第15話

 獅子角が戻ってきたのは夕方近くになってからだった。

「済まんな、遅くなった」

「ああ」

 戻ったら例の液体について追求をしようと思っていたのだが、精神的に疲れた私はすっかり気力を失っていた。

「ルカ君は?」

「帰って貰った」

「そうか。残念だが仕方あるまい。こちらのミスだ」


 私は椅子から立ち上がり、コーヒーメーカーへと向かった。

「そっちは終わったのか?」

「ああ、片付いた」

 億単位の話し合いをあっさりと終わらせて帰ってきたことになる。移動時間から考えて、東京に居たのは一時間も無かったのではないだろうか。私は自分の交渉能力にそれなりの自負を持っているが、この特定ジャンルに限っては獅子角の足下にも及ばないだろう。

 私は淹れたてのコーヒーを獅子角の前に置く。獅子角は黙ってそれを受け取り、数秒香りを楽しんでから口に含んだ。

「悪くない。自宅ではマトモな豆を使うのに、あんな煎じ薬めいたものでも平気で飲むのがお前の変なところだ」

 学食のコーヒーが余程気に入らなかったらしいが、私に言わせれば、あれはあれで良いところがある。味や香りを楽しむようなものではないが、強烈なカフェインの刺激が一種の合法麻薬のように脳を覚醒させてくれるのだ。

「時間が余ってしまったな」

 獅子角は飲み干したカップをソーサーに戻した。

「今更また東京に戻る気にもなれん。この際だ。久しぶりに二人で飲むとするか」

 いいね、と私は同意する。

 どこか酒を入れたいような気分だったのだ。


 私達は軽自動車で買い出しに出かけた。

 大金持ちである獅子角は、食事にはそれなりの拘りがある。しかしそれは単純に値段が高い品を欲しがるそれとは違う。

 かつて獅子角が言ったことがある。

「価格は快楽と自身を比例関係に置こうとする。だがいつもそれに成功するわけではない。一方、快楽の側にとって価格などというものは考慮に値しない存在だ。そんな下らぬものとは完全に無関係なまま、快楽はそこに在ることが出来る」

 私もその意見に同意する。

 価格とは多数の人々による人気のバロメーター、仮想的な平均値に過ぎない。一方快楽とは完全に個人的な体験のことだ。私が最高と思うものに他人がどんな評価を下そうとも、私自身の評価を覆す必要はどこにもない。

 架空の存在は現実にそこに在るものに従属する。それが当たり前というものだ。


 付近の直販所で地元の野菜と肉、それに地酒を購入する。ビールは以前に買ったものが冷蔵庫に残っているはずだった。

 調理に手はかけない。素材の良さだけで十分だ。

 肉は塩と胡椒でざっと焼く。野菜は簡単に茹でるだけ。やはり地元の味噌とマヨネーズを混ぜたものを用意しておしまい。あっという間に準備は済んだ。

 軽くビールから始めて、後はお互いが好きなペースで好きなものを飲む。


 こうしていると気分は学生の頃に戻ってくる。

 私と獅子角はその時分から、こんな風に酒を交わしつつ語り合ったものだ。今にして思えば、当時の大言壮語には赤面の至りであるけれど。


 ほろ酔いでの雑談、昔馴染みの友人についての近況。

「ところで江戸里、以前の仕事に戻る気はないのか?」

「止めてくれ。もう懲りたよ」

「そうか。実は今でも俺のところに依頼が来るのでな。伝説の当選請負人に会いたいと。だから一応は伝えておきたかった」

 私はほろ苦い笑みを浮かべて杯を干した。


 かつて私は、政治の世界を志したことがある。

 自分の力で社会を、世界を変えたいと思っていた。


 多分、私には才能があった。

 自分で言うのは一種の傲慢であるが、確かにそれはあったと思う。

 政治とは、利害調整のシステムである。突き詰めればそれは、人々が望む何かをより多く、より安価に提供した者が評価される世界だ。

 そこでは、『相手が何を欲しているのか』『どれだけの値を付ける気があるのか』『自分達は幾らでそれを提供可能であるのか』といった要素を読み切る能力が必要とされる。

 私にその分野に独特の嗅覚を持っていた。欲するモノと提供可能なモノを結びつけて合意を得る、一種の政治的ブローカーとしての才能。


 大学を卒業後、夢見ていた世界に飛び込んだ。選挙活動の下っ端としてスタートを切った私は、まずスタッフ間の調整役として機能するように動き、そこで上位者の信頼を得た。自らの権限を拡大しつつ、それに相応しい成果を上げ、やがて私の助言が選挙の行く末を左右するまでになった。それは一種の快感だった。

 幾つかの選挙で鮮やかな勝利を呼び込み、私の名はやがて人に知られるまでになった。私はそれを活用する。

 特定の政党・政治家にはつかず、理念に共感した政治家の選挙活動を支援するコンサルタント。それが私の職業となった。

 そこでも私は存分に腕をふるい、やがて連戦連勝を謳われるまでになった。

 しかしその頃、既に私は深い幻滅の中に居たのだ。


「あれをやって分かったのは、結局、人間は自分自身が何を望んでいるかすら理解していないという現実だけだったよ」

 仕事を変えた理由は、これまで獅子角にすら話したことはなかった。

 酒を言い訳に、ぽつりぽつりと経験した出来事を語る。

 気高い理念を持っていた人々が、実に簡単に金と権力の虜に変わっていったこと。

 彼等を支持していた有権者達。そのほとんどが、掲げて信じた理念を実現するためには不断の努力が必要だと悟った瞬間、あまりにも簡単にそれを捨てたこと。 


「人は簡単にその心を変える。あれが欲しいと駄々をこね、手に入れた途端それを放り出す子供みたいに」

 若かった。未熟だった。しかし私はこれでも社会のために。人々が望む何かを為すためにこの世界に入ったつもりだった。

 しかし、『望むもの』がこんなにも簡単に変えられてしまうのに、どうやって私にそれを叶えろというのだろうか。何かを為そうと努力している最中に、「もうそれは要らない」「次はこれが欲しい」そう告げられてしまうのに。


「結局、おれがまとめたと思っていた取引の数々は、果たす気のない約束と、すぐに忘れられる無い物ねだりの間に生まれた一時的な化学結合でしかなかった。つくづくそれを思い知らされたんだ」

 酔い始めた私の口が軽くなる。

「それでもあの世界で生きていくことはできたと思う。望んだ形と違っていたとしても、おれの持つ技術はやはり貴重で有用な存在だったからな。買い手には不自由しなかっただろう。だけど、どうにもそれが納得できなかった」

 要するに、私はプロになれなかったのだ。

「だからせめて学んだことを誰かに伝えたいと思って、この仕事を始めたんだ」

 獅子角は黙って私のコップに酒を注いだ。

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