第14話

 試験前最後の実験予定日。

 準備をしていた獅子角の携帯が不意に鳴った。

 獅子角は素早くメールをチェックする。軽く息を吐き、手慣れた様子で返信してから再び作業に戻った。五分後、今度は通話の着信音。

 獅子角は不愉快そうに携帯を握って廊下に出る。会話は聞こえない。しかし手短だが鋭いやりとりが交わされているのが分かる。


 会話が終わった。ドアを開けた獅子角が忌々しそうに言った。

「済まん、車を借りるぞ」

「どうかしたのか?」

「大陸で騒ぎが起きたようだ。十五億ほど飛んだ」

 平然と語る獅子角に私は驚く。

「おいおい、大丈夫なのか」

「なに、大したことではない。ポジションを変更して対応するだけの話だ。実のところ必要な対応はとっくに終わらせているのだが、わざわざ会って説明しろと理不尽な要求をする輩がいてな。一度戻らねばならん」

 呆れた様子で首を振る。

「済んだことはどうしようもない。今後の方針は変更する。根拠はメールで伝達済みだ。それでも俺を信じられないなら、降りれば良いだけではないか。そんな単純な話が、何故奴らには理解出来ないのだ?」

 言葉の中に揺るぎない自信が溢れる。

 こういった姿を見るとやはり獅子角は一種の天才であり、別世界の住人なのだと感じざるを得ない。私は幸運を祈るよと告げて車のキーを渡した。

 出来るだけ早めに戻る。そう言って獅子角は駅へ向かった。


 暫くして、古くさい昭和のチャイムが鳴った。

「えど先生、居ますか?」

 玄関から呼びかける声。

「ああ、入ってくれ」

 私は書斎を出て古海君を迎えた。二人でリビングに向かう。

「どうかしたんですか? 車がありませんでしたけど」

 古海君はヘルメットを脱いでテーブルに置いた。最近の彼女は、自前のクロスバイクでここに来ることが多い。

「ああ、獅子角に急用があったみたいでね」

 私は冷蔵庫から麦茶を取り出した。

「ありがとうございます」

 大学からは坂を上るコースになる。喉が渇いていたのだろう。彼女は麦茶を一気に飲み干した。

「体調が落ち着くまでゆっくりしていてくれ」

 私は二杯目の麦茶を注ぎながら、古海君と一緒のテーブルに座る。

「狩尾君は?」

 なぜか姿が見えない。いつもならば電動自転車に乗って一緒に来るのだが。

「悠里は用事があるって言ってました。今日は来れないかも知れないそうです」

 そうかと応じてしばらく雑談を続け。

 やがて二人同時に気づく。


 このままでは、間が持たない。


 獅子角が居れば、すぐさま実験の準備にかかることができただろう。

 しかし獅子角が居ない今、積極的に何かをする理由は無い。居ればこの場を和ませ、雰囲気を取り持ってくれたであろう狩尾君も不在。

 私は選択肢を誤ったことを自覚した。獅子角が去った時点で、今日の実験は中止すべきだったのだ。とはいえ、今更そんなことを言い出すには遅い。もう少し、こう、時間を置いてからさりげなく切り出せるタイミングを見計らって。ごく自然に今日は解散にしようと話を切り出せないだろうか。


