第16話
そして話題は変わり、やがて現在の研究対象である細菌のことになった。
「犬は、犬好きな人間が分かると言うだろう」
「ああ、実感としてそういうことはあるな」
私はとうの昔に死んでしまった愛犬のことを思い出した。
「犬を飼うと不思議な事に、他の犬から匂いを嗅ぎにこられることが多くなるな。少なくともそんな気がする。飼い犬の匂いがしているからだと思っていたんだが、なぜか犬が死んで十年以上経つのに、同じように匂いを嗅がれることがある」
「俺にも似た経験がある。そこで一つの仮説を立てた」
獅子角は新しい酒瓶の口を開けつつ言った。
「犬を飼えばスキンシップの毎日だ。頻繁に身体に触れ、舐めてくる。だとすればお互いの細菌を交換して当たり前ではないか」
なるほど。それには思い至らなかった。
「つまり飼い主の身体には、本来犬に棲むタイプの細菌がいる、と」
「そうだ。長年一緒に生活をしていると、いつしか飼い犬の身体にあった細菌が飼い主の側にも棲み着いてしまい、犬の敏感な嗅覚はそれを嗅ぎ分ける。どうだ」
面白い意見だ。
「だとしたら犬の側は、おれを人間と犬の混ざったような存在だと思い、面白がって匂いを調べに来ているのかも知れないな」
その空想を私は楽しんだ。死んでしまった犬の身体にあった細菌が、自分の体内でまだ生きている。それは決して不愉快なイメージではなかった。
「グルーミングなど、動物には身体の接触をして親近感を深める行為が多い。目的は複数あるだろうが、互いの細菌の交換機能が含まれているのは確実だ」
「だとすれば、人間もお互いの細菌が同じであるほうが親近感が湧くんだろうか」
「可能性は高い。ひょっとしたら、親しい存在とは『自分と同じ細菌持っている存在』と同義なのかも知れん。勿論、今後の世界では直接接触しないバーチャルな関係がメインになって、定義が変化する余地はある。だがその分、会ってみて強烈に違和感を感じるケースが増えるのかも知れんな」
私は笑う。
「嫌いだった相手と長々一緒に居ると、相手に抱く感情が変わることがあるだろう。今までは相手をより深く理解した結果だと思っていたが、案外お互いの細菌を交換した結果、本能的に仲間だと感じるようになっただけなのかもな」
獅子角も笑う。
「うむ。考察に値する内容だ」
「好悪の念、言ってしまえば意識が細菌に操られることもあるというのは面白い」
私の何気ない一言に獅子角は動きを止めた。コップに口をつけ、暫し考え込む。
「それは少し違うぞ、江戸里。『操られることがある』のではない。むしろ基本的に意識は常に細菌の影響下にある」
「いやまあ、確かに細菌は身体にずっとあるんだろうけれど」
「むしろ、意識の一部は細菌が作りだしたと考えた方が正確だ」
妙に拘るなと思ったが、獅子角は大真面目だった。
「江戸里、お前は意識とはどういったものだと理解している? ここは酒の席だから、厳密な定義でなくて構わん」
私は酒を呑みつつ考える。
「自分自身そのもの。自分という存在を統括する何か、といったところか」
獅子角が私の言葉を受けて言う。
「自分に対して成すべき事を命じる唯一の存在。最終の決定者」
「ああ、そんなところだ」
獅子角がコップを置いた。
「実験がある。機械で脳をスキャンした状態で質問をすると、脳の活動部位が分かる。実はその反応を観測するだけで相手の答え、イエスかノーかは既に分かってしまう。意識とされるものが動き出すのは、その後だ」
鈍った頭の理解が遅れた。
「つまり、どういうことだ?」
「一般的には、意識が人間の行動を決定していると信じられている。だがそれは誤りだ。実際に行動を決定しているのは身体の側で、意識とは脳で既に決定した結果を追認している存在だ。少なくとも、基本動作としてはな」
それは自分自身の感覚とはかけ離れた内容だった。
