第13話
リビングで待っていると、Tシャツ姿の古海君が姿を現した。いかにも湯上がりといった風情だ。乾かしたばかりの髪が持つカーブが揺れる。
「おつかれさまでした~」
古海君は狩尾君が差し出したコップを受け取った。
彼女が冷えた麦茶を飲み干すのを待ってから、会話が始まる。
「感想を聞きたい。全般的にどうだっただろうか」
「良くも悪くも普通の入浴剤っぽかったです。五番ぐらいまでなら、違和感を感じる人はあまり居ないと思います」
「湯から上がって後はどうだろう。保湿とか、肌の状態とか」
古海君は腕のあたりをすりすりとさすった。
「特別な効果は感じませんけど」
獅子角は表情を変えなかったが、付き合いの長い私には分かる。軽い落胆。一般的な常在菌とは言っていたが、実は心中期するものがあったのだろう。
「最初は使用感からだ。問題が無いなら良いことじゃないか」
場を和ませようと、余計な一言を付け加えてしまう。
「古海君は元々肌が綺麗だし、下手をすれば彼女自身常在菌の方が良いという可能性まである。目に見えた効果を出すのは難しくても仕方ないだろう」
なぜか部屋の中が沈黙に包まれた。
戸惑った私はきょろきょろと視線を動かす。
古海君が視線をそらした。
湯上がりの上気した顔のまま、少し怒ったような口調で言う。
「先生。わたしのコト、そんな眼で見てたんですか?」
え?
「肌が綺麗とかなんとか。ちょっとセクハラっぽいですよ」
そんな。
だとしたらなんと言えば良いのだ。肌が汚いなどと言ったらそれこそセクハラ認定間違いなしだろう。
余計なことを言ったという事実は認めるが、一応は科学的な事実を基に考慮すべき要素を指摘しただけなのだ。その意図も少しは汲んで貰えないだろうか。
「えどせんせい、謝ったほうがいいです~」
狩尾君までそんなことを。
理不尽な言われようだとは思ったが、私も立派な社会人である。一瞬後にはコンプライアンスに沿った適切な行動が採択されていた。
「配慮の無い表現で申し訳なかった。しかしやはり、自身の常在菌によって既に適切な状態に保たれている可能性は無視できない。今後の検証において考慮すべき点だ。……こんなところで許して貰えないだろうか」
「ふ、ふーん。まあ、許してあげます」
くぐもったような笑い声。
獅子角がこの男としては珍しい種類の笑みを浮かべて言った。
「江戸里、色々と面倒そうだな」
どういう意味だよ。それに、元はと言えば一体誰のせいだ、誰の。
「テストとしては悪くない結果だ。これからも頼むぞ」
私は黙ったまま立ち上がり、持ち込んだコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
なんでもいいから間が取りたかったのだ。
なぜかは知らないが、どうも他の三人が揃って私を陥れているような、奇妙な疑念に囚われて。
―――――
よくよく考えてみれば古海君が入浴しているシーンを凝視する必要など無く。
指定のペットボトルを自分で順番に開けて貰えば良いのだという単純な事実に気づいた結果、二回目以降の実験はスムーズに進むようになった。
獅子角は概ね一週間に一度のペースで新しいサンプルなるものを用意し、古海君が三十分ほど入浴して評価をまとめる。
そんなやりとりがしばらく続くことになった。
細菌風呂は何度も腐った。入浴後に循環させると、数日で異臭を放ち始める。
ドブのような臭い、腐った牛乳のような臭い、酷いカビの臭い。数日間、全く不快な臭いなど感じなかったのに、一晩経ったら酷い状態になっていた、などということもあった。健康にほどよい状態を保つというのは非常に難しいようだ。
考えてみれば当然の話で、人間の身体には無数の細菌が張り付いている。その上、風呂場は無菌室などではない。壁や天井、床には得体の知れない無数の微生物が棲んでいる。
古海君が入浴する度、浴槽にはそれらが入り込み、獅子角が育てた菌と生存を巡って戦う。
そして大抵の場合は人体にとって有害な菌が勝利を収めてしまうのだろう。
そのたびにビニール手袋に防塵・防臭マスク姿で風呂掃除をさせられる私は閉口したが、まあその程度、慣れてしまえばどうということもない。
むしろ大変だったのは機械の清掃だ。専用に作られたポンプは循環部のパーツを取り外すことができるようになっている。分解したそれを塩素を使って洗浄し、内部についた水垢を取り除かなければならない。獅子角が満足するレベルのクリーンさを保つためには、助教の研究室に外注するしかなかった。
なんだかんだと細かい作業が発生し、そうなると本来の住処であるワンルームマンションに戻るのが面倒になってくる。この家の方が大学に近いため、私はそのまま居着くことが多くなってしまった。
以前の住人が書斎として使用していたと思われる部屋は実に落ち着いた雰囲気にセッティングされており、私はすっかり気に入った。調度品の具合から見て、独りになってから自分の趣味を満足させようとでもしたのだろうか。
このまま壊されてしまうのでは勿体ない。せめて私が十分に堪能した方が故人も喜ぶだろうと、勝手に活用させてもらうことにした。
風呂桶の状態を調べ、サンプルを収集する毎日。私としてはむしろ気楽なアルバイトで、コーヒーを飲んで落ち着いたひとときを過ごしたり、周辺に灯りの無い庭で夜空を見上げたりとなかなかの役得を満喫した。
一方、実験の方は芳しい結果が出てこない。もちろん、当たり前と言えば当たり前の話ではあるのだが、そうそう珍しい細菌など見つかるはずもなく。
作業はいつしか同じ事の繰り返しのようになってくる。
気分を盛り上げるため、私は三人に簡単な食事を提供したり、折角だからと一度はバーベキューもやってみた。なんだか妙な取り合わせではあるがそれなりに楽しく、こうなると実験をしているのか遊んでいるのか良く分からなってくる。
そんな日々を過ごしているうちに、学期末が近付いてきてしまった。
古海君達は試験に備える必要があるし、私も色々と準備をしなければならない。
私は次回をもって実験の一時停止を提案した。当初不満を示した獅子角であったが、その期間は細菌の研究と開発に充てて、夏休みに入ったら実験頻度を上げることを約束に提案は了承された。
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