第17話

 落ちがついたところで、獅子角が思い出したように言った。

「そう言えば、今回の実験ではDNAを操作したタイプを試す予定だった。牛の腸内細菌から遺伝子を取り込んだタイプもあったのだが、残念だ」

 私は動きを止める。

「ちょっと待て、どういうことだ」

「ああ、牛の腸内細菌には特徴があってな。その機能を有効に転用すれば」

「そうじゃない。なぜDNA操作した細菌が実験の対象になっているんだ」

 動揺する私に対し、獅子角はのんびりと答えた。

「ここで一区切りなので、新開発した遺伝子操作タイプも検証に加えたくてな」

「そんな人体実験みたいなことを、断りも無くやったのか?」

 獅子角が不思議そうに私を見る。

「おいおい江戸里。流石の俺も本人からの了承は取るぞ。テストはそれからだ」


 私は真っ青になる。

 慌てて風呂場へと駆けだした。

 残り湯と並べられたペットボトル。ボトルの中身は全て空だ。

「どういうことだ?」

 遅れて来た獅子角が私に訊ねる。

「お前が戻る前に、古海君が来たんだ」

 獅子角の顔つきが真剣になる。

「使用したのか?」

「ああ」

「その後で身体は洗ったか」

「直接確認はしていないが、そのはずだ」

 獅子角の緊張が解ける。

「ならば大きな問題は無いだろう」

 私は頭を振る。

「彼女は浴槽内で転倒した。飲んだかも知れない」


 私は思わず大声を出す。

「なぜ事前に言ってくれなかったんだ!」

「それは理不尽な言い分だぞ。実験前には安全手順を確認するのがルールだ」

 ぐうの音も出なかった。

 単なるルーチンワークと見て、手順を怠ったのは私だ。必要な確認手段に手を抜くようになった時が一番危ない。そんな常識は知っていたはずなのに。

「飲んだとなると影響は予測出来んな」

「安全には配慮するという話だったろう」

「無茶を言うな。身体に塗る薬と飲む薬で基準が違うのが当然では無いか」

 私はリビングに駆け戻り、携帯を掴む。SNSを使って古海君に向けて送信した。『大事な話がある。連絡して欲しい』

 やきもきしながら待っていると、やがて既読のマークがついた。

 しかし、返信は無い。


 思いあまった私は彼女に直接電話を掛ける。通話は直ぐに繋がった。 

「突然済まない。話しておきたいことがあるんだ」

 前置きをすっ飛ばして本題に入ろうとする。

 一瞬の沈黙。古海君はどこか怒ったような声で言った。

「先生、お酒飲んでます?」

「い、いや。確かに飲んではいるが」

 確かに、酒を飲んだ状態でゼミの女の子に電話をするなどという行為は咎められても仕方が無い。一般的にそれは正しい。しかし今は大事な話がある。緊急なのだ。

 そう切り出す前に、古海君がきっぱりと言った。

「だったら、今はお話したくありません」


 なぜだ?

 なぜそういう話になる?

 混乱する私に、明確な拒否が告げられる。

「試験に集中したいので、しばらく連絡しないでください」

 その返答に私は慌てた。

「ま、待ってくれ」

 古海君はどこか困ったような口調で言った。

「試験が終わったら必ず連絡します。おやすみなさい」

 そして通話は切れた。

 もう一度電話をかけ直そうとして、私はそれが許されない行為であると気づく。

 そんなことをしたらセクハラ認定待ったなしである。

 呆然として立ち尽くす私に獅子角が声を掛けた。


「江戸里、落ち着け」

 椅子に座るように促す。

「常識的に考えれば何も起こらん。液を飲んだとしても、ほぼ全ての細菌は胃で分解される。直前に大量の水を飲んだのでもなければな」

「そ、そうだな」

 私は酔った頭で答えた。

「腸内フローラは想像以上に頑健だ。新たな細菌が入り込んで繁殖するのは難しい。やろうと思ってもそう簡単には成功せん。生きた菌が入っていることを標榜する飲食物のほとんどには効果が無いと証明されている」

「あ、ああ」

「そして俺が言うのもなんだが、遺伝子操作の成功率は低い。思った通りの効果が出るのは稀で、単に細菌が弱体化してしまうケースが圧倒的だ」

 落ち着いた獅子角の声を聞き、私はなんとかパニックを脱する。

「体調が悪くなれば連絡をするようにも言ってあったろう」

「そうだな。その点は再三伝えてある」

「だとすれば様子を見ても問題あるまい」


 おそらく、獅子角も酔っていたのだ。

 そうでなければ、この男が『常識的』などという言葉を冠した意見を述べるはずがない。しかし私は、差し出された楽観論につい縋ってしまった。

「そうだな。つい焦ったが、おそらく大丈夫だろう」

「まだ時間は早い、飲み直すとするか。そうだ。この間、面白いことがあってな」

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