「本当なのか? それ」
疑わしげに聞いた私に、獅子角は力を込めて頷いた。
「意識は全身の行動を決定する権力者というよりも、既に決定した内容を公表するための広報官のようなものだ。あるいは、決定された内容に後付けで色々理由を付けて記録に残す、歴史家に近い存在かも知れん」
疑念を抱きつつ獅子角のコップに酒を注ぐ。
「江戸里。会話をしている中で、直前まで自分が言おうと思っていた内容と違う言葉を発した経験が無いか?」
私はどきりとした。
先日に古海君と交わした会話を思い出す。
なぜあんなことを言いだしたのか、今でも分からない。
「広報官が状況を読み間違えたため、直前まで講釈していた話の内容と実際の行動との整合性がとれなくなった。そんな風に考えれば辻褄は合うぞ」
私はあの時の状況を思い出す。
二人の瞳。あの瞬間、私の中で何かのスイッチが入ったような気がする。
例えば、である。
意識という広報官は政治家ときちんと調整を行い、外部に対して拒否回答をする方針を取りまとめていた。しかし二人の顔を見た瞬間、本来の意志決定者である政治家が反射的に拒否を取りやめて、しかもそれを公表してしまった。
その結果、マスコミの前で広報官が途方に暮れている。そんな風に理解することも出来るのだろうか。
確かに感覚はそれに近い。いや、しかし。
「辻褄は合うが、それでもなんだか変だ」
それに、と私は話をもどす。
「大体、人間の意識に対してどうやって細菌が影響を及ぼすんだ? あれは外部から入ってきた存在で、人じゃない。細菌と人間は別物だろう」
獅子角は余裕の笑みを浮かべる。
「江戸里、お前の大学での立場はどんなものだ?」
「ただの講師だな」
「意志決定プロセスからは除外されている存在の筈だ。だが、お前は組織の間隙を付いて立ち回り、事実上の決定権を握ることが出来る。違うか?」
思わず沈黙した私に、獅子角が追い打ちをかける。
「後付けで外部から入ってきた者であっても、意志決定プロセスへの参加は可能だ。それどころか、主導権を支配することすら珍しくはない。江戸里、お前自身が何度も証明してきたことではないか」
困惑する私の姿を楽しむかのような声。
「自分が棲む共同体の意志決定に関与出来るか否かは、生存の可能性を大幅に変える。ならば進化の力は、絶対にその能力を取得する方向に働く。細菌が俺達と共生するようになってから、どれほどの時間が経っていると思う? 彼等が人間の行動に関与する能力を会得していなかったとしたら、その方が驚きというものだ」
口惜しいが反論のネタが思いつかない。私はコップを傾ける。
ぐびり。辛口の酒が醸し出す鮮やかな刺激と、フルーツに似た残り香。
私は思考を巡らせる。
人の行動は脳で決定される。しかし個々の脳細胞に意識のようなものは無いだろう。むしろ送られてくる信号を素直に増幅する、スピーカーに近いものと考えた方がいい。
そしてその信号は、各所にある細胞から送られたものだ。
つまりは身体中から送信された情報、その集大成として行動が決定される。その仕組みは、この社会に存在するそれよりもずっと民意に沿った議会と考えて良い。
身体に棲む細菌がそのプロセスに参加することは可能だろうか。
できるに決まっている。直接であれ間接であれ、脳に情報を伝えることは可能だ。極端な話、痛みを生じさせるだけでも生き物の気分と行動を変化させられるのだから。
「道理ではあるな」
では、と私は疑問に思う。
「だとすると意識というのは何だ。なぜ決定権の無い広報官なんて余計なものが居る? しかも主観的には、そいつが全てを決定しているように見えている」
「ここから先は俺の空想だ。それを前提に聞いて欲しいのだが」
獅子角が目を閉じた。
「意識とは肉体に偽りの情報を与えるための装置だ」
偽りの装置?