 同じようなことを考えていたのだろう。

 古海君もどこか落ち着かない様子できょろきょろと視線を動かす。

 どちらからともなくぎこちない会話を試みたが、そんなものはあっという間に途切れてしまった。部屋に沈黙が広がる。

 古海君のコップが空になった。私は間を持たせるためだけに再び冷蔵庫に向かい、麦茶を再度注いだ。同じ理由で古海君が無理にそれを飲む。


 どうしよう。


 私の苦境を察してくれたのか、古海君が明るい声を出して言った。

「ちょ、ちょっとお風呂場の方を見てきますね。実験の必要がないなら、シャワーだけでも浴びさせてください」

「ああ、そうだね。遠慮しないでくれ」

 私はそっと感謝しつつ、彼女を見送った。やがて風呂場から声がかけられる。

「なんだ、準備してあるじゃないですか。だったらお風呂入っちゃいましょうか」

 どうやら獅子角は既に実験のセッティングを終了していたらしい。

「そうか。だったらお願いする」

 手順はすっかり定まっている。

 番号の振られたボトルを順番に浴槽に入れるだけだ。

 感想は記録に取って獅子角に伝えておけばいい。


 普段通りのやりとりが出来るようになったことにほっとしたした私は、同時に感覚が麻痺していたことを自覚する。いつの間にかこの状況に慣れてしまい、当たり前のようにゼミの女子学生をこの家に上げるようになってしまっていたのだ。

 四人であることに安心しすぎていたな。反省しつつ今後の対策を考えていると、風呂場から古海君の叫び声が聞こえた。


「きゃっ!」

 古い家なので屋内の音は良く響く。鈍い水音が聞こえた。

「古海君? どうした!」

 私は慌てて風呂場へと走る。バシャバシャという水音が聞こえてきた。

 私は躊躇わずに風呂場のドアを開けた。古海君が浴槽の中に沈んでいる。立ち上がろうともがくが、上手く行かない。

 私は湯船の中に手を突っ込んだ。ぬるりとした感触が両手に広がる。普段よりも遙かに粘度が高い。


 獅子角の奴、一体何を入れた!? これでは滑って転ぶのも無理はない。

 しかし疑問は後だった。まずは古海君を助け出さなければ。

 華奢なその身体を抱えて引き上げた。彼女が激しく咳き込む。

「大丈夫か!?」

 古海君は私にしがみつきながら浴槽を抜け出した。

「あ、ありがとうございます」

「いいから! まずは息を整えるんだ」

 身体を支えて背中を叩く。暫くしてようやく呼吸が落ち着いた。

「もう、大丈夫、です」

 私はほっとする。


「もーっ、ひどい目に遭いました」

 古海君が髪に付いた湯を指で拭った。

「ああ。とにかく無事で良かった」

 そう言って私は浴槽に視線を移す。

「何だこれは? 獅子角の奴、説明も無しに」

「まったくです。先生、後で文句を言っておいて下さい」

 怒りを交えながら、しかし少しおどけたような口調。

 うん、確かに大丈夫なようだ。

 喜びと安堵の空気が広がり、私達は顔を見合わせて笑った。


 その瞬間、脳裏で誰かが警告を発した。

 私は現在の状況を客観的に分析する。

 他に誰も居ない一軒家。

 風呂場で二人きり。

 私は水着姿の女の子を抱きかかえ。

 そして彼女は正体不明の液体でぬるぬるなのである。


 私の動揺を察した古海君の顔が赤くなる。

 彼女の体温と息づかいが、急になまめかしく感じられた。

 私は意志の力を総動員する。落ち着け落ち着け。冷静に、冷静に。

 私は実にわざとらしい咳払いをした。

「立てるね」

「は、はい」

 紳士的に見えるよう、ゆっくりと彼女から身を離した。

 最後の一瞬にぴくりと震えたような彼女の身体。

 心のどこかでそれを残念がる気持ちがあったことを否定できない。


 精神的エネルギーの全てを注いで彼女から視線を外し、脱衣所に戻ってバスタオルを手に取った。直接視線を合わせないままにそれを渡す。

「今日はもう帰った方がいい。シャワーを浴びてくれ」

「ええ。はい。そうですね」

 私は逃げるようにリビングへと戻った。

 やがて廊下をぱたぱたと歩く音。

 古海君はリビングに入ろうとはせず、廊下を進んでそのまま玄関へと向かった。

「せんせぇ、失礼します」

 ガラス戸の向こうからそんな声が聞こえ、彼女の気配が家から消えた。

 私はふうと息を吐き、気持ちを冷静に保とうと試みる。


 それにしても、と私は思った。

 さきほどの光景が脳裏に蘇る。

 誰が見る訳でもなかったはずなのに。

 なぜ彼女は、前とは違う水着を着ていたのだろうか。

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