第9話

 全ての作業が終わった時、既に日は暮れていた。

 山のようなタオルを渡された助教の研究室も色々大変だろうなと私は同情する。

「色々面倒をかけたな。報酬はいつもの口座に入れておく」

 獅子角はまるで私が非合法の仕事でも受けたかのような口ぶりで言った後、古海君達に視線を向ける。

「ルカ君とカリオ君の分はこれだ」

 獅子角は二人にぽんと封筒を渡した。中を見た古海君が目を丸くする。

「こんなにですか?」

「すごいです~」

「よく働いてくれた。先日に言ったとおり、秘密厳守の約束で頼む」

 私に向けて手を挙げる。

「じゃあな、江戸里。困ったらまた連絡する」

 私も軽く右手を挙げて獅子角を見送った。

 あまり頻繁に声をかけられるのも少々アレではあるが、まあ、それでも全般的には獅子角と過ごす時間は悪くない。なにより、私の経済状況の改善に繋がる点についてはありがたい限りである。


 古海君がふうと息を吐いた。

「なんか色々変わった人ですね」

 そう言ってから、封筒を振って悪戯っぽく笑う。

「えど先生と違って、お金持ちっぽいですけど」

 私は年長者として彼女に注意する。

「古海君。確かにそれは事実だが、他のところではそういう趣旨の発言をしないように。嫌われるぞ」

「瑠佳ちゃんは他の人にそういうこと言わないですよ。許してくれそうな人だけ~ あ、痛ったぁーい」

 狩尾君の頬を古海君が軽くつねった。

 やれやれ。親しまれていると理解すべきなのか、甘く見られていると嘆くべきなのか。学生との距離感もこれで中々難しい。


「これからどうする予定ですか?」

「ああ、まずは助教の研究室で菌を培養する。次に肌の状態評価と常在菌の分布を比較して、関連する要素が無いか調べるところからスタートだろうな」

 素人作業もいいところだが、まずはそこから始めるしか無い。

「そ、そうですか」

 自分で話を振っておきながら、古海君は言葉に詰まった。

 なんだか無理をした様子で話を続ける。

「だけど、こんなやり方で新しい菌なんて見つかるんでしょうか」

 回答の難しい質問だった。

「培養自体は問題なく出来るはずなんだが」


 その点は事前に私自身で確認をしている。実際にサウナスーツを着込んで運動し、細菌を採取する事前検証をしてみたのだ。ついでだから細菌のサンプルも色々採ろうと、あれこれ検査までさせられた。

「とはいえ、これぐらいで新種が見つかったり、新しい知見が得られたら苦労はしないよ。普通に考えれば、空振りが当たり前だ」

「やっぱりそうですよね」

「もっとも、フィールドワークには一発大当たりの可能性もあるため、頭から否定したものでもない。裏山で見つけた植物、普段の漁場で見かける魚、道ばたの犬の糞から見つかった菌。そんなものが驚くべき新種であったという例も山ほど在る」

 細菌はあまりに種類が多いため、ほとんどに調査の手が及んでいない領域も多いという。新たな発想で無茶苦茶をやった結果、先人が見逃していた部分に辿り着くということもあり得なくはない。


「ところでえどせんせー、以前は何の仕事をしていたんですか?」

 不意に、狩尾君が笑顔でそう聞いてきた。

「ししかどさんともご一緒だったんでしょうか~?」

 邪気の無い声。

「ああ、いや」

「そう言えば、講師の前は別の仕事していたって聞いたことがありますけど」

 二人の質問に、私は僅かに動揺した。

 その動揺を受け入れた上で、ほろ苦い笑みを浮かべる。

「実は、以前の仕事は上手く行かなかったんだ。だからあんまり言いたくない。悪いけど、その話は勘弁してもらえないだろうか」

 一瞬湧き上がった気まずい雰囲気を、狩尾君が打ち破った。

「そですね。ところでお腹すいちゃいました~」

 私は腕の時計を見た。既に夜の七時を回っている。作業が忙しく、全員、昼食は菓子パン一個を腹に入れる程度だった。

「えど先生、アルバイト代も入ったし、三人でイル・ボスケットにでも行きません?」

 古海君は、先日私と獅子角が訪れた店の名を持ちだした。

「あそこのハンバーグ、美味しいですー」

 私の沈んだ気分を変えようとしてくれたのだろう。

 二人の気遣いに私は感謝する。とは言えそれはそれとして、さすがにゼミ生の女の子達と夕食はまずかろう。そう思って私はさりげない口調で断りを入れた。

「ああ、すまない。これから施設の使用報告について、事務局の人と話をしておかないといけないんだ」


「……」

「だめですか~ ざんねんです-」

 二人の表情を見て私は考えを少し改める。なんだかんだ言って、二人とも頑張って働いてくれた。私としても少しは謝意を示すべきではないだろうか。

「今日は有り難う。助かったよ。色々手伝って貰ったから良ければお礼として、後日に私がランチでも奢ろう」

「ホントですか? やったぁ」

「わーい」

 二人はオーバーな程に喜びの表情を見せてくれた。

「ああ、約束するよ」

 それぐらいならば問題ないだろう、と。私は軽率にもそう考えてしまっていた。

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