「なんでそんなものが必要になる」
「便利だからだ。例えば人間は通常、自分を単一の存在だと考える」
「当たり前だろう。自分自身は一人だ」
しかし獅子角はとんでもないことを言い出した。
「人体は何十、何百兆の細胞の集合体だ。そのほとんどは自律的に動いていて、細かいコントロールなど不可能。こんなものを単一の存在だと言い出すのは、国家というものが一致団結した単一の存在だと言うのと同じ位に馬鹿馬鹿しいことだぞ」
酔った頭に衝撃が走る。
「自分が単一の存在だという感覚は、偽物だと?」
「ああ。それはおそらく、意識が作り出したプロパガンダだ。なぜそんなものが生み出されたか、お前なら答えが分かるだろう」
その問いかけには馴染みがあった。私の専門分野。
「他者との戦いにおいて有利だから、だ」
「ご明察だ。自らが統一体だという幻想は、集団の意志決定にかかる時間を短縮させると共に、決定した方針を強固に維持させる効果を持つ。程度にもよるが、基本的には生存に有利な能力だと言える」
生存のための闘争においては、他者に対し比較的優位を取れるかが焦点となる。
その時、常に重視される要素はスピードだ。真実や事実など無視してでも構造を単純化して、早さを手にした方が強力であるケースは少なくない。
それによって弱さを補おうとした集団、彼等について私は幾つも学んできた。
「意識の手にかかると体内の意志決定プロセスで実際に起きた出来事はほとんど無視され、内外に対しては『自分』という単一の存在が全てを決定したかのような報告がされるようになる。その意味で日々の記憶とは、偏った思想の持ち主が記した歴史書のようなものかも知れんな」
私はその話を受けて、言った。
「あるいは大学が公式に作った議事録のようなもの、か」
そこでは私や獅子角の存在は都合良く無視され、しかるべき立場の人物が自分で考えて全てを決定したかのように記される。完璧な嘘とまでは言えない。しかし都合良く脚色された事実。
「まさにそれだ」
獅子角の相好が崩れる。
「聞き心地の良いストーリーを捻り出す。それが意識の持つ最大の役割だ。肉体が行動を決定した後、『あれはこういう理由だった』『自分はこう考えていたはずだ』そんな後付け解釈をするだめの」
私は話を整理する。脳は議会。個々の脳細胞は議員。身体の各所に棲まう細胞は、全力をで議員に対する陳情を行う有権者。そして意識は嘘つきの広報官。あるいは、自分が全ての決定権を握っているかのように振る舞う飾りの王。
それが人という巨大組織の実態なのだとしたら。
獅子角が杯を傾ける。
「偽りの情報を肉体に与えてコントロールする機能は便利だった筈だ。だから次々に新しい使い方が広がっていった。例えば、現実に存在する情報しか処理できない生き物は高度な戦略を取れん。未来の予測をするには今ここに在る何かを無視し、今はまだ存在しない何かを信じる必要がある。つまりは嘘をつく能力だ」
私はその答えを吟味した。
生命は当初、刺激に対する受け身の反応しか取れなかっただろう。やがて生命は未来というものに対応して動くようになる。それは仮定を受け入れること。言い換えれば虚偽を信じることだ。嘘を知ることで、生命はその能力を飛躍させた。
筋は、通っている。
「その能力を最大限に進化させ、嘘を愛し、巧妙にそれを使うことで生存競争に打ち勝とうとした奇妙な生き物。それが俺達人間という訳だ」
なんだか悪い酔いが回りそうだ。それを承知で私は酒をあおる。
「自分が単なる嘘つきの広報官で、むしろ細菌の方が主権者というのはどうにも気分が良くない結論だな」
返ってきたのは不満そうな声だった。私の理解の浅さを嘆くような。
「意識はお前そのものではない。それに現代社会のヒエラルキーや倫理をそのまま適用するのも間違いだ。大体だな江戸里、お前は未だに細菌というものを低く評価しすぎだ」
獅子角は皿に残った肉を箸でつまんだ。
「牛は草食動物と呼ばれる。だが実のところ、牛自体は植物を消化する能力など碌に持っておらん。牛は食道の空間を拡張し、細菌を棲まわせて一種の発酵槽としていてな。本体が主に食べているのは微生物が植物を分解して生成した栄養素、あとは微生物自体とその死骸だ。厳密に言えば、牛は草など食ってはいない」
そのまま肉を口に含み嚥下する。
「だが共生菌が居なければそもそも牛は生きていけない。だとすればそれらを含めた総合的な存在こそが牛という生き物だと、そう考えるべきではないか」
人間もまた同じ、ということか。
「細菌は俺達の一部で、同時に意志決定に関わる有権者だと」
「ああ、だからな。人の行動が支離滅裂でいい加減に見えるとしても、さして気に病む必要は無いのかも知れんぞ。先日の行動は、体内に棲む細菌が決定したせいだと言い放ってしまえば良い。今日は別の細胞の意見が優勢なのだと」
「広報担当官としては、口が裂けてもそんなことは言えないね」
私は口の端を歪めた。
「次の選挙で勝てなくなる」
一瞬の間の後、私達は声を揃えて笑った。
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