようと思い、私は車を出した。

「どこに向かえばいいかな」

 最初の信号で停まったところで、そう聞いた。直接の答えは返らず、後部座席からどこか悪戯っぽい古海君の声が戻ってくる。

「先生、さっきは話さなかったんですけど」

 私は後ろに顔を向けた。

「実はちょっと、体調が変なんです」

 驚いた私に、彼女は大丈夫といった風に手を振った。

「別に具合が悪いとかじゃないんですけど。だけと前と違っているので」

 いやいやいや。待ってくれ。

 具合が悪くなくても体調が変とは、一体どんな状況なのか。胃が痛くなるような不安を覚えた私を古海君が見上げる。

「その件について少しお話したいんですが、いいですか?」

「分かった。どこかで時間を取ろう」

「あ、えど先生~ 先日のごはんの約束がまだです~」

 絶妙のタイミングで狩尾君がそんなことを言い出した。断ることなど不可能だ。

「分かった。奢る。だから話を聞かせてくれ」

 私はそう答えるしかなかった。

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